【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
38織田信長黒印状 天正八年八月廿一日
折帋(お手紙)見させていただいた。その
(貴殿ら父子が入封した丹後の国の)方面に
ついて、変わったこともないとのことでもっ
とも珍重である。なお、居城について、“宮津”
を指定して拵えたい旨心得た。(貴殿が決め
たのであれば)きっとしかるべき場所なので
あろう。(居城の)普請を急ぎたいとのこと
であるが、同時に惟任(光秀)の方にも朱印
状を遣わしてあるので、よくよく相談の上(
普請の)申付けを行うことが肝要である。
次に(当方のことであるが)去る(八月)
十五日に大坂へと罷り越した。畿内にある
(大坂本願寺方の)諸城は大略破却せしめた
ので、ようやく(大坂から戻り)上洛するこ
とになった。また後音(=のちの便り)をお
送りするつもりである。謹言。
天正八年八月廿一日 信長(黒印)
長岡兵部太輔(藤孝)殿
※天正八年=1580年
**純野のつぶやき**
天正八年(1580年)の前回の書状(八月
十三日)の八日後の書状です。長岡藤孝父子
が丹後の国に入封され「特に異常ありません
が“宮津”に居城を構えたい」という書状への
返信のようです。
この前後では、
・八月二日
四月九日から大坂に篭城していた本願寺教
如光寿が大坂から退出
*勅使 近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
及び下使荒屋善左衛門
*信長方使い 宮内卿法印・佐久間信盛
*大坂城を受け取る検使 矢部家定
↓
大坂方は信長の来訪を予想し、整然と片
付けて置いたが、火事が発生し焼け落ちる。
・八月十二日
信長、京都から宇治橋を通り大坂へ
↓
ここで佐久間信盛・信栄父子に対して、十
九条の折檻状を自筆でしたためる。
・八月十七日
信長、大坂から京都へ
↓
ここで、林秀貞・安藤(守就・尚就)父子・
丹羽右近が国外退去を命じられる。
といった動きがありました。
もしかしたら、長岡藤孝からこの手紙の前
に大坂本願寺が焼け落ちたことの責任に関す
る手紙が信長に送られ、信長公がそれに応じ
て佐久間への折檻状を書き起こしたとすれば、
この時点で長岡藤孝は、丹後の国にいながら
織田家中に多大な影響を及ぼしていたと見る
ことができます。
以上
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
38織田信長黒印状 天正八年八月廿一日
折帋(お手紙)見させていただいた。その
(貴殿ら父子が入封した丹後の国の)方面に
ついて、変わったこともないとのことでもっ
とも珍重である。なお、居城について、“宮津”
を指定して拵えたい旨心得た。(貴殿が決め
たのであれば)きっとしかるべき場所なので
あろう。(居城の)普請を急ぎたいとのこと
であるが、同時に惟任(光秀)の方にも朱印
状を遣わしてあるので、よくよく相談の上(
普請の)申付けを行うことが肝要である。
次に(当方のことであるが)去る(八月)
十五日に大坂へと罷り越した。畿内にある
(大坂本願寺方の)諸城は大略破却せしめた
ので、ようやく(大坂から戻り)上洛するこ
とになった。また後音(=のちの便り)をお
送りするつもりである。謹言。
天正八年八月廿一日 信長(黒印)
長岡兵部太輔(藤孝)殿
※天正八年=1580年
**純野のつぶやき**
天正八年(1580年)の前回の書状(八月
十三日)の八日後の書状です。長岡藤孝父子
が丹後の国に入封され「特に異常ありません
が“宮津”に居城を構えたい」という書状への
返信のようです。
この前後では、
・八月二日
四月九日から大坂に篭城していた本願寺教
如光寿が大坂から退出
*勅使 近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
及び下使荒屋善左衛門
*信長方使い 宮内卿法印・佐久間信盛
*大坂城を受け取る検使 矢部家定
↓
大坂方は信長の来訪を予想し、整然と片
付けて置いたが、火事が発生し焼け落ちる。
・八月十二日
信長、京都から宇治橋を通り大坂へ
↓
ここで佐久間信盛・信栄父子に対して、十
九条の折檻状を自筆でしたためる。
・八月十七日
信長、大坂から京都へ
↓
ここで、林秀貞・安藤(守就・尚就)父子・
丹羽右近が国外退去を命じられる。
といった動きがありました。
もしかしたら、長岡藤孝からこの手紙の前
に大坂本願寺が焼け落ちたことの責任に関す
る手紙が信長に送られ、信長公がそれに応じ
て佐久間への折檻状を書き起こしたとすれば、
この時点で長岡藤孝は、丹後の国にいながら
織田家中に多大な影響を及ぼしていたと見る
ことができます。
以上