MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2757 令和ニッポンは「逆・木綿のハンカチーフ」

2025年02月28日 | 社会・経済

 昨年4月、有識者で構成される「人口戦略会議」が、2020(令和2)年~2050年までの30年間で、子どもを産む中心になる年齢層の20歳~39歳の若年女性人口の減少率が50%を超えると予想される全国744の自治体を「消滅可能性自治体」としてリストアップし話題を呼びました。

 これらの自治体では将来、出生数が急激に減少し、最終的には自治体として維持できなくなる可能性が高い由。最も多かった秋田県では96.0%の自治体が、2位の青森県では87.5%の自治体が、そして3位の山形県ですら80.0%の自治体が、この「消滅可能性自治体」に当たるとされています。

 今から約10年前に始まった「地方創生」。国は雇用の創出などとともに、基本目標として結婚・出産・育児の「希望をかなえる」ことを掲げ、地方からの人口の流出と東京一極集中の是正を目指しましたが、(巨額の税金を投入したにもかかわらず)大きな流れを変えるには至っていないようです。

 婚活イベントを企画しても参加希望者は男性ばかり…昨年6月17日にNHK総合テレビで放送された「クローズアップ現在」(『女性たちが去っていく 地方創生10年・政策と現実のギャップ』)は、若年女性の流出が加速し深刻な状況となっている地方の実態を伝えています。

 この10年、地方から東京圏への20代から30代の人口流出は、(男性でも一貫して続いているものの)、女性が男性を常に上回っているとのこと。都道府県別で見ると全国33の道府県で女性が男性より多く流出しており、中には、男性の2倍の女性が去っている地域もあるということです。

 一方、番組で地方を出た女性たちの声を聞くと、「魅力的な仕事がない」「結婚・出産に干渉されたくない」といった理由が寄せられ、出生率や人口を目標とする(政府や自治体の)姿勢や政策が、そもそも現実とかみ合っていない可能性もあると指摘されているところです。

 地方部の故郷を去り首都圏を中心とした都市部へと出ていく若い女性たち。彼女らに「見限られる」故郷には一体何が足りないのか。1月20日の日本経済新聞に、編集委員の大林尚(おおばやし・つかさ)氏が『今は昔、木綿のハンカチーフ』と題する論考記事を掲載していたので、指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」は、都会へ出て行った恋人に想いを寄せ続けた女心を歌う1970年代後半のヒット歌謡曲。恋人は故郷の彼女を垢抜けさせようと都会で流行りの指輪を送り、純朴でいてほしいと繰り返す彼女の願いを聞き入れない。やがて彼は「故郷には帰れない」という返信を出すのだが、彼女の最後のわがままは「涙拭く木綿のハンカチーフ下さい」だった…というストーリーだということです。

 実際、歌詞を裏づけるように、80年代から90年代初めにかけての東京圏への転入超過数は男性のほうが多かったと大林氏は話しています。その後は男女ほぼ同数が続き、2010年ごろを境に(逆に)女性が男性を上回るようになった。そしてその傾向は、コロナ禍を経てより鮮明になっているということです。

 氏によれば、その結果起こっているのが「逆・木綿のハンカチーフ」とも呼ぶべき現象とのこと。こうした状況を、特に地方圏での未婚男性の過多、つまり「男余り」として顕現していると氏はこの論考に綴っています。

 実際、2020年国勢調査をもとにした内閣府の分析によると、20~34歳未婚者の男女比は福島、茨城、富山、栃木、福井、静岡、山形7県で30%以上の男余りになっている。20~30%は秋田、青森、群馬など16県。日本地図に落とし込むと、東高西低が読み取れると氏は指摘しています。最高は、東日本大震災による大津波と原発事故のダメージを受けた福島県で、このぶんだと能登地震被害の復興が思うに任せぬ石川県も急伸する可能性が高いということです。

 出生時の男女比は男が5%多く、若い世代で男が(いくぶん)余るのは自然の摂理だが、極端な不均衡は日本の未来に重大な支障をもたらすというのが氏の懸念するところ。全国の生涯未婚率(50歳時未婚率)は20年国勢調査によると男28%・女18%で、男余りが著しい県では男性の未婚率がより高くなりがちだということです。

 さて、人口流出が進む地方の実情を踏まえ、石破政権が打ち出したのが「地方創生2.0」。そしてその延長上にあるのが「若者と女性に選ばれる地方」をめざす令和の列島改造だと大林氏は説明しています。

 首相は、地方創生2.0の目玉に交付金倍増を据えた由。しかし予算を少々ばらまいたところで若者と女性の東京集中は(そう簡単には)止められないだろうと氏は話しています。

 必要なのはお金ではなく、地方の魅力づくりを実現させるための知恵。コンサルに任せるだけではどうにもならない。実際にその地に暮らす人々の意識改革にまで踏み込まなければ、本当の意味での地域の再生は難しいものだとも感じます。

 若い人が都会へ出ていくことを止めるのは難しいとしても、UターンやIターン者を呼び込むことはできるはず。これまで足りなかったのは独創力であって、私たちの税負担がただ染み込んでいくだけの地方創生はごめんだと話す大林氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2756 私立高校の無償化とこれからの公教育

2025年02月27日 | 教育

 2月25日、自民、公明両党と日本維新の会が国会内で党首会談を行い、高校授業料の無償化を柱とする2025年度予算案の修正に関する合意文書に署名したとの報道がありました。

 今回、合意のポイントとなったのは、維新の会が主張した「高校生のいる世帯に支給される就学支援金」の取り扱い。協議の結果、2025年度から公立私立を問わず「所得制限なし」(現在は910万円未満という所得制限あり)で年11万8800円を助成するほか、26年度からは、私立高生への上乗せ支給に対しても所得制限を撤廃し、支給額も(現行の年最大39万6000円から)私立高授業料の全国平均額にあたる年45万7000円に引き上げることで合意したとされています。

 上乗せ支給の対象者は、高校生全体の実に4割に当たる130万人に上る由。金額としては、25年度は1000億円程度、26年度以降は毎年4000億円程度の財源が必要となるということです。

 しかし、世論の中に、私立高向けの支援が拡充されることで①「公立高離れ」が加速することや、②「私立高の授業料の便乗値上げ」を懸念する声が上がっているのも事実です。子育て世帯の負担軽減に資するという意見がある一方で、③高所得世帯も支援対象となること、④教育の質の向上につながる担保がないこと…などを疑問視する向きも多いようです。

 まあ、昭和の時代に高校生活を過ごした身としては、(公立高校だから問題があるというわけではないのだから)今までどおり「お金持ちの子は私立」「余裕のない家の子は公立」で別にいいじゃん…と思わないでもありません。しかし、(彼ら自身が私立出身だからという訳でもないでしょうが)「我が家は貧乏だから公立は無理」というのでは「子どもが可哀そう」と考える政治家が多いということなのかもしれません。

 いずれにしても、親にとって私立でも公立でもかかるお金が変わらないのであれば、敢えて(様々な制約の多い)公立高校を選ぶ必要はありません。私立とのガチンコの競争になるとあれば、(ただでさえ定員割れで)人気のない公立高校の先生たちが不安に思うのも無理はないでしょう。

 こうした状況に対し、2月26日のフジテレビ系情報番組「めざまし8」で、元衆議院議員で政治コメンテーターの金子恵美(かねこ・めぐみ)氏が、『高校授業料無償化に議論の余地 16歳で就職家庭は「納税してるのに」』と苦言を呈したとの記事が、2月26日の情報サイト「デイリースポーツ」に上げられていました。

 金子氏は、既に(自主財源で)実質無償化を実施している大阪、東京で公立高校の定員割れが相次いでいる状況があることを指摘したうえで、「同じことが地方でも起こった場合の影響は調査しているのか?」などの疑問を訴えた由。そのうえで、社会を支える人材を育成するため、「普通科だけじゃなく、むしろ人出が足りない分野の専門職、手に職を付ける分野を勉強する人に手厚くするのも国がやる一つの政策だとも思う」と述べ、(公立高校では)普通科以外の人材育成にもっと手厚く対応するべきとコメントしたと記事は伝えています。

 また、家庭の事情で16歳で働かなければならない家庭がある中で、「16歳から社会に出て働いているお子さんがいるとしたら、その方達は納税するのに、所得が多い家庭ですでに私立に行っている、そういうご家庭に(まで)税金を投じることへの不公平感についてももっと議論すべき」と訴えたということです。

 さて、ここからは私個人の意見ですが、確かに今回の措置によって「私高公低」は(おそらく)全国的な動きとなるでしょう。公立高校の関係者からは、「資金力がある私立とは戦えない」との諦めの声も聞かれるようですが、だからと言って「仕方がない」とうなだれてばかりもいられません。

 この際、「15の夏を泣かせない」「高等教育を広く遍く」といった公教育の存在価値を「既に過去のもの」としてとらえ、今回の政治判断を「時代に適した高校教育」へ立て直す転換点とするための前向きな議論も必要というものでしょう。

 公立には、公立にしかできないような教育内容もまた存在するはず。例えば金子氏も言うように、工業や農業、商業といった専門学科を中心に社会的ニーズが高いカリキュラムを磨き(資格や技術なども含め)現場の即戦力となるような魅力的な進路を示したり、大学進学にこだわらず、表現者やクリエーター、企業してニッチな職人を目指す道などを示すこともその一つでしょう。

 実際、ものづくりの現場では高専や工業高校への求人が殺到しており、(全国工業高等学校長協会の調査では)工業高校卒業者に対する求人倍率は過去最高の27.2倍と、高卒全体(3.79倍)の7倍を超えているとの話も聞きます。

