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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

なぜ大谷翔平はメジャーを沸かせるのか

2021年08月16日 08時46分52秒 | 大谷翔平


二刀流でメジャー新人王となった大谷翔平は間違いなく天才だ。しかしもし大谷が「初めてメジャーに挑戦した日本人」だったらあれほどの成功を収めただろうか?本書は大谷の異能を詳説しつつ、昭和に来日した助っ人“ガイジン選手”の活躍、平成に渡米した野茂英雄らの苦闘をたどって「大谷現象」の背景をエピソード豊かに解き明かす。50年以上日米両国の野球を見てきたベテラン作家による、誰にも書けなかった野球論。

第1章 天才の驚異的な修正能力
第2章 規格外の新人王へ
第3章 助っ人ガイジンは日本をどう変えたか―王を引き留めた“空気”
第4章 2人のパイオニアは何と闘ったか
第5章 誰が米国人の日本人観を変えたか
終章 一高からオータニまで

日米のボールの違い
メジャーのボールは5%重く、外周も2.6%大きい

規定打席;試合数×3.1
規定投球回数;試合数×1.0

ニグロ・リーグ
黒人選手だけのリーグ;1960年までに消滅した。

あと2年待てば200億円が入るというのに、5000万円でエンゼルス入りした。

「彼のフォークボールは61センチ落下する」

「明けても暮れても野球一筋で、自由時間は栄養学と英語を勉強」

大谷はメジャー球団を選ぶ際、
「日本人スター選手のいるチームではプレーしたくない」と条件をつけた。
そうした球団に入団した場合、春季キャンプから「大谷狂想曲」が始めることは確実で、同僚となる日本人メジャーーリーガーに迷惑をかけてしまいかけない配慮だった。

「手術で2020年までいない選手が打席に立っていて2本もホームランを打たれた。悪夢だ」
「手術を球団から勧められた5日に4打数4安打、2本塁打、3打点の活躍」

テープメジャー・ホーマー;特大本塁打

米国のマイナーリーグには240ものチームがあり、そこで5000人以上の選手がプレー。
その中でメジャーリーグに昇格できるのは10%以下という厳しさ。
しかも、そのほとんどは文字通り「コーヒー1杯」を飲む程度の短い滞在で逆戻りする。
メジャーで頭角を現すことができるのは33人に1人といわれる。

米国のマイナーでは12時間のバス移動がザラで、日本食のない町に住むことになる。

日本の選手をポスティング・システムにかけた場合、上限が2000万ドルになったいま、日本ハムはダルビッシュのときのように5100万ドルというインセンティブをもらえなくなった。

千葉茂;1試合で6得点(1948年)はプロ野球1位

米国から初めて日本のプロ野球に来たウォーリー与那嶺
2塁上の「殺人スライディング」
本塁;ホームスチール11回成功
千葉茂からはファウルで逃げる方法を学んだ。
1952年には1打席で16本のファウルを打っている。

川上哲治は「ガイジン選手嫌い」を公言
与那嶺は74年に中日の監督に就任し、20年ぶりにリーグ優勝して巨人のV10を阻止した。

鈴木啓示監督
1994年7月、同じ敵地の西武戦で、野茂は制球に苦しみ、四球を連発した。
鈴木監督は野茂を交代させなかった。
トータル191球、四球は14個を数えた。
野茂に欠如しているメンタル面の強さを鍛えようとしたのだという。
登板後、野茂は肩に鋭い痛みを覚えた。
ところが鈴木監督は野茂を休ませる代わりに、2軍に送ってさらに投げ込ませた。
「痛む腕を治すにはもっと投げ込むのが一番。痛みの中で投げるんだ」と鈴木。
しかし野茂の肩は悪化の一途をたどり、最後には車も左手でしか運転できなくなり、シーズンを不本意なまま終えた。

野茂は子供のころからメジャーでプレーしたいと憧れていた。

毎年、パ・リーグの選手はオールスターではミズノのシューズを履くことになっていたが、野茂はこの年、ナイキのシューズを履いて出場、近鉄幹部を激怒させた。
これも計算ずくだった。

シーズンオフ、野茂は「金井ーーマレー文書」のコピーをサドルバックにしのばせて近鉄との交渉に入った。当時1億4000万だった年俸を倍増し、6年契約を結んで欲しい、と要求したのだ。
フロントがこれを呑まないことは分かっていた。予想通り、球団の前田泰男はこれを拒否した。

「そういう契約を要求するには君は若すぎる。
それに、そういうことはガイジン選手がやるものだ」と言った上で、
「今季の成績では減俸だ」と言った。
「結構です。では引退します」と野茂。
「バカげている、自分のキャリアを考えろ」と別の幹部から罵声が飛んだ。
「考えています。だから引退するのです」と野茂。
近鉄の説得は失敗し野茂は「任意引退」の文書にサインして近鉄の事務所を出た。
野茂が自由人になった瞬間だ。
すべてが代理人・野村の計画通りだった。

