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タイタニック号沈没事件に関与?フリーメイソンの極秘名簿、190年分200万人が一挙公開される

2015年12月07日 | 世界びっくりニュース
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  処女航海の最中に沈没した豪華客船タイタニック。この1912年の悲劇では1,500人もの人が犠牲になっているものの、所有会社ホワイト・スター・ラインや船長など、その関係者のほとんどが無罪となっている。だが、その調査に当たったのは、上流階級への批判をそらす目的を持ったフリーメイソンだった。

 これは、この度公開された1733~1923年までのフリーメイソンの極秘名簿により明らかとなった。ここには200万人に上るメンバーの名前が記されており、イギリスの数多くの権力者が名を連ねている。その範囲は政治、経済、科学、芸術の分野に及んでおり、歴史家による検証次第では、同国が最も隆盛を誇った時代の歴史を塗り替える可能性すらあるという。

 名簿は家系図サービスサイトのAncestry.comで公開された。このリストには、氏名、職業、居住地、入会日といった詳細情報が含まれている。ウィンストン・チャーチル、オスカー・ワイルド、エドワード8世らとフリーメイソンとの関連性についてはかねてから指摘されてきたが、この名簿によって同組織が大英帝国支配層に与えていた影響力の全体像が初めて明らかとなった。

 今回の記録には警察官5500人、判事170人、国会議員169人、司祭16人、インド人の王子1人が含まれているという。また会員に多い職業として技師、商人、官吏、農民などが挙げられていた。

写真:ウィンストン・チャーチル(左)とイギリス国王エドワード8世(右。女性はウィンザー公爵夫人)はかねてからフリーメイソンとの関連が知られていた。

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写真:文学界に大きな影響を残した詩人オスカー・ワイルド(左)とノーベル賞作家ラドヤード・キップリング(右)

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写真:クリケット選手ダグラス・ジャーディン(左)と、アンフィールドなどのサッカー場の設計で有名な建築家アーチー・リーチ(右

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写真:左はイギリス国王エドワード7世。1901年の即位時のもの。右はエドワード8世。

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写真:戦時中の首相ウィンストン・チャーチル(左)とワーテルローの戦いの英雄ウェリントン公爵(右)

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写真:ペニシリンの発見者アレクサンダー・フレミング(左)と近代免疫学の父エドワード・ジェンナー(右)

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写真:橋や運河の建設で有名な技師トーマス・テルフォード(左)と多国籍企業ユニリーバの前身リーバ・ブラザーズの設立者ウィリアム・リーバ(右)

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写真:シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイル(左)とジャングルブックのラドヤード・キップリング(右)

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タイタニック号沈没の関係者はフリーメーソン

 タイタニック号の事件発生後、アメリカ上院はイギリス商務省を名指しし、救命ボートの数が足りなかったのは、緩い規制が原因であると主張した。しかし、イギリス側の初代マージー子爵は商務省を無罪としている。

 だが、名簿には彼自身も1881年に入会したという記録がある。さらに当時の商務大臣シドニー・バクストンも1888年からフリーメイソンであった。事件の調査に関わった専門家5人のうち少なくとも2人の名や、タイタニック号を建造したハーランド・アンド・ウルフ社の会長であり、ホワイト・スター・ライン社の親会社の取締役であったピリー子爵も名簿に記載されている。

切り裂きジャックもフリーメーソン?

 しかも、あの切り裂きジャックもフリーメイソンであった可能性まで浮上してきた。1987年の映画『ウィズネイルと僕』の監督を務めたブルース・ロビンソン氏によれば、切り裂きジャックの本名はマイケル・メーブリックというらしい。被害者の1人の顔に刻まれていた羅針盤のシンボルなど、彼の犯行現場のすべてにはフリーメイソンの儀式の印が残されているというのだ。

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歌手のメーブリック。切り裂きジャックの正体かもしれない

 歌手のメーブリックは、容疑者の1人であったジェームズという人物の兄弟で、いずれもフリーメイソンであり、その正体は同組織によって秘匿されていた。

 切り裂きジャック事件当時、イギリスの現在の保守党の前身であるトーリー党には360人の議員が存在したが、その330人までが名簿の中で確認できるという。これが事実なら、議会から王室まで、イギリスの支配階級の全体がフリーメイソンの影響下にあった可能性がある。

 切り裂きジャックが守られていたのも、彼個人を助けるためでない。フリーメイソンという組織を守ること、それが真の目的であったとロビンソン氏は推測している。

via:ancestry/dailystardailymail/
フリーメーソンとは?
16世紀後半から17世紀初頭に設立されたと言われている、起源不詳の謎の友愛結社。現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は600万人に上ると言われている。様々な陰謀説が流れる中、最近になって組織についてオープンにし、自らに関する陰謀説を払いのけようと情報を公開する動きを見せている


☆映画の世界でしか知らん!

