山岸教授が「山岸教授の日英語サロン」にて、「やる」と「あげる」についてお書きになっています。わたくしが昨日記したものをご覧になり、お書きになったと思われます。まずは、こちらをご覧ください。
ひょっとすると、山岸教授のご意見に対して「そんなに細かいこと言わなくても・・・」とお考えになる方がいらっしゃるかもしれません。確かに、言葉は生きていますから、変化をするのは当然ですし、それを止めることはできないでしょう。しかし、この「あげる」の用法に違和感を覚える方がいるということを鑑みますと、伝統的用法、つまり「やる」を、そして、もし「やる」に抵抗を感じている人がいるのであれば、さらに別の表現を用いるべきだと私は考えます。なぜならば、言葉を交わすという行為の前提には「お互いを思いやる」ということが必要であると考えるからです。もちろん、人を傷つけるコミュニケーションもありますが、それは例えば、包丁を"凶器"として使うように、好ましいことではありません。一昨日の大津教授の御講演にもございましたが、言語はヒトに固有のものです。故に、負を生じさせるために使うのではなく、人間関係を良好に保つために使うべきであるとわたくしは思うのです。さらには、このブログは大学院のものです。研究者の方々もご覧になるでしょう。山岸教授のように、「あげる」の用法に違和感を抱く方もいらっしゃるはずです。であれば、先ほど述べたように、「あげる」を訂正し、「やる」や他の表現を用いるべきであると考えます。
先日の記事の該当箇所はわたくしの「恥」として、訂正をせず、残しておきます。わたくしだけではなく、このブログをご覧になる全ての方々(学部生や留学生も含めて)にとって有益であろうと思うからです。そして、以下に訂正した文を記します。
というようなことを、帰宅後、お腹が空いて泣いている我が子を抱き、ミルクをやりながら[飲ませながら]考えておりました。【大塚孝一 M1】
「あげる」という語が持つ本来の意味にのほかに、上下関係を排除した単なる「与える」という意味が加わって(意味変化して)きていますね。
「やる」という語も、語に内包されてる上下関係から、「強い言葉に聞こえる」と考える人もいそうですね。とくに女性は。
“ことば“は常に変化してゆくものですが、「残すべきことばや意味、規範」と「変化を受容してもよいことばや意味」の線引きが難しいですね。