 高校が「大学予備校」ではないとすれば、公立高校はその理念の中で何ができるのか。公立高校の関係者にはぜひ、私立にはない「公立の良さ」を突き詰め、未来の日本の社会を担う人材の育成に自信をもって邁進してもらいたいと強く感じるところです。


#2755 解決策は「相続税100%」②

2025年02月26日 | 社会・経済

 日本人の平均寿命が年々伸びて「人生100年時代」と言われる中、年齢が高い人同士で遺産が受け渡される「老老相続」が増えていると、昨年10月23日の日本経済新聞が伝えています。(『増える「老老相続」 相続人の半数が還暦以上に』)

 内閣府の調査によると、2022年時点で相続人の半数超が還暦以上だった由。具体的には、遺産を相続する人のうち60歳以上の割合は52.1%に達し、現役世代である50歳代は27.0%、49歳以下は20.6%だったということです。

 60歳になって退職金が入り、大手企業に勤めていれば厚生年金のほかに企業年金も入ってくる。そこに(予定外の)親の遺産が入ってきても、定年を迎え子育ても終わった年齢では使うものも限られている。かくして、財産は定期預金に積まれたまま、本人は財産を使うこともなく80代で亡くなっていくのでしょう。

 一方、同じ時代を生きる若い世代は、お金がなくて苦しい生活を強いられている。これは、社会構造的に見ても何とも「もったいない」というか、健全な状態とはいえません。こうして「デッドストック」と化してしまっている高齢者のお金を、世の中に還流させるにはどうしたらよいものか。

 少し前の記事にはなりますが、メディアなどで活躍する投資家の「ホリエモン」こと堀江貴文氏が、情報誌「週刊朝日」(2015年1月30日号)に『相続税は100%にして有意義な人生を!』と題する一文を寄せていたので、参考までにこの機会に指摘の一部を残しておきたいと思います。

 2015年1月1日から相続税制が改正され、相続の際の基礎控除が4割カットで課税対象者も増えることになった。そんなこんなで、最近、ウェブ上でも相続税を扱ったニュースをよく見かけるようになったと、氏はこの論考の冒頭に記しています。

 そうした中、氏によれば「実は私(←堀江氏)は相続税100%論者である」とのこと。家族であるからという理由で、ある程度の財産が空から降ってくるというのは私にはどうにも理解できないと、氏は相続をめぐる現状を厳しく否定しています。

 (自分には経験はないが)これは正直、宝くじのようなものだろう。もちろん振り返れば、そうやって莫大な財産を相続した2代目、3代目がパトロンとなって、芸術や文化を花開かせてきた歴史(的な意味)などはあるかもしれない。しかし、今やNPOや財団などへの寄付、クラウドファンディングなど、政府が支援しなくても大丈夫な仕組みが世界的にできているということです。

 そもそも、何故多くの人たちは(生前贈与までして)財産を家族に相続させたいと願うのか。おそらくは、そういう「同調圧力」が社会にあることも一つの原因であることは間違いないと氏は言います。自分で形成した財産ならば(他に気を使わず)自分で使いきればいい。もちろん、死んでしまう時期はわからないのだからきっかり0円にすることは不可能でも、(正当な理由や目的もなく)子孫に残す意味はないというのが堀江氏の考えです。

 私(←堀江氏)の持論を言えば、子どもたちへの相続などは彼らが興味を持つことがあったら全力でその機会を与えてあげることくらい。親とは違う子どもたちの人生を私物化すべきではないと氏はここで指摘しています。そもそも子供は奴隷ではない。もし配偶者がいたとして自分の死後も生きているならば、それは離婚した時と同様の財産分与を行えばいいだけの話で、それで問題ないということです。

 ただし、(税として徴収されることの是非に関して言えば)国家政府の税金の使い方が下手くそであるのは間違いないと氏は言います。年度予算制も単式簿記も非常に遅れている。時代に合っていない。それを解決する策はやはり「小さな政府」化しかないというのが氏の感覚です。

 さて、そこで問題の相続税だが、例えば中小企業の経営者が亡くなったとして、ほとんどの財産は株式なのだろうから、それは国家がいったん保有して売りだせばよい。土地などの試算も同様に対応できるだろうと氏は説明しています。

 本来であれば、現金はファンドなどを作って公募制で優良なプロジェクトに分配されるようにするのもいいかもしれない。少なくとも行政機関が使い道を決めるよりは有用な使われ方が期待できるということです。

 さて、そうした状況の中で、もっとも堀江氏が「恐ろしい」と感じるのは、相続税関連の記事を読んで、まだ死んでもいないのに、死んだ後のことを否応なしに考えさせるような状態になってしまうことだと氏は最後に指摘しています。

 実際に、本人はまだ元気で頑張りたいと思っているのに、配偶者や子どもたちからいろいろ言われて、仕方なく相続税対策なんて考えている人も多いはず。家族のために稼げるだけ稼ぎ、年を取って使えなくなったら(次がつかえているので)「お払い箱」というのでは、人生あまりに「残念」ということでしょう。

 資産を家族に残すのは、果たして「美徳」と言えるのか。周囲の声などにめげず、「死ぬまでに財産を使いきってビタ一文残しません」と断言する人を支持したいと話す堀江氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2754 解決策は「相続税100%」①

2025年02月25日 | 社会・経済

 子どもの頃、「もっとお金持ちの家に生まれていたら…」とか「〇〇ちゃんちの子だったらよかったのに」などと思ったことのある人も多いかもしれません。だけども、子どもに親は選べない。若者の間で使われるようになった「親ガチャ」という言葉が流行語大賞になるほど注目され一般化してから、かれこれ5年ほどもたつでしょうか。

 さて、令和3年12月に国税庁が発表した「令和2年分 相続税の申告実績の概要」によれば、令和2年の「被相続人」数(つまり亡くなった人の数)は1,372,755人とのこと。そのうち相続税の申告を要する被相続人は120,372人で、課税割合は8.8%だったとされています。

 これは、亡くなった人のうち相続税を納める必要があったのは8.8%で、残りの9割以上の人には相続税が発生していないということ。因みに、相続税の基礎控除額は「3,000万円+600万円×法定相続人の数」なので、8.8%の人にはそれなりの遺産があったということになるのでしょう。

 近年、「親ガチャ」という言葉が強く意識されるようになった背景には、世代を超えて引き継がれていく資産を「不平等」と感じる人が増えてきたことがあると推測されます。本来は、そうした資産の再配分の機能を受け持つのが「相続税」のはずですが、相続税が一般贈与税よりも割安なのは誰もが知るところ。「親ガチャ」といった言葉が流行ること自体、さらに様々な税務上の技術を駆使することで、資産が守られるケースが増えていることの証左なのかもしれません。

 社会の高齢化とともに注目されるこうした「相続」の在り方について、作家で精神科医の和田秀樹氏が昨年7月12日のPRESIDENT Onlineに『「相続税100%」を導入しなければ超高齢社会を乗り切れない…世代間対立を避け不況を解決する最強策』と題する(かなり強力な)提言を寄せているので、その一部を残しておきたいと思います。

 「日本って、おかしいな」と私(←和田氏)が常々感じているのは、わが子がいくつになっても「子ども扱い」をするところ。80代の親が50代の引きこもりの子どもを支えるために、経済的にも精神的にも強い負担を請け負う社会問題を「8050問題」と言うが、こうした状況は悲劇としか言いようがないと氏はこの論考の冒頭に綴っています。

 50歳になった時点で一度も結婚したことがない人の割合は、男性は28.3%、女性は17.8%(2020年国勢調査)に達している由。もちろん自活していれば問題はないが、実家暮らしで、親がいつまでも面倒を見続ける状況になっている家庭も多いといと氏は言います。

 そうなると親は「自分が死んだあとも子どもが困らないようにしてあげたい」という心理を働かせ、「子どもにお金を残してあげたい」と思うようになる。こうして、(子どもにお金を残そうとして)自分のためにお金を使えなくなっている高齢者が想像以上に多いというのが氏の認識です。

 子どもに何か残さないといけないと思う親がいる一方で、いままでこれだけしてやったのだから、子どもに介護してもらいたいと、すっかり子どもに頼りきってしまう親もいると氏は続けます。親子の関係が濃密であるがために、子ども自身も親の介護を一身に引き受けてしまう。結果、親の介護を優先せざるをえなくなって、退職に追い込まれる人が(この日本には)大勢いるというのが氏の指摘するところです。

 後悔のない人生を送りたいなら、よい意味で「子離れ」をして、親は自分自身の幸せを考えて行動することが大事だと、和田氏はこの論考で説いています。子どもに関しては、もう少しドライに「子どもは子ども、自分は自分」と割り切ること。これが、これからの時代、いっそう大切になるというのが氏の感覚です。

 そして何より、親たちが自分のお金は自分の幸せのために使うということ。財産を残しても子どもたちのトラブルの種になるだけであり、なまじお金を持っているがゆえに不幸になるケースを、氏はいやと言うほど見てきたということです。

 さて、そこで和田氏が提案しているのが、相続税を100%するというもの。つまり、死ぬ際に残した財産は、すべて国が税金として徴収(没収)するという制度の導入です。

 その大きな理由は、「親の財産を相続するのは当たり前」という考え方を何とかしないと、まともな競争社会は生まれないし、超高齢社会は乗り切れないと思っているから。(まあ、少し生ぬるくして)親の事業を継承した子どもや親の介護をした子どもの相続税は減免して、それ以外の兄弟の相続税を100%にするというやり方もあるということです。

