演劇人 RAKUYU

https://blog.goo.ne.jp/matumotokouji

アリマあらすじ

2010年10月01日 | インポート

「今度、劇団RAKUYUで公演やります。見に来てください。」

「そう。今度はどんなお芝居??」 こんな時どう大筋を話してよいやら・・

困ってしまいます。

参考になればよいのですが、あらすじの紹介です。

プロローグ 女帝斉明天皇(アリマの父の妹)が病死し、その葬

       列を鬼たちが見ている。

       民衆は不安と混乱のどん底にいた。

一景    女帝崩御の3年前のこと。

       大化の改新によって統一国家へと進み始めた。

       中大兄は陰の実力者として「あのお方」と呼ばれ、

       恐れられていた。

       国家の統制を図るため、密告統制は強硬に

       進められ、民衆は恐怖と不安の中、疑心暗鬼に

       なっていた。

       アリマも厳しい監視下におかれた為、次第に鬱

       状態に陥っていった。

       その噂を確かめるため、密偵シビがアリマの

       付き人ヨネマロに接触してきた。

二景    中大兄の密偵となったアカエは「アリマ殺害」を

       ねらっていた。

       自分の養女で愛人でもあるヒタチをアリマのもと

       に送り込み 謀反を引き起こすよう画策する

       のであった。

三景    アリマは18歳。父、孝徳帝の崩御から事態は

       急変した。

       年若いアリマは自分の身の置き所に苦慮し、

       心身ともに疲れ、

       気の病に冒されていった。そんなアリマを心配して

       幼馴染の女の子チブサと皇子の幼いころからの

       忠臣コノシロがアリマの唯一の理解者である。

四景    気の病がひどくなるにつけ、アリマが思い浮かべる

       のはすでに亡くなったが慕い続けていた継母

       ハジヒトの姿であった。

五景    コノシロやヨネマロはアリマの病状重くなるに付け

       心配していた。

       オオイシのすすめで転地療法があると知ると、

       紀州日高出身のコノシロは牟婁の湯の療養を

       すすめるのであった。

六景    ハジヒトへの愛慕で苦悶するアリマをヒタチは

       誘惑し魅力の虜にしてしまう。アリマの欝は嘘の

       ように晴れていった。  思い通りに事が運ぶ

       のを喜ぶアカエは次の手を打つのであった。

七景    牟婁の湯で過ごすようになってから、アリマは

       心身ともに元気になっていった。

       そして、アリマは海の彼方に目を向けるように

       なっていった。希望の光が見えてきた。

八景    ある日、海でおぼれ、海女たちに助けられた

       アリマは生きる目的をみつけた。

       民衆の貧困や善意を知り、民こそ国の宝だ、

       と悟る。

九景    気持ちも晴れやかになったアリマはよき理解

       者 チブサとともに唐の国へ行くことを願う

       ようになった

十景    すっかり元気になり、都へ帰ってきたアリマ

       のもとにアカエが来た。

       中大兄・斉明天皇一行はアリマの薦めた

       牟婁の湯へ湯治に行った留守中のことで

       あった。朝廷を奪取する計画を進め、3か条

       の批判文書にアリマの署名をせまる。

       アカエの演技にのせられ、海外への夢に希望

       を託し、アリマは民衆の平安のためという

       説得に不用意にもサインする。

十一景   その書状が謀反の証拠として軍兵が邸をとり

       囲む。チブサを連れて海外への亡命計画は

       アカエによって封じられ、捕縛されてしまう。

エピローグ大勢の人たちの犠牲の中、大和朝廷は強固な

       官僚制中央集権国家へと変貌していった

       のである。アリマが唐に渡り、高官となって

       命を全うしたという墓誌が長安、現在の西安

       で発見されたという歴史学者の報告がよせ

       られた。

 

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http://twiter.com/#/RAKUYUya

2010年09月27日 | インポート
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2010年09月27日 | インポート

