540『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の中南米の出発(ホンジュラス)
1502年、コロンブスが、第四回の航海で現在のホンジュラスの地を発見する。この地の西部に住んでいたマヤ系原住民と接触したとされる。1539年、スペインのグアテマラ総督領に編入される。1821年、独立する。1823年、中米諸州連合(中央アメリカ連邦)を結成する。1838年、中米諸州連合より分離独立を果たす。1859年には、イギリスが占領地を返還することで、この地に権益を持つイギリスとアメリカアメリカとが和解にいたる。アメリカは、この地のバナナ栽培と、その輸送手段とての道路や鉄道を支配するにいたる。1902年にはユナイテッド・フルーツ社が、1905年にはスタンダード・フルーツ社がバナナ栽培に加わる。
1933年、T・カーリアスが大統領となり、アメリカの庇護の下で独裁政治を敷く。
この独裁は、1949年まで続く。カーリアスが失脚した後、ガルベスが大統領職を継ぐが、1954年の大統領選挙では過半数を得た者がなく、ロサノが臨時の大統領となる。1956年、軍事クーデターがあリ、ロサノ政権が崩壊する。これが二度目のもので、彼ら軍部は過去の失敗から学んだ結果といえる。この暫定政権は選挙を実施し、ラモン・ビィエダ・モラレスが大統領に当選する。この政権の時、ホンジュラスの鉄道の部分的国有化や労働法の制定、さらに土地改革の準備に取りかかる。また、外交では、キューバと断交するのであった。
1963年、ラモン・ビィエダ・モラレス大統領の再選が確実視される状況の下で、再び軍が政治に介入して大統領を追い込む。このため、ラモン・ビィエダ・モラレス大統領は亡命を余儀なくされる。1965年には、米国と米国資本の息のかかったオズワルド・ロペス・アレヤーノ大佐が政権を力づくで継承していく。今にして思えば、この政変劇の仕掛け人の直接の動機として、グアテマラに比べてより緩慢かつ穏健ながらも、「農地改革」というものへの恐怖心があったことは確かなこととされて然るべきだ。
(続く)
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539『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の中南米の出発(パラグアイ)
現在のパラグアイ共和国は、南アメリカ大陸の中央南部に位置する。南はアルゼンチン、北東はブラジル、北西はボリビアとそれぞれ国境を接する、内陸国である。パラグアイというのは、原住民グアラニーの言葉で「大河のある土地」のことだという。現在も、スペイン語のみならず、グアラニー語も継承しているとのこと。
1537年、現地に進出したスペインが、首都のアスンシオンを建設する。1811年、スペインから独立する。1864年~1870年には、ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ連合軍に対する戦争があった。これに敗れて、領土の半分と人口の約6分の5を失う。1864年~1872年には、パラグアイ戦争があった。1872年ブラジルは、パラグアイと講和条約を結ぶ。1880年代に入り、国民共和協会(コロラド党)と自由党が結成される。
1932年~1935年、 チャコ戦争(対ボリビア)に勝利する。1954年の軍事クーデターにより、アルフレド・ストロエスネル将軍が率いる軍部が政権を掌握する。そして1958年には彼は大統領となり、これが以後35年間にわたる独裁政権の始まりとなる。
(続く)
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538『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の中南米の出発(ボリビア)
現在のボリビア共和国は、、南アメリカ大陸のほぼ中央に位置する。ブラジル、ペルー、チリ、アルゼンチン、そしてパラグアイの5つの国に囲まれる。人種的には混血国家であるものの、原住民インディオの要素が強い。
1533年にインカ帝国がスペインにより征服されたことで、今日のボリビアにあたる地域は「ペルー副王領」の管轄下に組み入れられる。この地域は、「アルト・ペルー」という呼称で呼ばれる。1776年、このアルト・ペルーは「ラ・プラタ副王領」に転入される。1809年頃からスペインからの独立の戦いが起こるが、鎮圧がくりかえされる。
そして迎えた1824年、ペルーとともに、S・ポリーバルによってアルト・ペルーを含近隣地域のほとんどが解放される。その一つの戦いとしての1825年、スクレ将軍の率いるポリーバル軍によってスペインより解放される。同年8月に独占宣言を発し、国名をボリビア共和国とする。そして翌年には、ポリーバルが起草した憲法草案が採択される。
1879年~1935年においては、チリ、ブラジル、パラグアイと相次いで交戦することで、約60%もの国土を失う。1951年、MNR(民族革命運動)の推すビクトル・パス・エステンソロが選挙に勝利し大統領に就任すると、軍部がクーデターを起こして実権を掌握する。これに対し、1952年4月8日から11日の間民衆が武装蜂起し、15日には亡命していた大統領が復帰を果たす。これが「ボリビア革命」と呼ばれるもので、政府は一連の改革をと進めていく。
1964年にパスが大統領3選をねらった憲法改正を企て、これに失敗すると、MNRは弱体化していく。その間隙を縫っての1964年に、軍部がクーデターで政権を掌握し、バリエントス政権が発足する。1967年にアメリカの軍事援助を受けて反政府ゲリラの鎮圧に乗り出す。そして同年10月には、キューバから反政府運動へ加勢に参じていたエルネスト・チェ・ゲバラが政府軍に捕縛され、銃殺される。その後の政権だが、1969年に同大統領が死亡すると、1969~70年の左派軍事政権を経て、1971年8月今度は右派の軍事政権に替わって、引き続いて軍部(~1982)が国政を牛耳っていく。
(続く)
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