○156の2『自然と人間の歴史・日本篇』石見銀山(16世紀)

2020-10-04 09:58:06 | Weblog
156の2『自然と人間の歴史・日本篇』石見銀山(16世紀)

 2007年に国連ユネスコの世界文化遺産に指定された石見銀山(いわみぎんざん、現在の島根県大田市)は、喜ばしいことだ。
 その記載物件名としては、「石見銀山遺跡とその文化的景観構成資産銀山柵内、 代官所跡、 矢滝城跡、 矢筈城跡、 石見城跡、大森・銀山、 宮ノ前、 熊谷家住宅、 羅漢寺五百羅漢、 石見銀山街道鞆ケ浦道、 石見銀山街道温泉津・沖泊道、 鞆ケ浦、 沖泊、 温泉津重要伝統的建造物群保存地区」と、広範囲に及ぶ。

 要は、石見銀の採掘・精錬から製品の運搬、積み出しに至るまでを表す「銀鉱山跡と鉱山町」、「港と港町」、それに、これらをつなぐ「街道」も構成要素となっているのが、特徴的だ。

 そもそもこの鉱山は、14世紀に発見された模様だ。その当時の確かな史料が見つかっているわけではない。その後は歴史の表面から消えたといおうか。一説には、「大内氏のもとで、採掘が行われていたのだが、一時的に中断していた」(豊田有恒「世界史の中の石見銀山」祥伝社、2010)とも言われる。


 1526年(大永6年)には、博多商人の神谷寿貞(かみやじゅてい)が、仲間とともにこの地に入り、銀を掘り出す。
 その時は、初めから銀を目当てにしていたのでななく、「出雲へ行こうとして船で石見の海を渡りながら、遥か南の山を望むと、かく然とした光が見えた」とされ、その通りなら、なんとも不思議な話では、ないか。

 そうはいっても、寿貞としては、中国や朝鮮への輸出品であった銅を入手するべく、石見地方の東隣り合わせの出雲辺りに向けて日本海沿岸を旅していたのであるなら、そんなこともあろうかと情報探索も兼ねていたのかもしれまいに。


 これに喜んだ寿貞は、この地を領有している大内義興(おおうちよしあき)の庇護を受けつつ、銀の採掘を行う。

 その後、この辺りの事情は、大きく変わっていく。1550年代に下克上により大内氏が滅亡すると、石見地方の東方の出雲地方を本拠地とする戦国大名尼子氏(あまごし)が、この地方に散らばる「石見銀山」に侵入するようになり、そのうちに当地銀山群の支配権を掌握する。

 それからしばらくすると、今度は安芸国に本拠をおく毛利氏が争乱状態にあった石見地方を奪うため、進出してくる。
 毛利軍は、用意周到であった。その要衝とされる矢筈城(やはずじょう)や山吹城(やまぶきじょう)を手にいれようと、これらの城を巡って激しい攻防が繰り返される。

 そしての1561年には、毛利軍が銀山地区に進出し、これを手中に収める。尼子氏は、そのことも影響してか、衰退への道をあゆんでいく。

 かくて銀山を制圧した毛利氏は、そこから約9キロメートルばかり西に位置する温泉津(ゆのつ)や沖泊(おきどまり)に家臣をおき、銀山一帯の支配を進めていく。
 やがて、そのルートで銀の搬出を円滑に行うべく、街道を整備していく。沖泊の港は温泉津港の北側にあたり、16世紀後半になると、鞆が浦に代わり銀の主要な搬出港となっていく。

 1562年には、天皇や室町幕府などに対して銀山の一部を寄進したり、生産した銀の一部を献上するとともに、自らも生産した銀の多くを勢力拡大のために用立てていく。

 その後の1580年代になると、戦国大名の毛利氏は豊臣氏の支配下に入る、そうなると、多くの富を生んでいる銀山経営をその後も手にしつつも、毛利氏としては、天下人秀吉による、より上位な支配を受けることにもなっていく。


(続く)

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♦️930の1『自然と人間の歴史・世界篇』グローバル資本主義における所得分配(おおよその見当)