RAKUYUyaで紹介しています。

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9月26日藤白神社へ

2010年09月07日 | インポート

「アリマ」公演にさきがけ、野口ファミマ9時半出発で

藤白神社内、有間皇子神社前にて成功祈願を行ないます。

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「道成寺」宮子と道成ものがたりDVD再編集

2010年05月10日 | インポート

平城遷都1300年、この期間を利用して、

「アリマ」の宣伝にくわえて、

奈良飛鳥になじみある文武天皇の妃

聖武天皇の生母である藤原宮子。

その宮子姫と道成寺建立にまつわる話

宣伝できればと考え、

ただいま、再編集のDVD制作中です。

あらためて見ていますが、

いい舞台でした。

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「アリマ」顔合わせ

2010年04月13日 | インポート

4月10日「アリマ」のスタートということで

スタッフ・キャストの顔合わせを行ないました。

新聞記事一部抜粋で作者の言葉を紹介します。

「・・・ベースは『日本書紀』ですが、実はそれほど

詳しい記述はないのです。アリマがどんな夢

を抱いた若者だったのか、ふくらみを持たせた

新たな人間像を創り出しました。

脇に出てくる人物も重要な伏線です。

西洋で言うなら、「ハムレット」「オセロー」の中に

出てくる人物像でしょうか。

7世紀。当時、大陸との人的、文化的交流が盛ん

だったことも踏まえ、有間皇子の未来への

思いを新解釈に託してみました・・・」

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アウトライン4

2010年03月05日 | インポート

『道成寺』県文公演から3年余り過ぎましたが、今年11月にはもう一つの歴史ドラマ「アリマ皇子」の公演ができる運びとなりました。「アリマ」の話は周知のように全国的に有名で東京ではオペラでやられ、宝塚歌劇団でもアリマや額田王がでた飛鳥ものがありました。

海南インター近くの藤白神社にはアリマの墓があり、毎年イベン

トがやられています。白浜でも『崎の湯』が関係し、南部の岩代

でアリマが歌を詠んだことで知られています。

御坊では岩内1号墳が見つかった頃はイベントもされていまし

た。(どこにあるかご存知でしょうか?)

日本書紀の中に、塩屋連コノシロ、塩屋連オホコという人物が

載っています。アリマの家来で、鮮魚・製塩業を監督していた

豪族だったそうです。おそらく、塩屋という在所名はそこからき

ているのではないでしょうか。

7世紀以降、熊野詣と牟婁の湯は天皇・皇族がよく行幸される

といった観光ルートになってきました。

このアリマが紀州出身の塩屋連コノシロに勧められ湯治に来

た最初だったのではないでしょうか。

今回の「アリマ」の公演内容は紀州にはご縁のある物語です。

是非、劇団RAKUYUの新しい「アリマ」をこの機会に一度

ご覧になってください。

公演日程は11月13・14日2回公演です。

私たち劇団はこのような形で地元の物語に光を当て紹介でき

ればと考えています『地域に根ざした市民劇団・地元劇団の

活動』が目的の1つでもあります。

 御坊の敬老会イベントのお手伝いやこの3月20日には

子どもたちが『和佐の里』で慰問公演をいたします。

いろんな形で地元に必要とされる劇団でいられればとも

思っています。

少し宣伝になってしまいましたが、このように私たちが

住んでいる地元の町にはまだまだ宝となる素材が沢山

眠っています。ダイヤの原石のように・・・

もちろん宝といっても受け取り方は個人によってまちまち

ですからどうかご理解下さい。

きっと皆様の身の回りにも、形は違えども「宝となる素材」

があると思います。

現代のように不安な政治・経済・社会・身の回りの生活と

複雑で大変な時代です。

だからこそ、自分たちの宝を見つけ出す必要があるの

ではないでしょうか。

ぜひ、お宝を手にしてください。

 ご清聴ありがとうございました。

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アウトライン3

2010年03月04日 | インポート

2年計画で「かみなが姫・宮子姫物語」の企画構想に入ったのです。幸い、私の恩師が西日本劇作家協会の顧問をしており、今回の構想でもって、地元に残る、財産となるような作品を作れないものかと相談してみました。

