◻️571『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、橋本龍太郎、長野士郎)

2022-01-29 20:54:31 | Weblog
571『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、橋本龍太郎、長野士郎)

 橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう、1937~2006)は、保守派の政治家だ。ポマードで整えた感じの頭髪を思い浮かべる人も、多いのでは。


 東京都の生まれ。父の地元の岡山とも行き来したのではないか。1960年(昭和35年)には、慶応義塾大学法学部政治学科を卒業する。


 そして、まだ20代の青年だというのに、厚相、文相を務めた父橋本龍伍の死後、その地盤を継いだ形で、1963年に衆議院議員に当選する。


 それからは、持ち前の政治感覚の鋭利さで自民党で頭角を現す。1978年には、大平正芳(おおひらまさよし)内閣で厚相として初入閣する。
 さらに、運輸相、自民党幹事長、蔵相、党政調会長、通産相などを務める。中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣の運輸相として、国鉄分割民営化に邁進する。当時の中曽根首相は、アメリカのレーガン大統領にも似て、労働運動潰しを重要視していたのであろう。


 1995年には、通産相として日米自動車交渉にあたる。と、こうしてみると、彼は、保守の中では、実務派の部類なのであろう。


 1996年には、首相となる。同年9月衆議院を解散、10月の小選挙区比例代表並立制に臨む。この総選挙で自民党は大勝し、11月首相に第二次橋本内閣を発足させる。


 1997年9月に第二次改造内閣が発足するも、1998年の参院選惨敗により、同年7月に辞任する。


 それからも、2000年の第二次森喜朗(もりよしろう)改造内閣では、行政改革担当相、沖縄開発庁長官を務める。同年には、小渕派()を引き継ぎ橋本派を、立ち上げる。


 2001年には、自民党総裁選に立候補し、小泉純一郎に敗れる。2004年、日本歯科医師連盟から橋本派への不正献金問題の責任を受け、同派閥の会長を辞任し、2005年8月、総選挙に立候補しないと発表する。その幕引きは、時折マスコミに見せる静かなダンディーさながらに、大方爽やかであったのではないだろうか。


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 長野士郎 ながのしろう(1917-2006)は、官僚そして政治家だ。総社市の生まれ。1941年(昭和16年)に東京大学法学部を卒業すると、徴兵にはならずに1942年(昭和17年)に内務省に入る。それからは、
 戦後は、選挙、行政、財政の各局長をへて、典型的な内務省官僚なのだが、1971年(昭和46年)には事務次官に就任する。その体験に基づいた学識も豊かで、地方自治法関連の学者としても広く知られる。
 そして転機はやってきた。社公民路線を提唱する社会党右派の江田三郎(岡山選挙区)の勧めで、1972年(昭和47年)に岡山知事選に立候補する。自民党ベッタリの保守勢力に対抗する名目ながら、革新勢力というのでもない、それでも県民本位、住民参加の県政をとなえ、当選する。1996年までの6期務める。1995年には、全国知事会会長。
 知事を退任すると、それまでの負の側面も浮き彫りになっていく。知事就任からの進化の過程では、かなりの積極財政論者、しかも吉備高原都市の建設や苫田ダムといった大規模公共事業にものめり込んでいく。
 その退任直後の1996年度の岡山県の起債制限比率は15.5%にて、47都道府県中最下位となっていた。1993年度末に562億円あった財政調整基金も4分の1以下に減少するなど、破綻寸前の危機的な財政状況であった、とも伝わる。


(続く)

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◻️438に合併『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山川均、岡崎嘉平太)

2022-01-29 19:00:11 | Weblog
438に合併『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山川均、岡崎嘉平太)

 山川均(やまかわひとし、1880~1958)は、日本の社会主義者にして翻訳家でもある。革命家の部類に属しながらも、政争にはなじまなかったのではないか。むしろ、私見だが、政治思想家というのがふさわしい。

 今の岡山県の倉敷の生まれ。後の自伝に、こんな当時の故郷評を述べている。

 「倉敷は片田舎の町としては、たしかにきれいな町だった。大正8年(1919)に、私といっしょにはじめてこの地方に旅行した妻の菊栄をおどろかせたのは、関東や東北の農村にくらべて、鉄道沿線の農家のかくだんに裕福そうなことだった。(中略)
 じっさい私の町は白くて明るい町、そしていかにも昔風の田舎の大家といったような感じをあたえる町だった。(中略)
 こうして私の村は多年のあいだの地方政治の小中心地からはなれ、「天領倉敷」などというハクのはがれた、ただの田舎になった。そのとたんに御蔵元も御廻米もなにもかも吹き飛んでしまったので、私の家は完全な意味で失業してしまった。」(「山川均「山川均自伝」」)