1992年に日本にFA制度ができた。
10年経ったら他チームに移籍できるという日本プロ野球制度は、巨人軍のオーナー渡辺恒雄が、他球団のスター選手を獲得したいという切なる望みからスタートさせたものだった。だが、日本のスター選手が海を渡るなどということは誰も想像しなかった。

メジャー挑戦発表後の数週間、野茂は批判にさらされた。
「問題児」「裏切り者」といわれ、マスコミ、ファンが野茂を非難。
王、長嶋、星野といった面々でさえ野茂に批判的だった。
野茂の父でさえそうだった。
これに対し野茂は「いい方法などなかった。何もしないまま、後悔しながら残りの人生を過ごすのは嫌だった。自分がメジャーでやれるかどうか見極めたかった」
しばらくの間、父は息子と口を聞くのを止めた。

特に、球界で最も恐れられていた渡辺恒雄が野茂と団野村を「悪い人たち」と決めつけてからは、さすがに苦しい状況に追い込まれた。それでも野茂は怯まなかった。
「言わせておけばいい。彼らはいま熱くなっているだけ」

野茂の最大の功績は、日本の野球が高いレベルにあることを世界に認めさせたことだろう。
団野村がメジャーの各球団に野茂の売込みを始めたころ、関心を抱く球団は極めて少なかった。
いずれも日本の野球はマイナーのトリプルAレベルとみていたのだ。

1995年のシーズン前、シアトルで「トライアウト」に臨んだ野茂を見て、マリナーズのルー・ピネラ監督は即座に言った。
あれでは絶対にメジャーでは無理。あのワインドアップでは」。
最終的に野茂を雇ったドジャースのピーター・オマリー会長でさえ、野茂の活躍には懐疑的だった。「正直いって私はほとんど期待していなかった。いったいこいつは誰なんだ」

しかし1995年5月2日、野茂は敵地でのSFジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たし、5回をわずか1安打、無失点、7奪三振という素晴らしいピッチングを見せた。

しかし、野茂は2年目のほうがさらに劇的だった。
16勝11敗、234奪三振、防御率3.19でサイ・ヤング賞レースの4位に入った。
シーズンのハイライトは1996年9月17日、敵地コロラド州デンバーでのコロラド・ロッキーズ戦で達成したノーヒットノーランだろう。
クアーズフィールドは野球観戦には世界で最も素晴らしい場所にある。
夏でも涼しく、2階席からは遠くロッキー山脈を眺望できる。
晴れた日の日の入りは心臓が止まるほど美しい。
しかし、クアーズフィールドが投手にとって最悪の球場でもある。
デンバーは海抜1,610m、空気が薄いため変化球が曲がらず、打球が遠くに飛ぶ。

その日は、雨の降る寒い夜で、足元はぬかるみ、マウンドには大量の砂がまかれた。
9回を無安打無失点、4四球、8奪三振、9-0の勝利だった。野茂のボールを受けたマイク・ピアザ捕手は「野茂はここで聖人として遇されるべきだ」と述べた。

デビューから最初の445イニングで500三振を奪った。
野茂を「本物」と認めたメジャーの幹部たちは、第二の野茂を探し始めた。
長谷川滋利、伊良部秀輝、吉井理人、佐々木主浩らがそれぞれのレベルで成功を収めた。

2001年4月4日のオリオールズ戦で自身2度目のノーヒットノーランを記録。
両リーグにわたってのノーヒッター達成者は史上人目だった。
2001年5月2日、野茂はイチローと対決した。
日本は2,000万人が中継に見入った。

野茂は常に完全であろうとした。
自身に非常に高いハードルを設定し、どんな些細な失敗も許せない性格だった。
メジャー通算123勝109敗、防御率4.24だった。

佐々木主浩はマリナーズのクローザーとして3年間活躍したが、チームのブルペン投手とソリが合わず、クローザーの座を失うと、契約が切れる前にそのまま引退の道を選んだ。

城島健司は捕手として高い評価を得てマリナーズ入りしたが、チームの先発投手3人が城島の出すサインが気に入らないとし、「彼が捕手なら投げない」と言い出したため、高額の年俸を捨てて退団した。

福留孝介は4400万ドルをもらいながら、外角の速球を打てなかった。
3300万ドルの川上憲伸はプレッシャーのかかった状況で力を発揮できなかった。

ある時期、世界でもトップクラスといわれた日本人投手に、伊良部秀輝がいる。
波乱に満ちた人生だった。父を知らずに育ち、日米の野球関係者による独善的な取り決めに逆らった。最後の数年はアルコール依存症など様々な問題に苛まれ、自殺で幕がひかれた。しかし、彼は日米の野球、特に選手の権利に関して歴史的に大きなインパクトを残した。これだけでも人々に記憶される価値がある。

