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北アルプスの黒部川の岸辺、薬師沢小屋のリアルを語る。
第1章 黒部源流のこと(黒部源流と薬師沢小屋山小屋創成期)
第2章 薬師沢小屋開け(入山水事情 ほか)
第3章 ハイシーズン到来(ハイシーズンと厨房事情物輸ヘリ二回目 ほか)
第4章 秋の源流と小屋閉め(イワナの遡上上ノ廊下と赤木沢 ほか)
高天原(たかまがはら)山荘はもともと、鉱山作業員の宿舎だった。
大東鉱業によって昭和4年から20年まで、モリブデンが採掘されていた。
日本最奥地にある温泉。
高天原山荘が何度かクマの被害に遭っている。
ずいぶんと長居したみたいで、糞尿の量が半端なく、食料のほとんどがやられた。
缶詰も爪で上手に開け、ビールや焼酎もしこたま飲み、いい気分になったのだろう。
酔っ払って暴れたような痕があった。
クマはカレーが好き
紅しょうがは嫌いらしい
山小屋ではじめて空輸による物資輸送を試みたのは、「黒部の山賊」の著者、伊藤正一さん。
最初は小型セスナ機による超低空からの物資投下、昭和29年。
ヘリ輸送はそれから10年後。
環境省の許可を得て、地代は林野庁に払う。
地代は、毎年の総売り上げに対して算出される。
真夏の下界からヘリで上がってくる野菜は、山の上との温度差で水蒸気が発生し、汗をかいて濡れてしまう。それを箱に入れたまま、ぎゅうぎゅう詰めの状態にしておくと、あっという間に傷んでしまう。
まずは野菜をズラッと並べて、乾かしてあげる。それを新聞紙で包んだり、挟んだりして、乾いた段ボール箱に詰め直す。
そうして片付けた野菜も、しばらくするとまた汗をかき、新聞紙がしっとり濡れてくる。これをこまめに取り出し、野菜が傷んでいないかチェックをし、新聞紙や段ボールを天日で乾かしてから、再度詰め直す。面倒な作業であるが、こうすることで野菜の持ち具合はまったく違ってくる。
長ネギを箱のまま上から使っていたら、下のほうのネギが溶けて最高に臭くなった。
卵もヘリで上がってきたあとに、各段、割れているものがないか確認しておかないと、腐ってコバエがわき、大変なことになる。
薬師沢小屋のバイオトイレ形式は、オガクズ方式。
便槽内のスクリューがウィーンと回り、糞尿の水分を吸ったオガクズが攪拌(かくはん)される。さらにヒーターにより水分が蒸発され、オガクズにいる好気性微生物が残った固形物を分解する。窒素、リン酸、カリウムなどの無機成分が残り、オガクズに吸着し、有機肥料といわれる土になる。
しかしハイシーズンともなると、さすがにキャパオーバーで、オガクズが水分を含んでくる。好気性発酵を促す微生物は、水分が多すぎると酸素を供給できず、急激に分解速度が落ちてしまう。簡単にいえば、臭くなってくる。
日中でも発電機を回して、トイレの攪拌機とヒーターを回し続けるしかない。
風呂は五右衛門風呂である。
風呂は週に2回。忙しい日を避けるので、多少変動する。
薪も倒木をチェーンソーで切って、ナタで割って作るから、無駄にはできない。
倒木は2,3年経って乾燥したものがいい。そろそろ薪にいいね、なんて目星をつけていた川原の倒木が、増水で一気にもっていかれ、ガッカリすることもある。
お風呂の沸かし方だが、水を入れて焚くだけではない。
最初に屋根の上に設置した太陽熱温水器に水を入れて、冷たい沢水を一日温める。
薪は発電機室に入れておいて乾燥させてから使う。
一番最後の人以外は湯船に浸からない。
大滝は35mの直瀑。
黒部源流のイワナは、この荒々しい黒部川の流れにもまれ、それはそれは立派なヒレを持っている。そのヒレで体を起こし、川原をクネクネと歩いていく。筋肉隆々、体も大きくて頭も大きい。その代わり、体がちょっと短い。流れの緩いところに棲んでいるイワナのように、体長が伸びないのだ。これは絶対に尺イワナだろう、というくらい大きな頭をしているのに、測ってみると寸足らずだったりする。だからこの辺で尺イワナを釣り上げるのは、なかなか難しい。小屋付近のアベレージで23cmくらい。上流に行くほどサイズは小さくなるが、そのぶん数は多くなる。
