568『自然と人間の歴史・世界篇』ヨルダン(~1960年代)
ヨルダン・ハシミテ王国は、中東・西アジアに位置する。共和制ではなく、立憲君主制をとっている。首都はアンマン。イスラエル、パレスチナ暫定自治区、サウジアラビア、イラク、シリアと隣接する。
このヨルダンの地に人が住み着いたのは、いつの事であったのだろうか。この周辺の地には、旧石器時代から、人類が住み着いていた。紀元前8000年頃には、既に農業が営まれていた。アラブ、そして西アジアと、ヨーロッパとをつなぐ交通の要衝にあることから、古くから交易の中心地として栄える。この地域には、古くから王朝が建てられていく。紀元前13世紀頃、ヨルダン川の東にエドム王国があった。そればかりではなく、現在のアンマン周辺にはアンモン人によるアンモン王国、その他にもギレアド、モアブなどの王国があったと、旧約聖書にある。これらの国は、エジプト、アッシリア、バビロニアそれからペルシアによって絶え間なく征服されたり、支配下におかれていく。
紀元前1世紀頃には、ヨルダンの南部にナバテア王国があった。世界遺産に指定されているペトラ遺跡が当時の繁栄を偲ばせるのだが。1世紀~2世紀には、この地はローマ帝国に併合され、その支配下にあった。その後、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の領土に組み入れられる。633~636年にかけては、アラブ人のイスラム帝国によって征服され、イスラム化が進んでいく。その後、現在のシリアの首都、ダマスカスを都としたイスラム帝国のウマイヤ朝が滅びると、その辺境にあったヨルダンの都市文明の繁栄にも陰りが次出ていく。1099年に十字軍がこの地に進出し、エルサレム王国が建設されると、この周辺の地は一時期、キリスト教色が強められる。その後は、エジプトのマムルーク朝の支配に組み入れられる。1517年からは、シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ
を含めアラビア半島の一帯は、強力な軍事力をもつオスマン帝国に支配される。
そんな封建制の支配下にあったこの地にも、20世紀に入って新しい時代の波が及んでくる。ヨルダンは、1919年、英の委任統治領となる。1923年、トランスヨルダン首長国として建国の時を迎える。第一次世界大戦においては、オスマン帝国は、ドイツと同盟を組み、イギリス、フランスと交戦する。1926年には、イギリスとフランスはオスマン帝国に対抗するため、アラブ人に独立を呼びかける。オスマン帝国との戦いに協力すれば、アラブの独立に協力をするとほのめかしたのだ。アラブの部族イブン・アリーが、映画で有名な、イギリスのトーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)と協力し反乱軍を組織して、オスマン帝国と戦うのも、この理由からであったろう。1918年、ロレンスとフサインの息子ファイサルに率いられたアラブ反乱軍は、オスマン帝国や、駐留ドイツ軍を破り、ダマスカスを占領し、アラブ臨時政府を樹立するのに成功する。
そして迎えた第一次世界大戦後、大戦中のイギリスとフランスとの間でかわされていた密約「サイクス・ピコ協定」によれば、現在のシリア、レバノンをフランス領に、ヨルダン、パレスチナ、イスラエル周辺をイギリス領にする、というのであった。大戦が終わると、フランス軍はダマスカスを攻撃し、できたばかりのアラブ臨時政府を崩壊に導く。してやったりのフランスは、現在のシリアとレバノンを委任統治領として、事実上の植民地支配を開始するのであった。イギリスも負けじと、1919年に、現在のヨルダン、イスラエル、パレスチナ周辺を、委任統治領として支配下におく。さらに1922年、イギリスは、委任統治領を2つの地域にわけ、ヨルダン川の西岸全体をパレスチナ、東側をトランス・ヨルダンとして、分割統治するのであった。