いままでのRAKUYUの経験から「そこそこの大作はやれる。」

と思っていました。また、それだけの勢いがありました。

もちろん大勢のボランテイア・お客さんに支えられてのこと

なのです。半年がかりで本を完成し、10ヶ月かかって「道成寺」

宮子と道成ものがたりの公演にこぎつけました。900名あまり

の観客で市民文化会館を盛況にすることが出来ました。

そして、それから半年後、皆様もご存知だと思いますが、お騒

がせしました「1500名で県文をいっぱいにしよう。RAKUYU

県文公演」です。

今から3年前の話になってしまいましたが、私たちにはこの前

のように鮮明に残っています。本当に印象に残っている作品、

公演活動です。貴重な経験でした。

県民文化会館大ホール2000席あまり。

横22m・奥行き17m・高さ8mという、考えられない広さでし

た。そこで『道成寺』を上演できたことは私たちだけでなく、

御坊・日高の地元にとっても自慢になることと思います。

御坊でのセット・美術・音楽は作り変え、出演者も舞台の広

さに合わせ20名近く増やし、当然衣裳も作りなおしを余儀

なくされ、限られた時間でほとんど最初からはじめたような

ものでした。劇団だけではなしえなかった。地元の皆さんに

支えられながらの『道成寺』公演でした。

スタッフ・キャスト・ボランテイア総勢100名に上る人たち

の想いがそこにはあります。

これからもこの「道成寺」という作品は地元の宝として大切

に守り、劇団の屋台骨として存在することになるでしょう。

いつの日か、またどこかで「道成寺」再演のできる時が来

ると思います。その時は、是非、皆様のお力添えをいただ

き「よかったよ。感動したでー」という声が聞けるように、

私たちは日々、精進していければと思っています。

昨年2009年は「ヘレン・ケラー」という小作品を発表しま

したが、非常に質の高い、できばえのいい、お客さんに

感動してもらえる自信作です。

大勢の人の涙を誘いました。

只今、再演の検討に入っています。ご期待下さい。

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アウトライン2

2010年03月03日 | インポート

当初、私たち劇団メンバーは子どもから大人まで、男、女、初心者OK「誰でも楽しく参加できる団体」ということで勧誘しています。名前の由来はそこからきています。「楽しく遊ぶ」「しい友達」といった以外にすばらしい言葉RAKUYUが生まれました。

2作目も全員参加で沖縄の民話から「笛吹きカナシー」という

作品を30名ぐらいのメンバーで作り上げました。ここでは

ボランテイアで御坊中学校の美術部の生徒さんに協力を

頼みました。舞台いっぱいに横16m高さ6mの背景画を

夏休みの期間を使って製作してくれました。台本にある

「沖縄の熱帯雨林・南国」のイメージを自分たちで考えて

もらっての、初めての共同作業だったようです。彼らにも

いい体験だったと思います。このとき公演していく上での

課題が見えてきました。

まず、いい作品が必要であり、それを作り上げるだけの

人数スタッフ・キャストが必要、そして、会場を満席にでき

るほどのお客さんが必要、呼び込んでくれる運動員の皆

さんが必要、これらの条件が一つになった時、はじめて

大きな動きになっていい作品、いい公演ができるのでは

ないでしょうか。思いと現実は違いますが・・・

この頃から、子どもの数が一挙に増え始めました。そこで

子どもたちだけの演劇発表を企画するようになったのです。

「のらねこハイジ」という作品では20名近い子どもたちが

参加。鶴の恩返しで有名な『夕鶴』では5名の子どもたちが

参加。結成当初からいた子どもたちが成長し、新しく入っ

てきた子どもたちの目標になっていきました。いい意味での

タテ社会が機能しました。そして、この2本立てを持って

再度、龍神村への移動公演を実現させ、今度は龍神の

地元のこどもたちが劇に参加するといった試みもしてみま

した。手ごたえのある感触を得て,帰って来ました。

この後も、子どもたちだけの発表をしています。

劇団の一つの目的でもある「地域社会での青少年の

健全育成」ということが実を結んでいます。

その流れの中、次の作品では外国の童話作品『モモ』に

挑戦です。主役は高校生、小中高生20名が中心で、脇を

大人が固めるといった若いエネルギーを感じる舞台にな

っていました。観客800名、スタッフ・キャスト総勢45名。

この頃から、どうすれば機能的・合理的にすればよいのか。

次から次へと問題が出てきます。効果的な練習・お互いの

チームワーク・綿密な打ち合わせといったように組織的

活動をしていかなければならなくなっていました。ですが、

そこまで受け入れるだけの余裕が劇団にはありません。

全く、ひとつひとつが勉強でした。

そして、目標の1つでもある「地域文化における劇団の

あり方」という問題が提起され、地元の話を劇にした

作品づくりがこれからの目標になってきました。

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東ロータリークラブでの講演アウトライン1

2010年03月01日 | インポート

今晩は。少し過ごしやすくなってきましたが油断しないようにした                  いものです。昔から「奈良のお水取り」来るまでは、とよく申しま                   すからねえ。最近は健康のことばかり気になっています。                      はじめまして、2年前劇団代表になりました松本です。このような                   壇上でお話させていただくのは初めてですので取り留めない                    お話になると思いますが、足りないところは補足して温かく見守っ                    てくれますようお願い申し上げます。そして、何か一つでも皆様                            のお役に立つ話ができれば幸いかと存じます。劇団の話になっ                                てしまいますが、何卒、よろしくお願い致します。