2020-10-03 14:08:28 | Weblog
930の1『自然と人間の歴史・世界篇』グローバル資本主義における所得分配(おおよその見当)


 さても、新型ウイルス感染拡大は、まだ、止まっていない。同時にこの問題は、現代世界で、一部を除いて支配的な社会経済体制である資本主義の運営や仕組みにも、大いなる課題や疑問を投げかけているのではないだろうか。

 例えば、2020.10.3のNHKのBSニュース(フランス放送局発の部分)によると、「フランスでは、救援センターの利用者が3月以来3倍に増えています」とのこと。
 同センターは、食事に事欠いている人々に食べ物を無料で提供する活動をしており、フランスでは新型コロナウイルス下で貧困者が増大していることからこのような急増になっている、と分析している。

 このような話はいま、世界のいたるところで、その有効性がわかっていても行われていないか、目指されていたり、様々なかたちで行われているところなども散見されよう。

 それにしても、この問題はその発生からすでに10か月目を迎えつつあり、その根は深く、新型ウイルス感染拡大は、各人の「命の値段」にも波及してきているのではないだろうか。

 ついては、かかる新たなかたちでの貧困、「社会的弱者」などへの経済的なしわ寄せがなぜ避けられていないのか、しかも、そのような社会になっている根本的理由をあきらかにしようとの取り組みは、まだそう多くないように感じられる。
 ここでは、そのような取り組みの一助として、資本主義社会における所得分配の階級的性格について、すこしなりとも、「なぜそうなっているのか」を中心において考えてみよう。

 所得が増加(減少)するにつれ人々の消費の割合が減って(増えて)いくのは改めて証明を必要としない自明の事柄だと言われる、はたしてそれは心理法則であろうか、いや、そうではないと考えられよう。
 その理由は、同じ「所得」でも労働者の所得と資本家の所得ではそのあり方が異なるからだ。

 いま貯蓄をS、労働者の所得をW、資本家の所得をP、労働者と資本家の所得に占める貯蓄の割合をそれぞれsw、spとすると、Sは両方の所得の合計したものなので、次式が導かれよう。

S=swW+spP  ①
さて国民所得はY=W+Pなので、①式をこのYで割ると、

S/Y=sw+P/Y(spーsw)  ②
この式においてS/Yは国民経済全体に占める貯蓄の割合(貯蓄率)、
P/Yは資本分配率。

 ここで資本家の貯蓄率(sp)は労働者の貯蓄率(sw)より大きいと考えられることから、国民所得の分配問題とは優れて階級的な問題であることが分かる。

spーsw>0  ③


 もちろん、これには「資本家の貯蓄率(sp)は労働者の貯蓄率(sw)より大きいとは思わない」との反論が出されるかもしれない。


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 次は、現代の多くの人々が日頃大きな値の方がよろしいという評価をしている経済指標の中から、国内総生産と労働生産性を中心に、それらの相互関係を考えてみよう。

 粗国民国民所得、経済成長、労働生産性などの関係式について(拙ホームページから転載)

 まずは、数学公式z = xyの中の変数x,yについて、{(x+Δx)+(y+Δy)-xy}/xy=Δx/x+Δy/y+ΔxΔy/xyとなり、Δx,Δyが十分に小さいときは最後の項を無視できてΔ(xy)/xy=Δx/x+Δy/y(2変数の積による合成関数の変化率式)となる。

 上記の変化率の公式を導き出すには、z=xyの対数をとって(logz=logx+logy)、両辺を微分してもΔ(xy)/xy=Δx/x+Δy/yを導ける、その導出方法はこうなる。
log z = log xy
log z = log x +log y
両辺を微分して
Δz/z= Δx/x + Δy/y
Δ(xy)/xy = Δx/x + Δy/y
よって、2変数の積による合成関数の変化率式が示された。

