○70『自然と人間の歴史・日本篇』律令制へ

2022-01-15 09:38:23 | Weblog
70『自然と人間の歴史・日本篇』律令制へ

 とはいえ、白村江での敗戦から2年後の665年には、第5回目の遣唐使が派遣される。守大石(もりのおおいわ)・坂合部石積(さかいめのいわしき)なとが大陸に渡る。現代流に言うと、国交が回復されたことになるのだろうか。振り返れば、第1回は630年に犬上御田鍬なが、2回目は653年に吉士長丹・道昭などが、3回目は654年に高向玄里などが、4回目は659年で坂合部石布などが派遣されていた。
 なおこれ以後、6回目が669年に河内鯨らが、7回目として702年に粟田真人・山上憶良らが、8回目は717年に多治比県守・吉備真備・阿倍仲麻呂・玄肪などが、9回目は733年に多治比広成らが、10回目752年に藤原清河・吉備真備らが、また帰り船で鑑真が754年に渡来する。11回目は759年に高元度らが、12回目は761年として企画されるが派遣中止となる。13回目は762年に中臣鷹主(渡海せず)らが、14回目は777年に佐伯今毛人らが、15回目は779年に布勢清長らが、16回目は804年に藤原葛野麻呂・最澄・空海らが、17回目は838年に藤原常嗣、円仁らが派遣される。そして18回目として894年に菅原道真らが遣唐使に任命されるも、派遣中止となる。
 667年には、朝廷が近江の大津に宮を移す。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、668年(天智元年)に大王に即位する。中国の唐と組んだ、朝鮮半島の新羅が百済を滅ぼした2年後のことであった。高句麗も四度、唐・新羅連合軍に抵抗したものの、668年ついに降伏する。かると今度は、唐が都護符を遼東(リヤオトン半島)に置いて朝鮮半島に触手を伸ばし始める。新羅は反抗に転じる。これには旧二国の遺民も抵抗する形で、やがて迎えた676年新羅が都護符を遼東へと退けることで、朝鮮半島の統一を果たすのであった。
 倭国の方では、天智大王の即位の3年後の671年、大王は「近江令」(おうみりょう)に基づき、太政官制を敷いた。長男の大友皇子(おおとものおうじ)を太政大臣に任命する。彼を補佐する左大臣に蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣に中臣金、御史大夫(令制の大納言)には蘇我果安、巨勢人(こせのひと)、紀大人の三人を起用する。その翌年の672年には、天智天皇が近江宮で死去した。668年(天智元年)に即位してから、4年後のことであった。
 「壬申の年」の672年7月24日~8月21日(天武元年6月24日~7月23日)、「壬申の乱」(じんしんのらん)と呼ばれる宮廷クーデターが起きた。吉野に雌伏していた大海人王子(おおあまのおうじ、斉明女王の息子にして、天智大王の弟)は、いち早く近江軍の攻撃を察知して兵を挙げた。この乱で、天智大王の跡を継いで大王位に就いていた弘文大王(大友皇子改め)が戦いに敗れ、これを倒した大海人王子(おおあまのおうじ)が力づくで天下人にとって代わるのである。
 なお、その大海人王子が「天命開別(あめのみことひらけわかす)、つまり天智大王の同母弟であるとの記述が『日本書記』に見られるものの、勝った者が「大王位簒奪」の事実を正当化するために、天智・天武の兄弟説をねつ造したとの考えもあって、現在までのところ確かなところはわかっていない。
 ところで、この権力闘争において、備前の国を治める吉備氏(きびし)は、概ね中立の立場をとっていたのではないか。あるいは、どちらにも付きかねて、どちらか優勢な方に味方しようという、いわば模様眺めの姿勢であったのかもしれない。大友皇子が放った東国への使者は大海人皇子側に阻まれた。朝廷側は吉備と筑紫にも助勢を頼んだ。けれども、両勢力ともどちらの陣営へも大きくは荷担しなかった。
 これについての資料としては、『日本書記』の同年「6月26日の条」に、近江朝廷(大友皇子)側が吉備の軍事力を味方につけようとして、敵対する大海人王子と親密な関係にあった吉備国守の当麻公広島を殺害した、とある。「この頃吉備地方は吉備国として支配されていたことが知られる」(角川書店刊の『角川地名大辞典』より)というのが史実であったのなら、なぜそこまでしなければならなかったのかも問われるのではないか。ともあれ、この頃まで、吉備の国は大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見てよろしいのではないか。
 なお朝鮮半島の動静を追加すると、7世紀いったん唐の統治下に入っていた旧高句麗領の東北部の住民が蹶起して、渤海国を建てる。その後は唐の懐柔策に応じて朝貢し、王朝の機構を整えていく。倭との間に使節を送り合う関係になり、奈良・平安期に至るまで有効関係を保っていく。

(続く)