今から11年前、5人のメンバーが発起人となって文化団体の

一つとして、音楽関係以外に演劇団体が地元にあってもよい

のではないか、ということで劇団を結成しました。翌年、旗揚げ

公演をおこない、1000名近い観客動員がありました。

当時のことを思い起こしてみますと、初めての地元劇団という

物珍しさ、そして、応援しようという「人の輪」が生まれました。

本当に大勢の人に助けられました。大きな仕事を成し遂げた

という自信が私たち劇団仲間を勢いづけました。

大人・子ども・ボランテイアをいれて50名ほどの大所帯での

公演でしたが、龍神村への移動公演の話が決まりました。

年が明けた2月。記録的大雪で10センチは積もっていました。

10台ほどの車に乗り合わせて、中津・美山・龍神へと3時間

もかかって公演場所へいきました。

子どもたちは行楽気分。無理ないですよねえ。めったに見な

い光景ですから。一晩旅館で休養しての公演です。

幸い、子どもたちは風邪で熱を出す子はいなかったので、

気持ちは充実していたのでしょう。ラッキーでした。

次の日、足元が悪いのでお客さんが来てくれるだろうか

という心配もうそのように、1時間前には村の人が座布団を

もって集まっていたのです。外は寒く並んでいるのが申し訳

なくて、来た人から入ってもらいました。定員500名ぐらいの

会場でしたが、ふたを開けてみると、立ち見の出る盛況ぶり

で通路にまで座布団をおいて観てもらうはめになったのです。

しかも、開演時間が15分遅れてしまったり、ドタバタ続き。

それでも、帰りには皆さん喜んでいたのでホットした次第です。

「春日八郎が来た時以来の大入りやで。」という話でほのぼの

したり、プロの劇団と思っていた人もいたようで「御坊にこんな

劇団があるんや。また来てよ。」とか「がいな人や。村のもん

みんな集まったんとちがうか。」という声に疲れも忘れて、

日高川を下って、帰ってきました。

「はじめよければすべてよし」とよく言いますが、何が起こる

かわからないですよねえ。

ゼロからのスタートで取り組みますので、いつも前途多難。

唯一「やり遂げた」という自信だけが残って、また挑戦して

いけるのかと思います。

こうして、不安と期待の中での劇団誕生となりました。

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『有間皇子の変』の歴史的背景

2009年12月11日 | インポート

 645年、中大兄皇子と中臣鎌足によって蘇我入鹿が暗殺され

たクーデター。すなわち『大化の改新』でした。

中大兄は自ら政治の表に立たず、孝徳天皇が即位し、都を難波

宮に移した。孝徳天皇の皇太子が有間皇子。

(当時、6歳であった)

