♦️781『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1970~1988)

2017-11-25 21:28:03 | Weblog

781『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1970~1988)

 ポーランド経済の1970年~1980年は、対外開放期といわれる。1970年には粗放な投資等で経済は厳しい状況となっていた。なお、当時の生産体制は、つぎのような構成となっていた。
 「まず、ポーランドの工場数と所有形態別動向(1970年)は、工場総数:167,500、社会化数:51,300、社会化数のうち国有:20,100、社会化数のうち協同組合有:30,900、非社会化数:116,200。
 また、ポーランドの工場労働者数と所有形態別動向(1970年)は、工場労働者:4,464.000、社会化工場:4,274,700、社会化工場のうち国有:3,724,700、社会化工場のうち協同組合有:530,100、非社会化工場:189,300
。」(出所)Rocznik Statystyczny1976,1980,1983.、(引用)左治木吾郎「ソ連の体制転換と経済発展」文眞堂、1992)
 経済の低迷は、政治に跳ね返っていく。国民にとって、一番我慢がならなかったのは、国民の最も基本的な物資である、食料品の大幅値上げであった。これに端を発する形で、労働者によるグダンスク抗議行動が起こる。そうして世情が不安となる中でギエレク政権に交代する。ギエレク新政権は、経済改革により国民の不満を解消しようと試み、積極的な外資導入を行い、一時期は国民所得の増加も見られものの、抜本的な改革は実現できなかった。そして迎えた1970年12月、ポーランドのゴムルカ政権が退陣する。これは、グダニスクの労働者の抗議の渦の中での出来事であった。
 1980年の夏の7月、政府は財政逼迫から食料品の値上げに踏み切る。これに怒った労働者のストライキが、全国規模で起こる。このため、政府は「グダニスク合意」(8月31日に調印)によりなんとか収拾に漕ぎ着ける。この合意では、スト権や自由労組の結成の自由などが盛り込まれる。グダニスク造船所を拠点とした全国規模の自由労働組合「連帯」(議長はレフ・ワレサ(レフ・ワレサ(ポーランド語ではレフ・ヴァウェンサ)、組合員は約950万人)が9月に結成される。これに促される形で、全国規模で自主管理労働組合「連帯」が生まれていくきっかけになっていく。しかし、こうした市民、労働者の意識の変化は、政治の季節の到来となって、社会主義の基盤を堀崩す役割を担っていく。
 その後1980年から1983年7月の間は、体制内改革期と言われる。この時、「連帯」運動の高まる。1980年7月には食肉値上げに反対する大規模ストが起こる。この年の8月、政府はスト労働者との間でいわゆる「グダンスク合意」を結び、これにより、ソ連圏では初めての自主管理労働組合(「連帯」)が誕生する。1980年9月、ギエレクの後をついだカーニャ第一書記は「グダンスク合意」を尊重し、「連帯」との対話路線をとる。しかし、経済の不信継続があり、政局も混迷を深めたことで、1981年10月、軍人出身のヤルゼルスキ首相が党第一書記を兼任するに至り、彼は同年12月、戒厳令を導入する。
 1981年6~7月、統一労働者党の第9回、次いで第10回の党大会で、社会主義を再生させようとする方針を打ち出す。指導部選出にあっては、初めて秘密投票、複数候補の直接民主制が採用される。1981年12月13日、統一労働者等の第一書記、首相を兼ねるボイチェフ・ヤルゼルスキ将軍が秩序回復を名分にポーランド全土に戒厳令を発する。この中で、自主管理労働組合「連帯」も1982年10月に非合法化される。この戒厳令が解除されたのは1983年7月のことであった。
 1983年7月に戒厳令が解除されてからは、ヤルゼルスキ政権はしばらく社会主義の枠内での経済改革を試みる。しかし、みるべき効果は上がらない。1988年春から夏には再び労働者の抗議運動が高まりを見せる。1988年8月、ポーランドで困難化する経済状況などの打開を目指して、政府が教会、反体制グループも含むすべての社会勢力を一堂に会しての円卓会議を提案する。この円卓会議は、1989年2月から4月にかけておこなわれる。「連帯」等の在野勢力の協力なしには改革が行き詰まると考えたヤルゼルスキ政権は、1989年1月のポーランド統一労働者党中央委員会総会において「政治的多元主義、労組多元主義」を認める。これにより反体制側との対話の道を拓くという政治的転換に踏み切る。1988年8月、政府批判のストライキが全国に広がったのをみて、政権は従来の態度である弾圧路線をついに改める。