 そして、もう一つ。私(←和田氏)が「相続税100%」論を支持する理由は、世代間の対立を回避するためだと氏はこの論考に記しています。60代、70代が、相続財産をあきらめる代わりに、自分たちの望むように、医療、福祉、年金の財源にあててもらえばいいだけのこと。そうすれば、老後の暮らしを若い世代に頼らないで済むことになり、むしろ相続税を、高齢者に対する目的税にしてもいいくらいだということです。

 そして何より、高齢者が「どうせ税金に取られるなら」とお金を使うようになれば、長引く消費不況が解決するだろうと氏は話しています。

 そうすれば、少なくとも高齢者向けの産業が勃興することは間違いない。高齢者が、介護保険以上の介護サービスを自腹を切って買うのが当たり前になれば、新たな雇用も生まれ、ビジネスチャンスも増えるというもの。いままで以上に外食や娯楽、旅行などにお金を使うようになれば、高齢者に魅力的な商品を提供するようになるということです。

 さて、もしも(氏の言う)「相続税100%」が現実のものとなれば、親たちはできるだけ若い頃から(少なくとも死ぬ前に)子供への財産の移転を終えようと、必死で対策を練るようになるでしょう。一方、子どもは子供で、親や祖父ちゃん祖母ちゃんの財産を(死ぬまでに)しゃぶりつくそうと、躍起になるような気もします。

 いずれにしても、確かに「国に取られるくらいなら…」と大盤振る舞いをする老人もきっと増えてくることでしょうし、何より「親ガチャ」に恵まれなかった人にとっては、「ざまあみろ」と留飲を下げる機会にもなるというものです。

 親が死んだ途端に、(それまでの)生活水準を維持できなくなる子供たちも可哀そうと言えば可哀そうですが、「平等」というのは(得てして)そんな矛盾をはらんでいるものなのかもしれません。和田氏自身は、(そんなこんなも含めて)いまのところ「相続税100%」導入策が、高齢者がボケても安心して楽しく暮らせる社会への近道だと信じているとのことですが、果たしていかがでしょうか。

(『#2755 解決策は「相続税100%」②』につづく)


#2753 「大国」と「それ以外」

2025年02月24日 | 国際・政治

 ロシアがウクライナを侵攻してちょうど3年。その間、ウクライナは兵士4万6千人が戦死し行方不明者も数万人と明らかにしており、ロシアにもそれを上回る死傷者が出ているとされています。一方、先月就任した米国のトランプ新大統領は、戦争終結に向けたロシアとの直接交渉に乗り出すとして、ロシアのプーチン大統領との間で交渉開始の合意を取り付けたと報じられています。

 さて、ここで問題なのは、米新政権のロシアに融和的な姿勢と言えるでしょう。トランプ大統領は米メディアのインタビューに対し、ウクライナは「いつかロシア領になるかもしれない」などと語り、ヘグゼス国防長官も(ウクライナ領内の)ロシア占領地域のすべてを取り戻すのはもはや「幻想的」…という態度を崩していません。

 近くサウジアラビアで両首脳の直接会談が予定されているということですが、一方、当事者であるにもかかわらず、大国の間で置いてきぼりにされた形となったウクライナのゼレンスキー大統領は、こうした状況に「米国はプーチンの孤立解消を支援している」と強く反発しています。

 そんな折、中国の王毅外相兼共産党政治局員は2月20日、訪問中の南アフリカでロシアのラブロフ外相と会談し、ウクライナ情勢について意見を交わした由。米ロ中の大国間で次々と交渉が進められる様子に、こちらも枠の外に置かれた(米国とともにNATOを構成する)欧州各国の首脳たちも批判の声を挙げています。

 民間人の犠牲が増える中、戦闘の長期化により泥沼化している状況を早期に終わらせる必要があるのは確かです。しかし(常識的に考えれば)、だからといって侵略を受けた当事国を外し、大国間の都合で頭越しに拙速な「合意」をまとめるようなことがあっていいはずもありません。

 大国主義を纏うトランプ新大統領が次々と繰り出す独善的な横暴さに、「大国ではない」国々はどのように対応していけばよいのか。経済情報誌「週刊東洋経済」の2月22日・3月1日合併号のコラム「匿名有識者の少数意見」に、『「グレートな米国」に欧州が警戒する理由』と題する一文が寄せられているので、参考までに指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 米国は第一次世界大戦後、荒廃した欧州に代わり世界秩序を担うようになり、第2次世界大戦によって、その力は圧倒的なものとなった。逆に言えば米国の「黄金時代」は、世界が戦乱や混乱の真っただ中だった時だと筆者はコラムに綴っています。技術、エネルギー、生産人口、それを支える農業…そうした要素の全てを具備する米国は、外の世界が混乱すればするほど相対的に栄えたというのが、この論表における筆者の見解です。

 世界には食料とエネルギーをとりあえず自給できる国がある。それらを便宜的に「大国」と呼ぶとすれば、米国、中国、ロシアはまさに大国だ。ブラジルやインド、インドネシアもそうだと筆者は指摘しています。世界の対立軸は「民主主義」対「専制体制」だけではない。そこにはもうひとつ、「大国」対「ミドルパワー以下の国」という隠れた対立軸があり、米、中、ロシアは同じ陣営にいるということです。

 中国やロシアも、米国ほどは経済的孤立への耐性はない。しかし、食料とエネルギーの自給能力があるので欧州や日本よりはずっと強いと筆者は言います。米国が中国、ロシアと気脈を通じているとまでは言わないが、現実として彼らの利害や世界観には一致する部分があるということです。

 政治体制やイデオロギーに目を奪われすぎると、そのことに気が付かない。無論、今の米国人が世界の混乱を望んでいるわけではない(だろう)が、無意識にせよ「まあ、そうなったらそれでもいいか…といった」感覚がないとは断言できないと、筆者は話しています。

 仮に世界の分断や紛争が深刻化し、国際貿易が大幅に縮小すれば、米国もダメージを受けるだろう。しかし、米国の相対的な国力は確実に上昇する。これはまさに20世紀の歴史の再来であり、トランプ米大統領の「Make America Great Again」の実現だということです。

 (考えたくはないことだが)米国民の間にグレートな国への共有が潜在意識としてあるとすれば、ミドルパワーの国々には極めて危険なものとなる。欧州がトランプの米国に対し示す不快感・警戒心の本質は、実際、そこにあるのではないかというのが、筆者が最後に指摘するところ。

 であれば、日本と欧州は、自由貿易とその前提となる平和を維持するため、国際社会への働きかけを懸命に行わなければならない。日本は面倒な外交事はいるも米国に頼っているが、今回はそうはいかないということです。

 「大国の横暴」と批判するのは簡単ですが、彼らの力に対抗するには、小国なりの「知略」を尽く必要がある。共通の目的のために利害の異なる国々をまとめるなど、(日本だって)時には国際社会で汗をかく必要もあるということでしょう。

 大国同士の利害に基づき頭越しに世界が動いていく状況が続く中、彼らの論理で切り捨てられるのは、次は私たちかもしれません。日本だって無関係ではいられない。米国に対して物を言うことなく、大統領の暴言を半分面白がって聞いている日本人の危機意識は緩いように思えてならないと結ばれたコラムの指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2752 死ぬまでに使い切るのは案外難しい

2025年02月23日 | 社会・経済

 「資産運用立国」の実現を掲げ、政府は少額投資非課税制度(NISA)や個人型確定拠出年金(iDeco)の拠出限度額の拡充などを進めていますが、ただただ(言われたとおり)貯め込んでいても、何かの形で使われなければ意味がありません。老後や自分の死後に、自分が稼ぎ出した財産を(あなたは)どのようにしたいと考えているのか。「全部使い切りたい」と考えている人もいれば、「子供の将来のために少しでも多く残したい」と考えている人もいるでしょう。

 金融広報中央委員会が行った「家計の金融行動に関する世論調査(令和5年)」によると、「あなたのご家庭では、将来、遺産(不動産などの実物資産を含む)をどのようにしたいと思いますか?」という問に対し、①「自分たちの老後の世話をしてくれるかどうかや、家業を継いでくれるかどうか等にかかわらず、子どもに財産を残してやりたい」と考える人が30.6%と最も多く、次いで②「子どもはいるが、自分たちの人生を楽しみたいので、財産を使い切りたい」が18.2%。③「財産を残す子どもがいないうえ、自分たちの人生を楽しみたいので、財産を使い切りたい」が13.8%、④「自分たちの老後の世話をしてくれるならば、子どもに財産を残してやりたい」が13.0%という結果だったということです。

  多くの日本人に、親の責任として少しでも子供を楽にさせたいという思いがあるのは分からないではありません。自分自身が親から家屋敷や事業などを引き継いでいたらなおさらのこと。また、そう考える親の多いこの日本では、親の財産を引き継ぐのは子供にとっても「当たり前」の感覚で、もしも親が死んだときに無一文であることがわかったら、「親ガチャにハズレた」と悔しく感じるかもしれません。

 一方、海外では、財産を子に残さないことが最善だと考えている大物実業家や億万長者もそれなりに多いようです。例えば、故スティーブ・ジョブズ氏の未亡人であるローレン・パウエル・ジョブズ氏は、2020年の『ニューヨーク・タイムズ』のインタビューの中で、夫のから相続した240億ドル(約3.8兆円)の資産を子供たちに1ドルも譲り渡すつもりがないと明かしています。子供には子供の人生がある。親が面倒を見るのは成人するまでで、独り立ちした後は個人の能力で道を切り開いていくべきだということなのでしょう。

 ともあれ、稼いだお金も生前に上手く使い切らなければ(当然)残ってしまう。そして残れば残るだけ、当てにされるのは仕方のないことなのかもしれません。昨年8月7日の朝日新聞(デジタル)に、同紙編集委員の森下香枝氏が『高齢者の3割超「財産使い切りたい」 でも現実は蓄財』と題する論考を寄せているので、参考までに概要を残しておきたいと思います。

