♦️547『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(カンボジア)

2017-11-22 09:45:22 | Weblog

547『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(カンボジア)

 9~15世紀にかけて、現在のカンボジアの地は、アンコール朝の統治下にあった。26代にわたって王に統治される。12世紀初めには、全盛期を迎える。この間にアンコール・ワットやアンコール・トムといった宗教建築が建てられる。この二つは、1992年、「アンコール」として世界遺産に指定された。前者は、クメール語で「寺院のある町」という意味で、12世紀の前半のスーリャヴァルマン2世(太陽王)の治世に、およそ30年をかけて増築を重ねていく。ヒンドゥー教のヴィシュヌ神を祀(まつ)るとともに、王の墓とする。後者は、クメール語で「大きな町」の意味で、ジャヤヴァルマン7世により12世紀の末に建造された。アンコール王朝最初の都城にして、アンコール朝の最盛期を飾る。こちらは仏教建築を兼ねており、都城の中心には、仏陀を祀るバイヨンが立つ。
 1887年、現在のカンボジアの地は、フランス領インドシナに編入される。1940年、フランス軍がドイツ軍に敗北を喫す。翌年、日本軍がカンボジアに進駐してくる。植民地支配がその目的であった。1945年3月9日、日本軍がインドシナ駐留仏軍を武装解除(仏印処理)し、この地域での支配権を確立する。1945年3月12日 シアヌーク国王がカンボジアの独立を宣言する。
 1945年8月15日の日本の戦争敗北を経て、フランスがまた野心をあらわにしていく。そして、1945年10月にはフランス軍がプノンペンを制圧し、カンボジアを再び植民地化するのだが。1953年11月9日、シアヌーク国王がカンボジアが再度の独立を宣言する。カンボジア王国を称す。1955年になると彼は王位を父に譲って退位し、サンクム(社会主義人民共同体)を組織し、自身は総裁に就任する。1955年、総選挙を実施し、サンクムが全部の議席を獲得する。選挙はその後4年ごとに行われ、1970年3月の親米派ロンノルによるクーデターで実権を奪われるまで続く。

(続く)

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♦️545『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(マレーシア)

2017-11-22 09:43:50 | Weblog

545『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(マレーシア)

 マレー半島が伸びるこのあたりは、温暖の地である。1396年、マラッカ王国が成立する。これを打ち建てたのは、スマトラ島(現在のインドネシア)にいたパレンバンの王族「パラメスワラ王子」であった。
 地図を開くと、マラッカ海峡は交易で要衝の場所である。16世紀、これに目を付けたポルトガルが、この地の一部を支配下におく。マラッカ国王はこの難を逃れて南下遷都し、国名を「ジョホール王国」とする。次いで17世紀、オランダ東インド会社がマラッカを支配するにいたる。1824年の英蘭協約により、マレー半島及びボルネオ島西北部がイギリスの勢力下に入る。イギリスによる植民地支配は、やがて第二次世界大戦の時期に入っていく。
 1942年から1945年の日本の敗戦・連合国への無条件降伏まで、マラヤ、シンガポールは一時的にイギリスの支配を離れ、日本軍による占領下におかれる。1945年8月に日本が連合国に無条件降伏すると、9月にはイギリス軍政が復活する。しかし、戦後のイギリス軍政にマレー人の反発が高まり、1946年1月にはダト・オンを初代総裁としたマレー人国民組織(UMNO、マラヤ連合)が発足する。同年、イギリスはマレーシアからシンガポールから切り離し、マレー半島部とペナン・マラッカとを合体させ「マラヤ連合」とするかたわら、シンガポールを自らの単独植民地とする。
 1948年には、それまでの「マラヤ連合」から転じて、イギリスがマレー人の地位を認めた英国領土としての「マラヤ連邦」が発足する。1951年、ラーマンは郡長時代の功績が認められ、UMNOの第二代総裁選挙に当選し、連邦立法評議会のメンバーにも選ばれる。1952年、マラヤ連邦下で初のクアラルンプール市議会議員選挙が行われる。この選挙では、タン・チェンロック率いる中国人擁護のための馬華公会(MCA)とUMNOが連合したことで勝利を収める。選挙後、マラヤ・インド人会議(MIC)を加えてマラヤ連合党を結成する。
 1956年には彼はマラヤ連合党(正式には「連合マラヤ人国民組織(UMNO)」)代表とイスラムのスルタン代表の10人の「独立交渉団」を結成する。彼らは、ロンドンで約3週間のイギリス政府と独立をかけて交渉する。
 このマラヤ連合党の中心となったのは次の三つの政治勢力であった。一つはマラヤの支配層で、経済基盤はその封建的生活基盤のゆえに経済力は強くなかった。二つ目は華人で、こちらは小資本家や商人などを中心に「マラヤ中華協会(MCA)」に結集しており、三派の中では一番大きな経済力を持っていた。そして三つ目の勢力はインド系の人々であり、少数の資本家と中間層が主体をなしており、「マラヤ=インド人会議(MIC)」を結成していた。
 翌1957年8月31日、かれらはイギリスから政治的譲歩を引き出し、イギリスからのマラヤ連邦の独立が決定する。初代首相にはラーマンが選出される。この新しい政権の基本性格としては、マラヤ連合党が相異なる政治勢力の選挙目当による緩やかな連合であった。これを反映して、「権力中枢の実体はきわめて弱体な寄せ集め」(鶴見良行「アジアはなぜ貧しいのか」朝日新聞社、1982)でしかなく、そのためマレーシアは、「統一国民不在のまま独立することになった」(同)のだ。
 1963年、マレーシアが成立する。シンガポール、サバ、サラワクを加える。1965年、シンガポールが分離、独立をはたす。

(続く)

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