新新94『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの哲人たち(ソクラテスとプラトン)とアカデメイア
ソクラテス(ソークラテース、前469?~前399)は、古代ギリシアの哲学者である。一説には、彫刻家、石工の父と助産婦の母のもとにアテナイで生またという。哲学をこころざしてからは、公開の場で議論をよくした。
そのソクラテスも、一度国家の危難とあれば、重装歩兵として参戦していた。50歳近くになるまでに三度参加し、アテネ市民としての義務を果たしたと、弟子のプラトンが伝えている。この間のアテネでは、政治家の筆頭であったペリクレスが死去し、ペストも流行する。そうした意味では、市民たる者は、そして広くアテネの人々は概して安住の毎日を送っていたのではなかったといって良いだろう。
紀元前399年、ポリス社会において伝統的な神を否定し若者を惑わす危険思想として訴えられ、裁判によって有罪とされる。当時のアテネは対外戦争のためもあって寛容な世の中ではなかったらしい。民衆の暮らしは苦しく、大方の気分はすさんでいたのかもしれない。弁護する世論が盛り上がらなかったようだ。裁判では、弁論もできたのであろうが、慈悲を請うとかはしなかったらしい。あえて国法に従い、死の道を選ぶ。
ソクラテス(ソークラテース、前469?~前399)は、古代ギリシアの哲学者である。一説には、彫刻家、石工の父と助産婦の母のもとにアテナイで生またという。哲学をこころざしてからは、公開の場で議論をよくした。
そのソクラテスも、一度国家の危難とあれば、重装歩兵として参戦していた。50歳近くになるまでに三度参加し、アテネ市民としての義務を果たしたと、弟子のプラトンが伝えている。この間のアテネでは、政治家の筆頭であったペリクレスが死去し、ペストも流行する。そうした意味では、市民たる者は、そして広くアテネの人々は概して安住の毎日を送っていたのではなかったといって良いだろう。
紀元前399年、ポリス社会において伝統的な神を否定し若者を惑わす危険思想として訴えられ、裁判によって有罪とされる。当時のアテネは対外戦争のためもあって寛容な世の中ではなかったらしい。民衆の暮らしは苦しく、大方の気分はすさんでいたのかもしれない。弁護する世論が盛り上がらなかったようだ。裁判では、弁論もできたのであろうが、慈悲を請うとかはしなかったらしい。あえて国法に従い、死の道を選ぶ。
果たせるかな、「ソクラテスは国の認める神を認めず、別の新奇なダイモーンの祀りを導入するという罪を犯し、かつまた、青年たちに害毒を与えるという罪を犯している」との告発があり、ソクラテスは裁判にかけられて、有罪と判決され、なんと死刑に処せられた。
なお、この時代の政治的な雰囲気としては、プラトンが記した「ソクラテスの弁明」において色濃く反映されている。その一端は、師匠のソクラテスが被告人に立たされた時の、訴追した側へのソクラテスが行った次なる自己弁論としてあるのだろう。
なお、この時代の政治的な雰囲気としては、プラトンが記した「ソクラテスの弁明」において色濃く反映されている。その一端は、師匠のソクラテスが被告人に立たされた時の、訴追した側へのソクラテスが行った次なる自己弁論としてあるのだろう。
「アテナイ人諸君、私は未だかつて国家における他の公職に就(つ)いたことごない。ただ参政院議員になったことがあるだけである。そうしてたまたま私の属しているアンティオキス族が当番にあたっているときに、諸君は海戦の後で死屍を収容しなかった10人の将軍に対して、一(ひと)からげに有罪の宣告を下すことにきめたのだった。それが違法行為であったことは諸君も後には皆承認せられた通りである。当時にあっては当番議員中ただ私一人が諸君に反対して違法行為に出ないようにと告げたのであった。そうして私はこれに反対の投票をしたのである。すると演説者らは私を告発し拘引(こういん)せんとする気勢を示し、諸君はまた彼らをけしかけて怒号したけれども、私は、投獄と死刑を恐れて、違法決議をした諸君と行動を共にするよりも、むしろ国法と正義の味方となってあらゆる危険を冒(おか)すべきであると信じたのだった。
