箕面の森の小さな物語
<箕面の森のおもろい宴>(2)
宴は始まったばかりだった。 司会の蝶々さんが次にたずねた・・
「ところでそこの 松尾芭蕉はん あんたはいつ箕面へきはったんや」「私は貞亨4年の4月22日に勝尾寺さんを訪ね、その時ですね そう言えばその4年後だったか、私と門人のこの 岡田千川が江戸で詠んだ連句があるんです
箕面の滝や玉をひるらん (芭蕉)
箕面の滝のくもる山峰 (千川) とね。
「さすが上手いこと表現しはるわ やっぱり芭蕉はんでんな」
「俳句言うたらそこに座ってる 種田山頭火はん あんたは相当日本中を放浪しはりましたな ほんで箕面にはいつ?」 「ハイ! わたしが箕面に来たのは昭和11年の3月8日でして箕面の駅近くの西江寺さんで開かれた句会です 一人だけ法衣姿で寒かったです その境内には今・・
<みんな洋服で私一人が法衣で雪がふるふる (山頭火)> と石碑が残っております 句評は愉快だったし酒もご馳走も美味しく、雪は美しく、友情も温かかったです」 「あんさんは酒さえあればご機嫌さんでんな そうでっしゃろ」 山頭火は丸いメガネの坊主頭をかいている。
「俳句言うたら箕面はようさんいて、今日はぎょうさん俳人はんらも来てくれてまっせ・・ ええ~っと そこの 野村泊月はんは瀧道に、後藤夜半はんはこの大瀧前に句碑がありまんな・・ そんでそこの 水原秋桜子はんと山口誓子はんのは勝尾寺に、阿波野青敏はんのは箕面牧落八幡神社に各々ええ句碑が立ってまんな・・ みなさん虚子門下でホトトギスの同人はんでしたな・・ それに え~っと そこには箕面山の風物を愛し、箕面賞楓稿を残しはった儒学者の田中絹江はんもいはるし・・ それにああ 赤穂浪士の大高源五はんに箕面萱野の 萱野三平はんも一緒だっか・・ そう言うたらあんさんらも俳人で仲よかったんでしたな・・ しやけど大高はんら赤穂浪士のあの討ち入りの話は後で聞かせてんか・・ 」
たけしが隣のサル仲間に口をはさんだ・・ (たけしはもうすっかり猿の仲間になっていた)
「あのなー 西国街道沿いの萱野に今 萱野三平旧邸とけい泉亭があるねんな 大阪府の史跡指定やけど、三平はんは赤穂浪士四十八番目の義士と言われてな 「忠」と「孝」 の狭間で苦しんで自害しはったんやが俳人としても江戸俳壇で高い評価を受けたんや・・ オイ! 聞いいてんのか? アホらし」 仲間サル達は知らん顔をして相変わらず酒を飲んでいる。
蝶々さんが続ける・・ 「ついで言うたら何なんやけど・・ この大瀧脇の大きな石碑には あそこで飲んでる 頼山陽はんの漢詩が残されておりまんねんワテ 難しゅうてよう詠めまへんが・・ え~っと水しぶきが輝いて秋の大瀧まえに風が吹いて ほんで紅葉の葉が舞ってるちゅう様子らしいでんな? ちょっと頼はん そうでっか?」
「まあ そんなところですが、私が箕面大瀧へ来たのはあれは・・ 文政12年の11月19日のことです 紅葉の真っ盛りでこの田能村竹田 後藤松蔭らと一緒で・・ それにこの母も一緒でその美しい情景に母も喜んでくれました」 「それは親孝行しはりましたな・・ ここが「孝行の滝」と言われる所以でんな・・ そうや! 孝行いうたらそこの 野口英世はん あんさんはいつ箕面へ来はったんでっか?」 「あれは私がアメリカから帰国した頃で 大正4年の10月10日でした 母を連れてあの瀧道の料亭「琴の家」でお世話になりました 今、その前の山中に私の銅像が建てられ、それに千円札に肖像が印刷されたりしてちょっと恥ずかしいですわ でもこの箕面の滝の思い出をこの母はずっと大切にしてくれました・・」
「みんなその帰りにここの瀧安寺はんにお参りしはったんやな~ ワテは瀧安寺はん言うたら日本で最初に富くじ作りはった言うからな そんで宝くじ当たるように手を合わしてましたな・・ ハハハハ」
「それはそうと ワテがまだ若うてベッピンさんやったころや・・」「今でもきれいやで!」 と後方から声がかかる・・ 「おおきに! この瀧道に駅前から大瀧まで観光客をのせた馬車が走ってましたな・・ よろしおましたな それがこの狭い道を後ろからチリン チリン と鈴ならしながら走ってくると山裾にへばりつくようにして避けたもんですわ そんな時に限ってあの大きな馬が尻の尾を持ち上げてドカッと馬糞を出しまんねんな かないまへんな ああ すんまへん! みんな美味いもん食べてはるのに台無しや ハハハハハハハハ」
「さて 次は・・ 今日はいつになくようさんのなじみの人が集まってくれはりましたな おおきに! 美味い酒も料理もたっぷりとありますさかいな あがっとくれやす ところで酒も飲まんとニコニコしてはるそこのお坊さんは・・? ああ 法然上人はんかいな?」 「はい! 今、皆さんのお話を楽しく聞いてました。 あそこに座ってらっしゃる御方は北朝第2代の光明天皇で、話を聞くと実はここの勝尾寺で崩御されたらしいですわ・・ あの光明院谷にある七重塔は実は 光明天皇陵らしいですよ」 「そうでっか それにあの勝尾寺創建しはった光仁天皇の皇子の開成皇子さんのお墓・・ 今も東海自然歩道沿いの最勝ケ峰にあるけど、宮内庁云々の文字がありまんな・・ その辺の事 後で聞いてみまっさ!
