♦️567『自然と人間の歴史・世界篇』トルコ(~1960年代)

2017-11-07 22:06:41 | Weblog

567『自然と人間の歴史・世界篇』トルコ(~1960年代)

 トルコの歴史の源はどのくらいなのであろうか。その歴史は、世界有数の古さを持っている。紀元前60万年~紀元前8000年は、旧石器~中石器時代であり、すでにかなりの水準の文化があった。紀元前8000年~同5000年は、新石器時代であった。紀元前5000年~同1200年にかけては、中後期青銅時代であったとされる。さらに、紀元前1800年~同1275年は、「トロイ第4市時代」とされる。紀元前1660年からは、ヒッタイト帝国の治世となる。その最盛期は、ムルシリ2世(在位は紀元前1322頃~同1295頃)の治世のことであり、彼はシリアなどへの遠征を行うとともに、ヒッタイト文化を保護したのであって、現代にいたり、この王の治世を記録した粘土板文書が発見されている。
 紀元前1000年から同545年までは、ヒッタイト帝国にかわり、フリギア王国、ウラルトゥ王国、イオニア文明の時代、リディア王国が次々と栄える。そして迎えた紀元前546年~紀元前334年は、アケメネス朝ペルシアの統治下に組み入れられるのであった。紀元前330~同30年にかけては、ヘレニズム時代という。ここに「ヘレニズム」とは、ギリシア(ヘレネス)という言葉からつくられた近代の用語で、ギリシア風、ギリシアを意味する。その文化的表現としてのヘレニズム文化は、この地域がローマの支配下に入った紀元前30年以降も、その影響力をしばらく保っていく。さらに時代が改まっての330年~1453年は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国とも)が栄える。1071年~1300年は、セルジュク・トルコの時代であって、アラブの繁栄に寄与するにいたる。さらに1299年からは、オスマン・トルコ帝国による支配が始まる。
 その後は、長い王朝の歴史が続く。それでも、19世紀後半からは専制君主による治世に陰りが見えるようになっていく。20世紀に入ると、さらに手綱が緩んだのか、第一次世界大戦で大きな壁にぶち当たる。この大戦で、オスマン帝国は敗戦国となってしまう。1920年、帝国は、セーヴル条約を締結を余儀なくされる。イギリス主導のもとにフランス・イタリアによって領土分割されたのだ。帝国は、ここに落日へと向かい始める。これに対し、政府に対し各地で反乱が生まれる。そんな中でも、ムスタファ・ケマルと彼の仲間は、独立のための戦いに勝ち進んでいくのであった。1920年、かれら青年トルコ党は、アンカラに臨時政府を樹立する。1922年、ケマルひきいるトルコ軍は、内陸へと進軍してきたギリシア軍をやぶってイズミルを回復する。
 そして迎えた1923年、かれらはトルコ共和国を建国する。新政権は、連合国とローザンヌ条約を締結することで、関税自主権の回復と治外法権の廃止を認めさせる。ケマルは初代大統領に就任する。1924年、カリフ制が廃止されるとともに、共和国憲法が発布される。その後、政教分離にもとづきイスラームを国教とする条項を憲法から削除し、文字改革(アラビア文字のローマ字化)、女性参政権の承認など諸改革を推進する。これらの一連の進歩的諸改革を総称して「トルコ革命」と呼ぶ。
 レーニンは、このドルコ革命をこう位置づけている。 
 「20世紀の革命を例にとるならば、ポルトガル革命もトルコ革命も、もちろんブルジョワ革命と認めなければならない。しかし、このどちらも「人民」革命ではない。なぜなら。人民大衆、人民の圧倒的多数が、積極的に、かつ自主的に、自分自身の経済的・政治的諸要求をひっさげて、目をみはるような行動を起こすということが、このどちらの革命にも見られなかったからだ。
 これに反して、1905~07年のロシア・ブルジョワ革命には、ポルトガル革命やトルコ革命がときとして恵まれたような「輝かしい」成功はなかったとしても、それは疑いもなく、「真の人民」革命なのであった。」(レーニン著・江口朴郎責任編集「国家と革命」中央公論社、1966)

(続く)

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♦️570「自然と人間の歴史・世界篇」パキスタン(~1960年代)

2017-11-07 22:03:51 | Weblog

570『自然と人間の歴史・世界篇』バキスタン(~1960年代)