団野村は言う。
「イチロー、松井、松坂らは皆、伊良部に感謝しなくてはいけない。伊良部にガッツと意思があったからこそできたルールだ。ある意味、野茂のメジャー挑戦は伊良部に比べたら、簡単だった。野茂の場合、任意引退を巡る有利な抜け道があったからだ。伊良部の場合は前例となるルールが全くなかった。『もし今僕があきらめたら、すべての人間が海外チームへのトレードを拒否する権利を失ってしまう』」

伊良部は大の酒好きだった。
2008年、大阪のパブで、ビールを20杯飲んだあと、クレジットでの支払いを断られると、大暴れ。「俺が誰か知っているのか?世界の伊良部だ。こんな店くらい簡単に買収できる」と脅し、駆けつけた警官に暴行の現行犯で逮捕された。
10年5月には、ロサンゼルスで飲酒運転でつかまった。

伊良部は背中と肩に竜の刺青を入れ、それが自分に力を与えてくれると信じていた。
「竜神」と呼んで、伊良部が嫌った人物が災難に遭うと「竜神さまのせいだ」と言っていた。
2011年7月27日朝、車庫にかけたロープで首を吊っていた。
死後3日が経過、ひどい臭いだったと、その友人は話した。
伊良部が残した最大の遺産は、後進のためにポスティング・システムを残したことだろう。

イチローは移動もチームに帯同せず、個人用のジェット機に乗った。
彼にヒゲを伸ばすように勧めたのは弓子夫人。
「ブラッド・ピットに似ている」と説得したという。
街中でロックスターのようにサングラスをかけるよう勧めたのも弓子夫人。

オールスターでスラングと禁止用語満載のスピーチをして伝説を作ったイチローだが、自分の成績に固執するあまりチームプレーを忘れている、と仲間うちで不評を買うようになった。

マリナーズの支援者にサインしてあげてほしいという球団幹部のリクエストもしばしば拒否。
東京ドームで行われたMVPの授賞式も欠席し、MLBの幹部を激怒させた。

2012年シーズン途中にヤンキースにトレード。
イチローはここでも不人気だった。
服装は「奇抜」。チームに溶け込んでいないともいわれた。
チームメイトはイチローの異様なファッションに困惑。
2014年シーズン終了後、ヤンキースはイチローを放出した。

マリナーズ時代のイチローはごくごく単純な質問にさえ答えようとしないことがあり、リポーターたちは、高慢だと不満を募らせるようになった。
「その質問は曖昧すぎて答えられない」は、彼がしばしば口にする答えだった。

会話の中でイチローは子供のころ、父から「虐待」を受けたと答えた。
彼は2004年から父と口をきていない。
それまでイチローの財産を管理していたが、申告漏れを指摘されるなどのトラブルがあり、関係が悪化。結果的に弓子夫人がイチロー家の財産管理を引き継いだ。

イチローの得意な性癖や行動に関する記述の多さ。
「イチローには人生がない。楽しむことができていない。
子供の頃に受けた仕打ちの仕返しに、父親が腹を立てることばかりをしようとしている。
イチローは悲しく孤独に見えた」

「イチローはここ数年でスイングを変えてきた。腰を開き、投手から早めに胸が見えるようになった。イチローの視力は衰えている。生き残りのため調整しようとしている。選手生命が終わりに近づいていることを知っているのです」

松井は巨大なパワーを持つ渡辺恒雄オーナーから、FA資格ができても巨人軍に残るよう言われたにもかかわらず、それを拒否しての渡米だった。渡辺はオリックスがイチローをポスティングにかけたとき、「日本を売っている」と糾弾し、MLBの行為をペリーの「黒船」に譬えた。中曽根元首相に「スポーツ界はもっと愛国心をもつように」と言わせたのも渡辺だった。

松井はアダルトビデオの交換も大好きだった。
「あなたが1万本のアダルトビデオを持っているという日刊ゲンダイの記事は本当ですか」
「いえ、そんなに持っていません」
質問に感情を害したという様子は全くなかった。そして事もなげにこう言った。
「結構持ってはいます。数百かな。
でも皆そうでしょう?日本の記者たちといつも交換してますよ」

松井ーーイチローの対決
握手はメジャー史上最も短いものだった。
イチローはこの対決に興味がなさそうだった。
日本のプロ野球では自分のほうが松井より遥かに優秀だったのに、巨人に所属する松井のほうが注目を浴びていたことに憤りを感じていたようだ。
ダグアウトから出てきたイチローはグラブを外すことなく松井と握手を交わすと、逃げるように外野に去っていった。

6年契約;5200万ドルは当時の日本人選手としてはイチローを抜き最高額。
松井はエンゼルス、アスレチックス、レイズと渡り歩いたあと2012年に現役を引退した。
ヤンキースは松井をマイナーの巡回コーチとして雇った。

米国ではミーティングは極めて稀で、年1回のチームもある。
選手個人個人が何をすべきか分かっていなければならない、という考えが根底にある。

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