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我々の思っているイメージとは異なる、現代のテロリズムに関する意外な5つの事実

2015年12月04日 | 世界びっくりニュース
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  11月13日、パリで忘れることのできない悲劇が発生した。

 ギャラップ社の世論調査によれば、アメリカ人の半数がテロ攻撃を強く懸念しており、また3分の1近くが政府はテロの脅威から市民の安全を守れないと考えているそうだ。事実、ニュースで過激派の話題が尽きることはない。

 それでも、テロリズムに対する私達のイメージは必ずしも正確とは限らない。ここでは意外と思われる現代テロリズムにおける5つの事実を見ていくことにしよう。

5. 世界最大規模のテロリストグループにはイスラム教と無関係なものも多い

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 テロの歴史において、ISISほど大規模かつ潤沢な資金を持つ組織はなかっただろう。彼らは世界で最も財政基盤が確かなテロリストグループであり、次いでイスラム過激派のヒズボラが位置する。

 だが、他の主要なテログループにはイスラム教と無関係なものもあり、それどころか宗教とも関係ないものもある。

 その代表の1つがコロンビア革命軍だ(FARC)。マルクス・レーニン主義の社会主義政権樹立を目的としており、宗教とは一切関係がない。2014年11月に発表されたフォーブス・イスラエル誌の試算によれば、FARCは世界で3番目に資金が豊かなテログループであり、コロンビアのほぼ30%を支配しているとされる。現時点でもアルカーイダやボコ・ハラムより大きな組織であるが、実は2000年代初頭には現在の3倍もの規模があり、実に年間3,000件もの誘拐を行っていた。

 一方、ジョゼフ・コニーが率いるウガンダの反政府勢力、神の抵抗軍(LRA)は、中央アフリカ共和国、コンゴ民主共和国、スーダン南部において現在も勢力を拡大している。聖書と十戒に基づく神聖政権の樹立を目指すキリスト教系団体で、1987年以来、10万人以上を殺害してきた。

 日本では、1995年に東京の地下鉄でサリンガスを撒き、死者12人、負傷者5,500人を出したオウム真理教があった。その後継団体には現在1,300人ほどの信者が存在し、布教活動を続けているそうだ。

 イスラム教といえばテロを思い浮かべる人もいるかもしれないが、アラーなど歯牙にも掛けないテログループが多数存在するの現実だ。


4. ヨーロッパのテロリズムの大部分は分離独立主義と関連

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 少なくとも130人の犠牲者を出したパリ同時多発テロ事件はイスラム過激派が関与しているが、ヨーロッパにおけるテロリズムはナショナリズムと関係していることが多かった。

 2014年、ヨーロッパで発生した全テロ事件の半分は宗教や極右過激派ではなく、アイルランド共和主義と関連している。同年、欧州刑事警察機構は201件のテロ事件を報告しているが、そのうち109件が北アイルランドで発生していた。民族主義運動や分離独立運動は、各地で起きるテロリズムの主要な動機である。コルシカ島の独立を目指すフランスのコルシカ島の民族解放戦線(FLNC)は、2013年に警察署へ連続砲撃を実施した。また、2015年には、マケドニアで民族主義のアルバニア系テロリストによって警察官5人が殺害された。

 だが、何もヨーロッパの頭痛の種は分離主義者だけだというわけではない。過去2年では左翼系過激派も目立った動きを見せている。2013年、ギリシアではマルクス主義者が政敵2人を殺害し、イタリアでも無政府主義者によるレター爆弾事件があった。

 特定の問題に関連したテロ行為もある。フランスではワイン醸造家の一団がワイン生産に関する抗議として、社会党のビルに爆弾を仕掛けた。

3. アメリカで起きたテロが組織的に行われたことは滅多にない

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 アルカーイダ、ISIS、FARCなど、聞けば思わず背筋が寒なるようなテロ組織は数多くあるし、911同時多発テロ事件のイメージが強いため、アメリカでは組織的テロ行為が数多く発生しているというイメージがある。

 ところが、南部貧困法律センターによれば、アメリカにおいてテロ行為が組織的に行われた事例はごく少数で、そのほとんどは一匹狼(1人)もしくは2人によって実施されているという。

 同センターが60件のテロ事件を分析した結果、その75%近くが単独の犯人によって立案、実行されていたことが判明した。さらに、外部に協力者のいない2人以下の犯人に拡大すると、全事件の90%を占めてしまう。

