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Tシャツとサンダルの候

看取り方を考える

1月8日


一本の電話が掛かってきた。

母親が入所する施設からである。


「お母様にお声がけしてるけど、反応がありません。」


電話の向こうから聞こえてくる切迫した声は、お袋に容易ならざる事が起きているのを示していた。

施設に到着するとすぐに、お袋の部屋に案内された。

(↑コロナ以来4年ぶりに入室した母の部屋)

介護用ベッドに寝かされているお袋を一目見て、


(これはいかん。朝まで持つかどうか)


これは、この部屋にいる誰しもがそう思った筈だ。

偶然にもこの日は親父の命日。


(親父め。呼びに来やがったな!)


なんて考えまで頭に浮かぶ。

ところがである。

どうやらお袋は、三途の川の手前で、亡き夫の撃退に成功したらしい。

この後2時間程で正気に戻り、栄養ドリンクを口にするようになった。

先ずはホッとひと安心である。

この時、私らと介護士との会話の中で出たのが、


「救急車、呼ばんでいいかな。」(私)

「えーっとですね。こんな場合の看取り方を主治医の先生とお話されませんか。」(介護士)




1月11日


主治医との面談の日である。

「お母様の心臓は縮む力はありますが、膨らむ力が弱くなってます。」


要するに血流が弱く、それが原因で今回の様な事が起こりやすくなる。

そしていつか、そのまま目を覚ます事なく・・・

それは、100歳という高齢を考えれば、


「いつあってもおかしくありません。ひいてはですね。これからお母様をどう看取って行くか・・・」


私達親族、主治医、施設との間で合意して置いた方がよろしかろう、との事。

医師は、老衰死を看取る親族の心構えを説くのである。

内容としてはただ一点、


『安らかに逝かせること』


その日が来たなら、点滴、心臓マッサージ等の延命措置はしない。

無論、救急車など呼ばない。

入院もさせない。

本人の尊厳を第一に考え、住み慣れた部屋で、安らかに最後の時を迎えさせようと言うものだ。

私らがなすべきことは一つ。

母の命の炎が消えゆく様を、目に焼き付ける。

それだけだ。

ただし、病気や事故の場合は別だ。

最善を尽くして治療するし、場合によっては入院も有り得る。


「勿論、老衰死であっても、延命を望まれるなら、心臓マッサージや・・・」

「いえ、先生。最期の時に、ことさら苦痛を与えたくありません。その看取り方を望みます。」

「バッテンですね。この状態になって、4年間生きとらっしゃた方もいますから。」

「ハハハ。お袋もしぶとかけんですね。もう少し先かもしれんですね。」





明日かもしれないし、1年先かもしれないが、

母の100年蝋燭は燃え尽きようとしている。

コメント一覧

minou_yamatai
> corgi_yume さんへ
そうですね。
安らかに終わらせてやりたいですね。
「人の尊厳とは何か」を、今更ながら考えさせられました。
corgi_yume
おっしゃるように
安らかな旅立ちの時間を
ご一緒に・・・ですね
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