 内閣府が7月に発表した経済財政白書は、日本の高齢者の3分の1が、生きているうちに「財産を使い切りたい」と思っているのに、実際にはあまり取り崩されず保有資産がますます高齢者に偏っている…という現実を浮き彫りにしていると、森下氏はこの論考の冒頭に記しています。

 白書によると、高齢者の遺産に関する考え方についての調査(2023年)で最も多かったのは、「使い切りたい」という回答で、その割合は34%だった由。次いで「老後の世話の有無にかかわらず、財産を残したい」が31%、「老後の世話を条件に財産を残す」が15%、「社会、公共の役に立つようにしたい(遺贈)」は3%だったとされています。

 しかしその一方で、老後に備えてため込まれた金融資産が、実は80歳を過ぎてもあまり取り崩されていない現状もあると森下氏はこの論考で指摘しています。年齢別にみた世帯あたりの金融資産の平均額は50代までは年齢が上がるごとに増え、(退職金の出る)60~64歳でピークの1838万円に達する。以降、60代後半からは減少に転じるものの「取り崩し」のペースは緩やかで、85歳を過ぎても1500万円超の金融資産を保有し減少率は1割半にとどまっているということです。

 家のローンも終わり子供も一人前になれば、年間の生活費など知れたもの。65歳を過ぎれば年金も出るし、贅沢をしなければ何とかやりくりできるということなのでしょう。また、日本の高齢者は働き者。その労働参加率は65~74歳で男性51.8%、女性33.1%に及び、75 歳以上でも男性16.9%、女性7.3%が働いているなど、生涯現役で通す高齢者も多いようです。

 ともあれ、そうした諸々の背景の下、高齢世帯に金融資産が「滞留」している姿がデータからも浮かび上がると氏は話しています。前述の「経済財政白書」では、日本の総務省調査と米国のFRBの調査を比較考察しているとのこと。年代ごとの金融資産の保有割合をみると、日米いずれも現役世代(40歳未満及び40~54歳)が保有する割合は(全体の)3割弱に過ぎず、55歳以上の高年齢の層が金融資産全体の7割以上を保有しているということです。

 一方、70歳以上が保有する割合は、米国の約3割に対し、日本は約4割と大きく上回っていると氏は言います。因みに、これら資産の構成比の違いを見ると、日本人が持つ資産の約7割が「預金」であるのに対し、米国は預金が1~2割、株など有価証券が3~5割と、日本の「リスク回避」の傾向が際立っているということです。

 さて、こうして貯め込まれた資産はその後どうなるのか。白書によると、被相続人(遺産を残す側)の7割超が80歳以上(2019年時点)なのに対し、相続人(遺産を受け取る側)も60歳以上が5割超(22年時点)となっている由。「老老相続」で、財産が(お金を必要としている若い世代には渡らず)丸々引き継がれている実態が明らかになったと氏は指摘しています。

 「老後のために…」と蓄えられた金融資産が、結局、使われないままに(通帳上の数字として)高齢者から高齢者に引き継がれていく状況をどう見るのか。「資産運用立国」の掛け声は勇ましくとも、それが有効に使われ、豊かな国民生活に繋がっていかなければ何の意味もありません。

 氏によれば、白書は、「資産移転が高齢者間にとどまり、子育てへのニーズが高い若年世代への移転が進まない課題がある」と指摘。資産が有効に使われるために①経済成長に対する期待を引き上げる、②教育資金の一括贈与にかかる非課税措置などで資産移転を後押しする、③長生きリスクに対して公的年金制度の持続可能性を確保する、④「貯蓄から投資」の流れを進め、若年期から収益性の高い資産形成を促す、という対策を挙げているとのことです。

 自分がいつ死ぬかは自分にもわからないのだから、そう簡単に資産を使い切るわけにはいかないと考える高齢者の不安はわかります。しかし、(私自身を振り返っても)あの時にもっと余裕があれば「こんなこと」や「あんなこと」もできたのに…と思うことがないワケでもありません。

 「若いうちは苦労するもの」「イマ時の若いものは」…というのは(いつの時代も)年寄りが口にする言葉ですが、そういう時にこそ力を貸してあげたいもの。若いうちにしかできないことが確かにあることを、時には思い出してほしいものだと改めて感じた次第です。


#2751 「DEI」と差別のない社会

2025年02月22日 | 社会・経済

 米国の新大統領に復帰して早々、ドナルド・トランプ氏が矢継ぎ早に署名した大統領令の数々。大小さまざまなものがあったようですが、その1つが連邦政府の「DEIプログラム」の終了を宣言するものだったことに、「やっぱり来たか…」という感想を持った人も多かったかもしれません。

 この大統領令は、連邦政府と請負契約を結ぶ民間企業にDEIの廃止を求めるもの。従わなければ、政府との契約が打ち切られたり、補助金の支給が停止されたりしかねない内容となっています。

 ここで言う「DEI」とは、「Diversity(多様性)Equity(公平性)Inclusion(包摂性)」の略で、人種や性的指向、性自認などの属性を理由に不利な扱いを受けてきたマイノリティに「公平」な機会を与え、社会や組織に包摂するための取り組みのこと。

 具体的には、人種や性別、障害の有無などに基づくクォータ制の採用や、マイノリティの割当枠を設けることなどが主な内容となるわけですが、マジョリティサイドから見ればそれはそれで「不公平」に見えるもの。特に米国においては、トランプ氏を支持する保守層を中心に、「逆差別」などの反発を招いてきたのも事実です。

 大統領令の発令を受けて、非営利の公共放送ネットワークPBSは早速DEI担当部署の閉鎖を発表。アマゾンやメタ、グーグル、小売大手のターゲットなども、相次いでDEIの廃止や見直しを打ち出したとメディアは報じています。

 同一性の高い日本ではまだまだ議論が深まっていないこの問題ですが、 流動性の高まりとともに世界のどの地域もいずれは通る道。「平等」を巡る様々な意見が戦わされれば、「差別のない社会」「機会均等」とはどういうものなのかを掘り下げて考えてみる良い機会になるかもしれません。

 作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が「週刊プレイボーイ」誌に連載中の自身のコラム「そ、そうだったのか!? 真実のニッポン」(2月3日発売号)に、『DEI(多様性、公平性、包摂性)を推進すると差別的になる?』と題する一文を寄せているので、(まずはその呼び水として)主張の一部を残しておきたいと思います。

 「アメリカ・ファースト」を掲げ、大統領就任と同時に支持者の前で多くの大統領令に署名したドナルド・トランプ氏。中でも大きな歓声が上がったのが「DEIの解体」だったと、氏はコラムの冒頭に記しています。

 多様性を受け入れ、社会からマイノリティへの差別をなくそうというこうした動きがなぜ今、アメリカ社会で強い反発を受けているのか。

 例えば、米保守系グループが差し止めを求め提訴した(マクドナルドが運営する)ヒスパニック系学生向けの奨学金制度の問題。この奨学金は「少なくとも片方の親がヒスパニックかラテン系」であることを条件に、大学生に最高10万ドル(約1500万円)を支給しているが、これが経済的に厳しい状況にある他の人種的少数派を排除していると訴えられたと氏は説明しています。

 また、2023年に米連邦最高裁が、一部の有色人種を大学入試で優遇する措置を違憲と判断したのも記憶に新しいところ。この判決を受け、保守派団体が企業を提訴しはじめたことで、マクドナルドやウォルマートなどが次々とDEIから撤退したということです。

 トランプ氏の署名した大統領令は、いわばこうした「反DEI」の集大成とも言えるもの。米国のような人種的多様性のある社会でDEIを進めると、大学進学や就職、昇進などで不利な扱いを受ける多数派の白人から「逆差別」との不満が噴出することになる。民主党リベラルはこれまで、こうした批判を「人種主義(レイシズム)」と黙殺してきたが、保守派が求めているのが(白人の優越ではなく)「人種の平等」であることも事実で、ここでは、「異なる正義」が衝突しているというのが氏の指摘するところです。

 例えば、DEI(プログラム)を導入した企業や組織は、人種や性的少数者の問題を理解し、平等を実現するための研修を行わなければならないとされている。しかし、そこで困惑するのは、一部の社会学者(それも無意識のバイアスを研究する黒人女性の社会学者)から、この研修には効果がなく、かえって差別や偏見を助長しているとの批判があることだと氏は言います。

 社会学では、「道徳の証明」が得られると、それを「免罪符」として不道徳なことを行なう効果が生まれることが知られている。米国の有名企業がDEIを導入するのは「社会的責任」の証明を得るためだったが、皮肉なことに、DEIに熱心な会社ほど社会的に無責任になる場合も多いということです。

 アメリカでは、財務省など政府機関に対する多様性研修で、「事実上、すべての白人はレイシズムに加担している」と教えられる。しかし、この研修を受託している企業の代表者が白人であることが報じられ、保守派の憤激を買ったと氏は話しています。

 氏によれば、多様性研修は、今では(かように)様々な利害関係者が群がる巨大ビジネスになっている由。少なくとも現在の米国では、「DEI」の旗を振っていれば「差別のない社会」が実現できるというわけではないというのがこの論考における橘氏の見解です。

 さて、翻ってこの日本でも、マイノリティへの差別の存在を際立たせることについては、(かねてより)「寝た子を起こすな」といった議論があるのも事実です。マイノリティの存在を際立たせ、差別解消のために(なにがしかの)「特典」を与える対応を取れば、それがかえってマイノリティの存在を際立たせるというジレンマ。場合によっては「逆差別」といった反発を生む場合もあるでしょう。

