Tシャツとサンダルの候

友を送る

11月23日

千葉に住む友、Yが旅立った。

 

Yと出会ったのは、高校一年の時であるから、かれこれ48年も経つ。

Yは北野中学の柔道部で、結構名の知れた強豪だった。

同じクラスでもあった私は、熱心にYを柔道部に誘ったものだ。

だが、Yは中々首を縦に振らなかった。

何故Yが入部を躊躇ったかというと、当時からヤツは、医者になるという夢があったらしい。

そんな事とはつゆ知らず、私の飽くなき勧誘に遂に折れたY。

目出度くと言うべきか、不幸にもと言うべきか、ともかく、同じ釜の飯を食う仲間となった。

結局、Yは医者になれなかったので、どうやら不幸と言う表現が正解のようだ。

その原因の一端が、私にあるのは間違いない。

 

今頃になって、こんな事言うのもなんだが、

Yよ。

あの時はごめんな。

 

その後Yは、東京の大手機械メーカーに就職し、恋をし、結婚し、子供が生まれ、絵に描いた様な幸せな家庭を持った。

そんなYが膵臓癌という病魔に侵されたのは、4年半ほど前の事だった。

膵臓とその周辺の内臓を摘出するという大手術ではあったが、無事成功し、ほどなくYは会社にも復帰出来た。

 

その年の暮れ、用事を作ってYに会いに行った。

「江島が来るって事で、観光する所ば決めとるぞ。最初、泉岳寺に行って、その後浅草に行って・・・」

几帳面なYらしく、事細かに私と観光するルートと時間割を決めていた。

「はいはい。何でも従いますよ。」

昼頃になり、浅草の蕎麦屋に入った。

蕎麦を食べながら、几帳面な字で書かれた手帳を見せるY。

それは克明に記された、毎日の闘病記録とでも言うべきものだった。

それをめくって見ていると、ふいに

「膵臓癌の5年生存率は5%ぐらいげな。」

と、告げられた。

動揺した私は、

「そげな話は聞きとうなかぞ。」

と、強引に打ち切った。

「オイも死ぬつもりはなかっさ。5%に入るつもりたい。」

その言葉にどれだけ救われた事か。

励ますつもりで会いに行った私が、逆に励まされるという、奇妙な光景がそこにあった。

 

Yは渾身、生真面目で、頑張り過ぎるほどの人間だった。

有能過ぎるYは、いくつもの役職を兼務していて、その長年の激務が体を蝕んで行ったのは間違いなかろう。

手術から一年ぐらい経った頃、再発が見つかった時は、さすがのYも落胆は隠せなかった。

しかし、そこからYの凄まじいとしか言いようのない闘病生活が始まった。

50時間連続投与の抗癌剤を身につけながらも、会社へ行く事を止めなかった。

 

「退職して、俺の様に、好きなように生きたらどうだ。」

と言った事もあるが、

「俺は仕事したほうが、張り合いがあってよか。」

私とは、人間の出来が違うのだ。


今年の7月、新橋で柔道部の集まりがあった事はここでも書いた。

その時Yは、自分の道着を新橋まで持って行った。

(道着を着せてもらってご満悦な私)

 

後日、その道着を私に託したいとの連絡があった。

それではまるで形見分けではないか。

貰えるもんか!

一旦は断ったが、どうしてもという事で、預かる事にした。

 

その後、

9月になって、Yから終末期医療になった事を聞かされた。

正直、Yとの接し方に悩んだ。

だが、私が電話をすれば、私が気まずい思いをしないで済むように、Yの方から事細かに自分の状況を話してくれた。

Yは渾身、気配りの人でもあった。

 

11月、最後の入院。

11月中旬、厳しい状況である事は、こちらの耳にも伝わっていたので、14日に電話して以降、電話をするのは控えた。

結局、その時に聞いた声が最後となった。

11月20日。

埼玉に住む同じ柔道部のOが、病室まで会いに行ってくれた。

その時の様子を伝えるLINEでは、ベッドに起き上がって元気そうに笑うYが映っていて、ほっとひと安心したものだ。

この調子なら、折を見てまた電話してみるか。

と、思ったのも束の間、

それは不意にやって来た。

冒頭に書いたように、23日に日付が変わる頃、Yは遂に力尽きた。

 

 

人は誰しも、死と言う最後の大仕事を終えねばならない。

Yは見事なまでに、それを成し遂げた。

再発し、自分の命のタイマーが進みだしたと自覚したYは、遺族が困らないように、北野にある菩提寺の事、実家の土地、その他身の回りの整理を進めた。

自分の葬儀に関しても、私らにも火葬場まで来てもらい、骨を拾ってくれるようにだとか、生前、事細かに遺言していたようだ。

会社に送る自分の弔辞連絡でさえ、自らの手で書き終えていたそうだ。

葬儀が終わった後奥さんから、実は私に自分の道着を託す旨を書いた手紙を預かっていたと言って、一通の手紙を渡された。

その手紙が書かれたのは、7月の柔道部の会合よりずっと前の5月の事であった。

そんな前から、そんな事を考えていたのか。

そんなヤツなのだ。

預かった道着は、久留米から葬儀場まで持って行き、式が終わるまで飾って貰った。

無論、今私の手元にある。

 

 

大事に預からせてもらうぞ。

OB会で飲む時、道着を持って行くから、一緒に飲もうな。

そして、俺がそっちに行く日が来たら、ちゃんと持って行くからな。

それまでそっちで、ちょいと待ってな。

 

 

 

合掌

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