 若くには、同志社大学時代、キリスト教にも大いに傾倒した時期があったという。聡明さは群を抜いていて、大学時代から社会の動きに鋭敏であった。マルクスの思想を身に着けて後は、それらに加え、大いなる気概をもって前進していく。

 1922年7月15日には、山川らが中心となって日本共産党が誕生した。しかし、この党はほとんど機能していないところで、翌1923年6月には主要メンバー29名が検挙され、壊滅状態に陥ってしまった。ともあれ、時期尚早ということばかりではあるまい。

 この共産党の結成と同じ年の7月、当時の左翼陣営の理論的指導者とみなされていた山川均は『前衛』誌上に、政治向きの論文を発表した。「無産階級運動の方向転換」と題する刺激的な名が付されていた、この論文はまず「過去二十年間における日本の社会主義運動は、まず自分を無産階級の大衆と引き離して、自分自身をはっきりさせた時代であった」と振り返る。

 しかし、これは「独立した無産階級的の思想と見解とを築くためには、必要な道程であった」のだと。これを言い換えると、日本の社会主義者は、自らを「思想的に徹底し純化する」というその「第一歩」を「りっぱに踏みしめた」ということになろうか。

 そこで今度は、我々は、「次の第二歩を踏み出さねばならない」ことになるとして、こう続ける。


 「無産階級の前衛たる少数者は、資本主義の精神的支配から独立するためにまず思想的に徹底し純化した。それがためには前衛たる少数者は、本隊たる大衆を遙か後ろに残して進出した。(中略)そこで無産階級運動の第二歩は、これらの前衛たる少数者が、徹底し純化した思想を携えて、遙か後方に残されている大衆の中に、再び引き返して来ることでなければならぬ。(中略)『大衆のなかへ!』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ。」

 それでは、この「大衆の中へ!」の「方向転換」は具体的にはどのようなものかというと、こうある。
 「無産階級の大衆が、現に何を要求しているかを的確に見なければならぬ。そして我々の運動は、この大衆の当面の要求に立脚しなければならぬ」、「我々は勢い無産階級の大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動、部分的の勝利を目的とする運動を、今日より重視しなければならぬ。」


 そんな硬派の典型のような冷徹な頭脳の持ち主にしては、その私生活で見せる表情や仕草(しぐさ)たるや、どこか「あっけらかん」なものであったようだ。夫人で同志の山川菊栄は、「山川均自伝」の「あとがき」でこんな面白さを紹介している。

 「無口で、気むつかしく、ウイットに冨み、鋭利な皮肉を、うっかりしていると気づかずにすむほどさりげない、デリケートないいまわしでいったりする」「堺君はタタミの上で死にたくないというが、僕はタタミの上でも死にたくないよ、とよくいったくらい、英雄的ではありませんでした」「寸鉄殺人的な彼の舌の動きは・・・名人芸」云々。
 

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 岡崎嘉平太(おかざきかへいた、1897~1989)は、吉備郡大和村(現在の加賀郡吉備中央町)の生まれ。家は、裕福であったのかも知れない。
 県立の岡山中学校(現在の県立岡山朝日高校)までを、岡山で過ごす。そのご、東京の第一高等学校へとすすむ。
 1922年(大正12年)に東京大学を卒業し、日本銀行に入る。 エリートの道であろう。1939年(昭和24年)には、上海の華興商業銀行理事となる。こちらは、日中共同出資の会社であったという。それから、大東亜省参事官を務める。こちらでは、上海の大使館にいたという。その頃の言葉であろうか、次のようなものと伝わる。
 「我々は隣国とだんだん、だんだん交わりを深くして隣国との間に争いを起こさない。アメリカも大切な一人であり、我々が自由陣営から離れることは絶対、民族にとって不利でありますけれども、ただそれだけで、自由陣営に属しない者の悪口を言いけとばして済むかというと、そういうわけにはまいりません。まず相手を知る。とにかく我々は体を持って行って見る。向こうの人と直接会ってみる。直接向こうの実情を見た上で、我々の否応を判断しなきゃいけない。」
 1945年(昭和20年)には、日本敗戦となり、その処理で国民党政府の湯恩伯将軍と交渉する役割を担う。戦争責任には、問われなかったようだ。
 日本へ引揚げ帰国の後には、池貝鉄工、丸善石油の再建に参加する。続いて、全日空の副社長、1961年(昭和36年)には社長となる。
 1962年(昭和37年)には、高碕達之助経済訪中団に同行する。以来、日中友好に取り組んでいく。しだいに、日中民間総合貿易の中心人物となっていく。
 1967年(昭和42年)には、全日空社長を退く。その後も全日空に隠然たる影響力をもっていたという。

(続く)
 
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