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◻️14『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷との確執)

2022-01-15 09:27:48 | Weblog
14『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷との確執)

 おそらくはこの列島にまだ「日本」などという統一国家はなく、もちろん天皇という称号もなかった時代のことだが、「日本書記」巻第十四の「大泊瀬幼武天皇、雄略天皇」には、こう述べてある。

 雄略七年(463年か)「八月、官者吉備弓削部虛空、取急歸家。吉備下道臣前津屋或本云、國造吉備臣山留使虛空、經月不肯聽上京都。天皇、遣身毛君大夫召焉、虛空被召來言「前津屋、以小女爲天皇人・以大女爲己人、競令相鬪、見幼女勝、卽拔刀而殺。復、以小雄鶏呼爲天皇鶏、拔毛剪翼、以大雄鶏呼爲己鶏、著鈴・金距、競令鬪之、見禿鶏勝、亦拔刀而殺。」天皇聞是語、遣物部兵士卅人、誅殺前津屋幷族七十人。」
 
 これによると、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)が雄略大王を呪詛していたとのことで、官者(とねり)の吉備弓削部虛空(きびのゆげのべのおおぞら)がこれを目撃し、告発した。雄略は、兵を派遣し、吉備下道臣前津屋ら七十人を殺したというから、驚きだ。同じ年の続いては、こうある。

 「是歲、吉備上道臣田狹、侍於殿側、盛稱稚媛於朋友曰「天下麗人、莫若吾婦。茂矣綽矣、諸好備矣、曄矣温矣、種相足矣、鉛花弗御、蘭澤無加。曠世罕儔、當時獨秀者也。」天皇、傾耳遙聽而心悅焉、便欲自求稚媛爲女御、拜田狹爲任那國司、俄而、天皇幸稚媛。田狹臣、娶稚媛而生兄君・弟君。別本云「田狹臣婦、名毛媛者、葛城襲津彥子・玉田宿禰之女也。天皇、聞體貌閑麗、殺夫、自幸焉。」
 こちらは、吉備の実力者の吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみのたさ)が、畿内有力豪族の葛城氏(かつらぎし)と結んで、毛姫(けひめ)という妻を娶るということで、たいそう羽振りがよかったらしい。一説には、雄略はこれを嫌ってかかる婚姻を無効にするばかりか、田狭を殺したのだと伝わる。
 さらに、「日本書記」巻第十五の「白髪武廣國押稚日本根子天皇、淸寧天皇」には、次の下りが記されている。

 「廿三年八月、大泊瀬天皇崩。吉備稚媛、陰謂幼子星川皇子曰「欲登天下之位、先取大藏之官。」長子磐城皇子、聽母夫人教其幼子之語、曰「皇太子、雖是我弟、安可欺乎、不可爲也。」星川皇子、不聽、輙隨母夫人之意、遂取大藏官。鏁閉外門、式備乎難、權勢自由、費用官物。於是、大伴室屋大連、言於東漢掬直曰「大泊瀬天皇之遺詔、今將至矣。宜從遺詔、奉皇太子。」乃發軍士圍繞大藏、自外拒閉、縱火燔殺。
 是時、吉備稚媛・磐城皇子異父兄々君・城丘前來目闕名、隨星川皇子而被燔殺焉。惟河內三野縣主小根、慓然振怖、避火逃出、抱草香部吉士漢彥脚、因使祈生於大伴室屋大連曰「奴縣主小根、事星川皇子者、信。而無有背於皇太子。乞、降洪恩、救賜他命。」漢彥、乃具爲啓於大伴大連、不入刑類。小根、仍使漢彥啓於大連曰「大伴大連、我君、降大慈愍、促短之命、既續延長、獲觀日色。」輙以難波來目邑大井戸・田十町送於大連、又以田地與于漢彥、以報其恩。
是月、吉備上道臣等、聞朝作亂、思救其腹所生星川皇子、率船師卌艘、來浮於海。既而、聞被燔殺、自海而歸。天皇、卽遣使、嘖讓於上道臣等而奪其所領山部。冬十月己巳朔壬申、大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太子。」

 これにいうのは、雄略大王の死後のことで、彼と吉備稚媛(きぴのわかひめ)との間に産まれた星川王子(ほしかわのみこ)が、母とかたらって大王位をねらう。しかし、雄略の重臣たちに察知され、企ては失敗に終わり、母子は殺されたという。重臣たちは、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の責任を追及したことになっている。
 これらに共通する話の筋としては、大王側が何かにつけて吉備氏を警戒し、隙あらば痛めつけていた、吉備氏の方もあれこれ大王の勢力に逆らっていたということであろうか。