釣り人も年々増え、イワナもあの小さな頭の中に、覚えられる限りの毛鉤パターンを詰め込んでいるのだろう。毛鉤を見にきては、フイッと帰っていく。以前は何の疑いもなくプカーッと浮かんできて、どんな毛鉤にでも食いついてきたのに。
秋のイワナは婚姻色といって、繁殖期に表れるオレンジ味を帯びた体色の個体が増える。
とくに大きな雄イワナは、顎がガッチリしていてかっこいい。
この立派な顎で雌を争って戦うのだ。
イワナはサケと違って、一度の産卵では死なず、何年かにわたって産卵をする。
卵が孵化するのは真冬で、稚魚は春まで同じ産卵場所で過ごす。やがて雪解け水に乗って川の際や緩やかなところに分散されるが、成魚に食われる個体も多い。厳しい世界だ。
廊下とは、山岳用語でゴルジュのことだ。
ゴルジュとは、両側が狭まり岩壁になった谷のことをいう。
現在では、この黒部峡谷の黒部湖より下流を下ノ廊下、上流を上ノ廊下と呼んでいる。
また上ノ廊下も、ゴルジュ帯が終わる立石奇岩より先は、奥ノ廊下と呼んでいる。
上ノ廊下は、沢登りで有名なルートで、徒渉の困難さと行程が長いことから、上級者向けの沢とされている。徒渉が鍵となる沢なので、徒渉ミスによる溺死や、高巻き中の滑落による死亡事故も少なくない。
上ノ廊下を過ぎ、奥ノ廊下からB沢を抜ければ、あとは薬師沢小屋まで登山道がついている。
赤木沢は、赤木岳と黒部五郎岳の間に位置する中俣乗越に端を発し、黒部川本流に合流する秀麗な沢だ。明るく開けていて、出てくる滝はどれも美しい。とくに2番目に出てくる滝は、思わず淵に飛び込みたくなるくらいの美しさだ。元バイトのお兄さんが「以前その淵で若い女性が2人、下着姿で泳いでいて、その姿が天女のようだった」といっていたが、「全裸のおじさんが泳いでいたのを見たときもあって、地獄の池で蠢(うごめ)く赤鬼のようだった」ともいっていた。風景とは、そのときどきの状況によって、まるで違うものに見えてくるものなのだろう。
その後も美しいナメ滝が続き、やがて目の前に落ちる35mの直瀑、赤木沢大滝を目にしたら、思わず歓声をあげたくなってしまう。
というわけで、秋の山小屋、野菜フェアの始まりだ。
いままで使っていた、缶詰、乾物をストップして、野菜たっぷりのメニューに変更する。
秋の山小屋で、やけに野菜をふんだんに使ったメニューだと感じたら、それは食料余り。
逆に缶詰、乾物が多ければ、それは食糧難。
昔の話になるが、冷凍のエビフライを700匹注文したところ、7,000匹上がってきたことがあったそうだ。従業員も最初は大喜びで食べていたらしいが、そのうち飽きてしまい、しまいには「尻からエビの尻尾が生えてくるんじゃないか」なんて言い出す始末だった。
下の問屋さんだって大変である。
さあ、今日は飛ぶぞといって、朝から有峰林道で折立まで荷物を運び、一日天候待ちで結局飛ばなかったり、そんなことが2度も3度も続くと、腹も立つことだろう。「あんたら本当に飛ぶ気があるのか」とヘリ業者に文句をいった問屋さんがいたとか。
この最初のシルバーウィークの2009年、北アルプスの各方面の山小屋には、収容人数をはるかに上回る数の登山者が押し寄せ、各山小屋に伝説を残していった。
連休初日の折立登山口は、車であふれかえっていた。
延々と路肩に駐車していく。
列は車だけではない。登山道も人の列だ。
とくに最初の樹林帯の急登は狭いので、追い越せる場所が少ない。
それに追い越してもすぐまた人がいる。山道の車の渋滞と一緒で、一番ペースの遅い人間のペースで全体が進んでいくのだ。
さて、次に並ぶ行列は、薬師沢の宿泊受付の行列である。
カベッケ原に着いた登山客が「何の列ですか」と尋ねて「どうも受付の行列らしいです」と聞いて仰天したという。
結局、夕食は4回戦143食、宿泊者は173人にのぼった。
あまりの窮屈さに、玄関先や食料倉庫には、寝袋の人たちが転がり出た。
この初日の集団は、そのまま奥の小屋に移動する。
翌日はひとつ奥の小屋が人であふれた。
薬師沢小屋よりもひと回り小さい高天原山荘でも、その日は170人超えだった。
夜の定時交信においても「何がなんだかわかりません、以上」で終わったらしい。
秋も終わりの季節である。
ここまで人が膨れ上がると予想していなかった各小屋では、食料不足が懸念された。
