病棟勤めの娘は、職業柄、不定休である。
3連休以上を取得するには、職場内で調整が必要だ。
この月末に、何とか3連休が取れた娘。
ダラダラと過ごすために、久留米に帰ってくる事になっていた。
・・・のだが、
当日になり、
《やっぱり帰らない》との旨がLINEに。
訳を聞くと、ギックリ腰になってしまったと言うのだ。
年末年始も帰れなかった娘が、やっと取れた貴重な3連休。
それなのにギックリ腰とは。
これでは、余りに不憫である。
腰の状態を聞けば、動けない程ではないそうだ。
かと言って、駅の階段の昇り降りなどは辛いらしく、
「だから、部屋でじっとしとく。」
「そんなら、送り迎えしちゃる!」
部屋でじっとと言っても、独り暮らしの身。
ご飯を作ったり、何やかんやと動かない訳にはいかない。
我が家なら、トイレとお風呂以外、寝転がって過ごせるじゃないか。
但し、
元々休日であるのに、しかもギックリ腰と言う悲惨な状況なのに、
午後2時から1時間程、職場内の打ち合わせに出なくてはいけないらしい。
私たちはアパートでなく、3時ごろに病院まで迎えに行く事になった。
ブィーーン
2時過ぎに福岡市内到着。
時間調整の為、平尾山荘と言う所に立ち寄った。
野村望東尼をご存じだろうか。
幕末を生きた福岡の女流歌人で、勤王の志士らと深い交流があった。
あの高杉晋作も、野村望東尼に暫く匿われていた事がある。
その歌人が結んだ庵が平尾山荘である。
建屋自体は明治期に復元された物。
やがて、勤王の志士らとの関係が福岡藩の知る所となり、望東尼は姫島に流されてしまう。
望東尼の流刑の知らせを聞き、島から救出したのが、前述の高杉晋作である。
望東尼自体、勤王派に影響を与える様な思想家でも、大立者でもない。
取るに足らない市井の歌人に過ぎない。
そんな取るに足らない老婆を、ムキになって助けに行くのが、高杉晋作の高杉晋作たる所以である。
尤もこの時期、既に高杉は労咳により寝たきりとなっていて、救出を命じたと言うのが、正確ではあるが。
姫島から脱出に成功した望東尼は、結局、長州三田尻(現防府市)で60余年の生涯を終える事となる。
てな顛末が書かれた資料を読んでいると、丁度良き時間となった。
ぼちぼち病院へ向かおう。
病院隣の珈琲店が、待ち合わせ場所である。
娘が珈琲店に入ってきた。
二本の傘を杖代わりに、背中を丸めてヨボヨボと歩いている。
「だ、大丈夫か!」
「・・・大丈夫じゃない。」
のようだな。