本書では、大谷選手が高校1年の時から8年間あまり、その成長を見つづけてきた著者が、本人に加え、日本ハムの栗山英樹監督、花巻東高校の佐々木洋監督、そしてご両親などにつぶさに取材を重ね、この巨大なポテンシャルを秘めた野球界の“改革者”の素顔を明らかにしている。著者は、主に野球をフィールドに活動するスポーツライター。
「もし2年待てば一生安泰ぐらいの金額をもらえる可能性はあるかもしれません。
親のこととかを考えれば・・・。
もちろんお金はあったに越したことはないですし、いらないなんて気持ちはないですけど、ただ今の自分に、その金額が見合うかといえば、僕はあまりピンとこないので、それよりも今やりたいことを優先したい。」
栗山監督は中尊寺の絵馬に「大きな夢を世界に羽ばたかせる」と書き残した。
「今でも僕は『佐々木監督からお預かりした』という感覚なんです。
佐々木監督の代わりに、翔平が成長するためのお手伝いを何とかするんだと思っていました」
「打席でそういうことはありません。ピッチャーのほうは緊張しますが、打席で緊張したことはないですね」
大谷はシーズン中に出た課題をオフシーズンに取り組み、自分にとっての綻びを1つ1つ縫い合わせ、ときには消す作業を毎年行った。
「休んでいる間でも『こういうふうにやってみようかな』と閃いたりすることがあります。ノートに書くこともありますが、僕はそのままウェイトルーム、室内練習場へ行って、その閃きを試すことが多いですね」
プロ野球史上初となるピッチャーによる初球先頭打者ホームラン。
「試合が始まる前から『真っ直ぐを思い切り空振りかホームラン、それぐらいの気持ちで行ってきます』と言っていました。そうしたら、まさかのスライダーがきて、たまたまバットにひっかって飛んでいった。
自分がホームランを打つときって、ボールに反応してたまたま打つときと、自分が思い描いていた球種やコースがきて思い描いた軌道で打球が飛んでいくときがあるんですけど、どっちかというと、あのホームランは前者のほう」
「伸びしろを持った状態でアメリカへ行って、そのなかでピークを迎えたいという気持ちは前々から翔平から聞いていました」
ともすれば、指導者としては非常に扱いやすい選手ともいえる。
ただ、その器のサイズが、それまで見たことのないようなスケールだっただけに、佐々木監督は大谷の3年間を預かることになったときに武者震いがするような感覚だったという。
「はじめは怖さしかなかったですね」
恐怖にも似た感覚があった。
「翔平はその花巻東の学校見学から帰ってきて『練習スタイルがいい』ということを言っていました。他の学校にはない練習スタイルがあった、と」
「岩手県からもこんなすごい選手が出てくるんだなって、本当に驚いたのを覚えています。雄星さんのような選手って、僕は大阪や神奈川の激戦区などにいる選手だと思っていました。それが岩手県にいた。あれだけ注目される選手、怪物みたいな選手が岩手県から出たのを僕はみたことがなかったので、憧れみたいなものはあったと思います」
大谷をはじめて見た佐々木監督は、菊池雄星に抱いたような感覚を瞬時に持つことになる。
「大谷と出会う前は、正直なところ雄星のような素材と二度と出会わないと思っていました。岩手県内からあれだけの素材が出てくるのは最後だと思っていました。でも、あるとき、ウチの部長がビデオを持って鼻息を荒くしてグランドに帰ってきましてね。
『ダルビッシュみたいな投手が岩手にいます』と。
私は『いるわけないだろう』と言いながらも、中学生の大谷の映像を初めて見て、とにかくビックリしました。とんでもない素材だな、と。とにかく身長が高くて、腕の振りがしなやか。素材としては間違いないと思いながら、ワクワクして映像を見たのを昨日のことのように思い出します」
「身体がまだ縦に伸び続けていた大谷には、怪我をする前にと思って入学後すぐに体の検査をさせました。体の機能や症状を確認しながら、3年間の育成プランを考えようと思ったんです。すると、病院からは大谷も体には骨端線(体の縦軸方向に関係する骨の先端付近の軟骨層)がまだ残っている、骨が成長段階にあると告げられました。いたるところに骨端線が残っているので、過度なストレスはかけられないということだたので、3年間の育成方針とトレーニング内容を慎重に考えて進めることにしました」
