新154『岡山の今昔』勝山、久世から津山へ

2022-01-19 20:55:39 | Weblog
154『岡山の今昔』勝山、久世から津山へ

 出雲街道を勝山から東に向かって歩くと、久世(くせ、現在の真庭市久世)へと到達する。この辺りの明治から大正時代にかけてまでの、およその道案内については、郷土史家(小谷善守)の筆で次のように記されている。

 「久世盆地には、東西に出雲、京・大阪を結んでいる出雲道、瀬戸内から京・大阪にも通じていく旭川の舟路を中心にしながら北の真庭北郡から伯耆(ほうき)に越えていく大山道、西の備中道、南の備前道が集まっている。真庭郡内でも、旭川に沿って最も南の瀬戸内へ向かって開けた盆地であり、舟運と切り離せない特色を持っている。久世の地を出雲道に次いで支えてきたのが、旭川の舟路であったと思われる。その中でも、集落の形成、商業の町久世を作り上げたのが、真庭北郡から集まり、旭川を下っていったと思われる鉄製品であろうか。」(小谷善守「出雲街道」第2巻「勝山ー久世」「出雲街道」刊行会、2000)

 江戸期の久世は、宿場町にして、物資を高瀬舟で備前や京都・大坂へ送り出すための中継地となっていた。ここに集まってくる物資には、年貢米やたばこ(山中地方で栽培されたもの)、鉄、山陰からの木綿などの多彩な品目があった。珍しいところでは、江戸期に入ってからここで牛の市が開かれていたことでも知られる。この地が、昔から交通の要衝であったからである。なお、江戸期の久世から南へは、落合を経由して旭川沿いを南に下っていく道であり、「落合往来」と呼ばれていた。

 この久世の地を中心に、民衆重視の政治を行った人物に早川正紀(はやかわまさとし、早川八郎左衛門正紀、1739年(元文4年)~1808年(文化5年))がいた。彼は、井上河内守(笠間藩主)の家臣、和田市右衛門(わだいちうえもん)の次男に生まれ、のちに徳川御三卿の一つ 田安(たやす)徳川家の家臣早川正諶(まさのぶ)の養子となる。その後、1766年(明和3年)に宗家の早川正与(はやかわまさとも)の死後、早川宗家(そうけ)の早川正與(まさとも)の跡を継ぎ、幕臣となる。1769年には、勘定役(かんじょうやく)となる。それからは関東の各地の河川普請などの地味な仕事に従事していく。1781年(天明元年)、初めて幕府の代官として出羽国尾花沢(でわのくにおばなざわ)陣屋(現在の山形県)に赴く。そして1787年、美作国久世に転任、翌年備中国笠岡及び倉敷代官を一時兼任する。3つの地域兼ね合わせて、つごう7万石分を経営していたことになる。
 それだけでも大変な筈なのだが、在任中、子間引(こまびき)の禁止、教諭所や「久世典学館(てんがくかん)」、「敬業館(けいぎょうかん)」の創設など多方面に行動したことがある。また、治水工事や備中吉岡銅山の復興に努めたこともあった。彼がその間に著した書物に、教諭書「久世条教(くせじょうきょう)」がある。民衆教化に務める姿が認められるところとなり、1997年(寛政9年)にはそれらの功績で幕府から褒賞を授かる。
 そして1798年(寛政10年)、久喜を治める米津(よねきつ)氏の久喜藩が出羽国(でわのくに)村山郡長瀞(ながとろ)(現山形県東根市)に領地替えとなるに至る。そこで彼が、1801年(享和元年)には関東代官となって、美作を離れる。武蔵国久喜(くき)陣屋(現在の埼玉県久喜市)に移って幕領10万石を経営することになる。この地でも小児養育、河川改修、学問所の遷善館(せんぜんかん)を開設するなど、民生充実の策を採っていく。各地の代官に在職すること28年にして、1808年(文化5年)に江戸で病没する。その間の事績をたたえ、武蔵国八条(現在の埼玉県八潮(やしお)市や美作国久世に「遺愛碑」、笠岡に「思徳之碑」などの記念碑が遺る。なお、竹垣三右衛門直温、岡田清助恕とともに民生充実に尽くした「寛政三代官」と称される。
 その久世から美作の中心地、津山に至るには、出雲街道をそのまま東に向かっていく。その久世(くせ)からは、坪井(つぼい、現在の津山市坪井)を通り、中須賀(なかすか、同)から院庄(いんのしょう、現在の津山市院庄)へと歩を進めていく。現在でいうと、国道181号線の道筋を通って東へ進んでいく。

