『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:33織田信長黒印状 天正六年十一月廿日

2020-06-13 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部は原文で"虫食い空欄”となって

いる部分ですので完全に純野の推察です。


33織田信長黒印状 天正六年十一月廿日

<本文>

 貴殿からの調略に従い、摂津伊丹(城)から

降参してきた者たちに関連して、尼崎(城)に関

する情報を申し越していただいた。詳細に(貴

殿の)説明が把握できた。なおもって(深く)情

報を聞き合わせ、こちらに示していただくとあ

りがたい。(うかがえば軍働きに)配置した人に

馳走した(褒美を取らせた)らしいが、油断のな

い取り計らいはしかるべき行いと考える。一層

情を入れて励まれるよう願う。

天正六年十一月廿日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

  ※天正六年=1578年


**純野のつぶやき**

天正六年(1578年)の前回の書状(十月二十五

日)の二十五日後の書状です。信長公の動きは、

・十月二十一日 荒木村重が逆心を抱いている

 との風聞が流れる。信長が宮内卿法印・惟任

 光秀・万見重元を使いとして確めると、「野心

 はない」旨申上するも、出仕せず。この背反は

 毛利輝元が誓紙を出し「一五七九年正月には

 摂津の応援に来る」と伝えたことによる。信長

 は「この上は是非に及ばず」として、成敗の為

 自ら出馬する。

・十一月三日 信長は京に出馬した段階でも、

 惟任光秀・羽柴秀吉・宮内卿法印に荒木村重

 の懐柔を命ずるが、荒木はいうことを聞かず。

 以後信長方から伊丹攻囲網を形成される。

となります。実はこの次の年一五七九年の九月

に荒木が突然五~六人を連れて伊丹城を抜け

出し、尼崎城へと移ることになりますが、この書

状によれば長岡藤孝はこのことを感づいて、す

でに信長公に連絡しています。情報の正確さ・

濃さ・速さのどれをとってもすさまじいレベルと

いえます。

以上

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