佐々木監督は「大谷の将来を犠牲にすることだけは絶対にあってはならないと思っていた」
「試合に勝つことを考えれば、喉から手が出るほどに試合で使いたかったというのが本音です。手足が長く、特にリーチの長さはスピードボールを投げるための絶対条件。
また、関節の可動域の広さ、股関節や肩甲骨の柔らかさ」
「ライトというポジションはカバーリングが多いので、必然的に走る量が増えます。
また、サードへの返球など、ほかのポジションよりも投げる距離が長い。
実際に練習でショートを守らせると、素晴らしい身のこなしをするんです」
「いずれは160キロがでるよ」
大谷にそう語りかけたのは、彼が入学直後のことだ。
「入学間もない大谷は、体重は63キロくらいで体の線が細かった。
我々としては雄星という参考書で大谷を育てることができました。
雄星は体重が20キロ増すなかでスピードが20キロ増した。
計算上では『160キロが出る』と私は確信しました。
そのためにも、本人の思考の在り方として、『雄星さんのようになりたい』という考えは持たないようにと大谷に言いました」
目標設定シートの中央に「ドラフト1 8球団」と書いた。
そのために必要な要素として、9つのマス目の中央にあるその大きな目標を囲むように、
「キレ」「コントロール」「体づくり」
「メンタル」「人間性」「運」「変化球」といった7つの言葉を書き込んだ。
目標設定シートに掲げた163キロ
2007年から始めた水泳トレーニング。
花巻東高校はいち早く、泳ぎから得る土台作りやスタミナ作りを野球の練習に取り入れた。
怪我を乗り越え、多くの時間をバッティング練習に費やし、体重が飛躍的に増えた高校2年から3年にかけての冬の時期がなければ、その後の「二刀流」はなかった。
野球の技術はもとより、小島圭市がもっと驚いたのは大谷の高度な身体能力だった。
「その競技をやっても、金メダルのレベルでしょうね。
サッカーをやっても、190センチ以上あるフォワードとして世界でトップクラス。
バスケットやっていたらNBAへ行っていただろうし、陸上の100m走でもそう。
日本人で初めて10秒を切ったのは、もしかしたら大谷君だったかもしれない。
あらゆるスポーツの日本の歴史上で彼はベストプレイヤーだと思っています」
メジャーのトップに行きたいんだよね?
長く野球を続けたいんだね?
何か新しいことを、他人がしたことのないことをやりたいということだね?
大渕の問いかけのすべてに、大谷は「そうです」とはっきりと言った。
その二度目の席で、山田と大渕は栗山監督の直筆メッセージが入ったボールを持参している。
「大谷君へ、夢は正夢。誰も歩いたことのない大谷の道を一緒に作ろう」
『大谷翔平君へ 夢への道しるべ』
実は、その資料を作ったわけには、大谷の両親の存在も深く影響していた。
「本人とご両親と会話をするなかで、この家庭と親子であれば、ある程度の資料は読んで理解していただけると思いました。お父さんとお母さんともに話の理解力が高くて、会話も上手で。だから、もっと資料を作ろう。そう思えたんです。我々としては、すごく期待を持てたというのはありました」
副題に『日本スポーツにおける若年期、海外進出の考察』
未公開部分のあるページには「琵琶湖」と題したページがあった。
「実は『急がば回れ』という言葉は、琵琶湖から生まれたものだそうです。
要するに、昔は船で琵琶湖を通って物を運んでいた。急いで船で物を運ぼうとするんだけど、そこには風とか波によって転覆する危険がある。それよりも琵琶湖の淵をぐるっと回ったほうが確実に目的地に着く。」
「3回目の交渉のときでしたかね、二刀流の話をしたのは。
大谷は『そんなものもあるのかな』という程度で少しクスッと笑いながら話を聞いていたのを覚えています」
実は、野球における「二刀流」という言葉自体は、GMの山田と栗山監督の会話のなかから生まれたものだった。
