571『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、橋本龍太郎、長野士郎)
橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう、1937~2006)は、保守派の政治家だ。ポマードで整えた感じの頭髪を思い浮かべる人も、多いのでは。
東京都の生まれ。父の地元の岡山とも行き来したのではないか。1960年(昭和35年)には、慶応義塾大学法学部政治学科を卒業する。
そして、まだ20代の青年だというのに、厚相、文相を務めた父橋本龍伍の死後、その地盤を継いだ形で、1963年に衆議院議員に当選する。
それからは、持ち前の政治感覚の鋭利さで自民党で頭角を現す。1978年には、大平正芳(おおひらまさよし)内閣で厚相として初入閣する。
さらに、運輸相、自民党幹事長、蔵相、党政調会長、通産相などを務める。中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣の運輸相として、国鉄分割民営化に邁進する。当時の中曽根首相は、アメリカのレーガン大統領にも似て、労働運動潰しを重要視していたのであろう。
1995年には、通産相として日米自動車交渉にあたる。と、こうしてみると、彼は、保守の中では、実務派の部類なのであろう。
1996年には、首相となる。同年9月衆議院を解散、10月の小選挙区比例代表並立制に臨む。この総選挙で自民党は大勝し、11月首相に第二次橋本内閣を発足させる。
1997年9月に第二次改造内閣が発足するも、1998年の参院選惨敗により、同年7月に辞任する。
それからも、2000年の第二次森喜朗(もりよしろう)改造内閣では、行政改革担当相、沖縄開発庁長官を務める。同年には、小渕派()を引き継ぎ橋本派を、立ち上げる。
2001年には、自民党総裁選に立候補し、小泉純一郎に敗れる。2004年、日本歯科医師連盟から橋本派への不正献金問題の責任を受け、同派閥の会長を辞任し、2005年8月、総選挙に立候補しないと発表する。その幕引きは、時折マスコミに見せる静かなダンディーさながらに、大方爽やかであったのではないだろうか。
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長野士郎 ながのしろう(1917-2006)は、官僚そして政治家だ。総社市の生まれ。1941年(昭和16年)に東京大学法学部を卒業すると、徴兵にはならずに1942年(昭和17年)に内務省に入る。それからは、
戦後は、選挙、行政、財政の各局長をへて、典型的な内務省官僚なのだが、1971年(昭和46年)には事務次官に就任する。その体験に基づいた学識も豊かで、地方自治法関連の学者としても広く知られる。
そして転機はやってきた。社公民路線を提唱する社会党右派の江田三郎(岡山選挙区)の勧めで、1972年(昭和47年)に岡山知事選に立候補する。自民党ベッタリの保守勢力に対抗する名目ながら、革新勢力というのでもない、それでも県民本位、住民参加の県政をとなえ、当選する。1996年までの6期務める。1995年には、全国知事会会長。
知事を退任すると、それまでの負の側面も浮き彫りになっていく。知事就任からの進化の過程では、かなりの積極財政論者、しかも吉備高原都市の建設や苫田ダムといった大規模公共事業にものめり込んでいく。
その退任直後の1996年度の岡山県の起債制限比率は15.5%にて、47都道府県中最下位となっていた。1993年度末に562億円あった財政調整基金も4分の1以下に減少するなど、破綻寸前の危機的な財政状況であった、とも伝わる。
(続く)
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橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう、1937~2006)は、保守派の政治家だ。ポマードで整えた感じの頭髪を思い浮かべる人も、多いのでは。
東京都の生まれ。父の地元の岡山とも行き来したのではないか。1960年(昭和35年)には、慶応義塾大学法学部政治学科を卒業する。
そして、まだ20代の青年だというのに、厚相、文相を務めた父橋本龍伍の死後、その地盤を継いだ形で、1963年に衆議院議員に当選する。
それからは、持ち前の政治感覚の鋭利さで自民党で頭角を現す。1978年には、大平正芳(おおひらまさよし)内閣で厚相として初入閣する。
さらに、運輸相、自民党幹事長、蔵相、党政調会長、通産相などを務める。中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣の運輸相として、国鉄分割民営化に邁進する。当時の中曽根首相は、アメリカのレーガン大統領にも似て、労働運動潰しを重要視していたのであろう。
1995年には、通産相として日米自動車交渉にあたる。と、こうしてみると、彼は、保守の中では、実務派の部類なのであろう。
1996年には、首相となる。同年9月衆議院を解散、10月の小選挙区比例代表並立制に臨む。この総選挙で自民党は大勝し、11月首相に第二次橋本内閣を発足させる。
1997年9月に第二次改造内閣が発足するも、1998年の参院選惨敗により、同年7月に辞任する。
それからも、2000年の第二次森喜朗(もりよしろう)改造内閣では、行政改革担当相、沖縄開発庁長官を務める。同年には、小渕派()を引き継ぎ橋本派を、立ち上げる。
2001年には、自民党総裁選に立候補し、小泉純一郎に敗れる。2004年、日本歯科医師連盟から橋本派への不正献金問題の責任を受け、同派閥の会長を辞任し、2005年8月、総選挙に立候補しないと発表する。その幕引きは、時折マスコミに見せる静かなダンディーさながらに、大方爽やかであったのではないだろうか。
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長野士郎 ながのしろう(1917-2006)は、官僚そして政治家だ。総社市の生まれ。1941年(昭和16年)に東京大学法学部を卒業すると、徴兵にはならずに1942年(昭和17年)に内務省に入る。それからは、
戦後は、選挙、行政、財政の各局長をへて、典型的な内務省官僚なのだが、1971年(昭和46年)には事務次官に就任する。その体験に基づいた学識も豊かで、地方自治法関連の学者としても広く知られる。
そして転機はやってきた。社公民路線を提唱する社会党右派の江田三郎(岡山選挙区)の勧めで、1972年(昭和47年)に岡山知事選に立候補する。自民党ベッタリの保守勢力に対抗する名目ながら、革新勢力というのでもない、それでも県民本位、住民参加の県政をとなえ、当選する。1996年までの6期務める。1995年には、全国知事会会長。
知事を退任すると、それまでの負の側面も浮き彫りになっていく。知事就任からの進化の過程では、かなりの積極財政論者、しかも吉備高原都市の建設や苫田ダムといった大規模公共事業にものめり込んでいく。
その退任直後の1996年度の岡山県の起債制限比率は15.5%にて、47都道府県中最下位となっていた。1993年度末に562億円あった財政調整基金も4分の1以下に減少するなど、破綻寸前の危機的な財政状況であった、とも伝わる。
(続く)
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