 しかし、だからといって放置していても、「時間が解決する」とは限りません。人権はすべての人間が、人間の尊厳に基づいて持っている固有の権利であり、現代社会において最も尊重されるべきもの。その侵害に対して何らかの対応を取るのは、近代国家として当然のことと言えるでしょう。

 様々な差別感情やそれに基づく不利益を、社会の隙間や歴史の隅から掘り起こし、日の当たる場所で議論することもまた然り。放っておいて問題が解決するわけではないのであれば、例え「行ったり来たり」することはあっても、議論は続けていかなければならないと、私も改めて感じているところです。


#2750 もともとアメリカとは「そういう国」

2025年02月20日 | 国際・政治

 1月20日、首都ワシントンの連邦議会議事堂で就任宣誓し、第47代米国大統領に就任したドナルド・トランプ氏。就任演説ではバイデン前大統領による政権運営を強く否定し、早速、「パリ協定」からの離脱や世界保健機関(WHO)からの脱退に関する大統領令に署名するなど、「米国第一主義」への回帰の色を鮮明にしています。

 第二次世界大戦以来、世界中に同盟関係を張り巡らせ、自由主義国の盟主として民主主義や「法の支配」を広げることに投資してきた米合衆国。東西冷戦終結後は、その突出した経済力や軍事力で世界の平和と安定に貢献してきたという評価は、(大きく見れば)あながち過大なものではないでしょう。

 しかし、米国国内の社会の疲弊や分断が広がるにつれ、かの国の持つ(移民国家・唯一の超大国としての)個性の一つであった(ある種の)おおらかさや寛容さなどは次第に失われていった。そして、今回の「アメリカ・ファースト」を標榜するトランプ大統領の再登場により、国際社会はいよいよ(行司のいない)「力によるサバイバル」の時代に突入していくことになるのかもしれません。

 こうした状況に対し、読売新聞社が(トランプ大統領就任直前に)行った国内世論調査では、トランプ新米大統領が掲げる米国第一主義に「不安を感じる」とした人は72%に達し、「感じない」とする21%に大きく水を開けました。新大統領が主張する力による現状変更の試みは、米国が強く非難してきた覇権主義や権威主義国家の手法であり、これまでかの国と歩調を合わせてきた(我が国を含む)同盟国や友好国に不安の声が上がるのも当然といえば当然のことと言えるでしょう。

 しかし、よくよく考えれば、一般に一国の指導者が「自国ファースト」、つまり自国の利益のために全身全霊を傾けるのは当然の話。そうした意味で言えば、第二次大戦後の世界で「自由主義」の看板を背負い続けてきた米国が、単純に「普通の国」に戻っただけのことなのかもしれません。

 それでは、私たちは(こうして「普通の国」のように振舞うようになった)米国と、太平洋を挟み歴史的にも価値観を共有する隣国としてどのように共通の利益を目指していけばよいのか。1月24日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」に『トランプ氏にみる米国の「先祖返り」』と題する一文が掲載されているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 昨年話題になった配信ドラマ「地面師たち」に、「人類の歴史は早い話、土地の奪い合いの歴史です」という台詞があった。確かに世界を見渡せば、ロシアVSウクライナ、ハマスVSイスラエルなど、もとをただせば確かに土地の奪い合いだと筆者はコラムに綴っています。

 そして、そこに輪をかけ物議をかもしているのが、最近のトランプ米大統領の発言の数々。「カナダ併合」「グリーンランド購入」「パナマ運河の奪還」など、領土拡大の意欲を隠そうともしていないということです。

 しかし、(よく考えれば)米国が領土拡大に執着するのは今に始まったことではない。独立戦争後のパリ条約で英国からミシシッピ川以東の土地を獲得、フランスのナポレオンからルイジアナを購入してミシシッピ川以西の広大な土地を手に入れた。その後も次々と現在の合衆国を形づくっていったと筆者は指摘しています。

 領土拡大の手法は、(1)交渉(英国との交渉でオレゴン分割)(2)戦争(米墨戦争でカリフォルニアなど、米西戦争でプエルトリコ・グアムなどを獲得)(3)購入(ロシアからアラスカを購入)…などなど。早い話、米国はこれまで軍事力で奪い取ったり金で買ったりして領土を広げてきたということです。

 そして、関税による保護主義もまた米国の伝統だと筆者は続けます。古くは南北戦争も、工業発展して保護貿易に走った北部と、綿花輸出で自由貿易を求める南部の争いだった。その後、米国の高関税が世界恐慌を深刻化させ、第2次大戦後の国際的な通貨枠組みのブレトンウッズ体制、世界貿易機関(WTO)の前身である関税貿易一般協定(GATT)の成立でようやく転換点を迎えたというのが筆者の認識です。

 実際、我々が抱いている「自由の国=アメリカ」のイメージは、ざっくり言ってケネディ大統領以降に作られたもの。換言すれば米国が寛容だった時期は(決して)長くないと筆者は話しています。

 トランプ氏は、その過激な言動からいかにも「破天荒」な「異端児」とのレッテルを貼られがちだが、むしろ米国本来の姿に「先祖返り」しただけのこと。そうだとすれば、トランプ支持者を指す「保守派」のラベルも、「保守本流」という、より深い文脈で理解す必要があるということです。

 さて、ペリーによる黒船来航以降、太平洋戦争、GHQを介した占領政策、戦後の高度成長期からバブルの引き金を引いたプラザ合意、そして近年のデジタル社会化に至るまで、日本の社会や経済、文化に大きな(大きすぎる?)影響を与え続けてきた米国との関係をどのように組み直すのか。

 気が付けば、私たち日本人が一方的に抱いてきた「庇護者」としての(面倒見のいい)米国は、もはやどこにも見当たりません。むしろ、「どっぷり・べったり」というこれまでの関係自体が、国際的に見ればかなり異様なものだったと言えるでしょう。

 (いずれにしても)ここ数日で次々と繰り出されるトランプ氏の政策は、思い付きのSNSでの発信ではなく、米国のDNAに根差した腰の据わったものだと筆者はこの論考の最後に記しています。だからこそ、我々はそうした米国の本質に向き合いながら、今後4年間を過ごしていく覚悟が求められると話す筆者の指摘を、私も重く受け止めたところです。


#2749 職場から「上司」がいなくなる

2025年02月19日 | 社会・経済

 近年、米国企業では組織構造の変化により中間管理職の数が徐々に減少しており、従業員の業務負担に多大な影響が及んでいると、1月11日の「Forbs Japan」(『なぜ中間管理職はコロナ禍以降「6%減少」? それがもたらす問題』)が伝えています。

 米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」の調査では、コロナ禍以降、中間管理職の数は全米で約6%程度減少している由。当然、中間管理職1人あたりの管理業務は大幅に増加しており、1人のマネージャーが管理する従業員数の平均は、2017年比で実に3倍に増えているということです。

 スリムな組織階層が求められている背景には、コストを削減して経営を合理化したいという企業側の事情があるとのこと。そこで標的となったのが、給与や手当などが比較的手厚い中間管理職であり、中間管理層が薄い方がスムーズに意思疎通ができ、意思決定のスピードが上がると考えた企業が、よりフラットな構造へと舵を切りつつあるとされています。

 記事によれば、この流れを加速させているのが、DXやAIなどのデジタル技術の進歩とのこと。例えばAIが従来型管理業務の多くを引き継げば、中間管理職は今後、ますます人員削減の対象になっていく可能性があるということです。

 経営者は、組織の階層を減らせば意思決定が速くなり、おまけにコストも削減できると考える。一方、平社員にとっても、余計な資料作りやら根回しやらといったつまらない事務から解放され、「合理的」「いいこと尽くめ」のように見えるのでしょうが、果たして本当にそれで現実の仕事はうまく進むのか。

 近年の米国で進むこのような状況に関し、1月15日の「Forbes JAPAN」に作家のクリス・ウェストフォール氏が『「上司の削減」が進む米国、メンター不在の職場でZ世代を待つ危機』と題する論考を掲載しているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 「中間管理職」という職種自体が、かつての牛乳配達人やファックス機と同じ運命をたどろうとしている。ホワイトカラーの人員削減の一環として、例えばグーグルやメタ、UPSなどの大企業では、中間管理職という役職そのものが根こそぎ廃止されつつあると、ウェストフォール氏はこの論考で指摘しています。

 通信機器のライブ・データ・テクノロジーズのリポートによると、2023年に実施されたレイオフのうち、中間管理職の占める割合は全体の3分の1を占めているとのこと。これは、ホワイトカラーの管理職だけでなく、現場を担うZ世代の働き手にとっても暗いニュースとなると氏は言います。そしてその理由は、(少なくとも現在の)Z世代の働き手たちは、(誰かに)ガイダンスやメンター的役割、監督を求めざるをえないからだということです。

 (具体的な例を挙げれば)現在、「個人貢献者」(←部下を持たずに専門的な業務に従事する一般社員やフリーランス)を中心とするモデルへと移行を進めている米アマゾン。この大企業では、今後、最大で1万4000人相当の管理職が廃止される可能性があると氏は話しています。他の企業も、(これほど大規模ではないが)同様の施策を実施している。つまり、最終的な収益を改善するために、米国の多くの企業が中間管理職の削減に乗り出しているというのが氏の認識です。

 現実問題として、これにはどんな要因が絡んでいるのか?…氏によれば、昨今の「上司削減トレンド」に関し、テキサス・クリスチャン大学ジョセフ・ロー教授は、「デジタルトランスフォーメーション(DX)が大きな役割を果たしている」と説明しているとのこと。自動化や先進的なテクノロジーの導入により、タスクの進捗をソフトウェアでモニタリングできるようになり、(従来、それを担ってきた)中間管理職の必要性は下がっているということです。