 次の坪井については、近世から小規模ながらも宿場があり、かわらぶきでこうし窓のある、古い民家が立ち並んでいるなど、歴史を感じさせる。江戸時代に入っては、新たな展開があり、郷土史家の小谷善守は、こうまとめている。

 「森藩時代(慶長8年・1603~元禄10年・1697)については、具体的によくわかっていないが、森藩除封後の坪井は、元禄11年(1698)に幕領となり、役所が設けられた。元禄15年(1702)になって内藤藩領となった。内藤氏は、上野国(こうずけのくに、群馬県)安中城主だったが、寛延2年(1749)に三河国(みかわのくに、愛知県)に移り、挙母(ころも)藩となった。坪井には、最初は、幕府の役所、続いて元禄15年(1702)から明治4年まで、内藤氏(挙母藩)の役所が置かれ、交通と行政の中心地となった。(中略)坪井の町は、森藩、幕府領、内藤(挙母)藩領の三時期に分かれて支配を受けているが、内藤領の169年間が最も長く、この時に明治を迎えている。」(小谷善守著「出雲街道」の第3巻「久世ー落合ー久米ー津山」「出雲街道」刊行会、2000)

 坪井を出てからは、田園地帯の久米川沿いを3~4キロメートル歩くと、領家の旧街道にやってくる。そこを過ぎて2キロメートルばかり東へ進むうちに、吉井川沿いにある中須賀(なかすか、現在の津山市宮尾)と呼ばれる地に着く。この地には、かつて出雲街道の船着場があった。江戸時代に入る前から、吉井川の船便と宿場町として栄えた地域で、出雲街道の要衝の一つに数えられていた。当時は吉井川を船便で往来し、下流の備前国との交易をする物資の集積地としても栄えたとされ、例えば、次のように紹介されている。


 「ここも年貢米や薪(まき)やわり木なとを送り出したり、カマスに入った多くの塩や瀬戸内の海産物が入ってきたりする所で、水量の多い川には、高瀬舟がたくさんつながれていました。
 みなとには、船蔵のほか食べ物屋などの店か並んでおりました。西側の土手には、常夜灯(じょうやとう)や、金比羅宮や伊勢神宮への旅の安全を願って建てた、大きな石灯篭(いしどうろう)かあります。 広い吉井川には橋がなく、浅瀬(あさせ)を歩いて渡ったり、渡し船で渡っていました。川の東は、院庄です。」(美作の歴史を知る会編「出雲街道むかし旅」(四十曲峠ー新庄ー美甘ー勝山ー久世ー坪井ー中須賀ー津山ー勝間田ー楢原ー江見ー土居ー万の乢(たわ))、みまさか歴史絵物語(7)、1992)

 珍しいものでは、出雲街道の両側に伊勢神宮内宮・外宮(「明治元年11月吉日」)の石灯籠、吉井川沿いに金比羅宮(「嘉永7年10月吉日」)と刻まれた3基の石灯籠が建てられているのだが、航路の安全を祈るために建てられたもので、常夜灯として1935年(昭和10年)頃まで、土地の人が各家順番で点火していたという。その後、これらの石灯籠は河川改修により現在の場所に集められ、往時を忍ばせる。