通常メニューの尽きた薬師沢小屋でも、2日目からはカレーライスでの対応になった。おそらくどこの小屋でも同じ状況だったのだろう。連休後半になって到着したお客さんが「ここもカレーですか。毎日カレーですね」と笑っていたという。こういった事態のときのカレーライスは、油断していると2回戦目以降、徐々に薄まって具が少なくなっていくことがある。
食料だけではない、飲料も尽きた。
とくにビールがないというのが、いちばんがっかりするようだ。
「ここにもビールがないのか」と残念がるお客さんを見て、忙しいなか、小屋番は太郎平小屋までビール歩荷に行くことにした。営業期間の長い太郎平には、まだビールの在庫があったのだ。
1本350mlで1ケース24本、4ケース96本、34キロを運んだ。
ところが薬師沢小屋に到着したとたん、ビールに気づいた登山客が押し寄せ、背負子のビールケースはもぎ取られるようにして人が群がった。
「一人1本にしてください!」小屋番は叫ぶ。
どこぞやのガイドが「これしか持ってこれないのか」と小屋番に吐き捨てるようにいった。
「あれはひどかった」。小屋番は遠い目をする。
最後には「布団一枚で2名なら天国ですよ」なんていってくれる人もいた。
水晶小屋などは、定員30名のところ140人の宿泊があったというから、実際そうなのだろう。
あの小さい小屋にどうやって140人、考えただけで窒息しそうになる。話によると、食堂から従業員へらから、果てには土間にまでブルーシートを敷き、布団を並べて寝たという。荷物も置く場所がないから、大きなザックは全部外に出してもらい、ブルーシートをかけた。
そんな「魔のシルバーウィーク」と呼ばれた2009年から6年後の2015年、連休初日の予約数は130人。天気予報は期間中の好天を伝えていた。
連休中はカレーライス対応。しかもカレーは1週間前から500人分くらいを作りためて、冷凍しておいた。なので仕込みはカレーの解凍とサラダくらい。
さあ来い、と思っていたが、蓋を開けたら予約通りで、宿泊者130人強、客食も125食にとどまった。連休を通して、作り置きしたカレー以上のお客さんはこなかった。その後しばらく、従業員がカレーを食べ続ける羽目になったのは、いうまでもない。
ご近所さん雲ノ平
雲ノ平山荘は薬師沢小屋のお隣さんだが、北アルプスは造山構造が複雑で、隣近所といえど、まるで土地の持つ雰囲気が違う。
雲ノ平はかつで自然ダム湖の底だったが、その後、20~10万年前に、雲ノ平火山が溶岩を噴出。ダム湖の底だった砂利層をコーティングした。溶岩でコーティングされなかった部分は、後に侵食により削られ、いまの雲ノ平の台地状地形になった。
そう思って風景を眺めると、雲ノ平にゴロゴロと転がる黒い石も、溶岩台地に凛と揺れる高山の花々にも、長い長い悠久の物語を思わずにいられない。
雲ノ平へは、薬師沢小屋前の吊り橋を対岸に渡り、川原を下流に少し行くと、すぐに分岐の看板がある。この雲ノ平方面と大東新道の分岐から、標高差500mの急登をひたすら登る。地形図で眺めても、実際に登ってみても、胸を突くような急坂だ。
私の美大時代の卒業制作は、この雲ノ平への急登だった。
油絵100号と120号の大作。
さてこの急登を登り詰めると、雲ノ平の西端、アラスカ庭園に出る。
ここからは、黒部五郎岳や三俣蓮華岳方面の展望がよい。
たまに広い空が見たくなると、ここまで駆け上がることがある。
谷底から天上の世界に飛び出るような感じで、スカッとする。
そのアラスカ庭園から、さらにしばらく木道を進むと、やがて八角形の赤い屋根を載せた山小屋が現れる。伊藤二朗さんの経営する、雲ノ平山荘だ。
二郎さんは、故伊藤正一氏の次男である。
山荘に足を踏み入れ、天井を仰ぎ見ると、小屋を貫く大梁に目がいく。
これは高瀬ダムに浮いていた流木を、許可を得て引き揚げたものだという。
樹齢400年のコメツガと樹齢200年のヒメコマツだ。
おわりに
もしも誰かがこの本を読んで、黒部源流に行ってみたいとか、薬師沢小屋に泊まってみたい、なんて気持ちになってくれたらいいなと思う。そのなかでも山小屋で働いてみることに興味を覚えてくれる人がいたなら、なおうれしい。