仕事も一段落したので、頭がこなれる本を読みたいと思って、手に取った本。
村上春樹の、こうした“読みもの”が好きだ。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』というタイトルの対談本。
村上春樹の本ということで読み始めたけれど、
むしろ心惹かれたのは、河合隼雄氏の物語論。
対談なので、断片的に語られるにすぎないけど、
「えっ、そうなの!?」とその発言にいたく反応した。
そんな感じの人だったんだ、河合隼雄って、とがぜん興味がわいた。
こんど河合隼雄の本を読んでみようと思う。
河合隼雄氏は、スイスのユング研究所で、日本人初のユング派分析家の資格を取得した
有名な心理学者。残念なことに、13年前に亡くなられている。
本や著者も、出会いなのだ。
何かきっかけやご縁がないと、自分の読書の範疇に入ってこない。
今頃になって、ご縁ができたってことかなー。
せっかくなので、忘れないように、印象に残った部分をノートしておこうと思います。
(以下、新潮文庫からの引用)
★ストーリーというのは背後にイメージを持っていなかったら絶対に成立しないのですね。
そして、たとえば、非常に内的なイメージがあったとして、
それを他者に提示しようと思ったら、物語にするしかないんです。
ストーリー・テリングだけのおもしろさは長続きがしないのです。
そこで、もう一度イメージとの関係回復が必要になり──
イメージとの関連にコミットしていくことが課題となってきたのではないでしょうか。
イメージや物語は、それを生きるというところがないと迫力がなくなってくるのですね。
★「物語のあり方をもう一回考え直す」ために、私としてはこれまで
「昔話」や「児童文学」を取り上げてきました。
大人どもから見れば、まさに「稚拙」に見える物語が、
どれほどの深い意味を持っているかを示そうとしたつもりです。
★昔はそんな難しいこと言わなくても、身体性も精神性もみんなこみでありまっせ、
という格好だったんじゃないですか。
物語と小説の違いとか、そんなことを言う必要もなかったのです。
もうそれしかないんだから。
いまわれわれがポスト・モダンというのでいろいろと手探りしていることが、
昔はひょいひょいと平気でありました。
だから、ぼくは昔の物語とか説話とかが大好きなのです。
ぼくの仮設ですが、物語というのはいろんな意味で結ぶ力を持っているんですね、
いま言われた身体と精神とか、内界と外界とか、男と女とか
ものすごく結びつける力を持っている。
あの当時はそれらがいまのように分かれていないところに、物語があったのです。
★(『源氏物語』の中にある超自然性、怨霊とかは、現実の一部として存在したものなのか?
という村上春樹さんの質問に対して)
あんなのは(怨霊)まったく現実だとぼくは思います。
(物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?)
ええ、もう全部あったことだと思いますね。
だから。装置として書いたのではないと思います。
★現代の小説では、ものすごい偶然でこんなにおもしろいことがあった、
というようなことは書けないのですね。
なんとなくちゃんとみんなが納得できるように書く、
しかし、実際はおもしろい偶然というのが多いんですよ。
ぼくが、だれかの治っていかれるのに立ち会っていますね。
そうすると、やっぱりものすごくおもしろい偶然が起こるのです。
その人はその偶然を契機によくなられるのですよ。
その話をぼくがそのまますると「そんなばかなことがあるか」とみなさん言うのですよ。
あるかって、あったのだからしょうがないでしょう。
現実をそのまま語ったらみんなが「おかしいおかしい」と言う。
というのは、みんなが「現実はこうあるべきだ」という、
ものすごくけったいなことを信じているのですね。
実際にぼくが遭遇している現実では偶然ということが多いんですよ。
ぼくはときどき冗談半分で「あなたは絶対に治らないだろう」と患者さんに言う。
しかし、「偶然ということがあるから、ぼくはそれに賭けているからやりましょう」と言う。
そして実際そうなるんです。
ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているのです。
ぼくは治そうとなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです。
(偶然を待つというのはつらいですよね。村上)
そりゃつらいですよ、なんにもしないんだから。
待っていて、うまいこと偶然が起こったら、
そのときはやっぱりパッパッとがんばらなくてはいけないんですけれどもね。
「偶然」って、計り知れないから当てにできないなんて思ってるけど、
「偶然」というのは、物語が始まるファンファーレだったりするのかもしれないと
思ったり!!!