今年も春がめぐってきた。
草も木も花も虫も、庭を訪れる野鳥も、空気さえも。
大地に存在するすべてが春の喜びにみちあふれていた。
よもぎ川の土手のそばの一軒家に住むハルばあちゃんも、庭の椅子に座って、口もとにすこぶるご機嫌そうな笑みを浮かべていた。
ハルばあちゃんは、真っ白い髪をちょこんとお団子に結い、ズボンよりはワンピースが好きな、お洒落で小柄なおばあちゃんだ。
「今年で何回目の春かねぇ。九十回を過ぎていることはたしかだね」
やわらかい陽射しを心地よく感じながら、ばあちゃんはそんなことを考えていた。
春はいつでも大好きな季節だった。特別に好きな理由があったのだ。
亡くなった五郎じいちゃんと初めてデートをしたのも春だった。
結婚してこの家に引っ越してきたのも春だった。
最初の男の子が生まれたのも春だった。
春はいつだって、ワクワクすることが起こったものだ。
「オランダのものなのよ」といって知り合いから贈られた大量のチューリップの球根がいっせいに芽を出し、庭いっぱいに咲きほこったのもいつかの春だった。
あのときは地域の新聞に記事が載り、方々から人が見物に来たっけ。
どこからか出てきた、やせ細った真っ黒い子猫が、よろよろとハルばあちゃんの足元にすりよってきたのも春だった。
その子猫を、ハルばあちゃんはミイと呼んで大事に大事に育てた。
いまでは十六歳の年寄り猫で、いつもそばにいて、満足そうに喉をゴロゴロといわせている。
そよ風が吹いて桜の木の葉がゆれ、木漏れ日が踊った。
「ああ、気持ちいいねぇ」とハルばあちゃんは満足そうにつぶやいた。
五郎じいちゃんが亡くなって、もう二十年が過ぎた。最初の頃は悲しみにくれたけれど、
いまはちっとも淋しくない。
「もうすぐじいちゃんのところにいくんだわ。また会えるねぇ」
こんなことを言うと、ひ孫の健太くんは「なんだよ、ばあちゃん。縁起でもないこと言うなよ」と怒ったように言う。
するとハルばあちゃんは、「ふん、ふん、ふん」と鼻歌を歌うのだった。
ハルばあちゃんは、五郎じいちゃんと子どもたちに囲まれて、家族でにぎやかに過ごした頃のことをしょっちゅう思い出した。
いまもそうだ。
「楽しかったー。忘れん」
ハルばあちゃんは、声に出して言ってみた。
ミツバチがぶんぶん羽音を立てて、近くを飛んでいった。
そんなのどかな午後だった。
ちょうどそのとき、通りから坊主頭の男の子が門の中を覗き込んで、「あのー」と声をかけてきた。
見かけない子だ。
だけど、どこかで会ったことがあるような気もした。
「なんだい?」とハルばあちゃんは答えた。
「ここは、山田村ですか?」と男の子は訪ねた。
ばあちゃんはきょとんとした。
「あれ、村って言った? 村だったのは昔のことだよ。いまは山田町って言うんだよ」
「そうですか。でも、やっぱりここは山田なんですね。あのー、おばあちゃん。突然で申しわけないんですけど、お茶が飲みたいんです、ぼく」
ハルばあちゃんは、ちょっとびっくりして、よくよくじっくり男の子を見てみた。
灰色の半ズボンに白い半そでシャツ。斜めがけの白いかばんを肩にかけ、紐のない履き古した運動靴を履いていた。
背はそんなに高くないけれど丸々していて、これからぐんぐん背が伸びそうな感じがした。
正直そうな顔をしていて、真っすぐにハルばあちゃんを見ていた。
「あー、いいよ。ちょっとばっかりそこの椅子に座っててちょうだい。いま、お茶を煎れてきてあげようかね」
「ありがとう」
男の子はぴょこんと頭を下げると、ハルばあちゃんの斜め前の丸い椅子に、ちょこんと腰掛けた。
ハルばあちゃんは「どれどれ」といいながら立ち上がった。それから、家の中に引っ込んで二つの湯のみにお茶を注ぎ、お盆にのせて庭に出てきた。
「ほれ」とおばあちゃんが言うと、男の子は急いで立ち上がって、おばあちゃんからお盆を受け取った。
お盆の上には饅頭の皿も載っていた。
「それ、饅頭もおあがり。もらったばかりなんだけど、この饅頭は美味しいんだー」
「はい、いただきます」
男の子はうれしそうに、はっきりした声でそう言うと、饅頭をパクつき、そして美味しそうにお茶を飲んだ。
「坊やは子どもなのに、ジュースなんかよりお茶が好きなの?」とハルばあちゃんは、面白そうにたずねた。
「はい。ぼく、お茶が好きです。饅頭も好きです。久しぶりだなー。このお茶、美味しいですね」と男の子は答えた。
ウフフフフ。ほっほっほっ。ハルばあちゃんは、可笑しそうに笑った。
男の子はニコニコした。