 その次の院庄(いんのしょう)にまで到ると、かなり津山に近くなっている。この辺りは、津山盆地の西の端にあるとも、院庄盆地という場合もあろう。地形としては平坦にして、岡山・鳥取県境から谷を穿(うが)ってきた吉井川水系の流れが作り出したのだとされている。それゆえ、地味も豊かでなのであろうと。また、この辺りの大まかな地理としては「ちょうど苫田郡鏡野町、久米郡久米町と津山市が接するあたりで、香々美川が合流し、一層豊かな流れとなり、約8百メートル下流で西岸は鏡野、久米町境になり、久米川町は赤岩地区、対岸は津山市神戸、中国自動車道もここを通っている。約千メートル下流が中須賀の集落。すぐ下手で久米川が落ち合っている。吉井川は、ここで足山丘陵にぶつかって方向を変え、院庄盆地に沿って東流。南側は嵯峨(さが)山を中心にした丘陵、川幅もぐっと広い。」(小谷、前掲書)

 この地には、古来から人々が美作の中心地として見なしていたのでおろう、そのことのわかる一つが、国の重要文化財としての院庄館跡(いんのしょうやかたあと、津山市神戸(じんご))であって、吉井川左岸の微高地に所在している。鎌倉時代から室町時代にかけての美作(みまさか)守護職の館(平城)があったと伝わる。現在は、明治時代に建てられた作楽(さくら)神社の境内となっている。
 これまでに実施された発掘調査でいうと、館の規模は約東西200メートル、南北でいうと約150メートルほどと推測されているところ。東・北・西側に土塁を築き、その中に建物があった。出土品としては、青磁、白磁、墨書磁器、備前焼なども出土しているという。


 ほかにも、慶長年間(1596~1614)には真言宗の清願寺が開創される。1603年(慶長6年)には森忠政が美作に入府する。やがて藩が記した「作陽誌」の中では、院庄のへ森藩から家老の長尾勝明から、1688年(元禄元)寄進状が出されたことになっている。現在の清願寺にはその古文書が残っていて、次のように記されている。

 「当寺敷地三石、五斗余藪共任
先規御寄附之条、全不可有相違者也、仍って如件。元禄元、長尾隼人、勝明、花押。十一月朔日、清眼寺」(読みは、とうじしきちさんこく、ごとよやぶとも、せんきにまかせごきふのじょう、まったくそういあるべからざるものなり、よってくだんのごとし)、引用させていただいたのは、小澤嘉隆・中村勝男「極楽山清眼寺」極楽山清眼寺、1999より。


 さらに二宮(現在は津山市二宮)に到ると、ここの丘陵上に並んだ数基の古墳群としてあるのが、美和山古墳にして、丘陵の最高所には全長約80メートルの前方後円墳の胴塚、南に下がって直径約40メートルの蛇塚と同規模の耳塚の円墳が続いている。これまで岡山大学などが発掘調査に当たり、古墳時代中期のものと推定されている。アクセスとしては、中国自動車道の院庄IC(インターチェンジ)から約5分のところにある。また、この地に「美作国二宮」としてあるのが、高野神社であって、こちらが祀るのは「オロチ」とされ、その鎮守の裏側には前述の美和山(みわやま)が鎮座していることから、おそらくは美作の古代の中心地の一つであったのだろう。神社の本殿は、入母屋造・妻入を特徴とする中山造(なかやまづくり)と呼ばれる様式にて、1663年(寛文3年)に、森藩2代藩主の森長継が再建した。付属の釣殿も同時期の建築とともに、近世初期の寺社建築の一端を現在に現代に伝えている。
 さらにこの辺りは、県南部とともに近代繊維産業の揺りかご的なの地でもあり、1916年(大正5年)には、二宮においてグンゼ株式会社津山工場として設立、生糸の生産を開始する。1954年(昭和29年)生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への進出、中でも合繊ミシン糸への転換をはたし、ミシン糸の一環生産工場として業績を伸ばしていく。さらに2003年10月には、津山グンゼ株式会社として独立し、それまでの蓄積した技術、設備を生かす道を模索している模様だ。

 それからは、いよいよ津山市街地へ。そういえば、江戸時代の初期、森氏の入封により津山城下町に組み入れられたのは、33町と言われている。やがて津山の街に入ると、美作国府(津山市総社)、美作国分寺(津山市国分寺)を通って入っていた。出雲街道(旧道、以下同じ)の本道を境に左手の方向に新屋敷といって、津山33町のうちの西の構えの部分に取り付く。道の右手には、安岡町、ついで茅町とある。その安岡町だが、筋違橋(すじちがいばし)を渡ると、津山城下の西入り口としてのこの町に入る。というのは、津山城が完成してから39年後の1655年(明暦2年)には、宮脇町(後述)以西は津山城下の中で、第2期に編入された地域にて、この宮脇町に続いて安岡町、茅場町、西今町城下町の一部として編入されたことによる。そのことで、1648年(慶安元年)からは、出雲街道が通るようになる。

