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Tシャツとサンダルの候

山辺往還散歩



前回、『続く』と書いてはみたものの、

山を下りた後は、一般道をトボトボ歩いて帰っただけである。

この先、立ち寄る場所は、殆ど私の郷土史的嗜好の範囲にとどまる。

毎度のことながら、今回も、実に退屈な投稿になると予め断っておく。



誰もいない兜山を離れ、人里まで林道を降りていく。

そう言えば、高良大社から先、全く人の姿を見ていない。

まあ、仕方ないか。

何しろ初雪の日は、山のイノシシでさえ、休むらしいから。



林道を下り終えると、もみじ寺として有名な永勝寺が見えてくる。

天武天皇勅願により、680年薬師寺として創建された。

今ではすっかり、ちっぽけな寺となってしまったが、案内板によれば、創建の頃は、七堂伽藍が建立され、36坊を有した巨刹であったという。



永勝寺の裏手の坂道を降りて行くと、アカメヤナギの老木がスックと立っていた。

樹齢200年以上、柳坂という地名の由来とも伝えられている。



永勝寺から降りてくると、柳坂曽根の櫨並木が見えてくる。

県指定の天然記念物。

以前は、紅葉時期ともなると、目に鮮やかな深紅が並木道を染めていたが、近年、その色合いが薄れてきているように思えてならない。

実に心配である。



旧日田街道山辺往還を行く。





山本郡と御井郡の群境標石。

東山本郡 / 西御井郡 分界と刻まれている。

裏面には元禄八年の文字が見える。

もう少し進むと、



夏目漱石の句碑が見えてくる。

『追分といふ処にて 車夫共の親方乗って行かん喃(のう)といふがあまりに可笑しければ』


と前置きして、


『親方と呼びかけられし毛布(ケット)哉』


ここでの経験は、小説『坊ちゃん』に生かされる。



やがて日田街道は薩摩街道に突き当たる。


山川招魂社。

初めて訪れる。



明治2年、藩主有馬頼咸の命により、国事に殉じた真木和泉守らの霊を合祀。

その後陸軍墓地が併設され、西南の役から大東亜戦争までの戦死者が弔われている。



有名な爆弾三勇士の碑。

彼らの所属部隊は久留米第18工兵大隊である。






社殿の裏側に回ると、




墓所となっている。

佐賀の乱、西南の役で戦死した軍人、警察官らの墓なんだそうだ。


招魂社をでて、薩摩街道を進む。



府中宿場の北の出入り口とある。




『楽しい仲間と健康をつくる 青春卓球場

私がここの存在を知った頃から、シャッターは閉まったままである。

この卓球場から、ラケットの音や、陽気な歓声が聞こえてこなくなったのが、いつの頃なのかは知らない。

だが、この看板からは、青春卓球場に集う若者たちを見つめ、満足げに腰に手を当て、呵々と笑うオーナーの姿が伝わってくるようだ。




勝手な妄想は止めておく。



かつては旅館であったような造りの建物が見えてきた。

チャンポンとコーヒーという、違和感あり過ぎの取り合わせについては、ここでは触れない。



かつての宿場町の痕跡は、僅かにこの立て札と、




間口が狭く、奥行きは長い、同じ土地格好の同じ広さの敷地に残るのみである。




古地図を見ると、目と鼻の先に提灯屋があった事になっている。

どういう経緯で、この場所にランプ屋を開いたのだろうか?



高良大社下宮




残念ながらこの町並みには、ここしか歴史的景観を残す建物は無い。

保存状態も良くないようだし、この先どうなることやら。




・・・・というか、



猛烈に腹が減っている事に気付いてしまった。

昼はとうに過ぎて、いつのまにか2時になってるではないか。

街並み散策なんぞ、いい加減やめよう。


そこらの食堂に飛び込む。


「チキンカツ定食頂戴!」


殆ど叫ぶように注文する私である。


「チキンカツ定食でーす。」




では、頂きまーす。


ガツガツガツ





いつもながら、街歩きには小さな気付きがある。

山川招魂社などはいい例である。

これだから、街歩きは止められないのだ。

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