以前国立博物館で開催された『大徳川展』の
総合パンフレットの中に「徳川家康は眼鏡を
していた」という記事がありました。
パンフレット中の解説は以下の通りです。
◎目器 一掛
長九・四四
安土桃山~江戸時代 十六~十七世紀
静岡・久能山東照宮博物館
わが国に眼鏡が伝えられたのは戦国時代で、
天文二十年(一五五一)に周防の大内義隆が
フランシスコ・ザビエルよりガラス器や鏡と
ともに贈られたとの記録(『大内義隆記』)
がある。徳川家康も眼鏡を所持した一人で、
『言継卿記』文禄二年(一五九三)九月十日
条に「江戸亞相へ晩ニ罷向了、酒有之、
目力子一ツ給了」とあり、流浪の公家、山科
言継に手許にあった眼鏡を贈っている。現存
する古眼鏡としては、京都大仙院の足利義政
所持と伝える眼鏡が名高いが、家康遺品にも
眼鏡がある。目器と呼ばれる無関節式の手持ち
の鼻眼鏡で、二掛伝わる。本品はその一つで、
枠は当時高価な黄色透明タイマイ製で、鞍部
には三カ所の透し彫りがなされている。レンズ
は欠失。作者はマカオを中心とした中国人の
タイマイ細工人であるとする説や、長崎の喜道
の作とする説がある。いずれにせよ、毛利輝元
や伊達綱宗の眼鏡に先行する古眼鏡の代表的
遺品である。
〔純野註〕
・「亞相」というのは大納言の唐名です。
・「言継」は“ときつぐ”と読みます。
なお解説中の「天文二十年(一五五一)」という
年代から見て、もしかしたら織田信長も家康と
同じく“目器”をはめていたかも知れません!
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総合パンフレットの中に「徳川家康は眼鏡を
していた」という記事がありました。
パンフレット中の解説は以下の通りです。
◎目器 一掛
長九・四四
安土桃山~江戸時代 十六~十七世紀
静岡・久能山東照宮博物館
わが国に眼鏡が伝えられたのは戦国時代で、
天文二十年(一五五一)に周防の大内義隆が
フランシスコ・ザビエルよりガラス器や鏡と
ともに贈られたとの記録(『大内義隆記』)
がある。徳川家康も眼鏡を所持した一人で、
『言継卿記』文禄二年(一五九三)九月十日
条に「江戸亞相へ晩ニ罷向了、酒有之、
目力子一ツ給了」とあり、流浪の公家、山科
言継に手許にあった眼鏡を贈っている。現存
する古眼鏡としては、京都大仙院の足利義政
所持と伝える眼鏡が名高いが、家康遺品にも
眼鏡がある。目器と呼ばれる無関節式の手持ち
の鼻眼鏡で、二掛伝わる。本品はその一つで、
枠は当時高価な黄色透明タイマイ製で、鞍部
には三カ所の透し彫りがなされている。レンズ
は欠失。作者はマカオを中心とした中国人の
タイマイ細工人であるとする説や、長崎の喜道
の作とする説がある。いずれにせよ、毛利輝元
や伊達綱宗の眼鏡に先行する古眼鏡の代表的
遺品である。
〔純野註〕
・「亞相」というのは大納言の唐名です。
・「言継」は“ときつぐ”と読みます。
なお解説中の「天文二十年(一五五一)」という
年代から見て、もしかしたら織田信長も家康と
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