サラ☆の物語な毎日とハル文庫

マキシム・ゴーリキーとサムイル・マルシャーク(『森は生きている』)の出会い

 

ゴーリキーとマルシャーク(右)
 
サムイル・マルシャークは1887ロシアのヴォロネジ生まれた。 
父親は石鹸工場の職工長だった。 
貧しいユダヤ人の家庭だったけれど、 
マルシャークの弟、ミハイル・イリーンも 著名なノンフィクション作家だったことからすると、 
優れた家庭環境だったのだろうと思う。  
 
 
 
マルシャークは言葉を話すよりも先に詩を口ずさんだと言われる 
生まれながらの詩人だった。 
 
 
 
 
ヴォロネジ郊外にあるオストロゴージスクの中学に進級したマルシャークだが、 
父親がサンクトペテルブルクの工場に新しい仕事を得て引っ越すことに。 
 
 
それで家族と離れ、兄とマルシャークだけオストロゴージスクに残り 
これまでどおりの中学で勉強することになった。 
 
 
 
夏休みになると、兄弟は待ち焦がれたように 
サンクトペテルブルの両親のもとにでかけていった。 
そのときにチャンスがおとずれた。  
 
 
 
マルシャークのつくった詩に感心した知り合いが、 
街のある有名な芸術愛好家にマルシャークのことを話した。 
その人がつぎに、当時ロシアで有名な美術評論家だったスターソフの前で 
マルシャークの詩を誉めそやした。 
 
 
 
マルシャークはスターソフの家に呼ばれ、 
自分で翻訳したや自分のつくった詩、 
オストロゴージスク中学校のことを題材にしたこっけいな詩など 
ぜんぶ読み上げた。 
 
 
 
スターソフはマルシャークをすっかり気に入り、 
マルシャークの家族が(ユダヤ人)隔離法の例外として認められるよう、とりはからっくれた。
 
 
 
 
かくしてマルシャークは
〝50年以上もの伝統をもち〟 
その頃行われた教育改革の後でも 
〝ギリシャ語やラテン語の全課程を残している貴族的な学校〟 
に転校することになった。  
 
 
ところがマルシャークは サンクトペテルスブルクでの忙しい生活で体調を崩した。   
スターソフをめぐる著名な芸術家との交流、
中学での勉強に疲れったのだ。 
それにもともと、マラリアの後遺症の貧血症と、心臓の病気を持っていたそうだ。 
結核の病気にかかってしまったマルシャーク少年。 
 
 
 
その不運もゴーリキーとの出会いによって救われた
 
 
 
サンクトペテルブル郊外スターソフの別荘に遊びに行った1904年の夏の終わり。 
その別荘にゴーリキーがやってきたのだ。 
 
 
 
スターソフはマルシャークに、ゴーリキーの前で詩を読むように言った。 
それからスターソフは、マルシャークが病気がちなこと、 
サンクトペテルブルの気候がよくないらしいことなどを 
ゴーリキーにくわしく話したのだ。 
 
 
 
ゴーリキーは話を聞いてちょっと考え込んだが、 
やがてマルシャークにこう言ったそうだ
「ヤルタ(クリミヤ半島の港町)に住んでみたいと思わないかい?」 
 
 
それから1か月ほどたってから、ヤルタのゴーリキーから電報が届いた。
「キミハヤルタノチュウガッコウヘハイレル イサイフミ ぺシコフ(ゴーリキーのこと)」 
 
 
父のところにも、その中学の校長ゴトリフから電報が届いた。  
 
マルシャークはゴーリキーのヤルタの別荘にやっかいになりながら、 
地元の中学に通うことになった。  
 
 
 
こうして温暖な気候のなかで2年間を過ごしたマルシャークは、 
結核も治癒し(たぶん。だって77歳まで生きている)
あらたな人生の路を歩み始めたのだった。 
 
(以上、サムイル・マルシャーク著『人生のはじめ』/理論社を参考にしました)  
 
 
 

ゴーリキーとマルシャーク。 

偉大な二つの才能の出会いに、興奮してしまうのは わたしだけじゃないはず…。 
 
 
 とにかく、こうして後年、『森は生きている』が無事誕生したってわけ。
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