ところであんさんはいつ箕面へ・・?」 「私ですか 私は浄土宗を開祖したと言うものの後鳥羽上皇の怒りかって四国に流罪となりました しかし、建永2年12月に罪を許され京に戻る前に4年間 この勝尾寺境内の二階堂で修行をしました だからこの箕面はよく知っていますよ」
屋根の上に座ってたけしは仲間サルにまた解説を始めていた。 「オレの知る限り、12世紀後半に後白河法皇によって編まれた今様歌集の <梁塵秘抄> にな 人里離れた深山で修行す 修験者、聖ひじりが修行した多くの山々が詠まれてるけど~ 箕面よ ~勝尾よ と詠まれてるから、中世からこの箕面の山々は物見遊山や観光地でなく、俗人が容易に入れない森厳しな山中異界だったらしいぞ・・」 相変わらず仲間サル達は知らん顔をしている。
すると下のほうでは一人の男が立ち上がって蝶々はんと話している。 するとしばらくして蝶々はんが・・ 「は~い! みんな大いに盛り上がってまっけど ここでカルピスなんぞどうでっか? あんまり酒ばっか飲んでるとワテの相方やったそこの雄さんみたいに体悪うなりまっせ!」「じゃかましいわい!」 南都雄二が笑いながら返している。
「そやさかいな ちょっとここで発酵乳でも飲んで胃なんぞ休めなはれや 三島海雲はん ちょっとみんなに配っとくなはれ・・」 「はいはい 私はこの箕面の稲に生まれましてな 明治35年に修行の為中国に渡りましてな モンゴルの遊牧民が飲んでた発酵乳からヒントを得て造ったのがこの <カルピス> 言います 下界では 初恋の味 とか言うて、よう飲んでもろてます 健康第一! さあみなさん どうぞ どうぞ・・」
みんながそんな一時の間をおいているいる時だった。 突然 大瀧前の舞台が明るくなった。篝火が一段と炎をあげて燃え盛り、周りは一気に明るくなった ドドドドド ドド ドド~ン
大きな太鼓の音が森に響き渡り、派手な衣装を着た芸人が舞台に出てきて挨拶を始めた。
「・・これはこれは箕面にゆかりのある人たちが今宵は沢山お集まり頂きました われらはここ摂津の箕面村の真ん中を貫く西国街道を通り、東は東海道、西は山陽道へと旅する芸人でございます この脇往還は江戸への大名行列から牛、馬に引かれた荷車に至るまでせわしなく往来しております 中には遊行者、巡礼者、虚無僧、六部、山伏、行商人、渡職人、香具師や私らのような旅芸人も通ります 村の四つ辻なんかで繰り広げられるいろんな大道芸人から小猿をつれた猿回し、肩にかけた小さな箱で人形を遣う夷舞わし、どさ回りの芝居一座やサーカスなんかの一座もです 今宵はそんな旅芸人がいつも箕面村を通り、お世話になってきたお礼を兼ねまして演じますので どうぞ ごゆっくりと お楽しみください ませ~ 」
そう言うと少し舞台が暗くなり、やがて初春に演じられる 「万歳」「大黒舞」などの祝福芸人に 「太神楽」の一行も賑やかな音奏でながら入ってきた。 たけしは仲間サルと共に屋根の上で興奮気味にそんな舞台を楽しんだ。 その間、司会者の蝶々はんも一休みしながらみんなの間を回り、大声で笑ったりからかったりしながら話が尽きない・・
「そやそや・・ みんな聞いとくなはれや 今日は後で、あの昭和の大横綱 双葉山の土俵入りもありまっせ! なにせ 双葉山はんは昭和14年にここ箕面小学校へ来てくれはんったんや そこで立派な土俵入りが行われたんや」
まだまだ これから宴が盛り上がる気配だ・・
(3)へ続く