 一方、こうして中間管理職が消えつつあるなかで、従業員のエンゲージメント(「愛着」や「思い入れ」)は大幅に下がっていると氏は指摘しています。氏によれば、「ギャラップ」によるあるリポートは、従業員と管理職のあいだに育まれる強い心理的なつながりは、業績や従業員のウェルビーイングを高める原動力となっていると指摘。「管理職の役割は、かつてないほどに重要度を増している」と説いているということです。

 さて、そうした中で、Z世代にとっての危機は(実際のところ)多数の中間管理職が職を失ったことではない。ここで重要なポイントは、中間管理職(上司)という職種、存在が、もはや組織の中に存在しないということだと、氏は改めて説明しています。

 このような状況の下で、従業員のエンゲージメントが非常に下がっていくことはまったく不思議ではない。米フォーブス誌の記事によれば、Z世代の働き手のうち、「中間管理職になりたくない」と考えている者は既に52%に上っていると氏は言います。

 (上司を失った)Z世代に残された道は、セルフリーダーシップ(目標設定や優先順位の策定など、従来は上司の役割だった任務を自ら担う働き方)ただ一つ。他者からの導きなしに(自らの経験と責任で)状況を進んでいくのは、本当に困難な道になる可能性があるということです。

 道標なくジャングルに一人置かれたZ世代にとって、セルフリーダーシップの重要性は今、かつてないほど高まっている(そして、今後はさらに高まるだろう)と氏はこの論考の最後に綴っています。

 新しい職場には配属されたものの、上司はおらずミッションだけが山積みされている状況は、考えただけぞっとするもの。誰も何も教えてくれず、「できないのはお前に能力がないからだ」と言われるのではたまったものではありません。

 AI時代に入って、この(「放置プレー」の)傾向が続くことは間違いない。Z世代の働き手や雇用主は、コーチングとスキル構築に集中的に取り組むことで管理職の廃止で生じた間隙を埋め、未来の仕事の在り方に対応する体制を整えていかねばならないと話すウェストフォール氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2748 今日のバラマキは明日の増税

2025年02月18日 | 社会・経済

 野党各党の要求が出そろった国の2025年度予算案の審議も、修正をにらみ実務者間で大詰めの協議が進められているようです。自民、公明両党と日本維新の会は、維新が求める所得制限を設けない高校授業料の無償化について2月中旬までに一定の結論を出す方向だと報じられています。

 衆院で過半数を持たない自公両党にとって、維新から予算案への賛成を引き出すことは最重要課題。財源が7~8兆円必要とされる「103万円の壁の178万円への引き上げ」にこだわる国民民主にはもう付き合いきれない。維新の議席を足せば衆院で過半数に達するので、6000億円と言われる財源には目をつぶって、こっちに乗り換えた方が「安上り」といった算段もあるのでしょう。

 政府の予算案を巡っていつまでこうしたやり取りが続くのかはわかりませんが、何かと物入りの政府に対し、ガソリンの暫定税率の廃止やら高額療養費の見直しやら給食費の無償化やらと、(この時とばかりに)齧りつく野党の姿勢に、「で、お金の方はどうするつもりなの?」と聞きたくなるのは私だけではないでしょう。

 そうした折、1月9日の日本経済新聞のコラム「経済教室」に、政策研究大学院大学教授の北尾早霧氏が『時代遅れの政策、転換が必要』と題する(ある意味「気合の入った」)論考を寄せていたので、ここで指摘の一部を残しておきたいと思います。

 日本の1人当たりGDPは主要7カ国の首位から最下位へ転落し、経済力で大差をつけていた国々にも次々に追い抜かれ、世界34位まで後退した。この20年あまりで日本は成長のロールモデルから、停滞の教訓を学ぶ対象へと変わったと氏はこの論考の冒頭に記しています。

 出生率低迷で労働人口は減り、婚姻率が低下して家族のあり方も多様化。人々の価値観や行動規範も変化して、技術革新が進む世界の中で、日本の政策のアップデートは遅く成長から取り残されているというのが氏の認識です。

 氏によれば、(そんな時に)変化に背を向け、場当たり的な政策を繰り返しても持続的な成長は望めないとのこと。時代遅れの政策は、経済活動の足かせとなって構造的な成長を妨げる。持続的成長を実現するには、長期的視点に基づく転換が必要だということです。

 そうした中で、最も「足かせ」となっているものの一つとして、氏は経済対策として行われる定額給付などの弊害を挙げています。低所得層支援や老後の安心はもちろん重要なこと。しかし日本で平均資産が最も多いのは高齢者で、逆に貧困が深刻なのは20〜50代の若年層だと氏は指摘しています。

 勤労世帯に税を課し、豊かな老後に公費を注ぐことは日本の最優先課題ではない。低所得層支援を掲げて繰り返す住民税非課税世帯へのバラマキは、大半が裕福な高齢者に届き、格差を拡大するというのがこの論考における氏の見解です。

 貧困層の支援は、生活保護など本来のルートを通じて対象を絞るべき。生活保護がうまく機能しないなら、解決策は高齢者を含むバラマキではなく制度の整備だろうということです。

 一刻を争う新型コロナ危機時の一律給付金には一定の意義があった。しかし、5年を経た今も、焦点のぼやけたバラマキを続けるのはなぜか。経済の構造的な停滞は経済危機とは異なる。経済対策と称し膨大な行政コストを伴う給付や補助を乱発し、成長を祈るのは無責任でしかないと氏は言います。

 一時的な政府支出や消費の増加は、むしろ持続的な成長を阻害する。なぜかと言えば、平時の給付金で所得が一時的に増えた国民は消費を拡大し、生産者も恩恵を受けるが、その原資となる増税が先送りされる中、需要増に供給が追い付かなければ価格の上昇につながるから。さらに、翌年には所得が元に戻るだけでなく、先送りされた課税で将来の手取りが減るため、結果、消費は先細るというのが氏の認識です。

 突発的な給付による需要増では、企業が長期的な生産増強や雇用拡大に踏み切るインセンティブは生まれない。企業は需要減を見越して生産を縮小するということです。

 また、変則的な給付に伴う事務コストも、税負担を増大させる一つの要因になると氏は続けます。今日のバラマキは明日の増税であり、将来負担の増加は投資意欲をそぐ。結果として生産力は低下し、成長は鈍化するというのが氏の指摘するところです。

 (成功体験の下で)神頼みの政策を繰り返せば、長期的な停滞を招くだけだと氏は言います。成長に結びつかない政策が出るたび将来負担が増し、政府債務の行方はますます不透明になる。本来、政策の役割は不確実性を減らし、安心して投資や消費をできる環境を整えることだが、日本では政策そのものが不安材料だということです。

 結局のところ、持続的な経済成長には、労働者と企業の生産性を高め、生涯所得と生産を増やす以外に道はないと氏は話しています。政府が企業に賃上げを求めても成長は続かない。それよりも、焦点を欠いた給付や「思いつき」の政策をやめ、働く意欲や所得成長の壁を取り除くほうが効果は大きいというのが氏の感覚です。

 (宝くじを引くように)確実な成長分野や将来のユニコーン企業を政府(の役人たち)が予測するのは不可能なこと。人的資本投資を通じて(地道に)国民全体のスキルを底上げし、人々や企業が自律的に成長の源泉を見いだせるよう後押しすべきだと氏は言います。

 選挙目当てに有権者の御機嫌取りをしてその場を取り繕っても、結局そのツケは将来世代の負担となって帰って来るだけ。「米百俵」ではありませんが、同じコストを投じるなら、将来世代のスキルアップや活躍のための環境整備にこそ力を入れるべきということでしょう。

 そこで、まず手掛けるべきは、古い価値観や慣行に縛られた経験則を指針にせず、多様性を尊重し、挑戦を促し、失敗を受け入れる環境を作ることだと氏は最後に提案しています。これは政策に限らず、企業や大学を含む教育・研究現場にも当てはまること。多様な個人のスキルと生産技術が自由に伸びる環境なくして持続的な成長はありえなのだから…とコラムを結ぶ北尾氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2747 アメリカの大学には医学部がない…という話

2025年02月17日 | 医療

 私自身あまりテレビドラマは見ない方なのですが、たまたま見かけたTBSの『まどか26歳、研修医やってます!』という医療ドラマを、今では毎週(案外?)楽しみに見るようになりました。芳根京子さん演じる若月まどかは、総合病院に研修医として配属されたての26歳。先輩医師に厳しくも心ある指導を受けながら、仲間の研修医と切磋琢磨して一人前の医師を目指していくという、まぁ、よくあるといえばよくあるストーリーです。

 勉強ができたから、コスパがいいから、家が病院だから、親孝行するために…様々な理由から医学部に入り、6年たって一応卒業。国家試験は何とか通ったものの、医療現場の厳しさは想像以上。患者やコメディカルから、(いきなり)「先生」と呼ばれる立場になった新米医師たちのとまどいと試練の毎日を、ドラマは面白おかしく描いていきます。

 それにしても、街で見かければどこにでもいるようなお兄ちゃんやお姉ちゃんが、(資質や経験があろうがなかろうが)医師免許を持っているというその一点で「先生」になるこのシステムは、なかなかほかの業界では見かけないもの。中にいるとついつい忘れがちになってしまうようですが、かなり無理があるんじゃないかと思うのは私だけではないでしょう。

 ドラマを見ながらそんなことを感じていた折、2月17日の経済情報サイト「DIAMOND ONLINE」に、自身も精神科医で作家の和田秀樹氏が『アメリカの大学に「医学部」がない意外な理由』と題する一文を寄せていたので、参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。