 これらのとっかかりとしての宮脇町がどのように成立したかを、郷土史家の矢吹正則は次のように紹介している。
 「東西に位置する。東は坪井町、西は西今町、南は南新座、北は田町に接している。南側の東は徳守社地になり、西は南新座に属し、北側は田町竹の馬場ですべて武家屋敷だった。坪井町が出来てから、西今町、茅町、安岡町まで商家が並び家が増えていった。
 明暦元年3月(1655)に藩主・森長継は家臣の南条次郎右衛門と吉原吉左衛門を移転させ、その屋敷を市街として宮脇町と名付けた。これが北側である。元禄4年(1691)正月、藩主・森長成は家臣の津田宗内の屋敷の南側を社地にした。宝永3年(1706)7月14日、松平藩は徳守神社神官の願いを許し、社地を市民に貸した。これが南側。明治初年にこれを市街とした。」(矢吹正則「美作国津山誌」)

 かくて、そんな中での安岡町の成り立ちなのだが、吉井川と紫竹川合流点にある明石屋渕には常夜灯が残っており、船頭町から移転した西端の船着き場として高瀬舟や木材の切り出しの筏の往来に用立てられていたのではないかと考えられている。戦後の1970年代からのこの辺りの交通は、大きく変化した。城西通りが北の小田中地区を通り、また新境橋で国道179号線と国道53号線が連絡するようになってからは、安岡町を通っての街中の人通りもかなり減ってしまったように見受けられる。

 それからさらに出雲街道の本道に戻って進んでいくと、左手の寺社の主に北隣には西新座があり、本道の右側には西寺町、それから西今町とやって来る。西新座(西、東)は、1688年年(元禄初年)には戸数30戸くらいで、侍が住んでいたが、松平氏になってからの享保年間、農地に戻されたとのこと。 、
 西寺町西から西今町にかけての出雲街道の道筋には、左に愛染寺(西寺町)、本源寺(寺町)などが、右には妙法寺(西寺町)、泰安寺(西寺町)などの寺社が数多く並んでいる。その中から、今でも通りに面して建つ愛染寺の鐘楼門は、一階に仁王像がいて、その二階には黒塗りの鐘楼が載っていて、なかなかの趣を醸し出している。なお、明治に入ってこの寺が群衆で沸き立つことがあった。というのは、1874年(明治9年)の「美作血税一揆」で、僧侶の研修施設の教学院(学寮)が北条県当局の建物と勘違いされて、ここに押し寄せた民衆による打ちこわしの対象となってしまった。