 この「指導者なき抵抗」理論は、1980年代後半から90年代前半にかけて提唱され、政府が潜在的なテロリストを発見できない根拠とされた。1995年に共犯者1人の力を借りてオクラホマシティで168人を殺害したティモシー・マクベイの事件後、一匹狼によるテロ行為は急増し、1995~2011年ではほぼ3分の1が一匹狼による事件(南部貧困法律センターの調査で、犯人の大半を一匹狼が占めていたのもこれが理由)である。この時点において、すでに組織的なテロリズムはほとんど過去のものになっていた。


2. テロリストの目的は実現しない

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 研究によれば、テロ行為がうまくいった試しがないことが証明されている。テロリストの目的は、妥協された形であっても実現したことがなく、一般市民に対する無差別攻撃はその正当性を貶める結果にしかならない。

 2009年、米ジョージ・メイソン大学は、1968年以降に発生した457件の組織的テロ運動を分析し、過激派が国家を制圧した例はなく、94%が自身の掲げる目標を1つたりとも達成できていないことを明らかにした。

 確かにこの研究はやや時代遅れである。おそらくはISISがその傾向を覆し、中東に半国家的な存在を作り上げることに成功したと論じられるだろう。

 しかし、全体的な傾向としては未だ正しい。IRAは数十年も戦いを続けてきたが、北アイルランドは現在でもイギリスの一部だ。これまでの数知れない爆破事件や銃撃事件によって、アメリカ政府が倒れることはなかった。1990年代後半にはコロンビア政府打倒間近と言われたFARCでさえ、現在では武装解除を視野に入れている。彼らの期待に反して、テロリズムは目標実現の近道とはなりえない。

1. テロの目的は布教やイデオロギー拡大だけではない

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 テロリストが罪もない人々を殺める理由を説明する上で、2つの基本的な考え方がある。1つは、テロリストは単純に悪であり、人の殺傷を楽しむというものだ。もう1つは、テロリストは暴力的な手段によってイデオロギーや宗教を広めようとしているというものだ。後者に関しては、間違いなく正しいのだろうが、研究からはそれがテロリスト精神のごくわずかな部分しか占めていないことが明らかとなっている。

 米オハイオ州立大学で、USを標的とした52のイスラム系過激派を調査したところ、その動機の中で圧倒的に多かったものは復讐であることが判明した。大部分のテロリストは、イスラエルを支持するアメリカを罰するため、あるいは単にアフガニスタンやイラクでの戦争行為への怒りゆえにテロ行為に訴えているという。

 また、米ミシガン大学の研究からは、一般的に若い男性で構成されるテロリストのほとんどは、冒険、仲間意識、地位、女性を求めてテロ組織に参加していることが明らかとなった。

 だからと言って、テロの脅威や組織が公式に掲げる目標を軽視していいということではない。そうではなく、テロリズムの目的を理解するには、より大局的な歴史的視点とテロ組織に所属する個人の動機を考慮する必要があるということだ。

via:listverse.

☆客観的にのんきなことを言いすぎじゃ!

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1度の夕食が、イタズラ描きが、、、アメリカの歴史を変えた食に関連する5つの出来事

2015年12月02日 | 世界びっくりニュース
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 衣食住が満ち足りて、初めて人は人間らしい暮らしができる。中でも生命活動を維持する食事は欠かすことのできないもので、ちょっとした食をきっかけに、ときに歴史を変えるような重大なことが起こることがある。

 ここではアメリカの歴史を変えた食に関する5つのトリビアを見ていくことにしよう。

1. アメリカの食事は安全ではなかった。食品医薬品局(FDA)の誕生
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 19世紀後半まで、アメリカの食料はそれほど安全ではなかった。シロップにはモルヒネが含まれていたし、缶詰の豆は鮮やかなグリーンに光っていた。ホウ砂(現在はアリをおびきよせるエサ)や硫酸銅(現在は農薬)のような化学添加物が普通に食品に使われていた。

 ハーヴィー・ワイリー博士が、アメリカの食卓からこれらを除去すべきだと提唱したが、彼の提出した法案は食品関係の圧力団体にことごとくつぶされた。1902年、ワイリーは12人のボランティアを募り、毒薬部隊と呼ばれたこのボランティアたちに、一日3回添加物入りの食事を摂取してもらった。その研究結果がついに評価され、1906年のアメリカ初の食品規制法制定の動きとなり、ワイリーはFDAの初代局長となった。


2. ディナーがきっかけでアメリカの首都が決まる「首都立地法」
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 1790年6月、トーマス・ジェファーソンとアレクサンダー・ハミルトンが、ジョージ・ワシントンのニューヨークの家の外で鉢合わせし、そのうちいつか食事をしようということになったが、ジェーファーソンにはたくらみがあった。その食事会にハミルトンのライバル、ジェームズ・マディソンも誘ったのだ。

