♦️1172『自然と人間の歴史・世界篇』中国とアメリカなどのどちらが民主主義的か(論点整理のために)

2022-01-08 12:19:05 | Weblog
1172『自然と人間の歴史・世界篇』中国とアメリカなどのどちらが民主主義的か(論点整理のために)
 
 はじめに、海外(中国)駐在中の一人の日本人による、次の見解を紹介しよう、それは、今時珍しい、権威におもねることのない、清々しい論説にして問題提起であると感じられるからである。

○「中国共産党は、近年、外交面においてアメリカやその他の民主主義国家と対立することが増えてきています。中国の外からマスメディアが報じる中国は、一党独裁、人権問題、貧富の格差などの言葉とともに報道されることがあるようです。しかしながら、実際に中国の北京に住んでいる私にとっては、どこまでが事実に則(のっと)って報じられているのかわからなくなることもあります。
 北京市内では路上生活を見たことがありませんし、中国人の同僚や友人さらには日本人の友人と話をしても共産党に対する不満を聞いたことはありません。上述したように、コロナ対策も今のところはコントロールできています。さらには、北京市内を走る車は日本よりはるかに電動化されており、お金の支払いも全てスマートフォンで電子決済されます。逆に日本では、コロナ禍による失業者の増加や貧困の問題が深刻化しており、感染状況と昇降を繰り返す状態、IoT技術の立ち遅れも目立ってきています。
 これらの違いを実感してしまうと、中国のほうが他の民主主義国家よりも上手く運営されており、科学技術においてもすでに世界のトップに位置していると感じることも少なくありません。」(堀場(中国)貿易有限公司、江原克信(えはらかつのぶ)「海外便りー中国・北京、その1」一般社団法人日本半導体製造装置協会「SEAJ Journal」No.174、2021年9月号)

 これについては、「北京市内では路上生活を見たことがありません」というのは、筆者も現役時代に二度、都会と田舎の二ヶ所に出張したおりには、そのような光景は街中を数時間歩いた限りでは見かけなかったのを思い出す。ちなみに、2022年1月8日放映のNHK(BS1)番組「ねらわれるアジア人」では、今回のコロナ禍でアメリカの路上生活者が増えている光景(ロサンゼルスからの中継で、去年の2倍とのこと)が報道されていた。
 次の「中国人の同僚や友人さらには日本人の友人と話をしても共産党に対する不満を聞いたことはありません」というのは、現地で生活している人がそう仰るのだから、「そうですか」と受け取りたい。とはいえ、今時のドキュメンタリーなど(例えば、2021年放送の不動産バブルの報道では、民衆が地方政府に対する不満を述べ、何とかしてくれと陳情を繰り返していた。地方政府もやっと腰を上げる場面があった。何しろ14億もの人口、民族も多種なのだから、それと発展途上の国なのだから、それなりに受け止めて然るべきだろう。
 「コロナ対策も今のところはコントロールできています」というのは大方その通りなのだろう。それと、方針がその都度修正され、経験が生かされているように見受けられる。その上、住民の自主組織としての「社区」の活動とタイアップしているのは、アメリカや日本などに比べるとより民主主義的な運営がなされているのであろう。それから、「北京市内を走る車は日本よりはるかに電動化されており、お金の支払いも全てスマートフォンで電子決済されている」のには、こちらは「うーん、日本はどうなのか」と考え込んでしまう、中国の経済・社会もまた常に変化しているのだろう。

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 それにしても、先の引用の「しかしながら、実際に中国の北京に住んでいる私にとっては、どこまでが事実に則(のっと)って報じられているのかわからなくなることもあります」にもあるように、なぜアメリカやその同盟国が、こんなにも執拗に中国のなすところを次から次へと探しだして問題にするのだろうか。

 その理由を理解するのは21世紀も20年代とあってはなかなかに難しいものの、その大元の感情を推し量ること位は可能であり、単刀直入にいうならば、自分たちのこれまでの覇権が危機に立たされているのをひしひしと感じているのであろう。その場合のメルクマールとしては、やはり軍事と経済なのであろう。なぜなら、この二つは根っこのところではそれなりに結びついていて、しかも相手(二国間関係のみならず、多国間においても相応に)に対して様々な事柄を有利に運ぶに欠かせないからだ。
 殊にアメリカがそうした状況に至っている、というのは、間違いなく対中国への対抗心なりであって、それ以外のいかなる国へ向けてのものではない、その相手を「経済・外交・軍事・技術力を結集し、国際システムに持続的に挑戦する能力がある唯一の競争相手」(「国家安全保障の暫定指針」2021年3月)とみなしているが故のことなのだろう。