(続く)

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♦️730『自然と人間の歴史・世界篇』ベラルーシ

2017-11-25 21:07:41 | Weblog

730『自然と人間の歴史・世界篇』ベラルーシ

 ベラルーシ共和国(通称ベラルーシ)は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する、世界最北の内陸国である。
 9~10世紀、この地にはポロツク公国が栄える。10~12、キエフ・ルーシ時代。13~14世紀、リトアニア大公国の構成地域となる。1569年、ポーランドとリトアニア大公国の連合国家が成立する。1772~1795年、3度にわたるポーランド分割により,現在ベラルーシのほぼ全域、白ロシア東部がロシア領となる。1914年8月に第一次世界大戦勃発。現在のベラルーシ西部がドイツの占領下に置かれる。1918年3月、ドイツの占領下で、ベラルーシ人民共和国が成立。ドイツ軍撤退に伴い,当地の実権がボリシェヴィキに移行。1919年1月、白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国の成立。1921年3月、ポーランド・ソヴィエト戦争の結果成立したリガ条約により、白ロシアの東半分がソ連領,西半分がポーランド領となる。1922年12月、ソ連邦の結成に参加。1939年9月には、第二次世界大戦勃発。ソ連軍がポーランドに侵攻する。独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ポーランド西半分を白ロシアに編入。
 1986年4月、隣国ウクライナでのチェルノブイリ原発事故により、この地にも放射能が降り注ぐ。土地は汚染され、多大な被害を受ける。1991年9月、「白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国」より「ベラルーシ共和国」へ国名を変更する。おりしも、ソ連邦は、保守派によるクーデターが失敗し、彼らによって南京状態に陥っていたゴルバチョフ大統領の権威は大いに弱まっていく。
 そして迎えた1991年12月7、8日、ロシア、ウクライナとともに独立国家共同体創設協定を締結する。この日、ベラルーシにある原生林、そこに所在のヴィスクリの政府別荘にて、この3国が秘密裏に会合する。集まったのは、ロシア共和国大統領のエリツィン、ウクライナ大統領クラフチューク、ベラルーシ共和国最高会議議長シュンシュケヴィチの3首脳とその側近であった。彼らは、ロシアによるウクライナとベラルーシへの石油・天然ガスの供給について話合うのを持て向きに、実は主題はそれではなくて、ソ連邦を解体に追い込む相談なのであった。
 会議では、エリツィンによる筋書きどおりでということか、8日には歴史的な文書に調印がなされる。俗に「ベロヴェージ協定」と呼ばれるこの協定は、二つのことをいう。第一に国際法と地政学的現実としてのソ連邦の存在は消滅した、第二にCIS(独立国家共同体)を構成すると。それまで12の共和国がソ連邦に残っていたのだが、この3か国を除く残りの9か国とソ連邦大統領のゴルバチョアはかやの外に置かれる。ソ連邦の憲法では、違法であっても、もはやどおってことはないと見くびられたのであろうか。ゴルバチョフにとっては、自分のあづかり知らないところでソ連邦の解体が決まってしまう。唖然としたのではないか。ソ連政府の存在基盤そのものが、これより崩壊へと向かう。
 1994年3月、ベラルーシ共和国憲法が制定となる。1994年、第1回大統領選挙。アレクサンドル・ルカシェンコが当選。1996年11月、憲法改正の国民投票で大統領権限の大幅強化が承認される。1999年12月、ベラルーシ・ロシア連合国家創設条約が成る。2001年、ルカシェンコ大統領二選となる。2004年10月、またもや憲法改正の国民投票で大統領の三選禁止規定削除へと繋がっていく。