これはまだ国家に民主政治が行われていた頃に起った事である。しかるに寡頭政治の世、となったとき、「30人」はまたもや私を他の4人と共に円堂(トロス)に召喚してサラミス人レオンをサラミスから、死刑に処せんがために連れて来ることをわれわれに命じた。彼らは、出来得る限り多くの人を自分達と同罪に捲(ま)き込まんとして、他の多くの人々にもしばしば同じ様なことを命じたのである。その時にもまた私は、言葉によってだはなく、実行によってーーもしこういういい方があまり粗野(そや)に失しないならばーー自ら死を寸毫(すんごう)も顧慮しないが、これと反対に、不正と贖神(しょくしん)の行為を避けることは何よりも重視する者であることを証示した。あれほど強大な権力を持っていた政府も私を威嚇(いかく)して何らの不正をも行わしめることが出来なかった。」(プラトン著、久保勉訳「ソクラテスの弁明/クリトン」岩波文庫、1927)
その時28歳のブラトンは、自分の師匠に対する、かかる理不尽な仕打ちに衝撃を受け、こう記した。
「ところがまたしても、いかなる偶然によるものか、一部の権力者たちはわれわれの仲間であったあのソクラテスを、およそ神を恐れざる、またおよそ誰にもましてソクラテスには最もふさわしからぬ罪名で、法廷に連れ出しました。彼らはソクラテスを神に対する不敬のかどで召還し、ついで有罪判決を下し、死刑にしたのですーー彼ら自身が亡命の非運にあったころ、亡命者の味方であった一人(前述のレオン)を連行しようという、不祥の企てに手を貸すことをあえて拒絶したそのソクラテスを!」(プラトン「第七書簡」、訳文については、藤沢令夫「プラトンの哲学」岩波新書、1998)から引用)
そんなソクラテスの著作は現代に伝わっていないものの、弟子のプラトンとの対話編によってその思想のかなりを知ることができる。哲学者としての、その処世の最大の特徴は、「無知の知」ということで、物事の真実、真理の前に謙虚な探求心を貫いたことにある。
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プラトン(プラトーン、前427~前347)は、古代ギリシアの哲学者である。また、政治家ではないものの、政治向きの話をよくしたという。ソクラテスの弟子にして、 アリストテレスの師に当たる。
壮年期からは、「イデア説」を研く。中でも、「哲人政治」を志す。そのため、あるべき国家を、こう説き起こす。
「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。」(プラトン著、藤沢令夫訳「国家」岩波文庫)
「支配者となるべき人たちか、支配権力を積極的に求めることの少ない人間であるような国家、そういう国家こそが最もよく、最も内部抗争の少ない状態で治まる。」(同、プラトン「国家」)
次には、支配者の地位につく人に求められる資格を、述べよう。
「(前略)もし君が、これから支配者の地位につくことになる人たちのために、支配者であることよりももっと善い生を見つけてやれたら、善い政治のおこなわれる国家が、君にとって生成可能となる。なぜなら、そのような国家においてのみ、真の富者が支配することになろうからだ。
で、真の富者とは、黄金に富む者のことではなくて、いやしくも幸せな者ならそれに富まねばならぬところのもの、つまり、正気のすぐれた(善い)生き方において富む者のことなのだ。
これに反して、自分だけの私的な善に欠乏している餓えたる者、貧しき者が公共のことに従事するとなると、善きものはすべからくそこから掠奪すべしと考えているので、善い政治のおこなわれる国家は、生成不可能になる。
なぜなら、支配者の地位が闘争の的となって、この種の戦いが、内部から生じ、固着してしまうと、それは、彼らのみならず、その他の国民的同胞をも滅ぼしてしまうことになるからだ。」(プラトン「国家」第7巻、田中美知太郎責任編集「プラトン2」、世界の名著7、中央公論社、1978に所収)