ただし、
Y=L・y:(4.1)
Y:粗国民所得
L:生産部面の年間平均労働者数
y:平均労働生産性(生産部面の平均労働者数で粗国民所得を割ったもの)
(4.1)式を微分して変化率をとると、
△Y=L・△y+△L・y+△L・△y
右辺の3項目目は微小数なので省略して、
△Y=L・△y+△L・y:(4.2)
(4.2)式を(4.1)式で割ると、
△Y/Y=△y/y+△L/L:(4.3)
粗国民所得の成長率△Y/Yを=r(アール)、労働生産性の向上率△y/yをα(アルファ)、雇用の増大率△L/Lをβ(ベータ)とおくと、
r=α+β:(4.4)
次に、人口一人当たりの粗国民所得(Z)の増大率に対する雇用の増大と労働生産性の向上をみる。一国の総人口をN、人口の自然増加率をλ(ラムダ)=△N/Nとおくと、
Z=Y/Nの変化率△Z/Zは、(4.4)式を動員して
△Z/Z=(△Y/Y)/(△N/N)=r-λ=α+β-λ:(4.5)
この式から、労働生産性の向上率が大きいほど、雇用の増大率が大きいほど、人口の自然増加率が小さいほど人口一人当たりの粗国民所得(Z)の増大率は大きくなる。この中の雇用の増大が賃金上昇に通じて資本の利潤増大を脅かすのであれば、資本家が利潤のために一番に取り組もうとするのは、労働生産性の上昇による利潤の増大ということになる。


 一方、労働生産性に一番に寄与するのは、資本装備率であって、それは生産関数に表される。

(この後、追加予定)

 しかして、労働生産性向上の要因については、次に列記するように様々ある。

(1)技術的生産条件、労働の技術装備度(労働者定員一人当たりの固定生産価額)
(2)労働者の熟練度、専門的知識、生産上の経験
(3)労働と生産の組織形態
(4)生産の集約度
(5)自然的条件
(6)国民経済の構造変化へのシフト
(7)生産条件の動的要因(エネルギーなど)
労働生産性は、大まかに技術的要因と非技術的要因とに分かたれる。 
(1)技術的要因(労働の技術装備度の引上げなど)
(2)非技術的要因(基本的に投資要因以外)

(続く)


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○167の2『自然と人間の歴史・日本篇』長島一向一揆(1571~1574)と石山合戦(1570~1580)、姉川の戦い(1570)、長篠の戦い(1575))

2020-10-01 22:26:44 | Weblog
167の2『自然と人間の歴史・日本篇』長島一向一揆(1571~1574)と石山合戦(1570~1580)、姉川の戦い(1570)、長篠の戦い(1575)


 本願寺第 10世の証如は、第8世蓮如の建立した石山道場を同宗の本寺とし、勢力を広げていく。やがて、この地を拠点に、近畿一円に勢力を伸ばしていく。信長は、そのうちに浅井、朝倉の両氏を姉川の戦いを構え、その傍ら本願寺打倒に立上がると、本願寺は、全国の門徒を対信長戦に駆りたてる。


 ここに姉川(あねがわ)の流域というのは、近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町辺り)をいう。これより前、信長は足利義昭を将軍職に推して上洛するも、越前の朝倉氏と近江の浅井(あざい)氏はともに畿内における信長勢力の伸張をはばみたい。そこで信長が朝倉氏追討の軍を起すと、浅井氏は朝倉氏に呼応して立ち上がり、かたや信長は家康に援軍を依頼してこれに対する。

 しかしての1570年7月30日(元亀元年6月28日)、この姉川をはさんで、織田、徳川軍の約2万 9000人と、浅井、朝倉軍の約1万 8000人とが向かい合う。
 初めうちは、浅井、朝倉連合軍が優勢に展開する。しかし、徳川軍が奮戦してこれをくいとどめるうちに、乱戦に持ち込まれ、そのうちに織田、徳川連合軍のが押し出し、勝利をもぎ取る。この勝利が信長にもたらした成果は大きく、畿内における覇権がほぼ決定した。

 あわせて信長は、摂津国(せっつのくに)、石山(大坂)の本願寺に陣取る、一向宗の門徒に当地からの退去を要求する。これを拒絶した法主(ほっす)の顕如(けんにょ)は、徹底抗戦を号令す。彼らは、三好氏や浅井、朝倉氏、それに武田氏らと同盟を結ぶ。平行して、近江や長島など諸国で一向一揆が起こる。


