小学校のころから学校で「どんな気持ちなのか、よく考えて」作文
しましょう。そんなふうに心のことを言葉にする練習をしています。
親に叱られるときにも「どうしてこんなことができないの!」と
よく言われることだと思います。ところが、この両方ともに共通
なのは、どちらも「出来ないこと」だということなんです。
数学や物理なら、証明済みのことを根拠にしてその先の論理を
説明する。つまり、決まりがあるのだからそれは理屈が決まりに
従っているのかどうかが大事で決まりに従わないとそもそも
そういう学問は存在意義がなくなってしまう。でも、こころは
違います。学問みたいに自分らで作らなくても最初からあった。
だから、「理由がなくても使えていた」ものなのです。
僕たちがこころを使いこなすのに(簡単なルールがたったひとつ
だけあります。)もともと理由がないから、どんな気持ちか
考えることも必要なければ、どうしてか、わざわざ嘘を親に
言って、あとからまたう嘘をついたと二重に怒られる必要も
ないんです。理由があるとすれば簡単なことで、
「なぜか気分が良かった(悪かった)」という作文になるし。
「なぜか、やろうとしたのに気分が悪くなるから出来なかった」
このことだけが真実。それ以外のことは説明できません。
開発者のページ はこちら
しましょう。そんなふうに心のことを言葉にする練習をしています。
親に叱られるときにも「どうしてこんなことができないの!」と
よく言われることだと思います。ところが、この両方ともに共通
なのは、どちらも「出来ないこと」だということなんです。
数学や物理なら、証明済みのことを根拠にしてその先の論理を
説明する。つまり、決まりがあるのだからそれは理屈が決まりに
従っているのかどうかが大事で決まりに従わないとそもそも
そういう学問は存在意義がなくなってしまう。でも、こころは
違います。学問みたいに自分らで作らなくても最初からあった。
だから、「理由がなくても使えていた」ものなのです。
僕たちがこころを使いこなすのに(簡単なルールがたったひとつ
だけあります。)もともと理由がないから、どんな気持ちか
考えることも必要なければ、どうしてか、わざわざ嘘を親に
言って、あとからまたう嘘をついたと二重に怒られる必要も
ないんです。理由があるとすれば簡単なことで、
「なぜか気分が良かった(悪かった)」という作文になるし。
「なぜか、やろうとしたのに気分が悪くなるから出来なかった」
このことだけが真実。それ以外のことは説明できません。
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