本道に戻って進んでいくと、左手の寺社の主に北隣には西新座があり、本道の右側には西寺町、それから西今町とやって来る。西新座(西、東)は、1688年年(元禄初年)には戸数30戸くらいで、侍が住んでいたが、松平氏になってからの享保年間、農地に戻されたとのこと。 、
 西寺町西から西今町にかけての出雲街道の道筋には、左に愛染寺(西寺町)、本源寺(寺町)などが、右には妙法寺(西寺町)、泰安寺(西寺町)などの寺社が数多く並んでいる。その中から、今でも通りに面して建つ愛染寺の鐘楼門は、一階に仁王像がいて、その二階には黒塗りの鐘楼が載っていて、なかなかの趣を醸し出している。なお、明治に入ってこの寺が群衆で沸き立つことがあった。というのは、1874年(明治9年)の「美作血税一揆」で、僧侶の研修施設の教学院(学寮)が北条県当局の建物と勘違いされて、ここに押し寄せた民衆による打ちこわしの対象となってしまった。
 さらに本道から一筋南に少し下る途中の左右には本行寺、妙勝寺、長安禅寺、福泉寺などが並ぶ。この通りをそのまま下っていくと吉井川に出る。このあたりの寺は、境橋(さかいばし)を津山城下に入ろうとする敵を監視する役割があったらしい。社会への窓としては、妙勝寺の第31世、瀬川學進上人が、生活に困った人のための一時保護預かりの施設を寺内に「報恩無料宿泊所」として開設したことになっている。
 それからまた左に向かい始める。本道からやや下ったところを平行(西から東へ)に走る通りの名前でいえば西寺町東通りの左手にも、光厳寺(こうごんじ)、泰安寺(たいあんじ)などの数多くの寺社が立っている。その中から真言宗の光厳寺は、1614年(慶長19年)には、院庄にいた蔵合山口氏(屋号は蔵合家)からの願いで、この地に院庄の清眼寺の住秀照より建てられたことでその名が広く知られる。蔵合家とは、かの井原西鶴の『日本永代蔵』に出てくる、「蔵合家といえる家は蔵の数九つ持ちて富貴なれば、これまた国のかざりぞかし」といわれた、後に二階町に移り繁盛をほしいままにした豪商のことである。
 およぞ仏教の宗派に限っても、天台から真言密教はいうに及ばず、日蓮、禅の系統、西方の神を奉じる浄土系に至るまで多彩であり、これらが全体として城下の西の守りを司る。さらにその道の右手には新茅町、鉄砲町と続く。本道に戻って、西今町をさらに東に行くと、右手に作州民芸館があり、その先は藺田川(いだがわ)があり、そこには城下町の西の関門、翁橋(おきなばし)が架かっている。
 その翁橋を渡って宮脇町に入ると、もう右手には徳守神社が間近に迫っているのである。このあたりを「城西地区」と呼ぶ。特に、寺社の建物は堅固な造りとなっていて、その多くは森藩の津山築城から営営と整備されていったものと見える。これらの寺院や神社は、城下の西の軍事的な備えとしての役割をも担っていたといわれる。それだからか、このあたりの寺の庭は門や塀はいうに及ばず、なかなかの頑丈な造りにして、敷地内も広く感じる。もっとも、出雲往来は、他藩に対しては津山の城下町を通さず、かつて隠岐島に遠流の後醍醐天皇が通ったとされる「久米のさら山越え」の道程をとってもらっていたようであるから、それが史実の通りなら、往来の景色はまた違って見えたことだろう。
 ここに徳守神社は、733年(天平5年)の聖武天皇の在位時に創立されたとも伝えられるが、その根拠は示されていない。その時の社地は現在の津山市小田中の地にあったいう。1539年には、社殿などを焼失した。森忠政の美作入封の翌年、藩命により1604年(慶長9年)に現在地に移って、津山城下の総鎮守とした。祀っているのは、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)らの5人で、いずれも神話の世界の人物なのではないか。この徳守神社の年に一度の例祭が秋祭りとして催されてきた。祭りは、美作津山藩初代藩主森忠政が1604年(慶長9年)に同宮を再建して間もなく始まった。1697年(元禄10年)にはもうかなり大がかりな装いの下、総延長数百メートルにも達する程の大行列を敢行していたのだと伝えられる。これに参加する御輿とだんじりは、祭りの前日の宵宮にて、各町内のだんじりが夕方から市内に繰り出す。この慣例から推し量ると、「さあ今年もやりますよ」と関係する町内に触れて回ることになるのではないか。明けての本祭りには、徳守神社での神事の後、だんじりと神輿が大勢の人を乗せたり従えて市内に繰り出し、町内を練り歩くのである。
