♦️542『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ベトナム)

2017-11-19 09:51:27 | Weblog

542『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ベトナム)

 中国の三国時代の一つの国、呉(ご、中国読みでウー)は、南の広東(カントン)、海南島、ベトナムの地方に進出した。それから数百年後の10世紀には、ベトナムの独立があった。その時の模様についての尾崎康氏の論考には、こうある。
 「長く交州として中国の直接支配下にあったトンキン平野一帯は、唐末五代の争乱で中国の勢力が弱まった機会に、ようやくヴェトナム人による独立の動きが活発になった。10世紀には十国の一の番○(広東)に拠る南漢の瀬力をはねのけて、呉(939)、丁(でいん、968)、黎(れ、980)の各氏が相次いで王位に立ち、黎朝のときトンキン平野を統一し、宋の侵攻も撃退して完全に中国から独立した。
 その後、李朝(1010~1225)になって安定した王朝の時代に入り、科挙制を移入するなど中国文明を引き続き受容し、占城・宋・真○と抗争しつつも、ほぼトンキン平野からユエに領域を保った。次の陳朝(1225~1413)は、再度にわたる蒙古の猛攻に堪えて民族の毒釣りを守った。」(伊藤清司・尾崎康「東洋史」)
 それからさらに千年近くが経過した1802年、ベトナム最後の王朝、グエン(○)朝(~1945)が建国される。都は、現在のベトナム中部のフ、フォー川を挟んでの新市街の対岸に、ユネシコの世界遺産に指定(1993年)された旧市街が広がる。ベトナム統一にフランスの力を借りたのが影響して、1885年にはフランスの植民地に組み入れられてしまう。1940年、フランス統治下のベトナムに進出してきたのが日本軍であり、ベトナムを占領下に置くのであった。1945年8月19日、連合国が日本の無条件降伏を受け、ホーチミンがベトナムの独立を宣言し、同9月2日にはベトナム民主共和国が独立宣言を行い、北の本拠地ハノイで武装蜂起する。
 一方、フランス軍はこの独立を認めない。同年9月になり、フランスはベトナム南部に侵略を開始する。これにはイギリスの支援があった。彼らは9月23日にはサイゴンを占領する。このため、翌1946年になると、北のベトナム政府はフランスに対し武器をとり、第一次インドシナ戦争が勃発する。この年1946年3月18日には、フランス軍は北の本拠ハノイへ進駐し、続いて同年6月1日には南部ベトナム、その中でも都市部を支配下におくとともに、コーチシナ自治共和国という傀儡(かいらい)政府を樹立する。
 フランスは軍事力の優位を背景にして、主要な港湾を固めることで、新生ベトナムの勢力地域を経済封鎖することに血道を上げる。1946年11月20日になるとフランス軍はハイフォンでベトミンを艦砲射撃で攻撃し約6千人のベトナム人の命を奪う。同年中には北緯15度以南のベトナムを支配下に収める。これに対して同年12月19日北のベトナム政府は全国レベルでで反撃を開始する。
 その後の北の政府とフランスとの戦闘は、互いに決定打なく長期化していく。しかし、補給の困難なフランス軍がじりじり消耗し、後退を余儀なくされる。1950年になると、東西冷戦化の中、中国とソ連が北ベトナムを承認する。一方、アメリカは、フランスの傀儡(かいらい)政権である南ベトナム政権を後押しする。
 1949年7月、バオ・ダイ元首が南部にベトナム国政府の樹立を宣言する。1950年10月、アメリカの軍事援助顧問団がサイゴンに設置される。この経緯から、南の政権はアメリカの肝いりの政権である、と言わねばならない。1951年2月、ベトナム共産党が第二回党大会を開いてベトナム労働党と改名する。1954年、戦略的要地ディエン・ビエン・フーが陥落し、フランスは大敗を喫す。1954年5月のジュネーブ会議で、ベトナムの地は、北緯17度線を軍事境界線に二つの国家に分断される。今度、南の傀儡政権を援助したのは、フランスに替わったアメリカであった。1955年、南部にベトナム共和国が樹立され、ゴー・ディン・ディエム大統領が就任する。
 1959年1月、「第15号決議」で南ベトナムを武力解放をめざすと発表する。1960年12月には、南ベトナムに「南ベトナム民族解放戦線」が結成される。この組織は、アメリカと南ベトナムの傀儡政府に宣戦を布告し、ここに第二次インドシナ戦争が始まる。

(続く)

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♦️549『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ラオス)

2017-11-19 09:35:22 | Weblog

549『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ラオス)

メコン川上流に位置するこのあたりには、古くから首長を戴く小国家が群立していたらしい。1353年、現在のラオスの地には、最初の統一国家ランサン王国が建国される。「ランサン」というのは、「百万頭の象」を意味する。初代の王の名は、ファグームという。この王国には、隣の現在のカンボジアの地で繁栄していたクメール王国から仏教が伝わった。王は、クメール王国から僧や技工を迎え、スリランカからも仏像を輸入するなどし、都のルアン・プラパンは学術都市としても賑わう。1560年のセーティラート王の治世では、都をビエンチャン(ヴィエンチャン)に移す。18世紀になると、ランサン王国はビエンチャン、ルアン・プラバン、チャムパサッサの3国に分裂する。後のことだが、上座派仏教の雰囲気を艶やかに伝えるルアン・プラバンの町は、1995年に世界遺産に指定された。
 話を戻して、3国に分かれてからは、タイ、フランスのなどの支配を受ける。1945年3月9日、日本軍がインドシナ駐留仏軍を武装解除(仏印処理)し、この地域での支配権を確立する。ラオスの国土も1899年に仏領インドシナ連邦(1887年に成立し、ハノイに総督府)に編入されてしまう。また、1930年には、この植民政策に反対するインドシナ共産党が組織されていた。日本は同年4月8日、ルアンパバーン王国の王シーサワンウォンをラオスの王として独立させる。
 1946年、日本の敗戦により、フランスによるラオス再植民地化が始まる。1949年1月、フランスによる再植民地化に抗してカイソーン・ポムウィハーン、スパーヌウォンらが後の「パテト・ラオ」となる軍事勢力を結成する。1949年7月19日、フランス・ラオス協定で戦闘が停止し、ラオス王国として独立の気運が高まる。独立後もフランス連合にとどまることで妥協がなったのだ。そして迎えた1953年、完全独立を果たす。1954年7月、ジュネーブ協定でラオスからの外国軍隊の撤退が決まる、パテト・ラオ勢力のラオス北部2州への結集があり、また統一選挙を実施することが決まる。
 1955年3月22日、ラオス人民党が発足する。初代書記長にはカイソンが選ばれる。(同党は1972年にラオス人民革命党と改称)。1956年1月6日、今度はラオス愛国戦線(パテト・ラオ)が結成される。以後、「パテト・ラオ」と「ラオス王国」右派との内戦続いていく。同年11月になりラオス内戦停止協定が結ばれ、12月にはラオス王国政府とパテト・ラオとの間で協議が成り、統一政権が発足する。

(続く)

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