◻️54の2『岡山の今昔』草創期の岡山県政

2020-10-15 10:44:26 | Weblog
54の2『岡山の今昔』草創期の岡山県政

 1871年(明治4年)、政府は廃藩置県を行う。藩は県へと名前を変える。同年、岡山県・北条県・深津県(のち小田県)の3県が設置される。1875年(明治8年)には、岡山県・北条県の2県に、さらにその翌年には岡山県に集約される。
 初代岡山県権令には、岡山の士族、新庄厚信が任命され、その後、元長州藩士の石部誠中が権令を務める。
 しかし、石部は、政府による地租改正の強行と農民の反対闘争との板挟みとなってしまう。1875年(明治8年)、石部としては万策尽きてだろうか、内務卿の大久保利通に辞職願を提出して、その職を退く。
 代わって送り込まれてきたのが、大久保の肝いりの薩摩出身の高崎五六である。高崎五六(たかさきごろく、1836~1896)は、1871年(明治4年)置賜県参事、1875~1884年まで岡山県令に抜擢される。
 高崎は、元薩摩藩士で、幕末のさまざまな動乱にかかわって人物にして、豪放磊落(ごうほうらいらく)とでもいおうか、着任早々、辞令書き一人を残し、県庁官員百余名の首切りを行う。新たに東京から17名を着任させるという独断ぶりを地でいく。
 その後も新しい官員を増やして県政をまるで「我が物」としていく。運営の体制を作り上げていく。中でも、事務処理の効率化を図り、県庁内に面会所(総合受付、相談所)を設けたのは、時流に乗ることも忘れなかったと見える。

 それにしても、当時はまだ、旧士族の生活困難が県政の最重要課題の一つであり続けていた。それというのも、1873年(明治6年)の大政官布告第425号により旧藩時代の家禄を奉還というか、普通クラスの士族にとっては「没収」というのが実感であったというべきであろう。
 当該県政の始め頃にあっては、そのようにして家禄を失った旧藩武士の内勧奨により「帰農」した者は、県北でも、県中央部、そして県南部において相当数にのぼっていた。
 しかし、土地を耕作すべき土地を特段を含め所有していなかった武士たちは、この仲間入りはできない、彼らは比較的地位の低い「軽輩」と呼ばれてきた者が多数の案配にて、かれらを見捨てないためには、一体どうしたらよいのだろうか。
 そこで当局側で考えられた試みの一つが、県南部においては「授産事業としての干拓による農地造成であり、その事業地域として選ばれたのが、興除新田先の附寄洲」であった。
 とはいえ、これを実行するには新政府の許可が必要だった。ついては、県がまとめ役となって、色々な組み合わせで出資を算段していたようなのだが、ようやくにして「五か条」の約定書を作り、1884年(明治17年)に民間人主体の開発プラン「児島湾開墾」を出願するに至る。
 おりしも、県令の高崎は東京へ移動となるなど、数ヶ月を空費、その後の合議で三菱資本が新たに加わるなどしてついに政府の承認を得るも、本決まりとなるのは1894年(明治28年)という話の成り行きなのであった。


(続く)


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◻️201『岡山の今昔』新庄厚信、石部誠中、高崎五六

2020-10-15 10:43:00 | Weblog
201『岡山の今昔』新庄厚信、石部誠中、高崎五六

 新庄厚信(しんじようあつのぶ、1834~1903)は、岡山藩士奥坊主・友野久悦の二男として生まる。跡取りでないことから、同藩士新庄直虎の養子に入る。やがて、尊王攘夷に感銘を受け、諸藩の志士とも交わる。1864年(元治元年)に禁門の変が起きると、藩命を奉じて長州藩に赴く。藩主の毛利敬親(もうりたかちか)が京都に行って弁明しようとするのを思いとどまらせる。
 その後、幕府による長州征伐の号令に際しては、岡山藩は、これをサボタージュするなり、事実上は無視するなりしていく。そういう中で、新庄は藩の外交掛として働く。
 1869年(明治2年)には、柏崎県権知事に昇進したというから、岡山藩時代の仕事ぶりが効いたのであろう。
 1871年(明治4年)に岡山県参事、1873年(明治6年)には岡山県権令となる。
 同年職を辞すが、1874年(明治7年)に置賜県権令に転任する。1876年(明治9年)に同県が廃止されると、官を辞す。
 それからは、民間人として志を立てたようだ。同年、国立銀行条例が制定されると、士族の生活安定のためと称し、岡山に第二十二国立銀行を創設し、頭取となる。岡山紡績所設立にも動く。
 その後、1889年、市町村制が施行されると、岡山市会議員となる。1890年(明治23年)には岡山市長に選出され、水害対策や教育事業に尽力する。何かと、仕事をするのが生き甲斐であったようだ。


 石部誠中(いしべ せいちゅう、生年不詳 ~1879年)は、長州藩士の家に生まれ。やがて藩では諸検使を務める。戊辰戦争に参加する。そのおりは、捕らえていた敵の命をむやみに奪うことのないように、陣内に目を配るのを忘れなかったという。
 明治新政府になると、盛岡県大参事、飾磨県権参事などを務めて後の1872年(明治5年)には、岡山県権参事に就く。そして迎えた1875年7月19日に権令に昇進してからというものは。中央政府からの命令て地租改正に当たる。
 地主・豪農層の意見を取り入れて減租計画を立て大蔵省と交渉するも、中央は、この案を拒否する。そのうちに、県下全域で地租改正反対闘争が広まって止まない形勢の中、石部は病気を理由に辞職願を出し、追って依願免官も願い出る。
 それからは家で塾を開くなりして平穏に暮らしたという。


 高崎五六(たかさきごろく、1836~1896)は、1871年(明治4年)には置賜県参事、1875~1884年まで岡山県令に抜擢される。高崎は、元薩摩藩士で、幕末のさまざまな動乱にかかわって人物てあったから、とにかく肝いりの人事であったに違いあるまい。
 そのせいか着任早々、辞令書き一人を残し、県庁官員百余名の首切りを行ったというのだが、にわかには信じにくい。
 新たに東京から17名を着任させるという独断ぶりを地でいく。その豪腕により、地租改正を有無を言わさぬ弾圧ぶりですすめる。
 その他でも、事務処理の効率化を図り、県庁内に面会所(総合受付、相談所)を設けたのは、時流に乗ることも忘れなかったと見える。
 岡山を去ってからの高崎は、栄達を重ねていく。1884年(明治17年)には参議院議官、1885年(明治18年)には元老院議官、1886年(明治19年)になると東京府知事等を歴任、その翌年2に華族に列し男爵となる。



(続く)


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