そして迎えた1923年には、イギリスの支援の下、フセインの長子、アブドゥッラー・ビン・フサインが迎え入れられ、トランス・ヨルダン首長国が成立する。一方、イラクには、イギリスの後押しにより、フサインの兄のファイサルを国王としてイラク王国がつくられる。第二次世界大戦中のトランス・ヨルダン王国政府だが、イギリスに領内の駐留権を認め、枢軸国側のイラクに対するイギリスの軍事基地として用いる。1945年、トランス・ヨルダンは、アラブ連盟の一員となる。1946年には、イギリス政府は、トランス・ヨルダンの委任統治をやめ、イギリスから独立する。同年、トランスヨルダン王国として独立をはたす。
1948年にイスラエルが建国されたのがきっかけで第一次中東戦争が勃発すると、ヨルダンは、エジプトなどのアラブ連盟諸国軍とともに、イスラエルに進攻したものの、敗北してしまう。その結果、エルサレムの旧市街を含む、パレスチナ全土の8割がイスラエルに占領されてしまう。イスラエルにより、一説には、約160万人ものアラブ人がパレスチナを追われ難民となり、ヨルダン国内へ逃げ込んだ。1949年、ヨルダンは、ヨルダン川西岸地区(東エルサレム)を併合し、地区居住者に市民権を認めるとの条件でイスラエルと休戦する。それまでの国名についていた、川を「横切った」「向こうの」という接頭辞の「トランス」は不要となり、国名をヨルダン・ハシミテ(ハシェミット)王国に変更する。その後、イスラエルの国土拡張策により、ヨルダン軍との小衝突が繰り返される。
1955年にヨルダンが国際連合に加盟すると、国境問題は国連に持ち込まれる。1958年、エジプトとシリアが合併してアラブ連合共和国となる。その直後、ヨルダンはイラク(ヨルダンと同じハーシム家の王国だった)と、アラブ連邦を構成する。その後、イラクに共和制革命がおこり、その王家が消滅すると、ヨルダンは今度はイラクとシリアの接近を懸念するようになっていく。1960年には、ヨルダンの首相ハッザ・マジュリーが暗殺される。1961年、ヨルダンは、エジプトから分かれたシリアの新政権を承認する。1960年代の半ばには、アラブ諸国はシリア、エジプト、イラクなどの過激派と、ヨルダン、サウジアラビア、などの穏健派に分裂しつつあった。また、シリアからヨルダンへ拠点をうつしたPLO(パレスチナ解放機構)などのアラブ・ゲリラ各派は、ヨルダンを基地としてイスラエルに対する攻撃をおこなう。イスラエルはヨルダンに報復する。
196、ヨルダンは、エジプトのナーセルと軍事協力条約に署名しました。同年、第三次中東戦争が勃発すると、ヨルダンは「アラブの大義」に従いイスラエルと戦うが、イスラエル軍によって空軍が破壊され、ヨルダン川西岸地区(東エルサレム)をイスラエルに占領されてしまう。この時にも、ヨルダンにはヨルダン川西岸地区(東エルサレム)から、多数のパレスチナ難民が流入してくる。ヨルダンは、これを受け入れる。パレスチナ・ゲリラの拠点の一つとなっていくことで、PLOはヨルダン国内で、大きな力を獲得していく。
(続く)
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556『自然と人間の歴史・世界篇』レバノン(~1960年代)
現在のレバノン共和国は、西アジア・中東に位置する。北から東にかけてはシリアと、南にはイスラエルが隣接し、西は地中海に面している。その昔、この地中海東岸に位置する地は「カナン」と呼ばれていた。紀元前2500年頃には、既に海岸沿いにフェニキア人の都市国家がいくつかあった。彼らは交易に携わることで、生計を立てていた。優れた航海術で地中海東岸の交易を支配していたようである。この頃レバノンからエジプトへ多く輸出されたレバノン杉は、エジプトに運ばれ、「聖なる木材」として宮殿建設や何かに使われたという。
紀元前14~11世紀の頃のフェニキア人の根拠地に、シドンとティルスとがあった。両者はそれぞれ海岸地帯の北と南を支配していた。旧約聖書しばしば出てくる「カナン」の地で知られる、このあたりは、旧約聖書(士師記)では、神がアブラハムの子孫(イスラエルの民)に与えるとの「約束の地」とされ、また「乳と蜜の流れる場所」とも記される。そして迎えた紀元前10世紀も押し詰まった頃、唯一神ヤハウェの命令を受けたというのを大義名分に、イスラエルの民・ヘブライ人たちは、「士師」(しし)と呼ばれるたちの指導下に、フェニキア人の流れを汲むカナン人(原住民)や、この地に進出してきていたペリシテ人らと戦うにいたる。