有間の祖父、阿倍内麻呂が他界した後、653年、政治の実権を

にぎる中大兄は都を倭京(大和)に移すよう孝徳天皇に指示する

ようになり、二人の間は険悪になっていった。中大兄は皇族や

臣下たちを連れて倭京に移ってしまった。皇女の間人皇女まで

兄の中大兄に従って天皇から離れていった。

 654年、失意の中、天皇は恨みを抱いたまま崩御した。

後ろ盾を失った有間は15歳の少年である。

 話はさかのぼり『有間皇子』と言う名前の由来はというと、

640年、阿倍倉梯麻呂の娘,小足媛と孝徳天皇との間に生まれ

れた皇太子。

有馬温泉に湯治して誕生したことから「有間皇子」と名づけら

れたと言われている。この頃は有馬温泉がもっぱら湯治場とし

て利用されていた。では、湯崎温泉がどうして利用されるように

なっていったのか。疑問となるところでもある。

孝徳天皇が崩御してから、皇位を継ぐには年若い有間ではある

が皇位継承の有力な候補者である。だが、権力の構図を考え、

れば当然、中大兄が有力候補であり、有間が即位するのは

望みないことであった。ところが、中大兄は皇太子にとどまり、

自分の母をそのまま皇位につかせた。655年、斉明天皇として

即位した。中大兄が天皇に即位しておれば、有間も皇位を望ん

だりしなかったであろう。 『悲劇のはじまり』となった。

斉明天皇と中大兄の政治体制の中、ふたりは土木事業や寺院

建立を積極的に行なった。そのため、民衆の負担は増大し、

反感や不満の声が有間の耳にも入るようになっていった。

有間が18歳の時である。皇子自ら、世を変革し、天皇になれ

たらという考えが高まってきたとしても不思議ではない。

そのような生活の中で次第に強度の精神衰弱になっていった。

 日本書紀の中に「斉明3年9月、有間皇子は性さとしくいつ

 わりたぶれて・・・」云々(皇子が狂者をよそおった・・・)とある。

自分の立場がどんなのであったのか?絶えず生命の危険を

感じながら息をひそめて生きていたのであろう。

皇位継承を放棄するための装いなのか・・・天皇や中大兄に

反逆の意のないことを示すためだったのか・・・天皇や中大兄

を紀伊に誘い出して反旗を上げる計画であったのか・・・

 思いは有間の心の中にある。

657年9月、有間は病気療養のため牟婁の湯(湯崎温泉)を

訪れる。その湯治のかいあってか、病がよくなったと都に帰っ

た有間は斉明天皇に熊野詣と牟婁の湯をすすめるのでした。

 『牟婁の湯に往きて 病をおさむる偽す』

 『わずかにかの地を観ると 病おのずからのぞこりぬ』

すっかり元気になって都にもどってきた有間に不安と疑念をも

ったのが中大兄である。

国内外の不安が解消されない中での有間の出現は大きな波紋

となった。658年10月、斉明天皇は中大兄や臣下たちを連れ

て牟婁の湯にでかけた。11月、留守官として飛鳥の都にのこっ

た蘇我赤兄が有間に近づき、天皇や中大兄の失政を指摘し、

有間に謀反をすすめるのであった。しかし、都の留守を任せられ

赤兄の娘、常陸(ヒタチ)が中大兄の花嫁候補であることなど、

深い関係であったことは有間も知らなかったであろう。

有間の心にはまず、都の皇居を焼き討ちし、500人の隊をもっ

て牟婁の津(田辺)を封鎖して軍船を出して、淡路・牟婁の航路

を遮断し湯治にでかけた天皇、中大兄を動けなくする。そして、

必要な水軍には鮮魚・製塩業を管理していた塩屋連コノシロ

塩屋連オホコ等の力を借りねばとの思惑であった。

赤兄の館に集まって密談を交わしていた最中,肘掛がこわれ

不吉なことだといって、会議を中止し、互いに誓いを立てて、

散会した。夜半、赤兄は機を待たずして、有間が館に帰ったとこ

ろを見計らって守君大石・坂合部連薬・塩屋連コノシロと共に

謀反の罪で捕らえられた。

赤兄の謀略にひっかかったのである。

11月6日、捕らえられた有間たちは斉明天皇が湯治をしている

牟婁の湯に護送され裁きを受けることとなった。途中、8日、

岩代で一夜を明かした。その時に歌を詠む。

 『岩代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む」

(運よく帰ることができるのなら又帰りにここを訪れよう)と

松の枝に願いをこめた。

 9日、審問の中で「なにゆえ謀反を企てたのか。」という問いに

「天と赤兄とど知る,吾は全ら解からず』(日本書紀)

と答えている。

「――私は何も知らない。中大兄皇子よ。あなたが一番よく知っ

ているのではないか。」と推論することで赤兄の謀略は中大兄の

指令であったのだろう。

10日、審問の結果、裁きは都でということになり、再び岩代で

一夜を過ごし、歌を詠む。

『家にあれば笥(け)に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に』

(家におれば器に入れて飯を食べられるが旅の途中ゆえ

   椎の葉で食べねばならない。なんと難儀なことよ。)

11月11日、藤白坂で絞首され、19歳という若い命が散ってい

った。塩屋連コノシロ・新田部連ヨネマロは斬首、守君連大石・

坂合部連薬は流刑となった。

後の時代まで『悲劇の皇子』として語り伝えられた。

持統天皇時代の歌人、

  長忌寸意吉麻呂(ながのいきみ おきまろ)

   『岩代の岸の松結びけむ 人は帰りてまたみけむかも』

   『岩代の野中に立てる結び松 こころも解けず古思ほゆ』

歌人、山上臣憶良(やまのうえのおくら)

『つばさ成あり通いつつ見らめども 人こそ知らね松は知るらむ』

(皇子の魂は常にこのあたりを通って見ているであろう、普通の

人はそれがわからない。しかし結び松はよく知っている事だろう)

     多くの歌人が行幸の途中、悲運に倒れた

     若い皇子の死を悼んで歌を詠んでいる。

                             以上

     2010年秋、RAKUYU公演  乞うご期待!!

