Drマサ非公認ブログ

杉田水脈差別問題に一言

 杉田水脈総務政務官の差別発言は酷すぎる。

 内容については取り上げない。さすがに酷いことは、まともならな理解できるだろう。で、そのまま政務官をやっているという状態。それを許容しているのが日本の現状なのだということを確認。

 さて、差別はいけないと言うのは当然であるが、それだけでいいのだろうかとも考える。とりあえず学問に目を通す。社会学者の好井裕明さんの差別の定義や問題点が参考になる。一応貼り付けておこう。https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2017/04/pdf/064-066.pdf

 差別は「私」が他者とつながる力を断つ。

 他者と出会う。「私」とは違う存在である。そこで理解できないと、「私」とは違うとして、何か「印付」をして、「私」を正常と見なそうとする。そこに「カテゴリー」が適応されるが、「私」との偏差で持って測るから歪められた「カテゴリー」になる。

 これを逆向きで考えてほしい。他者から見た「私」は他者である。とすれば他者は「私」に「印付」を行い、他者は他者自身を正常と見なす。これでは相互理解を遮断する。というのが、差別は「私」が他者とつながる力を断つことになる。

 そして現代では、このような差別がおかしいとか、差別がいけないという考えが”流通”している。差別への批判的視点を獲得することによって、他者と出会いコミュニケーションする日常的実戦によって、「私」は「解読・解体・変革」していくことになる。

 「差別がいけない」とすることは「私」を変えていく日常的実戦なのである。

 そして矛盾なのだが、私たちは「カテゴリー」から自由になることはできない。誰かが「私」を見る。とすると、例えば「私」をその職業の「カテゴリー」で位置付ける。「女」と位置付ける。「障害者」と位置付ける。「老人」と位置付ける。これら「カテゴリー」で位置付けられると、「私」は「私」ではなく、「属性」である。

 人間の認識にはどうしても「カテゴリー」が組み込まれている。「同じ」にする。「違う」存在を「同じ」にする。これは意識のくせのようなものだ。ただ、先ほど触れたように、「差別がいけない」という観念の流通は、この意識のくせに問題があることを自己言及的に知らしめてくれる。

 悪意とは「私」が他者より上位にあるという仮構である。これ仏教でいう煩悩であり「漫」である。

 だから私たちは差別するという悪意を誰もが持つ。だから、それが人間の本性であるかのような認識にとどまり、差別はあるのだからしょうがないという態度を生み出すのだ。

 しかし「差別はいけない」ことは広く認識されている。これも一つの態度である。そこで次のような理解が生じるはずである。差別してしまうことを自覚しつつ、差別はいけないという自覚を持つことから始めるしかない。

 「差別はいけない」と言いながらも、心の中で差別する。これほど狡さが臭うことがあるだろうか。「差別する気はありません」と言う杉田氏からそのような匂いがしている。

 

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