(続く)

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♦️722『自然と人間の歴史・世界篇』カザフスタン

2017-11-25 21:06:34 | Weblog

722『自然と人間の歴史・世界篇』カザフスタン

 現在のカザフスタン共和国の地は、カザフステップもしくはキルギスステップという。カザフスタン北部よりロシア南部までの広い草原地帯で、ユーラシア大陸の平原の広大な一つ。紀元前の3~1世紀頃、この地には部族共同体があった。6~8世紀には、テュルク系(トルコ系)民族のハン国が、この地を支配する。11世紀後半には、セルジューク・トルコ朝と戦いを交える。セルジューク・トルコ朝というのは、イスラム化したトルコ人が打ち立てた王朝である。12世紀前半、この地に遊牧民族の契丹(キッタン)が侵入する。13世紀初め、チンギスハーンのモンゴル帝国に征服される。これにいたるきっかけは、劇的であった。というのも、チンギス・ハーンが、この土地のトルコ系のホラズム王国に使節団を送る。ところが、王はなぜか使節団を皆殺しにする。翌年の1219年、チンギス・ハーンは報復のためオトラルの町を攻撃する。町は、徹底的に破壊される。この「オトラル事件」を機に、チンギス・ハーンの西方への遠征が始まる。
 14世紀頃までに、この地にカザフ語とよく似た言語が定着する。15世紀後半、遊牧ウズベク国家から分離し,キプチャク草原に勢力を拡大。カザフ・ハン国の成立。18世紀初、ジュンガルとの戦いがある。18世紀初、大ジュズ、中ジュズ、小ジュズの三つの部族連合体に分裂する。1730年代、カザフの支配層の一部がロシア皇帝に臣従する。18世紀中頃、清朝にも朝貢する。
 15世紀中頃になり、カザフ民族の名が史上初めて登場する。カザフ民族は、ウズベク族と別れ、キプチャク草原に勢力を拡大する。15世紀末には、カザフ・ハン国を建国する。16世紀、東はバルハシ湖、西はウラル山脈、カスピ海西岸までの、広大な領土を支配下におく。
 17世紀頃から、カザフ民族は、大ジュズ(東部)中ジュズ(中部)、小ジュズ(西部)の3部族に分かれる。18世紀、ジュンガル人の襲来を受ける。1735年、ロシアがウラル山脈の南端に、オレンブルグ要塞を建設する。小ジュズと中ジュズは、ロシア国籍を自発的に受け入れ、ロシア人による入植が始まる。1783~1797年、カザフ人の反ロシア暴動が起きる。18世紀中頃には、清朝の藩族国となって、勢力下に入る。
 1820年代まで、ロシア帝国が南部を除くカザフスタンを直接支配下に収める。1837~1847年、カザフ人による対ロシア反乱が起こる。これを「ケネサルの反乱」という。1850年代、カザフスタン南部がロシア帝国に併合される。1860年代、カザフスタン全域がロシアの支配下に入る。ロシア人農民が大量に、カザフスタンに移住し、カザフスタン領域はロシアに併合される。
 1917年のロシア革命後は、カザフ・ソビエト社会主義共和国を樹立し、ソビエト連邦に加わる。1920年、ロシア連邦共和国の一部として「カザフ(キルギス)自治ソビエト社会主義共和国」が成立する。首都はオレンブルグ。1924年、中央アジアの民族・共和国境界画定により国境線が変更となる。1925年、首都をオレンブルグからクズィルオルダに移し、国名を「カザフ(カザク)自治ソビエト社会主義共和国」に変更する。1929年、ロシア共和国から切り離され、「カザフ・ソヴィエト社会主義共和国」となる。1936年、ソ連邦を構成するカザフ・ソビエト社会主義共和国に昇格する。

(続く)

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