で、真の富者とは、黄金に富む者のことではなくて、いやしくも幸せな者ならそれに富まねばならぬところのもの、つまり、正気のすぐれた(善い)生き方において富む者のことなのだ。
これに反して、自分だけの私的な善に欠乏している餓えたる者、貧しき者が公共のことに従事するとなると、善きものはすべからくそこから掠奪すべしと考えているので、善い政治のおこなわれる国家は、生成不可能になる。
なぜなら、支配者の地位が闘争の的となって、この種の戦いが、内部から生じ、固着してしまうと、それは、彼らのみならず、その他の国民的同胞をも滅ぼしてしまうことになるからだ。」(プラトン「国家」第7巻、田中美知太郎責任編集「プラトン2」、世界の名著7、中央公論社、1978に所収)
そういうことだから、プラトンの場合、支配者の地位につく人には、次のような厳しい要求が課せられる。
「したがって国家は、素質にしたがって建てられているばあいには、その国の最小の階級ないし部分のおかげで、つまり、その国を指導し支配する部分の持っている知識のおかけで、全体として知恵があるということになるのであろう。
そしてこの部分は、思うに、種族としては本来、ほんの少ししか生じないもののようだ。ほかの知識とは異なり、ただそれだけが知恵と呼ばれて然るべきそういう知識を分けもつのは、この部分こそがふさわしい。」(プラトン「国家」第4巻)
そしてこの部分は、思うに、種族としては本来、ほんの少ししか生じないもののようだ。ほかの知識とは異なり、ただそれだけが知恵と呼ばれて然るべきそういう知識を分けもつのは、この部分こそがふさわしい。」(プラトン「国家」第4巻)
そうはいっても、現実の支配者たちは、私的な利害にわずらわされて、政権絡みの権力を乱用する傾向がみられ、これは昔も今もあまり変わりばえしていない。
それだから、かかる乱用の事態を警戒して、彼らが私財・家庭・食糧・金銀を人並み以上に所有することは、禁じられる(第3巻)。このような文脈での支配者無財産論が、「プラトンの共産主義」と呼ばれ、現代に伝わる。
それだから、かかる乱用の事態を警戒して、彼らが私財・家庭・食糧・金銀を人並み以上に所有することは、禁じられる(第3巻)。このような文脈での支配者無財産論が、「プラトンの共産主義」と呼ばれ、現代に伝わる。
ただし、この場合の「共産主義」というのは、上層階級(この社会でのいわゆる支配階級としてのギリシア市民で、大まかに知者と戦士などから成る)のうちの哲人たる者たちが、ほかの勤労階級(奴隷など)を支配している、すなわち、その社会の大多数の生産者の搾取(さくしゅ)の上に成り立って奴隷制国家なり社会以外の何物でもないのだが、プラトンはというと、そのことにはまともには触れていない。
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このように、プラトンは、支配階級の中からの優れた者、保護者としての政治家による政治の実現を唱える。理想国家を打ち立てるための遊説もしていたのかもしれない。また、人材を育てるべく、アテネの北西郊外にアカデメイアと呼ばれる学園(前387~後529)をつくる。その特徴は、今日の大学教育にも通じるものもあるとはいえ、全体的には、かなり異なる面があろう。
ついては、その1として、ちゃんとした建物は持たず、またカリキュラムもない。その2として、公的援助に頼らない。公共体育場を、その場の一部としていたという。その3として、市民なら階層などでの制限はなかったらしい。女性も参加できたという。その4として、プラトンは校長で、これといった講義は受け持たなかった。まさに、組織者であったのだろう。講師としての研究員は原則として、ほぼ対等であったという。教育に対する熱情は、終生続く。