 氏によれば、意外に知られていないのが、アメリカの大学には基本的に医学部がないということ。医者になりたい人は、大学を卒業した後に(大学院にあたる)メディカルスクールで医術を学び、そこで4年間の課程を修めるとM.D.(Medical Doctor)の学位を得ることができ、そのうえで国の医師免許試験を受けて合格すれば医師になれると、和田氏はこの論考で説明しています。

 メディカルスクールで学ぶにあたって基本的には大学での専攻は問われないので、例えば演劇を大学で学んだあとに医者を目指すこともできる。日本でも、司法試験を目指すためのロースクール(法科大学院)は法学部出身でなくても進学することができるが、アメリカのメディカルスクールはそれと似たようなシステムだと氏は言います。

 つまり、18歳でいきなり医者になる道に入ることは原則的になく、4年制大学においてまずそれなりの教養を身に付け、精神的にもある程度、自立した人間だけを医者になるスタートラインに立たせるということ。それがアメリカ流のやり方であり、逆にいうとそれだけの経験を重ねたあとで、(学生たちは)医者になろうという決断をしているということです。

 そこの部分が、多くは高校を卒業したばかりで、あらゆる意味で未熟な受験生の「医者としての適性」を教育する側が判断し、それがないと決めつけた場合にはその道を閉ざしてしまう日本とは全く違うところ。また、アメリカのメディカルスクールの授業料はかなり高額だが、それに見合うだけの充実したプログラムが組まれているところもまた、大きな違いだと氏は指摘しています。

 もちろんプロフェッサー(教授)は、指導力の高さで選ばれているので授業の質も極めて高く、その点においても、(厳しい言い方をすれば)まともな指導もできないのに教授を名乗っている人間がゴロゴロいる日本とは大違いとのこと。指導される側の学生もみな自立した年齢で、しかも(たまたま頭がよかったからではなく)本気で医者になりたい者ばかりなので、いい加減な授業や下手な教え方は許されないということです。

 さらに言うと、日本での臨床研修はいい加減な指導医のもとでたったの2年だが、アメリカではみっちり4年もあると氏は続けます。つまり、どこを比べても、いい医師を養成しようという本気度に、日本とアメリカとでは雲泥の差があるということ。一方、 日本の大学の医学部は、実質的に医者になるための養成機関、つまり「職業教育」の場と考えられていて、そのため医学部の学生たちは、医学そのものの勉強にばかり必死で、それ以外の勉強にはあまり熱心に取り組もうとしないということです。

 もしかするとそれが、医学の知識はあっても人格には疑問符がつくような医者がどんどん輩出される理由の1つではないかと、和田氏はここで指摘しています。(そこまではいかなくても)研修医として初めて医療の現場に入り、「こんなはずじゃなかった…」と悩む(まどかさんのような)新米医師たちはきっと多いはず。中には、臨床や医師になることをあきらめたり、「直美」(直接美容外科に)進路を変える研修医もいることでしょう。

 医師を一人育てるために、億に近い公金が投入されている実態を考えれば、そんなもったいない話はありません。だからと言って、アメリカとすべて同じシステムにする必要はないと思うが、例えば大学の医学部もほかの学部と同様に4年間にして純粋な学問の場とし、本気で医者になりたいと思う学生だけをその先の大学院の医学部に進ませる。そして、そこでみっちり医者になるための(技術的な)トレーニングをするというやり方もあるのではないかと和田氏はここで提案しています。

 これであれば、医学という学問がすべての人に開かれる。アメリカのメディカルスクールと同様に大学院を4年にすれば、かなり充実したプログラムが組めるし、「いい医者」が育つ可能性は今よりずっと高くなるというのが和田氏の指摘するところです。

 医者を育てるための税金だって、主に大学院以降に投入されることになるため、大学卒業の時点で医者になる道を選ばなくても誰に文句を言われることもないはず。そうなれば、大学院の入試に(医師になることへの意欲や資質について)面接を課そうという話になると思うので、その時点で(改めて)「本気で医者になりたいのか」を問うのがいいのではないかと話す和田氏の提案を、私も大変興味深く読んだところです。


#2746 資産形成で忘れがちなこと

2025年02月16日 | 社会・経済

 新しい少額投資非課税制度(NISA)が始まってまもなく1年。主要証券会社の専用口座を経由した個人の購入額は約11.9兆円となり、旧NISA時代の実績の4倍に膨らんだと、12月28日の日本経済新聞(「新NISA、資産形成の礎 旧制度の4倍12兆円流入 1~11月、長期志向で6割投信」2024.12.28)が伝えています。

 記事によれば、相場の上がり下がりに関係なく安定して流入する家計のマネーは、既に日本株相場の支えになりつつある由。昨年後半半にかけては投資信託への投資配分が7割に増えるなど積み立て投資が根付くきっかけになっているということです。

 昨年1月に始まった新NISAは、国内外の個別株と投資信託を購入できる①「成長投資枠」と、投信を積み立てる②「つみたて投資枠」を柱とするもの。投資上限額は年間360万円と、それまでのNISAと比較して3倍に拡大しました。非課税で運用できる期間が恒久化されたことも注目され、誰もが「個人投資家」となり長期の資産形成がしやすくなったとされています。

 記事によれば、1~11月期の購入額は証券10社合計で既に11兆8994億円。前年実績の4倍に相当するとのことです。政府は「資産所得倍増プラン」で、NISA買い付け金額を5年間で約28兆円から約56兆円へ倍増させる目標を掲げており、1年目となる2024年の買い付け額は12兆円なので(折からのブームに乗って)目標を上回るペースで進んでいることになります。

 さて、2001年に政府が「貯蓄から投資へ」のスローガンが掲げてから既に20年。長期にわたる取組みが功を奏してか、2024年6月末時点で、家計の金融資産に占めるリスク資産(株式等+投資信託)の割合は19.4%と2007年6月以来の最高値を記録しているようです。しかし、そもそもお金は使ってこそ幸せになれるというもの。儲かればいい、貯まればいい…というのでは何か「本末転倒」のような気もします。

 年明けの1月9日、日本経済新聞の投稿欄「私見卓見」に、ファイナンシャルプランナーの齋藤岳志氏が『資産形成、お金の使い方も考えて』と題する一文を寄せているので、改めてその指摘を残しておきたいと思います。

 運用でお金を殖やしたとしてもそれだけでは意味がない。その後の使い道を考えることが大切だと、氏はこの論考の冒頭に綴っています。

 資産の運用・形成を行うことの最終目標は、お金を殖やした後、自分のウェルビーイング(心身の健康や幸福)を高めることに使えるかどうかということ。老後やインフレへの備えなどのように、生活を維持していくためという側面も資産運用を行う大切な動機だが、ただそれだけだと、(殖えてうれしい、安心だという満足感はあっても)残高が減るのが怖くて、肝心な「使う」という視点が漏れてしまうというのが氏の見解です。

 確かに、蓄財をするなら「何歳までにいくらの残高を目指す」といった目標設定も大切なポイントです。だが、そこから一歩先の「その残高を達成した後、それをどう使っていくか」にまで思いをはせることが、殖やすこと以上に大切なだと氏は言います。

 実際、フィナンシャルプランナーとしての氏は、資産残高の目標金額という視点をあまり重視していない由。それよりも大切にしたいと考えているのは、配当金、分配金、家賃のような定期的に収入をもたらしてくれる資産を保有し、毎月、お金が入ってくる仕組みをつくることだということです。

 毎月お金が入ってくる安心感があることで、お金を使いやすく感じ、使うことで得られる幸福感を味わいやすくなる。しかし一方で、誰でも残高が減るのを見れば、使うのをためらってしまいかねないと氏は話しています。

 だから、残高を減らさずに保ちながら、毎月入ってくるお金の流れをつくっておく方がよいというのが氏の指摘するところ。もちろん、お金を使うのは将来だけではなく、今を(充実させて)生きることも大切なこと。将来のために、生活費をきりつめて資産形成に手取りの多くを充てている人も多いが、「効果的な使い方ではない」と感じてしまうというのが氏の認識です。

 現役の今だからこそ、年齢が若いうちだからこそ、お金を使って体験、経験できることは数多くある。そして、その経験は必ずや仕事やプライベートに生きてくる。そして、そうした経験を積み重ねることで、幸福感を増しながら充実した過ごし方ができるということです。

 お金は貯めること自体が目的ではなく、使ってこそ生きるもの。将来の、そして今のお金の使い方と働き方を考え、形成された資産をその後どう使っていきたいかを(まずは)おおまかでもイメージしてみてはどうかと、氏はこの論考の最後に提案しています。

 将来への意欲も増すし戦略的にもなれる。「イメージする」という行為自体が、(きっと)自分のウェルビーイングを高めることにつながっていくはずだと話す齋藤氏の指摘を、私も「さもありなん」と興味深く読んだところです。


#2745 民主政はなぜ抜け穴だらけなのか

2025年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 私たちの社会制度の多くは「性善説」に基づいて設計されている。喩えて言えば、田舎の道にある無人販売所みたいなもので、「りんご5個で300円」と書いてあれば、普通の人はりんごを取って代価を置いておくようなものだと、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が昨年12月16日の自身のブログ(「内田樹の研究室」)に記しています。

 こういうシステムでは、お金を払わずにりんごを持っていこうと思えば簡単にできてしまう。ついでに、置かれたままの代金まで盗んでゆく人たちは、「性善説を信じているやつらはバカだ」と高笑いするのだろうと氏は言います。

