220の2『岡山の今昔』岡山人(20世紀、三木行治)
三木行治(みきゆきはる、1903~1964)とは、なかなかにスケールの大きな人であった。関連して、岡山県が水島臨海工業地帯に企業を誘致し、工業立県化を推進したのには、この間知事をつとめたことでの積極姿勢があったことは、特記されてよい。
三木は、1903年(明治36年)に岡山市畑鮎に生まれた。岡山市立内山下高等小学校から岡山中学校、第六高等学校へとすすむ。1925年(大正14)には、岡山医科大学に入学する。4年後に卒業して同学の副手となる。内科医として勤める。
その後は、九州帝国大学法文学部に入り、政治学を学ぶ。1937年(昭和12年)には、医学博士となる。その2年後には、厚生省にはいる。 法学士と医学博士の経歴の上、官僚にもなって最後のポストは厚生省公衆衛生局長であった。
1951年(昭和26年)に48歳で岡山県知事に初当選する。革新系ということになっていた。それから、連続当選4期で、1964年に急逝するまで三木は知事であり続けた。
彼が推進した時代の工業化には後々の課題を残したものも多かったものの、彼の非凡なところは、いわゆるブルトーザー的な開発志向ではなくて、多方面に活動の領域を設けていたところにあった。
ちなみに、三木は、「岡山県農業は一戸当たり七反弱という耕地面積で、全国平均所得の八割、農家が51%を占めていたので、農業振興に努力したが、所得を増加するためには過剰人口問題が生じた」(1953年岡山県議会)とし、「そこで工業と商業の反映、いわゆる経済基盤の強化をやることになり、水島開発を決意」したと述べている。
これの「農業振興に努力したが、所得を増加するためには過剰人口問題が生じた」との下りにはどれ程の意味が込められているのか不明ながら、三木なりに切羽詰まった気持ちでいたのだろう。
写真で三木の顔を見ると、ごつい感じなのだが、そればかりではない。豪放なところと繊細さをあわせ滲ませる。古代で言うと、英雄の相といったところか。つまり、なんだか人なつっこい風貌なのである。
その柔らかな表情さながらに、「岡山県福祉計画」を樹立することで、子どもや老人、社会的弱者の福祉に積極的に取り組んだ。
かの孔子に「剛毅木訥仁に近し」という、戦後先駆けの政治家だといえる。また開眼運動を提唱し、アイバンクを設置した。東洋のノーベル賞といわれるマグサイ賞を受賞したことでも知られる、日本レベルで見ても類の少ない、爽やかな政治家であったのではないか。
ところで、かの孔子の言に、次のようにあるのをご存じであろうか。すなわち、「子曰く、利に放(よ)りて行えば、怨(うら)み多し」(『論語』巻二第四里仁篇12)。
これらを踏まえつつも、三木の後からの県政については、かなりの程度、大方住民不在でしゃにむな工業化が推進されたことで、岡山、倉敷といえば、公害を連想させるような時期が続いていく、そして、ひょっとしたら、それらの大元には三木の時代からの「ボタン」の掛け違いも多数あったのではないかと、推察されるのである。
(続く)
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三木行治(みきゆきはる、1903~1964)とは、なかなかにスケールの大きな人であった。関連して、岡山県が水島臨海工業地帯に企業を誘致し、工業立県化を推進したのには、この間知事をつとめたことでの積極姿勢があったことは、特記されてよい。
三木は、1903年(明治36年)に岡山市畑鮎に生まれた。岡山市立内山下高等小学校から岡山中学校、第六高等学校へとすすむ。1925年(大正14)には、岡山医科大学に入学する。4年後に卒業して同学の副手となる。内科医として勤める。
その後は、九州帝国大学法文学部に入り、政治学を学ぶ。1937年(昭和12年)には、医学博士となる。その2年後には、厚生省にはいる。 法学士と医学博士の経歴の上、官僚にもなって最後のポストは厚生省公衆衛生局長であった。
1951年(昭和26年)に48歳で岡山県知事に初当選する。革新系ということになっていた。それから、連続当選4期で、1964年に急逝するまで三木は知事であり続けた。
彼が推進した時代の工業化には後々の課題を残したものも多かったものの、彼の非凡なところは、いわゆるブルトーザー的な開発志向ではなくて、多方面に活動の領域を設けていたところにあった。
ちなみに、三木は、「岡山県農業は一戸当たり七反弱という耕地面積で、全国平均所得の八割、農家が51%を占めていたので、農業振興に努力したが、所得を増加するためには過剰人口問題が生じた」(1953年岡山県議会)とし、「そこで工業と商業の反映、いわゆる経済基盤の強化をやることになり、水島開発を決意」したと述べている。
これの「農業振興に努力したが、所得を増加するためには過剰人口問題が生じた」との下りにはどれ程の意味が込められているのか不明ながら、三木なりに切羽詰まった気持ちでいたのだろう。
写真で三木の顔を見ると、ごつい感じなのだが、そればかりではない。豪放なところと繊細さをあわせ滲ませる。古代で言うと、英雄の相といったところか。つまり、なんだか人なつっこい風貌なのである。
その柔らかな表情さながらに、「岡山県福祉計画」を樹立することで、子どもや老人、社会的弱者の福祉に積極的に取り組んだ。
かの孔子に「剛毅木訥仁に近し」という、戦後先駆けの政治家だといえる。また開眼運動を提唱し、アイバンクを設置した。東洋のノーベル賞といわれるマグサイ賞を受賞したことでも知られる、日本レベルで見ても類の少ない、爽やかな政治家であったのではないか。
ところで、かの孔子の言に、次のようにあるのをご存じであろうか。すなわち、「子曰く、利に放(よ)りて行えば、怨(うら)み多し」(『論語』巻二第四里仁篇12)。
これらを踏まえつつも、三木の後からの県政については、かなりの程度、大方住民不在でしゃにむな工業化が推進されたことで、岡山、倉敷といえば、公害を連想させるような時期が続いていく、そして、ひょっとしたら、それらの大元には三木の時代からの「ボタン」の掛け違いも多数あったのではないかと、推察されるのである。
(続く)
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