 こうした居丈高な態度を鑑みるに、自らが主体の世界秩序に挑むのは中国だと決めつけた上で、これを奪われてはならないということで火花を散らす、やたや中国は「覇権を求めない」と言明してているにも関わらずの話であって、これを大人げないと思うのである。なぜなら、かような態度たるや、世界は中国のものでもないし、アメリカのものでもあるまい、そのような時代はもう終わりを告げるべくあらねばならない、その中での荒々しい、かつての帝国主義を彷彿とさせる出来事と断定しても、過言ではあるまい。

(続く)

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新293『岡山の今昔』岡山人(森忠政、森長継、森長成)

2022-01-08 10:47:44 | Weblog
293『岡山の今昔』岡山人(森忠政、森長継、森長成)

 森忠政(もりただまさ、1570~1634)は、織田信長、豊臣秀吉、そした徳川家康の三人に仕えた武将だ。森可成の六男。
 父の可成と長兄の可隆は、浅井・朝倉氏との攻防戦で戦死する。そこで森家の跡を継いだのは次兄の長可であったが、その彼も、1584年(天正12年)の小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いで奮戦さなか、落命に至る。
 1582年6月21日(天正10年6月2日)の本能寺の変では、長定(蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)の3人の兄も死ぬ。
 そのため、忠政が森家を相続し、豊臣秀吉に気に入られ、7万石で美濃金山城(現在の岐阜県可児市)に入り、仕える。
 やがて秀吉が没すると、今度は徳川家康に近づいて、かねての信州川中島を領する。さらに関ケ原の戦いの後には、戦功が認められ美作18万石余の領主に転封される。
 1606年(慶長11年)の美作への入府の際には、かねてからの国侍の所有する武力と土地を基盤とする支配力を奪い、自らの手に組み込まなければならない。果たして、国侍たちは忠政が通るのを妨げようとするところ、忠政の調略があり、矛をおさめる。
 とはいえ、城ぶしんの間に重臣同士が斬り合うなどあったが、忠政は厳罰で統制力を強める。また、村村へは、次の3ヶ条を課する。
「一、諸役郡奉行相触候旨、背く村これ有らば、曲事たるべき事。一、百姓走り申すにおいては、その村村の庄屋、宿老百姓、並びに走り申す者の隣まで堅く糾明を遂げ、その上をもって曲事に行うべき事。一、郷中在在において、偽事を申し候て、百姓迷惑候事申し懸くる者これ有るにおいては、成敗致すべき事。右条条堅く申付くべき者なり。慶長十一年正月十五日、忠政」(森家先代実録)
 それからかなり経っての3代将軍家光と談合するため1634年(寛永11年)7月1日、3代将軍徳川家光と談合するため、天皇の勅使として京都に入る。後水尾上皇の御殿完成後行われることになっていた高仁皇の即位式の挙行に関わることであったらしい。
 そしての7月6日(旧暦、以下同じ)、京都の公卿達は、津山藩の御用商人である三条の大文字屋宗味邸にて、忠政のため宴の席を設ける。家光が7月11日に上洛するので、色々準備で疲れていたのではなかろうか、忠政はご馳走してもらい、桃も食べたという。日暮れに滞在先の妙顕寺へ帰るときに、忠政が「たとえ様もなく気分が悪い」となり、それからは医者を呼んで尽くせるだけ手を尽くしたようなのだが、7月7日についに亡くなる、というあっけなさであった。

 森長継(もりながつぐ、1610~1698)は、外戚の関家の出であったのが、外祖父森忠政の養子となり、1634年(寛永11年)に森家2代目となる。忠政は、嫡子忠広に先立たれ、外孫である長継を森家の後継ぎとした。長継の実家関氏は森家の家臣で、長継の母は森忠政の娘にして、言い換えると、長継の実父関成次の母は森可成の娘であった。
 その長継だが、治世向きのことは大して史料が残っていない、善政を敷いた話は見当たらないものの、冷静な性格であったようである。内向きでは、嫡子忠継が先立ったため、忠継の遺子長成を長継の子長武の養子とし、長成が成人すれば藩主にするという約束で長武を三代藩主とする。長継はまた、弟の関長政に1万8千7百石余りを分知し、支藩として関家を立てた。長武の時には長武の弟長俊に新墾田1万5千石を分けて二つ目の支藩を立てた。
 その長武だが、長継が存命中の1686年(貞享3年)に長成に藩主の座を譲り、別家を立てるとともに、弟長基を養子に迎えるものの長基に不謹慎なところがあり幕府に咎められ、別家は消失してしまう。


