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わたしの気持ちは、きっと水色のでっかいビーチボールだと思う。
だれもが、同じ大きさのビーチボールをもっている。
自分の中から見ると、自分の気持ちの大きさはだいたいわかってるんだけど、人の気持ちの大きさは、けっこう小さく見える。
っていうか、人の気持ちのビーチボールの大きさなんて、それほど気にしてない。
それでも、家族とか友だちなんかだと、あるあるってわかる。
そうでない人のビーチボールは、ないのと同じだったり。
じゃあ、その人たちは、気持ちがないの?
違う。そりゃあるだろうけど、こっちから見ると「その人」という形でしかなかったりする。
「おはようございます」と挨拶したポストマンは、ポストマンという役割の存在。
花屋さんは、花屋さんという存在。
父親は父親という存在。
存在としてしかとらえてないけど、みんな自分と同じ大きさのビーチボールをもってる。
アフリカで飢える人たち、どこかの外国で災害で亡くなる人たち。
みんな大勢というひとくくりの数になってしまうけど
ひとりひとりが自分と同じ大きさのビーチボールをもってる。
ふわふわしてて、躍動的なビーチボールをもってる人もいれば
かたくてゴチンゴチンのビーチボールの人もいる。
そういう人って、感情が動かない。マヒしちゃってたりする。
澄み切って明るい色の輝くビーチボールの人もいれば
どよんと黒ずんで、汚い色のビーチボールの人もいる。
いろいろだ。
自分のビーチボールの中身はたいがいわかるんだ。
(ときどき分からないときもあるけど)
だけど、人のビーチボールの中身はわかりずらい。
でも、自分と同じ大きさのビーチボールをみんながもってる。
自分のが大きくて、人のは小さいじゃいけないんだ。
自分のが小さくて、人のが大きいというのでもおかしい。
だれもが同じ大きさの色とりどりのビーチボールを抱えてる。
それって、忘れないようにしなくちゃいけない。
つい、忘れちゃうもの。