♦️569『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのアラブ世界への進出

2017-11-03 21:23:37 | Weblog

569『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのアラブ世界への進出

 1955年11月、中東条約機構(別名はバグダッド条約機構)が結成されました。構成国はアメリカ、イギリス、トルコ、イラク、イラン、パキスタンの6か国です。
 これに対し、1956年7月18~19日にかけて、インドのネール、ユーゴスラビアのチトー、エジプトのナセルのいわゆる中立主義国首脳が「ブリオニ島会談」で、バンドン精神をうたった共同声明を発表しました。
 声明文には、帝国主義反対、軍事同盟反対、原水爆禁止が宣言されていました。そのため、アメリカとイギリスを刺激することとなり、エジプトのアスワンハイダム建設のための経済援助は中止となってしまいました。のみならず、エジプトが同年7月26日にスエズ運河の国有化を宣言したのに対抗し、イギリス、フランス、そしてイスラエルは運河の国際管理を主張して譲りませんでした。そして彼らは、エジプトに武力侵攻したのです。
 それでは、3国によるこの武力行使を目にしたアメリカは、どのような態度で臨んだのでしょうか。アメリカは、国連の安全保障理事会にかれらの軍事侵攻を非難する決議案を提案しました。しかし、常任理事国であるフランスとイギリスがこれに拒否権を行使したことで、同案の採択は成りませんでした。そこで「平和のための結集」決議に基づいて国連の緊急特別総会が招集され、総会において、彼らの軍事行動が審議決定されました。この非難決定には、新興独立国やいわゆる非同盟中立主義国、そしてソ連が活躍した結果でもありました。具体的な行動としては、国連緊急警察軍が組織され、これに屈する形で3国はエジプトからの撤兵を余儀なくされました。
 これに対する世界各地での評価は様々にありましたが、注目されるのはアメリカがアラブでの紛争に積極的に関与するようになったことでした。そのアメリカがこの事件の帰結までをどのように見ていたのか、そして何を心に抱くにいたったかを、次のアイゼンハワー大統領の演説(1957年1月)から読みとることができるでしょう。すなわち、彼は「イギリス、フランスの後退により中東は共産主義の脅威にさらされ「真空状態」が生じた。いまやアメリカにイギリスとフランスにかわってこの中東の危機を防衛しなければならない」と述べ、中東の石油資源獲得に向けた大いなる一歩を踏み出そうとしていました。

(続く)

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♦️541『自然と人間の歴史・世界篇』第1次インドシナ戦争でアメリカによる核投下の危機