 森長成(もりながなり、1671~1697)は、江戸時代前期の美作、津山藩主である。森氏で輩出の4人目藩主であって、かつまた当人はその最後の役割を演じたことになろう。
 その実は、本人は森家の二代目藩主の森長継(もりながつぐ)の長男・森忠次(もりただつぐ)の長男であるところ、本来なら忠次が長継の跡を継いで3代目藩主になる話であった。
 ところが、その前に忠次が病気で亡くなったことから、長継の二男の森長武(もりながたけ、長成から見ると叔父、長武からいうと甥(おい))が、父親が亡くなった時4歳の幼年であった長成が成人(当時は16歳で元服を迎える)になるまでとの条件付きで、3代目藩主に就任する。
 と、ここまでは「御家」存続のためありうることなのだが、長武という人はかなり変わっていた。首尾よく藩主となった感のある長武だが、家臣や領民への配慮は大方欠けていたようだ。藩庫の欠乏を救うという名目で、家臣の知行地や扶持(ふち)の削減を行なう傍ら、貞享(ていきょう)元年(1684)には貢租増徴をはかって地改めを断行、さらに従来免租の荒無地の新開にまで課税する。
 そればかりでない、家中に対しては、強圧的な姿勢で臨んだ。その一端は、次なる細かい立ち居振舞いへの注意にも表れていよう。
 「総門番のもの、家老・年寄の内へも、誰へは下座すべし、書付の外は其儘(そのまま)居べし、殿中杖(つえ)突くな、むざと長柄(ながえ)の傘さすな、黒がね門はぼくりもはくな、玄関の上へ刀も差し上がるな、家来に持たせ置け」(「森家先代実録」、清水昇「森長成(美作津山藩、後嗣選びは気をつけて)」、「江戸大名廃絶物語、歴史から消えた53家」新人物往来社、2009に所収)のものから引用
 人事も、自分の気に入りの者を厚遇する一方、譜代(ふだい)の重臣を退け、横山刑部左衛門(よこやまぎょうぶざえもん)などの、いわゆる側近衆を重んじる。それは、能力本位の抜擢ということでもない。
 こちらの狙いというのは、先代の長継色の払拭(ふっしょく)であろうか、長継に対しては、「何事によらず、お伺いすることご迷惑であるから申し上げぬ事」を命じて長継を棚上げし、側近によって事を決するよう命じたという。
 その他にも、延宝4年には銀札を発行し、また、各村に楮(こうぞ)を頒布(はんぷ)して各戸に植栽(しょくさい)させるなどの対策をとる。しかし銀札の発行は物価騰貴をきたし、庶民生活を苦しめるのであった。
 それでも、やがて長成が16歳に達したことから、長継は、誓約に従い長成に家督を継がせ、長武には隠居料として2万石分を藩庫から与えることとした。
 長武としては、これに従わざるを得なかったが、一説には、幕閣に大名格に取り立ててもらうとかを画策したともいう。これは、元禄9年4月、自身に跡取りがなかったので、父長継の第21子、主殿長基(とのながもと)を養子に迎え、同時に、腹心の横山の妹を長基の室を迎え、別家を起こそうとしたもの。
 これを、長成が咎めて、離縁させる事が起こり、身内での対立はいよいよこじれるのであったが、長武は翌5月に52歳で亡くなる。そこで長基の江戸到着を待って葬儀の予定であったのだが、渋々ながら江戸へ赴く。江戸に着いた長基は幕府に呼び出され、「主殿儀不調法、伯耆守(長武)不行届」との理由で「御家」取り潰しとなり、長基は長成に預けられる。
 かくて、どうにか最大の後顧の憂いがなくなった長成だが、その後はどのようであったのだろうか。幕府は、長成の後見役として、支藩の関備前守長政(長継の弟、長成の大伯父)を命じる。長成は、家老の長尾隼人勝明らの重臣に支えられて、先代の政治の改革に精出していく。地誌「作陽誌」編集に着手したのも、その一つであろう。
 そんな主従に、1695年11月10日(元禄8年10月4日)には、新たな幕命が下る。武州(武蔵児玉郡)中野村(現在の東京都中野区)において、相役の京極縫殿助(きょうごくゆいのすけ、讃岐国)とともに、御犬小屋普請を申し渡される(仰せ付かる)。
 なにしろ急ぐ話であったようで、旧暦10月17日には着工する。敷地面積が12万2600坪のところに犬小屋289棟など総棟数835棟を築いたという。要した工事人足のべ数は103万5539人。費用としては、銀にして2554貫目余り。賄い用の米289石という具合で、これだけを見ても、いかに厄介かつ経費のかかる仕事であったか容易に想像できよう。
 これを元禄8年12月4日に完成させたとのことであり、それまでに要した日数は46日間、総奉行としてこの大普請の指揮をとったのが、のちに長成の末期養子になる関式部衆利(せきしきぶあつとし)であり、当時家老を務めていた。
 長成は、それまでにかなりの心労が重なっていたと考えられよう。それからは、財政逼迫の度合いも増して、その中でもなんとか藩政を立て直そうとしたのではなかったか。そんな長成は、大方疲れがたまっていたのであろうか、元禄10年3月13日、参勤交代のため国元を出発しながら、4月2日に江戸に到着したものの重病となり、6月20日に亡くなる。

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