「ドラフト前に栗山さんから『山田さん、大谷という選手はピッチャーとバッター、どっちがいいんですか?』という質問を受けたんですね。そのときに、私は『難しい質問だけど、両方いいんじゃないかな』と答えました。そうしたら栗山さんが『二刀流だね』って。『二刀流をやらせたら面白いね』とおっしゃったものですから、だんだん私自身も頭の中に二刀流という言葉を思い浮かべるようになりました。
栗山監督には、大渕とは違った感情が生まれていた。
「入団が決まったときは、怖かった。本当に怖かったです。
入ってくれて『ヨッシャぁ!』と思ったのは0.5秒くらい。絶対に何とかしなきゃいけないと思ったら、それは怖かったです。嬉しいとか良かったとか、そう思う時間はなかったですね」
宿題を与えれば勝手に成長する。
大谷という人間を表す言葉の1つとして、栗山監督は常々そう口にしていた。
「バッティングはわかりやすいんですよね。出力的に筋力が大きくなれば、単純にボールに対して負けない力が加わるので打球を飛ばすことができる。体重が3キロ違っただけで、だいぶ飛距離は変わってくると実感しています。ただそこは難しくて、あくまでも体重は体の使い方ありきのところがあります。筋力に頼り過ぎない打ち方などを維持しつつ、重量を増やしていければ、どこまで上げていってもいいと僕は思っています」
「トレーニングも、誰よりもやってきたという自信はあります。やらされていたメニューではなくて、取り組むトレーニングがどういう成果に結びつくのかをちゃんと理解してやるのと、やっていないのでは、成果は大きく違ってくる。そこはちゃんと理解してやってきた自信はあります」
「たとえば16年の日本シリーズでも、広島の黒田博樹投手が翔平にいろんな球、すべての球種を見せて、その大谷の打席で現役としての野球人生を終えてゆく。そういうところにも、大谷翔平という存在自体の大きさを感じたりしたものでした」
「今でもワインドアップで投げたいという思いはあるんですけど、僕は、ピッチングに関してはセンスがないと思っているんです。ワインドアップで進行方向を決めて体重移動をしていく技術に関しては、僕は持っていない。持っていないというか、まだ現時点ではワインドアップで投げるのは早いと思っています。だから比較的、進行方向を決めやすい、体重移動もしやすいセットポジションをやっていこうかなあと思っています」
「ワインドアップって、1回、正面を向く動作があるじゃないですか。正面スタートで横を向いて、そこからの体重移動になるので腰の向きがいろいろと変わります。体重移動がちゃんとできているピッチャーは何をやっても大丈夫なんですけど、翔平の場合はまだ、その感覚を掴んでいない。そこが、ピッチャーとしてまだまだという部分だと思います」
「何も考えずに来た球をホームランにすることが理想ですが、今の技術ではなかなかそれができないので、配球の読みが出てきたり、憶測で山を張って打ったりする。山を張っていったほうが確率が高くなっていくことがあるので、そういうときは配球を読みますね」
日本ハム時代に背負った「11」は、エンゼルスでは永久欠番だった。
「僕、奇数が結構好きなんです。だから「17」でよかったですけどね」
背番号17は、花巻東高校時代に付けた番号でもある。
「17」は、花巻東高校にとっては大きな意味合いを持つ。
実力の証であり、将来への期待と希望の表れ。
次世代のエース候補である下級生がつける背番号だ。
2017年シーズンを終えたばかりの大谷は右足首の三角骨骨棘除去手術に踏み切った。
「いやあ・・・実は結構、楽しみにしていたんです。全身麻酔をしたことがなかったので」
彼にとっても「てっぺん」とは何か。
「野球は、そこが難しい競技だと思っています。
オリンピックなら金メダルを獲れば、その競技のトップに立ったといえるかもしれませんが、
野球はチームスポーツでもあるので、測るものがないというか。
ただ、周りから『彼が一番、今までで良い選手だった』という声が聞こえてくる日がいつか来るんだったら、そのときが、てっぺんに来たと思える瞬間だと思います」
「50代まではやりたいですね」