           

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秋の七草

2009年10月17日 | インポート

芸術の秋、食欲の秋。

稲の香りや心地よい秋風。

風情ある季節の移り変わり。

色彩の多彩なことでもわかります。

「秋の七草」

万葉集(第8巻)の中で山上憶良(やまのうえのおくら)が

歌に詠んだのが始まりとか。

「秋の野に 咲きたる花を指おりかき数ふれば 七種の花・・・・」

以来、七草が伝えられている。

不思議な感じがします。(ハスキーなオフクロ)で覚えてみては・・・

はぎ、すすき、、ききょう、なでしこ、おみなえし、ふじばかま、くず

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年末の新聞掲載予定記事

2009年10月08日 | インポート

有間皇子ーその1-

 平素より地元の皆様には劇団RAKUYUへのご支援を賜り、厚く御礼申し上げます。

『道成寺』公演以来、たくさんのイベントに参加協力してまいりました。 そして、地元の物語を

とりあげることには大きな意義があることを改めて思う次第です。 当然、私たちRAKUYUに

とっても地元で活動するうえでひとつの励みとなっています。 周りを見回してみますと、「アメ

リカ村移民物語」「徳本上人の逸話」「井原西鶴」「あやめ物語」「有間皇子」等々といったよ

うに多くの素材があります。 時間のかかる作業ですので地元の話をどれだけ作品として

具体化できるかわかりませんが、ひきつづき挑戦していければと思っています。

(まだ、私たちの知らないお話があるかもしれません。機会がありましたらご紹介下さい。)

今回作品化構想にあがっているのが、「有間皇子」です。

どうして今「有間皇子」なのか?

①以前、御坊市民文化会館の「完成記念こけらおとし」で熊代佐市氏原作の「有間皇子」を

劇化して発表しました。月日も流れ、色あせている「有間」にもう1度スポットをあて、作品と

して完成度の高いものにして地元の財産として残せればという想い。

②有名な話なので、東京ではオペラ、宝塚歌劇団では「飛鳥もの」として催され、海南市、

白浜町、南部町でも行事ごとになっています。

運悪く、御坊市では近年は行事にもなっていない。

③藤白峠、牟婁の湯、岩代という地名がでてくるところの紀州になじみある話。

物語の中で「塩屋コノシロ」という日高の豪族が登場すること。

(日本書紀に記述ある人物。)

④たくさんの資料があるところの、よくご存知の「有間皇子」ですが、劇団RAKUYUの

「新しい有間皇子」を誕生させたい。幸い、「道成寺」を書かれた劇作家 栗原 省氏の

執筆で脚本依頼が実現しました。 どのように変わるのか。「新しい有間」への期待が

膨らみます。 では、悲劇の皇子である「有間皇子の変」とはどんな事件だったのか?

 次回は歴史的背景をご紹介いたします。

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新しい試みの「ヘレン・ケラー」(新聞掲載より)

2009年08月03日 | インポート

 ヘレン・ケラーのお話は児童文学・映画・舞台で有名なのでよく知っていると思います。

映画ではパテイー・デユークのヘレン役がよく知られ、舞台では「奈良岡朋子・有馬稲子・

市原悦子・大竹しのぶ・田畑智子」といった女優がサリヴァン先生を演じていました。

それだけよく知られている作品なのですが、演劇にかかわっているものにとって一度は

取り組んでみたい作品の一つです。

 私たちが日ごろ心がけていることに『素人芝居でもお客様に感動してもらう芝居を作ろう』

『一生懸命創り上げたものは人の心に響くものがある』と思っています。

今回の作品にも歌を物語に導入して構成しました。音楽的効果でより魅力ある作品に仕上げ

られていると思います。

個々の観客は舞台の隅々まで自由に見ることができます。言い換えれば演技者はどんな

些細なことも気が抜けないということです。

ヘレンとアニーの格闘場面は目をみはるものがありますが、見えない二人の心の交流

を(同様に、家族、親子、夫婦の心の交流)描ければと考えます。

ミュージカル風の『ヘレン・ケラー』、RAKUYUらしい芝居、よかったといってもらえる作品。

団員一同、新しい試みの「ヘレン・ケラー」に全力投球しています。

皆様、お楽しみにしていてください。

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ヘレン・ケラー撮影現場

2009年04月20日 | インポート

Photo_2Photo  Photo_3  Photo_4ポスター用写真の撮影風景を紹介

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