「坊や、名前はなんというの? どこの子」
ハルばあちゃんは聞いた。名前がわからなくちゃ、その男の子と知り合ったとは言えないじゃないか。
「ぼく、五郎といいます。ぼくのうちは通りをずっといったあっちのほう」
男の子はそう言った。
「へぇ。うちのおじいちゃんとおんなじ名前だねぇ」
ハルばあちゃんはうれしくなった。
「おばあちゃんは、お名前はなんとおっしゃるんですか?」
「ハイっ。佐々木ハルといいますよ」
「そうですか。あの、ごちそうさまでした。お茶、ありがとうございました。」
男の子は急いでお茶を飲み干すと、湯飲みをテーブルに置き、そう言った。
「おや、もう帰るのかい?」
「うん。もう行かなきゃ。おばあちゃん。ほんとにありがとう」
男の子は立ち上がると、ぺこりと頭を下げて門を出て行った。
ハルばあちゃんは、妙なことに気がついた。
あの子は、小学生の頃の写真のじいちゃんにそっくりだ。そういえば、眉毛の横にほくろがあるところまで、同じだった。
ほっほっほっ、もしかして、小さい頃のじいちゃんだったかもしれないねぇ。
その話を、ひ孫の健太くんにした。
健太くんは高校一年生で、すぐ近所に住んでいる。
ハルばあちゃんのところにきては、おやつをねだったり、小遣いをねだったり、ときには部活のユニフォームを洗濯してもらったりしていた。お母さんは仕事でいつも帰りが遅いからだ。
その健太くんは、ハルばあちゃんの話を聞いて、「ずうずうしいガキだな。気をつけなよ、ばあちゃん。男の子ならまだいいげと、大人の男は、庭に入れるんじゃないぞ。ぶっそうだからね」とうなった。
「だけど、あの子、子どもの頃の五郎じいちゃんにそっくりだったんだよ」
ハルばあちゃんは、懐かしそうに、うれしそうに、華やいだ声でそう言った。
「よしてよ、ばあちゃん。座りながら眠りこけて、夢でも見たんじゃないの?」
健太くんは、ばかばかしいと言わんばかりに首を振った。
その翌日、あいかわらず春の満ち足りた幸福感があふれる庭で、ハルばあちゃんはテーブルの前に座っていた。
「あの男の子が来ないかしらん。もしかして五郎じいちゃんだったらねぇ」
昼間が夕方に変わろうとする頃、その少年が現れた。
背が伸びて、高校生みたいに見えたけれど、たしかに昨日の男の子だった。
「あのー、ご迷惑でなかったら、お茶をいただけないでしょうか」
その少年は、そうていねいに言った。
「もちろんいいですとも」
ばあちゃんは家に引っ込むと、急須にお湯を注ぎ、湯飲みと、じいちゃんが大好きだったみたらし団子をいっしょにお盆に載せて、庭に持っていった。
男の子は嬉しそうに団子にパクついた。
「ねえ、たしか五郎くんと言ったっけね?」とハルばあちゃんは声をかけた。
「はい」と少年は元気よく答えた。
「苗字はなんと言うの? お父さんとお母さんは?」
「はい、佐々木といいます。父は亡くなったけど、母は元気ですよ」
ハルばあちゃんは、ドキッとした。
「もしかして、お母さんは洋裁をしておられるの?」
「はい。母は紳士用のスーツを作るのが、とても上手なんですよ。お客さんがひっきりなしです」
ハルばあちゃんは、またドキッとした。
五郎じいちゃんのお母さんは、たしかに洋裁で身を立てていたからだ。
「五郎くん。あたしのことを知ってる?」とハルばあちゃんはおそるおそるたずねた。
「おばあちゃんのこと? この門の前を通ったら、なんだか懐かしくて、つい入ってきちゃったけど、おばあちゃんは、ぼくの遠い親戚の方ですか?」
そう逆に質問されてしまった。
「まあねぇ。親戚かどうかわからないけど、よく知ってるかもしれないねぇ」
ハルばあちゃんは、あいまいに笑った。とても不思議な気がした。
五郎じいちゃんみたいなのに、ちっとも五郎じいちゃんみたいじゃなかった。
葉っぱがザワザワ風に揺れて音を立てた。ハルばあちゃんは、なんだか急に眠くなって、ほんとに居眠りしてしまった。
「ばあちゃん、ばあちゃん」とひ孫の健太くんに揺り起こされて、やっとばあちゃんは目が覚めた。
「ああ、健太。また五郎じいちゃんがたずねてきたんだよ」
ハルばあちゃんは、うれしそうに健太くんに報告した。
健太くんは「またかよ」と言う顔をしたけれど、たしかにテーブルの上に湯のみが二個と、みたらし団子のたれと串が残った小皿があった。
「思い違いじゃないの?」
健太くんは、ばあちゃんいよいよボケてきたきたのかと、不安になった。
「そんなことないよ。今度は高校生みたいだった」
「へっ」
健太くんは、首を振った。今日、お母さんに相談してみようと思った。