2017-11-03 21:18:26 | Weblog

541『自然と人間の歴史・世界篇』第1次インドシナ戦争でアメリカによる核投下の危機

 国際政治学者の陸井三郎氏は、1946~54年の「第1次インドシナ戦争」での政治力学の変遷を、こう論評している。1946年11月に本格的な戦闘が始まり、1949年にフランスはバオ・ダイを王に擁立してベトナム王国を樹立した。アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスへの援助に積極的でなく、見守っていた。ところが、1949年10月に中華人民共和国が成立すると、アジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍の梃子入れを画策するにいたる。
 この戦いだが、同年の12月にはベトナム全土、さらにカンボジア、ラオスのインドシナ三国に拡大していく。また、イギリスやアメリカも経済的な利益に分け入ろうと、食指を動かすのであったが、1954年になると、フランス側の劣勢が明らかになってきた。
 「インドシナでは、人民解放軍のまえにフランス帝国主義が完全に敗北し、このためにアメリカは核兵器攻撃(※)によってこれに介入しようとしたが、朝鮮休戦後のアジアにおける民族解放運動のたかまりと、英仏・対・アメリカの対立のなかで、アメリカの孤立化が決定的に浮き彫りにされたため、アメリカはインドシナへの軍事介入を一時的に断念しなければならなくなった。
 ※マンデス=フランスは54年6月初め、フランス国民議会で、アメリカの軍事介入を要請したドビー外相を指さして、以下のように暴露している。
 「あなたは5月初めに暴露された計画、すなわち中国の介入をまねき、全面戦争をひきおこす危険をおかしても、アメリカ空軍を大規模に干渉させる計画をもっていた。・・・アメリカの干渉計画はすでに準備をおわり、(中略)あなたの要請ありしだい(中略)行動にうつる寸前にあった。攻撃は4月28日に開始される予定で、航空機と原爆を積んだ艦船はすでに航行中だった。アイゼンハワー大統領は、4月26日に議会に必要な権限をもとめる手はずになっていた。フランス議会は、既成事実(フエタコンプリ)をおしつけられようとしていた。」(陸井三郎「現代アメリカの亀裂ーベトナム・黒人問題・暗殺ー」平和新書、1968)
 1954年、この戦争をひとまず停戦に持ち込むための交渉がジュネーヴ会議として始まる。その最中の5月には、第四共和政下のフランス軍がディエンビエンフーでベトナム側(ベトナム独立同盟(ベトミン))と戦う。この戦いで敗北したフランスは、やむなくベトナムの植民地支配から手を引くことに決める。7月にジュネーヴ休戦協定が成立して和平が実現するのであった。
 このフランスのインドシナ半島とその周辺一帯からの完全撤退を見るに、今度はアメリカがその政治的空白を埋めるべく、進出していく。そもそもアメリカは和平に反対してジュネーヴ休戦協定に参加せず、新たな介入の機会を狙っていたのではないか。頃合いを見手の1955年には、南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して介入し、ホー・チ・ミンの率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)と敵対させ、和平協定で約束された統一選挙の実施を拒み、南への勢力拡張と北への攻撃(1960年代からのベトナム戦争と第2次インドシナ戦争)へと向かい始めるのであった。

(続く)

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新552♦️♦️414『自然と人間の歴史・世界篇』日本への原発投下の理由(諸説の検討)

2017-11-03 08:36:18 | Weblog

新552♦️♦️414『自然と人間の歴史・世界篇』日本への原発投下の理由(諸説の検討)

 それにしても、なぜアメリカは日本に2発の原爆を落としたのだろうか。また、アメリカが原爆を投下するのは、なぜ日本でなければならなかったのか。その理由については、戦後、さまざまな語られ方にて、現在に至っている。それらの中では、あの時、悲惨な戦争を終わらせるにはそうするしかなかったとか、目前に来ていた日本への上陸作戦に不可欠であったとか、などである。

 ここでは、そんな中から、原爆を実際に投下した軍人がどう考えているかを、しばし紹介しよう。

 「日本からポツダム宣言に対して初めて検討に値する回答が返ってきたため、アメリカは日本に対する攻撃を一時的に弱めて、降伏のために時間を与えることにした。Bー29による攻撃は中断された。トルーマン大統領は、原子力兵器の使用を許可した以前の命令を撤回した。彼が再度特別な許可を与えるまでは、原子爆弾は投下してはならないことになった。

 マンハッタン計画の最高責任者であるレスリー・グローヴズ将軍は、これとは別に、自分の許可なくしてプルトニウムが輸送されることを禁じた。日本の頑固さとは対照的に、我々の政治的・軍事的指導者たちは、日本の指導者たちの回答を待つあいだは、通常爆弾あるいはその他の方法によって日本人に対してこれ以上の制裁を加えるつもりはなかったのだ。爆弾の代わりに、第20航空軍は何百万枚というビラを落とし、日本人市民と兵士に対し、確実に破壊されることを考えて降伏するように強く勧めた。

 しかし日本の軍事的指導者たちはまだおさまらなかった。市民と兵士とあいだに広がっていた降伏の噂を打ち消すために、日本の軍部指導者たちは戦場にいる兵士たちに、戦いを続け、敵を叩きのめすことを命じた。」(チャールズ・W・スウィーニー著、黒田剛訳「私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」原書房、2000)