やがてヘブライ人社会に統一の気運が生まれると、サウルなる人物が出て、士師らを抑えつけて全権を握り、王となる。しかし、紀元前1000年頃、ギルポア山の戦いで、王はペリシテ人に敗れる。彼の後を継いで王となったのが、ダヴィデ(紀元前1000~961)であった。これでヘブライ人たちは勢いを増す。ペリシテ人をパレスチナ南西部に封じ込めるとともに、このカナンの地を占領し、他の都市の独立を認めず、エルサレム(イェルサレム)を都に定め、中央集権的領土国家を築く。ヘブライ人たちは、ここに定住するようになる。征服され、従属する立場となったカナン人らは、その後もこの地に住み続ける。顧みれば、この時代は、「ヨシュアのカナン占領につづく初期の定住農耕時代から、イスラエル王国の建設にむかう200年。紀元前1200年から1000年にあたる」(山形孝夫著・山形美加図版解説「聖書物語・旧約篇」河出書房新社、2001)、激動の時代なのであった。なお、このあたりの詳しい経緯については、例えば、小川英雄「西洋史特殊Ⅰ、古代オリエント史」慶應義塾大学通信教育教材、1972。
ちなみに、21世紀の現代になってからの2017年7月に米科学誌『アメリカン・ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクス』(電子版、英語)で発表された論文によると、英サンガー研究所の遺伝子学者らが、カナン人(カナンとはパレスチナ地方の古称、フェニキア人の末裔ながら、この地に住み続けて来た人びとの血脈を指す言葉ではないか)の主要な古代都市国家であったシドン(現在のレバノン第3の都市サイダ)出土の約3700年前の5人の遺体のヒトゲノム解読に取組み、この解析結果を現代のレバノン人99人と比較したところ、カナン人の遺伝子組成の約90パーセントを受け継いでいることが分かったという。この通りなら、少なくとも青銅器時代(紀元前19~同13世紀あたりか)以来、中東のこの地に住んできたレバノン人には(カナン人との)実質的な遺伝的連続性があることになると。
さらに大きく時代が下っての7世紀になると、レバノンの地域は、イスラム教徒の支配下に入る。さらに時代が下っての16世紀、このレバノンの地はオスマン・トルコの支配下に入る。1920年には、仏の委託統治領となる。1922年、レバノン全土で代表議会選挙が実施されるる。1926年、フランスの制定する憲法がこの議会で承認され、公布される。1941年7~9月、シリアとレバノンに関するイギリスと自由フランスの間で協定が成立する。
そして迎えた1941年9~11月、自由フランスのシリアとレバノンが独立宣言(カトルー宣言)を発す。1942年10月、アメリカによるシリアとレバノンの独立の承認がある。1943年には、選挙が実施され、「国民協約」が成るのであった。この協約の意味するものについて、中岡三益氏はこう言われる。
「しかし、アメリカの圧力、イギリス、そしてシリア、エジプトの支援が「国民協約」という形で諸宗派・諸党派の妥協・連合を実現したのである。それは宗派にもとづく不公平な比例代表制の政治体制であり、フランスからの独立のための一時的妥協の産物でしかなかった。むしろマーローン派キリスト教徒のなかから「キリスト教徒の国レバノン」をめざすカターイブ(ファランジェ)派の運動があらわれ、次第に影響力を強めてきた。」(中岡三益「アラブ近現代史」岩波書店、1991)」
1946年12月31日、フランスの委任統治軍が完全にレバノンから引き揚げたことで、レバノンはようやく独立国家として認められるにいたる。
(続く)
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