【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部は原文で"虫食い空欄”となって
いる部分ですので完全に純野の推察です。
33織田信長黒印状 天正六年十一月廿日
<本文>
貴殿からの調略に従い、摂津伊丹(城)から
降参してきた者たちに関連して、尼崎(城)に関
する情報を申し越していただいた。詳細に(貴
殿の)説明が把握できた。なおもって(深く)情
報を聞き合わせ、こちらに示していただくとあ
りがたい。(うかがえば軍働きに)配置した人に
馳走した(褒美を取らせた)らしいが、油断のな
い取り計らいはしかるべき行いと考える。一層
情を入れて励まれるよう願う。
天正六年十一月廿日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正六年=1578年
**純野のつぶやき**
天正六年(1578年)の前回の書状(十月二十五
日)の二十五日後の書状です。信長公の動きは、
・十月二十一日 荒木村重が逆心を抱いている
との風聞が流れる。信長が宮内卿法印・惟任
光秀・万見重元を使いとして確めると、「野心
はない」旨申上するも、出仕せず。この背反は
毛利輝元が誓紙を出し「一五七九年正月には
摂津の応援に来る」と伝えたことによる。信長
は「この上は是非に及ばず」として、成敗の為
自ら出馬する。
・十一月三日 信長は京に出馬した段階でも、
惟任光秀・羽柴秀吉・宮内卿法印に荒木村重
の懐柔を命ずるが、荒木はいうことを聞かず。
以後信長方から伊丹攻囲網を形成される。
となります。実はこの次の年一五七九年の九月
に荒木が突然五~六人を連れて伊丹城を抜け
出し、尼崎城へと移ることになりますが、この書
状によれば長岡藤孝はこのことを感づいて、す
でに信長公に連絡しています。情報の正確さ・
濃さ・速さのどれをとってもすさまじいレベルと
いえます。
以上
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部は原文で"虫食い空欄”となって
いる部分ですので完全に純野の推察です。
33織田信長黒印状 天正六年十一月廿日
<本文>
貴殿からの調略に従い、摂津伊丹(城)から
降参してきた者たちに関連して、尼崎(城)に関
する情報を申し越していただいた。詳細に(貴
殿の)説明が把握できた。なおもって(深く)情
報を聞き合わせ、こちらに示していただくとあ
りがたい。(うかがえば軍働きに)配置した人に
馳走した(褒美を取らせた)らしいが、油断のな
い取り計らいはしかるべき行いと考える。一層
情を入れて励まれるよう願う。
天正六年十一月廿日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正六年=1578年
**純野のつぶやき**
天正六年(1578年)の前回の書状(十月二十五
日)の二十五日後の書状です。信長公の動きは、
・十月二十一日 荒木村重が逆心を抱いている
との風聞が流れる。信長が宮内卿法印・惟任
光秀・万見重元を使いとして確めると、「野心
はない」旨申上するも、出仕せず。この背反は
毛利輝元が誓紙を出し「一五七九年正月には
摂津の応援に来る」と伝えたことによる。信長
は「この上は是非に及ばず」として、成敗の為
自ら出馬する。
・十一月三日 信長は京に出馬した段階でも、
惟任光秀・羽柴秀吉・宮内卿法印に荒木村重
の懐柔を命ずるが、荒木はいうことを聞かず。
以後信長方から伊丹攻囲網を形成される。
となります。実はこの次の年一五七九年の九月
に荒木が突然五~六人を連れて伊丹城を抜け
出し、尼崎城へと移ることになりますが、この書
状によれば長岡藤孝はこのことを感づいて、す
でに信長公に連絡しています。情報の正確さ・
濃さ・速さのどれをとってもすさまじいレベルと
いえます。
以上