詩の世界では「サダコの千羽鶴の物語」は延々とモチーフに選ばれます。
1966年はロシアのタンボフを代表する有名な詩人イワン・クチンが「千羽の白い鶴」を発表します。
映画「こんにちは、子どもたち!」や佐々木禎子さんを紹介するドイツ語の本のロシア語訳、同じロシアの児童文学作家ヤコブレフの作品「白い鶴」に触発された可能性もありますね。
このクチンの詩はとても長いです。子ども向けの作品ということになっていますが、驚くほど長いです。
全文を読みたい方は、タンボフの図書館のサイトで公開されていますので、リンク先を貼っておきます。こちらです。
この詩の中には、何羽の折り鶴を作れたといった数字はないです。
しかし、はっきりと、作品中に佐々木禎子さんの名前が書かれています。
ただ、「サダコは名字、ササキは名前」という行があって、苦笑いしてしまいましたが。
また、「ドクター・マコト・オサム」という主治医まで作品の中に登場。
佐々木禎子さんの主治医は沼田丈治先生です。
この漢字の「治」は「オサム」と読めなくともないですが、全くちがう名前ですね。
1966年以前に、サダコの主治医の氏名は、マコト・オサムにしている文献があったのかどうかは私は確認できませんでした。
作者が言葉の響きがいいなどの理由で、勝手に命名したのかもしれません。
詩人なので、外国語であっても言葉の響きを大切にする場合が多いです。史実として正しいかどうかは二の次という考えの文学者もいますよ。
この詩も冒頭は日本ではなくロシアなのです。
(おそらくタンボフの)ピオネール会館にテーブルが置いてあって、そこに一羽の折り鶴が置かれていた・・・と導入部分があり、サダコの千羽鶴の物語や広島の原爆について、ロシアの子どもたちに教えてあげるよ、という感じで詩が綴られていきます。
タンクのベラルーシ語の詩も冒頭が新聞記事の引用です。
「こういう広島の少女の話を知ったから、ロシア語圏の皆さんにもシェアしますよ。私は詩を使って、情報伝達する役割なんです。」
というのがタンクにもクチンにも共通する詩作の手法です。
「私は日本人ではないし、広島に行ったわけでもない。でもサダコの話を広く世界に、せめてロシア語圏には、文学を通して広めたい。」
というメッセンジャーのような立場にいるんですね。
ある意味、当事者ではない(被爆者でもないし、原爆を投下した側の国の人間でもない)ことを明確にして、客観的に書いています。
もちろん詩人としての自分の感情や、訴えたいことも織り交ぜています。
こうして詩の世界での「サダコの千羽鶴の物語」はまだ初期の段階にあり、「知らない人が多いので、紹介しますよ。」という姿勢で書かれたものが主流でした。
ただ、21世紀を生きている私から言わせると、戦争の過去の話なんて、語り続けないとすぐ忘れられます。戦争の記憶がある世代はどんどん減ってゆき、知らない世代がどんどん増えていきます。
サダコの千羽鶴の話なんて知らないという世代が生まれてくるので、やはり紹介するという形を取るなら、このような初期のタイプの詩作品が常に求められると思います。
次の段階としては、詩にメロディーがつけられ、歌に変化していきます。
(8)に続く。
1966年はロシアのタンボフを代表する有名な詩人イワン・クチンが「千羽の白い鶴」を発表します。
映画「こんにちは、子どもたち!」や佐々木禎子さんを紹介するドイツ語の本のロシア語訳、同じロシアの児童文学作家ヤコブレフの作品「白い鶴」に触発された可能性もありますね。
このクチンの詩はとても長いです。子ども向けの作品ということになっていますが、驚くほど長いです。
全文を読みたい方は、タンボフの図書館のサイトで公開されていますので、リンク先を貼っておきます。こちらです。
この詩の中には、何羽の折り鶴を作れたといった数字はないです。
しかし、はっきりと、作品中に佐々木禎子さんの名前が書かれています。
ただ、「サダコは名字、ササキは名前」という行があって、苦笑いしてしまいましたが。
また、「ドクター・マコト・オサム」という主治医まで作品の中に登場。
佐々木禎子さんの主治医は沼田丈治先生です。
この漢字の「治」は「オサム」と読めなくともないですが、全くちがう名前ですね。
1966年以前に、サダコの主治医の氏名は、マコト・オサムにしている文献があったのかどうかは私は確認できませんでした。
作者が言葉の響きがいいなどの理由で、勝手に命名したのかもしれません。
詩人なので、外国語であっても言葉の響きを大切にする場合が多いです。史実として正しいかどうかは二の次という考えの文学者もいますよ。
この詩も冒頭は日本ではなくロシアなのです。
(おそらくタンボフの)ピオネール会館にテーブルが置いてあって、そこに一羽の折り鶴が置かれていた・・・と導入部分があり、サダコの千羽鶴の物語や広島の原爆について、ロシアの子どもたちに教えてあげるよ、という感じで詩が綴られていきます。
タンクのベラルーシ語の詩も冒頭が新聞記事の引用です。
「こういう広島の少女の話を知ったから、ロシア語圏の皆さんにもシェアしますよ。私は詩を使って、情報伝達する役割なんです。」
というのがタンクにもクチンにも共通する詩作の手法です。
「私は日本人ではないし、広島に行ったわけでもない。でもサダコの話を広く世界に、せめてロシア語圏には、文学を通して広めたい。」
というメッセンジャーのような立場にいるんですね。
ある意味、当事者ではない(被爆者でもないし、原爆を投下した側の国の人間でもない)ことを明確にして、客観的に書いています。
もちろん詩人としての自分の感情や、訴えたいことも織り交ぜています。
こうして詩の世界での「サダコの千羽鶴の物語」はまだ初期の段階にあり、「知らない人が多いので、紹介しますよ。」という姿勢で書かれたものが主流でした。
ただ、21世紀を生きている私から言わせると、戦争の過去の話なんて、語り続けないとすぐ忘れられます。戦争の記憶がある世代はどんどん減ってゆき、知らない世代がどんどん増えていきます。
サダコの千羽鶴の話なんて知らないという世代が生まれてくるので、やはり紹介するという形を取るなら、このような初期のタイプの詩作品が常に求められると思います。
次の段階としては、詩にメロディーがつけられ、歌に変化していきます。
(8)に続く。