 その徳守神社の宵宮について、赤穂浪士47士の一人である神崎与五郎則休が、1702年(元禄15年)秋の宵に江戸から数日後に行われるであろう、生まれ故郷の祭りを懐かしんで詠んだ歌が、「海山は中にありとも神垣のへたてぬ影や秋の夜の月」として伝わっている。彼は1666年(寛文6年)、森家家臣の神崎又市光則の長男として津山に生まれ、少青年期を過ごしたのち、赤穂の浅野家に仕官したのであったが、1702年(元禄15年)が押し詰まってからの吉良家討ち入りでは江戸で、扇子売りの商人「美作屋善兵衛」を名乗り討ち入りの機をうかがっていた、とのことである。第二次大戦後にもなると、この祭りは例年、10月第3週の土日と第4週の土日に大隅神社と連れだって行われる決まりになっていたのが、近年高野神社が加わる。これに伴い、名称も「津山祭り」として、東の大隅神社、総鎮守の徳守神社、西の高野神社の秋祭りの総称されるに至っている。
 西今町の南には、鉄砲町の町並みが広がる。藺田川(いだがわ)を渡ってからの東隣には、南新座の広い町並みが続く。そこから北にある本道に戻っていく。道の右側には宮脇町、続いて坪井町、福渡町とある。坪井町とは、町づくりの初め久米北條郡坪井村付近の人々が移り住んだことから、この名がついた。また福渡町とは、はじめ久米南条郡福渡村(現在の岡山市建部)からの入居者が中心となって出来た町人町である。さらに本道の左側には、上紺屋町、細工町とある。宮脇町には、徳守神社が鎮座していて、森家2代目の藩主森長継が荒れ果てていた社殿を再建整備した。
なお、この町の城下町になる前の郷村名としては、田中郷の小田中村であり、町名の由来は徳守神社の宮脇の意であるとのことである。
 そこから少し東に進んで、右手に3丁目と戸川町、左手には鍛冶町と下紺屋町、さらに進んで右側には二丁目、戸川町、新職人町、桶屋町、新魚町、吹屋町とある。それからまた進んで、城の堀の南側を通る街道の右側に木知原町(のちの境町(堺町)、小姓町、船頭町、左側に元魚町、二階町とある。そのまま街道を進んで、京町、河原町と行く。それからさらに東進して片原町(伏見町)、南馬場前、そして材木町とあって、宮川に出る道筋となっていた。なお、こうして町人町の北側や、掘の北側は、西から東又は南東方向へ、内山下(山下)、田町、椿高下、城代町、御北(北町)といった武家屋敷が蝟集していた。これらのうち田町では、森氏除封後の8か月に渡り、幕府代官が駐在して民政に当たったことがある。椿高下については、十六夜山(現在の津山高校の敷地)があり、小規模ながら古墳のあった場所である。そして城代町、ここは椿高下の西、藺田川に閉校して南北に広がっていた。御北、ここも江戸期を通じて侍屋敷があって、1871年(明治3年)になって北町と改称になる。
 おりしも20世紀の終わりの年、1999年に、出雲街道を「飛脚便」で走破する企画があったのだ。これは、「沿線市町村のメッセージを飛脚便で岡山県津山市まで届けようと10日朝、飛脚にふんした「津山走ろう会」」のメンバーらが島根県大社町をスタートした」(山陰中央新報1999年11月11日付け)ということであった。同紙によると、「一行は島根ー鳥取ー岡山県内の街灯沿線20市町村の首長からのメツセージを受け取りながら13時間がかりで走破し、11日朝には津山市に到着する」とある。
これを企画したのは、津山市城東地区の町内会で組織する「津山城東むかし町実行委員会」(岡本一男委員長)であり、11、12の両日、「出雲街道Now,in 津山」(城東編)を興し、飛脚便はこのイベントの一つとして行われた。同紙に添えられている写真によると、当日は幸いにし天高く、往年の夢をつかみとれるかは自分次第の心境になれたのではないか。絶好の日和であったようで、スタート場面は次のような晴れやかさで結ばれている。
 「スタートになる大社町役場前で行われた出発式には、津山市のメンバーと大社町関係者約30人が出席。古川百三郎町長が「出雲阿国誕生の地・大社と、愛人の名護屋山三が亡くなった津山とは、歌舞伎を通して特に深い関係があり、今後、互いの交流一層深めたい」という岡本実行委員長あてのメツセージなどを津山走ろう会の福田史郎会長に託した。
 飛脚は、途中でメッセージを受け取りながら5~10キロずつ交替で松江、米子、美甘町(岡山県)などを走り、11日午前10時15分、津山市で開かれているイベント会場に到着する。」

(続く)

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