この間、政治的な実践にも手を染めている。紀元前357年、弟子のディオン(シュラクサイの政治家)の懇願を受け、シチリア島のシュラクサイへ旅行する。そこで、シュラクサイの若き君主を指導しての哲人政治の実現を試みる。しかし、ディオンが追放され、計画は失敗したという。紀元前353年にディオンが政争により暗殺されたことによって、政治的な野望は途絶えたのではないか。
この間、政治的な実践にも手を染めている。紀元前357年、弟子のディオン(シュラクサイの政治家)の懇願を受け、シチリア島のシュラクサイへ旅行する。そこで、シュラクサイの若き君主を指導しての哲人政治の実現を試みる。しかし、ディオンが追放され、計画は失敗したという。紀元前353年にディオンが政争により暗殺されたことによって、政治的な野望は途絶えたのではないか。
また、アカデメイア(ギリシア語)とは、ギリシアの哲学者としてのプラトンが紀元前385年ごろに開いた学園だ。アテネの北西郊外、半神アカデモスの神域にあったことから、この名がある。
プラトンは、ここで弟子たちと禁欲的な共同生活を営み、特に数学の研究を重んじ、叱咤激励したようだ。アカデメイアは、前347年のプラトン没後も、代々の学頭が後を継ぐ。紀元前3~前2世紀には、懐疑論が有力になっていく。
プラトンは、ここで弟子たちと禁欲的な共同生活を営み、特に数学の研究を重んじ、叱咤激励したようだ。アカデメイアは、前347年のプラトン没後も、代々の学頭が後を継ぐ。紀元前3~前2世紀には、懐疑論が有力になっていく。
ちなみに、プラトン思想のそれからについて、蔵原惟人(くらはらこれひと)氏は、こう説明している。
「プラトンはこのような理想をシラクサで実現しようとしたのであるが、しかしそれはます第一に貴族そのものの反対にあってはかなくも破れてしまった。
ギリシアはプラトン以後にも同様の思想を共産主義的なユートピア(空想)の形で説くものかあった。エウヘメロスの「神聖な年代記」やジャンブロスの「太陽島の記」などがそれであって、そこには家と庭とを除くすべてが共有で、各人は一定の耕地をうけて独立にこれを耕すか、その収穫はすべて中央の倉庫におくり、それが公平に各人に分配される国のことや、各人が交代でさまざまな職業に従事し、職業に応じて公平に生産物が分配され、婦人も子供も共有である幸福の島のことか、空想的に描かれている。またずっと下って3世紀の半ばには、新プラトン派の哲学者プロチノスが、ローマに行って皇帝と皇后に説き、その許可を得てカンパニアのある町をプラトノポリスと名付け、ここにプラトンの共産主義国家を建設しようとしたが、これもまた宮廷内部の反対にあって実現しなかった。」(蔵原惟人「宗教ーその起源と役割」新日本新書、1978)
ギリシアはプラトン以後にも同様の思想を共産主義的なユートピア(空想)の形で説くものかあった。エウヘメロスの「神聖な年代記」やジャンブロスの「太陽島の記」などがそれであって、そこには家と庭とを除くすべてが共有で、各人は一定の耕地をうけて独立にこれを耕すか、その収穫はすべて中央の倉庫におくり、それが公平に各人に分配される国のことや、各人が交代でさまざまな職業に従事し、職業に応じて公平に生産物が分配され、婦人も子供も共有である幸福の島のことか、空想的に描かれている。またずっと下って3世紀の半ばには、新プラトン派の哲学者プロチノスが、ローマに行って皇帝と皇后に説き、その許可を得てカンパニアのある町をプラトノポリスと名付け、ここにプラトンの共産主義国家を建設しようとしたが、これもまた宮廷内部の反対にあって実現しなかった。」(蔵原惟人「宗教ーその起源と役割」新日本新書、1978)
5世紀には、新プラトン主義哲学の中心となったものの、529年には、異教の学問と名指しされ、ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世の命により閉鎖される。
そうなると、多くのギリシア人学者はササン朝に移り、ホスロー1世の保護を受ける。
(続く)
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