 これらのうち長島というのは、現在の三重県桑名市にある、木曽三川(木曽川・揖斐川・長良川の「木曽三川」に囲まれた中洲の一つをいう。1560年代、この長島には願証寺(がんしょうじ)という親鸞を開祖とする、「一向宗」、現在でいう浄土真宗本願寺派の寺があり、周辺地域に散らばる門徒を束ねていた。

 そしての1570年(元亀元年)、彼ら宗徒の総本山、石山本願寺の顕如は、織田信長を敵とし、長島城を攻めさせ、これを奪う。浅井氏、浅倉氏と対陣(この年、姉川の戦い)している信長が支援にいくことができない中、木江城も奪い、桑名城の滝川一益を敗走させた。

 翌1571年(元亀2年)、信長自身が出陣するも、機先を制する形で一揆勢が攻撃して来て、信長軍は敗走する。これを「第一次長島攻め」という。

 「第二次長島攻め」は、1573年、信長は数万の兵を率いて再度長島への攻撃を行う。これを「第二次長島攻め」と呼ぶ。一揆側の立て籠る坂井城、近藤城を陥落させる。この時点で、信長は北伊勢の平定には成功した形ながら、長島への直接攻撃を見送る。

 そして迎えた1574年、信長軍は、三度目の長島攻撃を行う。た。信長は嫡男・信忠と共に数万の大軍を率いて岐阜城を出発し、長島城を攻め立て、落城させる。降伏した者も、老若男女の区別なく殺し、火を放つなど、残虐の限りを尽くす。

 はたして、この間の信長は、あれやこれやの勢力を相手にしなければならなかった。そこでは、本願寺としばしの講和を結んでは、戦局が有利となれば、また戦いを再開するという展開であったろうか。

 そんな信長包囲も、1575年(天正3年)の長篠(ながしの)の戦いで武田氏の勢力が大きく敗退すると、ほころびが目立っていく。この戦いの戦場は、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)にして、約3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、約1万5千人の武田勝頼の軍勢が激突した。
 かたや土塁と柵を楯(たて)に陣取り、鉄砲の威力に勝る前者が、そこに押し寄せる後者の騎馬隊を撃退し、勝利した。なお、織田軍の用いた鉄砲の方が命中精度が高く、そのことが介在したのではないか、とも伝わる。

 なお、この時、武田側にいま少しの慎重さがあれば、戦況はことなっていたのではない。それというのも、一旦前線を引いて状況を把握し直すべきだったのではないか。想像するに、前年の1574年(天正2年)の武田軍は、信玄の時に落とせなかった近江国、高天神城の攻略に成功したことで、勝頼に敵方の新戦術への警戒心が某か薄れたままに、その時に臨んでいたのではないだろうか、いずれにしても、無謀な設楽原(したまがはら)での武田軍の突進であった、という他はなかろう。

 1573年(天正元年)、信長は、将軍足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡する。
1576年(天正4年)からの本願寺は、毛利氏と結び籠城戦となる。信長は、一向宗門徒を近江、長島、雑賀に討ち、浅井,朝倉両氏を滅ぼし、武田氏を長篠に撃退、伊勢に北畠氏を滅ぼし、畿内にはもう信長に対抗できる大名はいなくなっていく。さらに信長は、毛利氏征伐の軍を起し、本願寺を孤立させていく。

 そして迎えた1580年(天正8年)、本願寺は信長に屈服し、信長と和睦の誓紙を交換してから、大坂を退去する。

 その成り行きは、「大坂退城仕るべきな旨、忝(かたじけ)なくも禁中より御勅旨をなされ」との、「勅命講話を奉じるというかたちで和睦に応じた」(和田裕弘「信長公記ー戦国覇者の一級史料」中公新書、2018)との話であったという。
 
 信長は、こうして危機を脱し、「天下布武(てんかふぶ)」の道をあゆんでいく。続いての1582年(天正10年)の天目山の戦いでは武田氏を滅ぼしその勢いに弾みがつくも、同年勃発の本能寺の変により、その夢がつぶれる。


(続く)

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