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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

山と渓谷増刊  最も美しい上高地へ 2020年5月号

2021年08月22日 14時48分01秒 | 読書・登山
穂高岳の岩壁

涸沢に立つと、真っ先に目を奪われる特徴的な岩稜。

前穂高
二峰
三峰
四峰
五峰
六峰

鋭い岩峰が連続することから踏破は難しく、アプローチが便利な場所ながら、現在でも登山道は存在しない。
初登攀は1924年の慶応義塾大学山岳部。
その9年前に槇有恒(ゆうこう)によって結成された慶大山岳部は、穂高の登山ルート開拓で中心的な役割を果たした。慶応尾根はm1924年の北尾根初登攀時に慶大パーティがルートにとったことから名づけられた。これの1週間前には屏風岩の初登攀も果たしており(2ルンゼ)、このとき上部でたどったリッジには慶応稜という名も残っている。ちなみにメンバーのひとりは佐藤久一朗。のちの「キャラバンシューズ」の開発者でもある。

慶大山岳部の大エースで、戦前のスーパークライマーとして知られた大島亮吉が遭難死した場所としても有名。積雪期の1928年3月、四峰からの滑落事故だった。28歳。

深田久弥の日本百名山「穂高岳」の末尾に次のような文章がある。
「しかし、そこで永遠に眠った人も多かった。
大島亮吉も、茨木猪之吉も、穂高を墓にした。(中略)
小坂乙彦も死んだ、魚津恭太も死んだ。死ぬ者は今後も絶えないだろう」

茨木猪之吉は山岳画家。
1944年秋、穂高岳白出沢を単独で下山、行方不明。56歳。

島々から徳本峠を越えて上高地に至る道は、長野県が
「信濃路自然歩道 上高地ルート」として指定する全長20kmの道。
「上高地古道なくして岳都はあらず」
その古道の岩魚留めにはカツラの巨樹があり、絶好の休憩ポイントとして多くの先人らを魅了してきた。この古道から、自然の豊かさと上高地の歴史を感じることができる。
小屋の脇には古道の歴史を見続けてきたであろう、樹齢300年ほどのカツラの大樹が孤立している。





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