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(参考)項目28においてもう少し詳しく解説
 それからかなりの時が経過しての壬申の乱の際には、つぎのような出来事が記録されている。この権力闘争において、備前の国を治める吉備氏(きびし)は、概ね中立の立場をとっていたのではないか。あるいは、どちらにも付きかねて、どちらか優勢な方に味方しようという、いわば模様眺めの姿勢であったのかもしれない。
 つまるところ、大友皇子が放った東国への使者は大海人皇子側に阻まれた。朝廷側は吉備と筑紫にも助勢を頼んだ。けれども、両勢力ともどちらの陣営へも大きくは荷担しなかった。
 これについての関係資料としては、『日本書記』の同年「6月26日の条」に、近江朝廷(大友皇子)側が吉備の軍事力を味方につけようとして、敵対する大海人王子と親密な関係にあった吉備国守の当麻公広島を殺害した、とある。「この頃吉備地方は吉備国として支配されていたことが知られる」(角川書店刊の『角川地名大辞典』より)というのが史実であったのなら、なぜそこまでしなければならなかったのかも問われるのではないか。ともあれ、この頃まで、吉備の国は大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見てよろしいのではないか。

(続く)

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◻️118『岡山の今昔』幕末の年貢状(岡山・米倉村の場合)

2022-01-15 09:23:31 | Weblog
118『岡山の今昔』幕末の年貢状(岡山・米倉村の場合)

 さても、年貢状としていうものが、何であったかは、時とところによるだろう。それは、まぎれもなく権力を持つ側から、彼らに支配される側へ送られてくるものであった。
 おりしも、幕末の岡山の地、1855年(安政2年)、米倉村の農民に下された年貢状には、こうあるという。なお、ここに米倉村とは、現在の岡山市北区富田、同南区新保、万倍、西市、米倉、泉田、当新田の各地区のうちの一つとしてつながる。それというのも、江戸時代の藩政期には富田、西市、新保、米倉、万倍、泉田、当新田の7つの村があったという。それが、1889年(明治22年)にそれらが合併して芳田村となり、さらに1952年(昭和27年)に岡山市へまとまって編入合併されたとのこと。
 「御野郡米倉村定免相之事
一、高弐百三拾三石三斗三升(検地による村の標準高は233石1升)       
一、又高拾弐石一斗五合(検地後、開墾等で増加している分として12石1斗5合)
一、二口高弐百四拾五石四斗三升五合(以上の合計として245石1斗1升5合)
一、内、七石七斗三升五合、年々立米万引高(耕作不能地等の分の控除として7735合)  
一、直高百弐拾五石七斗、御蔵(藩庫へ入れる米として125石7斗)     
一、残田高弐百三拾七石三斗八升((上から3番目)-(4番目)で237石3斗8升)      
一、物成九拾四石九斗五升弐合、免四つ(課税額=(上から6番目)の40%で94石9斗5升2合)
一、内、六石弐斗八升八合、樋守給(樋守への給与として6石2斗8升8合)   
一、残物成八拾八石六斗六升四合(樋守給の差引後(上から7番目)-(8番目)として88石6斗6升4合)   
一、夫米五石三斗弐升(夫役の年貢による代納分として5石3斗2升)
一、口米壱石七斗七升三合(役人の事務手数料として1石7斗7升3合)   
一、又 五斗三升六合、ぬかわら代(年貢米を運搬する駄獣の飼料代として5斗3升6合)
一、定米合九拾六石弐斗九升三合(納める年貢は上から(上から9番目)+(10番目)+(11番目)+(12番目)の合計で96石2斗9升3合)
一、内、弐石七斗五升、大唐米(うち、粗末な大唐米でよい分として2石7斗5升)
右定遣上ハ名主五人組頭小百姓。入作迄寄合無甲乙令割賦来ル。十一月中無滞急度皆済可仕候。猶死失人於有之ハ残為百姓弁可上納者也。
斎木三之丞(代官花押)
安政二年卯十月廿八日充成
名主五人組頭惣百姓中」(注釈部分は、岡山市のホームページから表現を少し変更の上、掲載)
 これにあるのは、水ももらしたくないということであろうか。大方、郡奉行を中心とする支配の側が、かかる体制発足以来連綿と続けてきた営みにほかならない。それは、正義感あふれる行動というのでもなく、ましてや農民の暮らし向きを配慮しながら行うものでもなかった。なぜなら、そこにあったのは、「仁政」などという余地が入り込むことができないものであったのだから。
 こうなると、農民たちは、ますます「休んでなどいられない」、ひたすらに年貢状の通りに働いた分の多くを供出しなければならなかった。そして、そこで引き合いにされるのは、「右の定(じょう)遣わす上は、名主、五人組頭、小百姓入作(他村からの耕作者)まで寄り合い、甲乙なく割賦せしめ、来る十一月中、滞りなく急度(きっと)皆済つかまつるべくそうろう。なお、死失人これあるにおいては、残るは百姓弁となし。上納すべきものなり」という厳命なのであった。


(続く)

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