サラ☆の物語な毎日とハル文庫

ル=グウィン『いまファンタジーにできること』についてのノート

いまごろ何だけど、ル=グウィンはアメリカの作家だった。
これは驚きだ。
てっきり北欧とかドイツとか、そっちの地域の作家だとばかり。
昔『ゲド戦記』を読んだときにインプットされたイメージが修正されないまま、ということでした。

『いまファンタジーにできること』(原題Cheek by Jowl)は ル=グウィンの新しい評論集。
2010年のローカス賞(Best Non-Fiction Book/Art Book部門)を受賞している。
ローカス賞とは、アメリカのSF・ファンタジー情報誌《ローカス》の読者の投票によって選ばれる賞。英米SF賞ではヒューゴー賞・ネビュラ賞につぐ三番目に権威のある賞だそうだ。

★ファンタジーは、前と悪の真の違いを表現し、検証するのに、とりわけ有効な文学です。私たちり現実が見せかけの愛国心と独りよがりの残忍さへと墜落してしまったように思われる、このアメリカで、想像力による文学は、今もなお、ヒロイズムとは何かを問いかけ、権力の源を検証し、道徳的によりよい選択肢を提供しつづけています。戦いのほかにたくさんの比喩があり、戦争のほかにたくさんの選択肢があります。そればかりか、適切なことをする方法のほとんどは、誰かを殺すことを含んでいません。ファンタジーは、そういうほかの道について考えるのが得意です。そのことをこそ、ファンタジーについての新しい前提にしませんか。(12ページ)

★子どもの本はテンポのよいストーリーや明快な倫理的教訓以上のものを担うことができる。──子どもたちには偏狭な処世訓よりも活発な想像力が必要だとか、子どもたちはイメージと言語の美しさに反応するとか、子どもは問い方を学ぶために読むのであって、答えを教えられるために読むのではないとか──そういう考えは、子どもの本にひょう評価を下す人たちにとって耳になじみがないことらしい。(55ページ)

★『白鯨』のファンタジー要素は、白鯨、モービー・ディックだ。動物を人間と同等の主要キャラクターとすることは──近代的な用語法で言えば──ファンタジーを書くことと同じだ。それが何であれ、何かを人間と等しい地位に置くということ、同等の重要性をもたせるということは、リアリズムを捨てることだ。
 リアリズムのフィクションは、あくまでも人間の行動と心理に焦点を当てつづける。(59ページ)

★ドリトル先生は保護し、治療することで、動物たちを助ける。動物たちはお返しに彼を助けはじめる。これがテーマであり、この物語のほとんどすべての基礎である。「鳥や獣やさかなという友だちがある限り、恐れることは何もない」。世界のどの文化でも、この助け合いのテーマ、アニマル・ヘルパーのテーマが理解されていた──わたしたちの街路や高層建築から動物たちを締め出すまでは。わたしが思うに、世界じゅうの子どもがみんな、今でもこのテーマを理解している。動物たちと友だちになることは、世界と友だちになり、世界の子どもになることであり、世界と結びつき、世界によって育てられ、世界に属することだ、と。(128ページ)

★わたしたちは孤立すると気が狂う。わたしたちは社会性に富む霊長類だ。人間には属することが必要だ。お互いに属すること。もちろん、それが第一だ。けれども、わたしたちは遠くまで見ることができ、賢く考えを巡らすことができ、大いに想像することができるから、家族の一員、部族の一員、自分たちと同じような人々の中のひとりであるだけでは満足できない。人の心は怖がりで疑り深いが、それでもなお、もっと大きなものに属すること、もっと幅広いものとひとつになることを渇望する。荒野はわたしたちを恐れさせる。それは未知のもので、無頓着で危険だから。だが、それはわたしたちにとって絶対に必要なものでもある。動物の他者性、異質性──正気でいたい、生きつづけたいと願うなら、わたしたちより古くて偉大なそれにこそ、結びつかなくてはならない。あるいは、再度、結びつかなくてはならない。
 子どもたちこそ、わたしたちをそれに結びつける結び目だ。……彼らは、彼らが属する文化がおおむね否定しているものを受け入れている。彼らもまた両手を差し出して、わたしたちをより大きな世界に、再び結びつけてくれる。わたしたちを、本来、属しているところにいさせてくれる。(144ページ)

★(魔法使いの学校についての)アイデアはわたしをしっかりとくわえました。ブルドッグのように。いや、むしろ、ウワバミのように──それはわたしをぐるぐる巻きにして、むさぼり食いました。わたしはそれ自体になりました。小説を書くということはそういうことです。ウワバミの内側に棲むゾウになること。星の王子さまはそのことを知り尽くしていました。(149ページ)

★伝説、神話、ファンタジー、それらは皆、同じ場所で生まれます。それはわたしたちの心の中の、物語とは何かを知っている場所です。現実がどうなのか、実際に何が起こったのか、語ることはできません。語ることができるのは物語です。とても融通がきき、いくらでも手直し可能な、非常に有益な物語。それを使ってわたしたちは、現実をリメイクします。(160ページ)

★神話や想像力の文学は危険を冒します。……合理化される危険──説明を加えられ、寓意に格下げされ、メッセージとして読まれる危険です。……誰もが『不思議の国のアリス』が何を意味するのかを教えたがります。でも、そういう人たちがチャールズ・ドジソンやヴィクトリア朝の道徳観や数学やリビドーについて語れば語るほど、その人たちはルイス・キャロルとアリスから遠ざかります。ルイス・キャロルとアリスはドーどードー鳥に囲まれて、のうのうとチェスをやっていられます。(161ページ)

★物語を語ることは、意味を獲得するための道具として、わたしたちがもっているものの中でもっとも有効な道具のひとつだ。物語を語ることは、わたしたちは何者なのかを問い、答えることによってわたしたちのコミュニティーをまとまらせるのに役立つ。また、それは、わたしは何者なのか、人生はわたしに何を求め、わたしはどういうふうに応えられるのかという問いの答えを知るのに、個人がもつ最強の道具のひとつだ。(171ページ)

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