 しかしながら、そうした理由付けでもって、アメリカ大統領は、かくも残酷な無差別殺戮の決断を、最終的に下すものであったろうか、そのように問いかけると、たとえそういう部分かあだたとしても、全体的に一番の正しい原爆投下の理由とは言えまい。


 そもそも、この問いに答えられる人の多くは21世紀に入った現在、すでに故人になっていて、今テレビに出演するなどして、「あのときはこういう力が働いた、証拠はここにある」などと述べてくれるものではない。したがって、誰もが納得できるようなその結論は、出ていない可能性が広がりつつあるのだから、今日、あれは「複合的な要因が合わさっての出来事であった」として片付けても、その論者が大きな非難を浴びることはないのかもしれない。とはいえ、時を経るにつれ、以前は明確でなかった空白の点のいくつかが新手の情報なり思索により「あぶり出される」というか、新たに繋がりあうこともあったりで、今日ではかなりのところまで肉薄できているのではないか、と感じられる。
 新たに加えられたものとしては、次の二つがあるのではないだろうか。その一つは、戦後を思い描く中でのソ連との対抗関係を中心として語るものであり、この範疇に属する最新のものでは、例えば次の論考がある。
 「さらに状況を複雑にしていたのは、ソ連だ。佐藤から申し入れを受けておきながら、スターリンは、8月15日までに日本に宣戦布告するというトルーマンの要請に同意していた。これは、それ自体、おそらく日本の無条件降伏という形で戦争を確実に終結させる動きであるが、同時に、大平洋地域において領土を拡張する許可をソ連に与える動きでもある。


 別の方法がある、とバーンズは主張する。ソ連が介入する前に、原子爆弾が、日本との戦争を終結させる方法を提供したのだ。アメリカ兵の人命が救われ、すでに長すぎている戦争をついに終結させ、ソ連の野望を阻止し、軍事技術におけるアメリカの優位を明快に示し、それによって戦後世界における強力な地位を確立できる。さらに検討すべき点があった。使われもしない兵器の開発に20億ドルを費やしたなど、戦争の歴史において前代未聞のことだからだ。
 トルーマンとバーンズにとっては、容易に下せる結論だった。7月25日、トルーマンは日記に次のように書いている。


 「この兵器が、日本に対して今から8月10日までに使われることになる。私は、陸軍長官のスティムソン氏に、使用に際しては、軍事施設と兵士、水兵を標的とし、女子どもを標的にするなと命じた。たとえジャップが野蛮で無礼、無慈悲で狂信的であろうとも、共通の幸福を目指す世界の指導者として我々は、日本の古都にも新しい都市にも、この恐ろしい爆弾を落とすことはできない。
 彼も私も同意見だ。標的は、純粋に軍事的なものとし、ジャップには降伏し、命を大切にしろと警告文を出すつもりだ。彼らは降伏しないだろうが、チャンスは与えたことになる。ヒトラー陣営もスターリン陣営もこの原子爆弾をつくり出さなかったには、確かに世界にとってよいことだった。この爆弾は、史上最も恐ろしい代物のようだが、これを最も有益なものにすることもできる。」」(ジム・バゴット著・青柳伸子訳「原子爆弾1938~1950年、いかに物理学者たちは、世界を残虐へと導いていったか?」作品社、2015)


 もう一つ、こちらは新兵器を獲得するに至った人間の心理から演繹して、事柄の本質を衝こうとするもので、簡単にいうと、こうなるであろう。

 それまで原爆の人体への効果は分からなかった。落として初めて、そのなんたるかが分かるというものだ。それだから、むしろ実験を現実に移す絶好の機会だと考えていた、言い換えると、政府と軍がともにこの稀代の新兵器の威力を試すためであったとしても、不自然ではあるまいと。

 また、このことは、前述のジム・バゴットの論考において、「さらに検討すべき点があった。使われもしない兵器の開発に20億ドルを費やしたなど、戦争の歴史において前代未聞のことだからだ」という下りとも密接に絡みついているものと考えられる。

(続く)

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