54の2『岡山の今昔』草創期の岡山県政
1871年(明治4年)、政府は廃藩置県を行う。藩は県へと名前を変える。同年、岡山県・北条県・深津県(のち小田県)の3県が設置される。1875年(明治8年)には、岡山県・北条県の2県に、さらにその翌年には岡山県に集約される。
初代岡山県権令には、岡山の士族、新庄厚信が任命され、その後、元長州藩士の石部誠中が権令を務める。
しかし、石部は、政府による地租改正の強行と農民の反対闘争との板挟みとなってしまう。1875年(明治8年)、石部としては万策尽きてだろうか、内務卿の大久保利通に辞職願を提出して、その職を退く。
代わって送り込まれてきたのが、大久保の肝いりの薩摩出身の高崎五六である。高崎五六(たかさきごろく、1836~1896)は、1871年(明治4年)置賜県参事、1875~1884年まで岡山県令に抜擢される。
高崎は、元薩摩藩士で、幕末のさまざまな動乱にかかわって人物にして、豪放磊落(ごうほうらいらく)とでもいおうか、着任早々、辞令書き一人を残し、県庁官員百余名の首切りを行う。新たに東京から17名を着任させるという独断ぶりを地でいく。
その後も新しい官員を増やして県政をまるで「我が物」としていく。運営の体制を作り上げていく。中でも、事務処理の効率化を図り、県庁内に面会所(総合受付、相談所)を設けたのは、時流に乗ることも忘れなかったと見える。
1871年(明治4年)、政府は廃藩置県を行う。藩は県へと名前を変える。同年、岡山県・北条県・深津県(のち小田県)の3県が設置される。1875年(明治8年)には、岡山県・北条県の2県に、さらにその翌年には岡山県に集約される。
初代岡山県権令には、岡山の士族、新庄厚信が任命され、その後、元長州藩士の石部誠中が権令を務める。
しかし、石部は、政府による地租改正の強行と農民の反対闘争との板挟みとなってしまう。1875年(明治8年)、石部としては万策尽きてだろうか、内務卿の大久保利通に辞職願を提出して、その職を退く。
代わって送り込まれてきたのが、大久保の肝いりの薩摩出身の高崎五六である。高崎五六(たかさきごろく、1836~1896)は、1871年(明治4年)置賜県参事、1875~1884年まで岡山県令に抜擢される。
高崎は、元薩摩藩士で、幕末のさまざまな動乱にかかわって人物にして、豪放磊落(ごうほうらいらく)とでもいおうか、着任早々、辞令書き一人を残し、県庁官員百余名の首切りを行う。新たに東京から17名を着任させるという独断ぶりを地でいく。
その後も新しい官員を増やして県政をまるで「我が物」としていく。運営の体制を作り上げていく。中でも、事務処理の効率化を図り、県庁内に面会所(総合受付、相談所)を設けたのは、時流に乗ることも忘れなかったと見える。
それにしても、当時はまだ、旧士族の生活困難が県政の最重要課題の一つであり続けていた。それというのも、1873年(明治6年)の大政官布告第425号により旧藩時代の家禄を奉還というか、普通クラスの士族にとっては「没収」というのが実感であったというべきであろう。
当該県政の始め頃にあっては、そのようにして家禄を失った旧藩武士の内勧奨により「帰農」した者は、県北でも、県中央部、そして県南部において相当数にのぼっていた。
しかし、土地を耕作すべき土地を特段を含め所有していなかった武士たちは、この仲間入りはできない、彼らは比較的地位の低い「軽輩」と呼ばれてきた者が多数の案配にて、かれらを見捨てないためには、一体どうしたらよいのだろうか。
そこで当局側で考えられた試みの一つが、県南部においては「授産事業としての干拓による農地造成であり、その事業地域として選ばれたのが、興除新田先の附寄洲」であった。
とはいえ、これを実行するには新政府の許可が必要だった。ついては、県がまとめ役となって、色々な組み合わせで出資を算段していたようなのだが、ようやくにして「五か条」の約定書を作り、1884年(明治17年)に民間人主体の開発プラン「児島湾開墾」を出願するに至る。
おりしも、県令の高崎は東京へ移動となるなど、数ヶ月を空費、その後の合議で三菱資本が新たに加わるなどしてついに政府の承認を得るも、本決まりとなるのは1894年(明治28年)という話の成り行きなのであった。
(続く)
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そこで当局側で考えられた試みの一つが、県南部においては「授産事業としての干拓による農地造成であり、その事業地域として選ばれたのが、興除新田先の附寄洲」であった。
とはいえ、これを実行するには新政府の許可が必要だった。ついては、県がまとめ役となって、色々な組み合わせで出資を算段していたようなのだが、ようやくにして「五か条」の約定書を作り、1884年(明治17年)に民間人主体の開発プラン「児島湾開墾」を出願するに至る。
おりしも、県令の高崎は東京へ移動となるなど、数ヶ月を空費、その後の合議で三菱資本が新たに加わるなどしてついに政府の承認を得るも、本決まりとなるのは1894年(明治28年)という話の成り行きなのであった。
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