 1940年3月、全インドムスリム連盟の第27回大会が開かれ、ラホール決議(24日)が採択されました。この決議には、英領インドの西北部と東部のイスラム教徒多数居住地域を独立対象地とし、パキスタンは複数国家たるべきことが盛り込まれていました。
その中に曰く、「ムスリムが数の上で大多数を占める印度の西北部地帯・東部地帯のような地域は独立した諸国家(Independents States )を構成するように分類されるべきであり、その構成諸単位(Constituent units)は自治権と主権をもつべきである。」
 なお、最後の点については、後の1946年4月に開催された全インドムスリム連盟大会決議において、「パキスタンは単一の主権独立国家」であることと修正されました。
 このラホールでの決議は1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の理論的基礎をなしたと理解されています。そして同月の14日、パキスタンが、西パキスタンと東パキスタンから成るイスラム国家として成立しました。
 1958年、軍事クーデターによりアユーブ・ハーン(Mohammad AyubKhan)らの軍部が政権を握りました。その下(1958~1969年)で工業化が進展し、また「緑の革命」により農業生産が大幅に向上しました。この間のアイユーブ時代(1958~68年)におけるパキスタンの統治構造については、こういう評価があります。
 「一層厳密にいえば、帝国主義の分割支配政策に乗った、もしくは分割支配政策を逆用したヒンドゥー・ブルジョアジー・地主階級とムスリム・ブルジョアジー・地主階級との間の縄張り画定であった。したがって、こうした視点からすれば、独立、即楽土の実現では決してなかった。これはインドにとっても、パーキイタンにとっても、指摘できることである。
 しかし、パーキスタンという新興国家はムスリムのブルジョアジー・地主階級が掌握しているとするだけでは、答えたようで実際には何ら説明になっていない。少なくとも、パーキスタンの成立以来、東パーキスタンは一貫して西パーキスタンの従属的な地位にあったことが事実とすれば、パーキスタンの政権は一貫して西パーキスタンのブルジョアジー・地主階級が英米の独占資本と結合する中で民族的・階級的な支配を強行してきたといわなければならない。
 さらに厳密にはアイユーブ以後の政権はパンジャービー・ブルジョアジー・地主階級が英米の独占資本と結合する中で民族的・階級的な支配を強行してきたといわねばならない。さらに厳密にはアイユーブ以後の政権はパンジャービー・ブルジョアジー・地主階級がインドからの避難民エリート(Refugee Elites)を中心とする官僚とパシュトゥーン系の軍人将校とを両端に持ち、外国資本と結合した合成的な性格を持つというべきであろう。
アイユーブ政権は単にベンガル民族に不当な処遇を強制しただけではなしに、スィンディー、バルーチー、時にはパシュトゥーンにいたるまで、西パーキスタンを構成する諸民族集団に対して不当な弾圧措置を講じているからである。」(佐藤宏編「南アジアー政治・社会」アジア経済研究所、1991

(続く)

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♦️564『自然と人間の歴史・世界篇』クウェート(~1960年代)

2017-11-07 22:01:21 | Weblog

564『自然と人間の歴史・世界篇』クウェート(~1960年代)

 18世紀アラビア半島中央部から移住した部族が後のクウェートの基礎をつくる。1899年に英国の保護国となる。1938年に油田が発見されると、クウェートの地は、世界の注目の的となる。
 1961年6月19日、クウェートは英国から首長国として独立する。これには、実は英国の後押しがあったのだが、このことは、クウェートの独立後もイギリスの石油利権を守ろうとする深慮遠謀のなせる技であったと言えよう。
 そのクウェート独立の6日後、イラクのカーセム政権が軍隊を派遣して、クウェートを自らのものとしようとしたのに対し、イギリス軍は2万人をクウェートに送り、新政府を援助し、イラク軍を撤退させる。
 1958年、革命派が軍事クーデターを起こして、共和国政府を樹立する。権力を握ったアブドロ将軍率いるら政府は、石油産業の国有化を宣言する。これに対して、アメリカは直ちに反応し、直接イラクに攻め込むことはなかったものの、レバノンに5000人の海兵隊を派遣し、牽制する。石油利権でアメリカに負けてはならじ、とするイギリスも、ヨルダンに空挺部隊を派遣して圧力をかける、これらの圧力により、生まれたばかりの共和国政権は石油の国有化の企てを放棄せざるをえなかった。

(続く)

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