MOCO'S

物を作ること、アートが好き。生きることを考えます。

突然の別れ

2017年12月28日 | 生きること


大切な人との別れは悲しいものです。
私の場合、ある日母はバイクに轢き逃げされて亡くなりました。犯人が交通法規を守っていれば起きていなかった「殺人事件」。
先日、交通事故の被害者家族がニュースで「これは殺人」とコメントしていました。私も同じ気持ちです。
天候のせいでもなく車両の故障でもありません。法定速度を超えて走行、信号無視、轢き逃げ、救護義務違反。これらは事故ではなく殺人でしょう。だから私は「交通事故」とは言えない。私にとっては「加害者」ではなく「犯人」です。犯人は逮捕されましたが母は帰りません。懲役刑となりましたが母の失った時間に比べたら短い。そしてその後の人生をまだまだ生きられるのです。
本当なら今も母は生きていたはずです。
私の子である孫を抱けたはずです。産院に入院中、隣のベッドの人は毎日母親が通い詰めて世話をしてくれていたのに赤ちゃんが泣き止まないと泣き言を言っていました。私には泣き言を言える親、いたはずの親がいない。夜中に一人泣きました。
悲しみは他人と比べるものではないでしょうし、病気で親を喪うことが悲しくないと言っているわけではありりませんが、高齢の病気の親を看とることができる人が羨ましい。母もがんを患ったことがありました。だから再発だと言われれば悲しいけれど病気は避けられない。別れを言うこともできたかもしれない。でもこの「事件」は避けられたのに。
母と暮らしていれば、おそらく父ももう少し長生きできたでしょう。二人とも節句や七五三、小学校入学を祝ってくれたでしょう。
両親は帰ってこないとわかってはいるけれど理不尽に思う気持ち、もう少し一緒に生きる時間があったはずなのにという無念、やるせなさ、受け入れられない気持ち。
してあげられなかったことへの後悔、いつまでもいると思い込んでいた親に対する甘えに気づき。

文章では深い悲しみを表現できていない気がします。変わらず私は生きており、子供達と笑っている。他人からは悲しんでいるように見えないでしょう。
夜一人になったとき、おじいちゃんやおばあちゃんと買い物する家族を見たとき、親に似た人を街で見つけたとき、日々の生活の中で悲しみが顔を出すのです。

年の瀬に
両親との別れについて追悼の意味をこめて
自分自身の心の整理の意味もこめて。