 マディソンはアメリカの首都をポトマック河畔にしようとしていた。一方、ハミルトンは州が抱えていた借金を連邦政府に肩代わりしてもらおうとしていた。これはアメリカの信頼を確立するための動きだった。このディナーが引き金になって歴史的な妥協が生まれることになり、連邦政府が州の借金を引き受け、ワシントンDCがアメリカの首都になった。

1. アメリカの食事は安全ではなかった。食品医薬品局(FDA)の誕生
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 19世紀後半まで、アメリカの食料はそれほど安全ではなかった。シロップにはモルヒネが含まれていたし、缶詰の豆は鮮やかなグリーンに光っていた。ホウ砂(現在はアリをおびきよせるエサ)や硫酸銅(現在は農薬)のような化学添加物が普通に食品に使われていた。

 ハーヴィー・ワイリー博士が、アメリカの食卓からこれらを除去すべきだと提唱したが、彼の提出した法案は食品関係の圧力団体にことごとくつぶされた。1902年、ワイリーは12人のボランティアを募り、毒薬部隊と呼ばれたこのボランティアたちに、一日3回添加物入りの食事を摂取してもらった。その研究結果がついに評価され、1906年のアメリカ初の食品規制法制定の動きとなり、ワイリーはFDAの初代局長となった。


2. ディナーがきっかけでアメリカの首都が決まる「首都立地法」
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 1790年6月、トーマス・ジェファーソンとアレクサンダー・ハミルトンが、ジョージ・ワシントンのニューヨークの家の外で鉢合わせし、そのうちいつか食事をしようということになったが、ジェーファーソンにはたくらみがあった。その食事会にハミルトンのライバル、ジェームズ・マディソンも誘ったのだ。

 マディソンはアメリカの首都をポトマック河畔にしようとしていた。一方、ハミルトンは州が抱えていた借金を連邦政府に肩代わりしてもらおうとしていた。これはアメリカの信頼を確立するための動きだった。このディナーが引き金になって歴史的な妥協が生まれることになり、連邦政府が州の借金を引き受け、ワシントンDCがアメリカの首都になった。

3. 手を洗わなかったことがきっかけで生まれた人工甘味料
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 ママには内緒だが、ときには食事の前に手を洗い忘れることはいいことなのかもしれない。1879年、ジョン・ホプキンス大の化学者アイラ・レムセンとコンスタンティン・ファールベルグは、休憩して食事をとろうとした。コールタールの研究をしていたファールベルグは、手を洗わずに食事を始めたが、途中でいつもより食べ物が異様に甘く感じることに気づいた。

 ファールベルグは研究室に戻り、その甘味が酸化した科学物質、つまり人工的な甘味であることに気づいた。これがのちにサッカリンと名づけられた人工甘味料だ。第一次世界大戦が始まって砂糖が不足すると急速に普及した。

 1960年代から1970年代には、ダイエットへの有効性が認識され、広く使われるようになった。その後、サッカリンには弱い発癌性があると考えられ、一度は使用禁止になった。しかしその後サルも含めて様々な動物で試験されたが、発癌性は示されなかった。後に見直しを受け、現在では発癌性物質リストから削除されている。


4. 食事会がきっかけで。セサミストリート、オスカーの誕生秘話
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 セサミストリートにでてくる登場人物、緑色をしたオスカー・ザ・グラウチはアパートの入り口前のゴミ缶に住む変わり者である。だが彼がおしゃれなマンハッタンの家で生まれたとは誰も信じられないだろう。

 1966年、テレビプロデューサーのジョアン・クーニーが、ニューヨークの自分のアパートでディナーパーティを開き、カーネギー財団副理事長のロイド・モリセットを招待した。そこでモリセットが自分の3歳の娘が観ているテレビ番組のおかしなキャラに夢中になっていることを話した。

 このディナーパーティがきっかけとなって、いかにテレビの中毒性を役に立つ方向に変えられるかという発想が浮かんだ。それから3年もしないうちに、いつもふてくされている緑色の怪物、オスカーが誕生し、子どもたちの教育方法を変えたのだ。


5. ランチミーティングから生まれたピクサー・アニメの名作
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 1994年当時、ピクサーはまだ今日のように愛されるアニメスタジオではなかった。彼らの最初の映画『トーイ・ストーリー』はまだ公開されていなかったが、スタジオチームはすでに次になにを作るべきかを考えていた。

 カリフォルニア州リッチモンドにあるヒドゥン・シティ・カフェでのランチミーティングの間に、ピクサーのアニメーターとディレクターがナプキンにキャラクターを描いてアイデアを出し合った。このいたずら描きが愛すべきキャラクターたちを生み出したのだ。

 『バグズ・ライフ』、『モンスターズ・インク』、『ファインディング・ニモ』そして『ウォーリー』だ。20年構想のプロ
ジェクトは、たった一回のランチミーティングの後、生まれたというわけだ。

via:neatorama.

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