その翌日は曇り空。薄雲が空を覆い、ときどき雲の隙間から薄日がさした。
「こういうのもいいねぇ」とハルばあちゃんは思った。
鳥のさえずりが、やけに忙しげに響く日だった。
ハルばあちゃんは、このあいだ友達に似合うとほめられた、青い小花模様のワンピースを着て、顔には少しだけお化粧をしていた。
昔、まだ娘だった頃の心に戻ったみたいだった。
自分のことを、ちっとも年寄りとは思わなかった。
テーブルには、スイートポテトが乗っていた。
これも五郎じいちゃんの好物で、ハルばあちゃんが初めてつくったとき、感激してほとんどひとりで食べてしまったくらいだ。
魔法瓶にはお湯がたっぷり。急須にはお茶の葉が入っていた。湯のみは五郎じいちゃん愛用の品だった。
でも、少年はいつまでたってもこなかった。
待っても待っても、ただ時間が過ぎていくばかり。
空にかかっていた雲は春風に追いやられたのか、だんだん青空がひろがってきた。
「今日はもう来ないかしらねぇ」と、ため息が出た。
ハルばあちゃんは、待ちくたびれて、がっかりして、とうとう居眠りを始めた。
庭で居眠りをするのはいつものことだった。健太くんが「風邪引くだろ」と注意しても、居眠りは何よりも気持ちがいいのだから。
そうやって眠っていると、近くで「すみません。お茶をいただけますか?」と男性の低い声がした。
はっと目覚めたばあちゃんは、男性が目の前に立っているのを見てびっくりした。
白いワイシャツに紺色のズボンをはいた姿は、初めてデートをしたころの五郎じいちゃんにそっくりだった。
「五郎さん…」
夢見るように、ハルばあちゃんはその男性を見上げた。
「また、会えましたね。ハルさん」
その男性はイスに腰掛けながら、にっこりと笑った。
ハルばあちゃんは、懐かしくて、うれしくて、しわくちゃの顔いっぱいに若々しい笑みを浮かべた。それから、みるみる目に涙がたまり、頬を伝い落ちた。
「五郎さん…」
それしか、ハルばあちゃんは言えなかった。
手を伸ばすと、男性はハルばあゃんの手をとり、ギュッと握った。
ハルばあちゃんは、急須にお湯を注いでお茶をいれ、湯のみを目の前に座った男性に差し出した。
男性は、何も言わずに両手で湯のみをもち、美味しそうにお茶をすすった。
スイートポテトを美味しそうに食べた。
それから立ち上がると、男性はハルばあちゃんの手を引っ張った。ハルばあちゃんは、まるで二十歳の娘のように、身軽に立ち上がった。
いつのまにか、男性は年を取り、おじいさんになっていた。そのおじいさんは
「ほら、おいで…」と、やさしくハルばあちゃんに言った。
「あなたなのね」
ハルばあちゃんは、はいはいとうなずきながら、男性に導かれ、いっしょに門の外へと歩いて行った。
ふわふわ飛んでいるようでもあった。
健太くんは、一部始終を、建物の影から見ていた。
最初はびっくりし、気味悪く思い、ハルばあちゃんが立ち上がったときには、思わず「行くなっ」と叫びそうになった。
でも、どう必死になっても、声を出すことができなかった。身動きもできなかった。
だから、健太くんは、ただ見ていた。
ハルばあちゃんが門から消えたあと、われに返った健太くんは、テーブルのほうを見た。
そこには、年老いたハルばあちゃんが、何事もなかったかのように、ぐっすり眠っていた。
健太くんは安心のあまり、ばあちゃんのところに跳んでいった。
「ばあちゃん、ばあちゃん」
だけど、ばあちゃんを揺すっても、いつものようにすぐに目を覚ましてくれなかった。
健太くんは、ばあちゃんの体にちっとも力が入らないことに気がついた。
ばあちゃんが、寝息をたてていないことに気がついた。
死んじゃった?
ばあちゃんが死んじゃった?
健太くんは、泣きだした。「何だよー」と毒づいた。
健太くんは、大泣きに泣いた。
ばあちゃんはずいぶんと年寄りなので、いつまでも生きていてくれるとは思っていなかった。でも「百歳までは絶対生きていてよね、ばあちゃん」というのが健太くんの口癖だったのだ。
「ばあちゃん、ばあちゃん…」
健太くんは、しばらく一人で泣いてから、シャツの袖で涙をぬぐうと、あわててお母さんに電話をかけにいった。
春のたそがれどきだった。
ばあちゃんの足元で、猫のミイが体を丸め、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。
夕焼けの名残りの空には一番星の金星が顔を出し、目くばせをするようにキラキラした光を放っていた。