和歌山県日高郡印南町がかつお節の原点である。
1700頃、印南生まれの角屋甚太郎、
2代目角屋甚太郎が「かつお節」の始祖である。
初代甚太郎は印南での鰹漁ができなくなり、
土佐で鰹加工を始める。
2代目甚太郎は鰹節製法を発展させて、
今日につながるかつお節を作り出した。
土佐では、紀州甚太郎の名が残っている。
印南町印定寺の過去帳からも印南町出身の
角屋甚太郎であることが判明。
それから後、森弥兵衛が現在、かつお節
日本一の鹿児島枕崎に製法を伝えた。
紀州藩の許可なしに他藩に人材、技術流出は
出来なかったはずなのに・・・
当時、なぜ、できたのか??
「宝永の大津波で壊滅的被害を受け、
弥兵衛はこの印南を見限った。」
「紀州藩としても、印南漁民をとどめる
ことが出来なかった。」
1758年生まれの印南與一は豪商石橋家
の出身と考えられる。
與一は紀州藩の法度に関係なく、
南房総、伊豆にかつお節製法(土佐節)を伝えた。
千葉県千倉に石碑と墓がある。
印南は何度も地震津波災害に遭遇して、
かつお節製造、産業は衰退していったが、
全国津々浦々に小さな漁村印南から
かつお節が広まった。
1700頃、印南生まれの角屋甚太郎、
2代目角屋甚太郎が「かつお節」の始祖である。
初代甚太郎は印南での鰹漁ができなくなり、
土佐で鰹加工を始める。
2代目甚太郎は鰹節製法を発展させて、
今日につながるかつお節を作り出した。
土佐では、紀州甚太郎の名が残っている。
印南町印定寺の過去帳からも印南町出身の
角屋甚太郎であることが判明。
それから後、森弥兵衛が現在、かつお節
日本一の鹿児島枕崎に製法を伝えた。
紀州藩の許可なしに他藩に人材、技術流出は
出来なかったはずなのに・・・
当時、なぜ、できたのか??
「宝永の大津波で壊滅的被害を受け、
弥兵衛はこの印南を見限った。」
「紀州藩としても、印南漁民をとどめる
ことが出来なかった。」
1758年生まれの印南與一は豪商石橋家
の出身と考えられる。
與一は紀州藩の法度に関係なく、
南房総、伊豆にかつお節製法(土佐節)を伝えた。
千葉県千倉に石碑と墓がある。
印南は何度も地震津波災害に遭遇して、
かつお節製造、産業は衰退していったが、
全国津々浦々に小さな漁村印南から
かつお節が広まった。