 しかし、りんご農家がこれに懲りて店番を置いたり防犯カメラを設置したりすれば、そのコストは商品価格に転嫁される。次は「りんご5個500円」に値上がりしたりして、結果、リンゴや代金を持ち去った者の取り分はその他の人が分担することになるというのが氏の指摘するところです。

 話は戻って、社会制度について。(内田氏は)こうして「制度の穴」をみつけて自己利益を増やす人間を「スマートだ」とか「クレバーだ」とか誉めそやす風潮が生まれているが、結局、そうした人たちは自分も(こうした人たちに)盗まれていることに気がついていないと氏は話しています。

 盗まれるだけでは業腹だから、「オレも今日から盗る側になる」と皆が我先に「制度の穴」を探すようになれば、今度は社会制度をすべて性悪説で作り直さなければならない。そして、そこに顕現するのは、「市民全員が潜在的には泥棒である」と思われて暮らす社会であり、何よりも全く価値を生み出さない「防犯コスト」を全員が負担しなければならない高コストの社会だということです。

 さてそこで、公選法が想定していない候補者のトリッキーな動きにより、カオス化が進んでいる昨今の選挙の話です。(選挙の「作法」が細かくきっちりと規定されていると考えられている)公選法も、その実、他の制度と同じく「市民は遵法的であり、良識に従ってふるまう」ことを暗黙の前提にして設計されていると、内田氏は12月19日の自身のブログ(内田樹の研究室『常識にもう一度力を』)に綴っています。

 もちろん昔から、政見放送や選挙公報で「非常識なこと」を言う候補者はいた。けれども、そういう常識をわきまえない人に被選挙権を確保することも、「民主主義のコスト」だと思って人々は黙って受け入れてきたと氏は言います。

 何らかの外形的な基準を設けて「非常識な人」を排除することは、(やろうと思えば)できただろう。けれども、先人たちはそうしなかった。それは、「そんなの非常識だ…」と(多くの人が)思ったからだというのが氏の認識です。

 なぜそう思ったのかと言えば、民主政下の社会制度の多くは「市民は原則として遵法的であり、良識を持って行動する」ことを前提に、つまり「性善説」に基づいて設計されているから。なので、(一方の)社会の一員として成熟しきれていない人の目には、現在の状態は「抜け穴」だらけに見える(かもしれない)ということです。

 しかし、それを「制度の欠陥」だと思ってはならないと内田氏は続けます。性悪説に基づいて制度を作り直すことはしようと思えばできる。事実、市民の一挙手一投足を監視するシステムを完成させた国はあるし、日本にもそれを真似たいと思っている政治家もいると氏は話しています。

 しかし、(心しておくべきは)例えどれほど網羅的な監視システムを作っても、人々はその監視の目を逃れる方途を必ず見つけ出す…ということ。国民監視システムは国民に向かって絶えず「お前たちは潜在的には全員が泥棒であり、謀反人なのだ」と告げている。そうした、朝から晩まで耳元で「お前は悪人だ」と言われ続ける社会に、「私一人でも遵法的で良識ある市民として生きよう」と思う(志の高い)国民が出現するとは思えないということです。

 性悪説に基づく制度は「悪人であることが市民のデフォルトである」という人間観を政府が公式見解として発信し宣布しているということだと氏は説いています。逆に、性善説に基づく制度は市民に向かって「あなたたちが遵法的で、良識ある人であることを私たちは願う」というメッセージを送っている。制度そのものが市民に向かって「善良な人であってください」と懇請しているということです。

 市民に道義的であることを求める制度と、市民が利己的で不道徳であることを前提にする制度。とどちらが長期的に「住みよい社会」を創り出すかは考えるまでもないと話す内田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2744 未熟の代償

2025年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 最近、テレビでニュースやワイドショーなどを見ていると、世の中全体が随分と「子供っぽくなったな」と思うことがよくあります。

 例えば、若者たちの間で「炎上」目当てに迷惑動画をSNSに上げることが流行ったり、ネットで集められた「闇バイト」の若者たちによる粗暴な犯罪が頻発したり。政治の世界で言えば、政治とはほぼ関係ない暴露系Youtuberが若者の支持を受けて国政選挙で当選したり、選挙のポスター掲示板に(合法的に)裸の女性やペットの写真が貼られたりと、例を挙げれば枚挙にいとまがありません。

 一時は、そんな風に感じるのは「自分が歳をとったせい」で、世の中の動きについていけなくなったからかな…とも思ったのですが、こうした「事件」に対するメディアや世論の反応が総じてあまりにもシンプル(というか表層的)なところを見ると、一概に自分のせいとばかりも言えないような気がしてなりません。

 どうやらそれはこの日本だけの傾向ではなく、米国トランプ大統領の言動や、プーチン、習近平、そして(戒厳令を発令した)隣国韓国や(ウクライナに兵士を送った)北朝鮮の指導者たちの動きについても、「どうしてそうなる?」と思わされることが多くなりました。

 世の中の動きがそれだけスピードアップし、それだけ「刹那的になった」ということなのかもしれませんが、これまで当たり前とされてきた「正しさ」や「常識」が覆され、「余裕」とか「バッファー」というようなものが(時代とともに)どんどん失われているのを感じるところです。

 そんなことを漠然と考えていた折、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が、昨年12月16日の自身のブログ(「内田樹の研究室」)に『性善説と民主政の成熟』と題する一文を掲載していたので、(少し長くなりますが)参考までにその指摘を小欄に残しておきたいと思います。

 2024年の暮れ近くなって、日替わりで(選挙にまつわる)政治的事件が続いている。 公選法が想定していないトリッキーな行動を次々ととる候補者が現れ、都知事選も県知事選もカオス化したけれど、(それ自体は)改めて公選法が性善説に基づいて設計されているという厳粛な事実を前景化してくれた点では功績があった…と、内田氏はこの論考に綴っています。

 (話はちょっと飛びますが)氏によれば、私たちの社会制度の多くは「性善説」に基づいて設計されているとのこと。喩えて言えばそれは田舎の道にある無人販売所みたいなもので、「りんご5個で300円」と書いてあれば、普通の人はりんごを取って代価を置いておくようなものだということです。

 でも、たまに「システムの穴をみつけて悪用する人間」が出てくる。あるだけのりんごを持ち去り、ついでに置いてある代金も盗んでゆく彼らは、「性善説を信じているやつらはバカだ」と高笑いするのだろうと氏は言います。

 しかし、りんご農家がこれに懲りて店番を置いたり防犯カメラを設置したりすれば、そのコストは商品価格に転嫁され、次は「りんご5個500円」に値上がりしたりして、結果、リンゴや代金を持ち去った者の取り分はその他の人が分担することになる。

 この例えで何を言いたいかと言えば、制度の穴をみつけて自己利益を増やす人間を「スマートだ」とか「クレバーだ」とか誉めそやす人は、結局、自分も彼らに盗まれていることに気がついていないということ。盗まれるだけでは業腹だから、「オレも今日から盗る側になる」と皆が我先に「制度の穴」を探すようになれば、今度は社会制度をすべて性悪説で作り直さなければならないということです。

 そこに顕現するは、「市民全員が潜在的には泥棒である」ことを前提に暮らす社会であり、何よりも全く価値を生み出さない「防犯コスト」を全員が負担しなければならない高コストの社会。そんな生産性の低い、気分の悪い社会に私は住みたくないと氏はしています。

 あらゆる制度は性善説で制度設計した方が圧倒的に効率がよいし、生産性が高い。何より性善説で作られた制度は、利用者たちに向けて「善であれ」という遂行的な呼びかけを行ってくれるということです。

 翻って、今度は民主政の話。民主制は不出来な制度で、なにしろ有権者の相当数が市民的に成熟していないと機能しないと氏は話しています。市民の過半が「子ども」だと、民主政は破綻する。だから、民主政は市民の袖を捉えて、「お願いだから大人になってくれ」と懇請するということです。

 普通、そんな親切な制度は他にはない。帝政も王政も貴族政も、市民に向かって「バカのままでいろ」としか言わない。それは、統治者ひとりが賢者であって、あとは全員愚民である方が統治効率がよいからだと氏は説明しています。なので、(残念ながら)独裁者はほぼシステマティックに後継者の指名に失敗する。独裁制は、いずれ「統治者もバカだし、残り全員もバカ」というカオスに陥り、短期間のうちに崩落するというのが氏の見解です。

 統治機構の「復元力」を担保するためには、一定数の賢者が社会的な層のどこかに必ずいて、もしも統治者が不適切な場合には(平和裏に)交替できる仕組みが最も適切であることは誰にでもわかると氏はしています。

 そして、そういう意味で言えば、民主政がその「最も適切な制度」であることもまた自明となる。しかし、それをうまく機能させるためには、「一定数の賢者」を特定の場所に特定の方法で育成しプールしておかなければならないというのが氏の指摘するところです。

 当然のことだが、強制や脅迫や利益供与を以て人を成熟させることはできない。 私たちの社会制度の多くが性善説で設計されているのは、その制度そのものが私たちに向かって「性、善であれ」と懇請してくるからだと氏は言います。

 そこで話を戻せば、社会から懇請されるそうした「遂行的メッセージ」を聴き取れない者(つまりリンゴや代金を持ち去っていく人)は、邪悪というよりもむしろ、単に「未熟」なだけ。(本人は気づいていないだろうが)この社会を構成する一人前のメンバーとして成熟していないだけだと内田氏はここで断じています。

 氏によれば、制度は「生き物」とのこと。それが人間をどう成熟させ、世界をどう住みやすくするために作られたものなのか、誰もがたまには思量すべきだと話す氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2743 大麻取締法の改正について

2025年02月13日 | 社会・経済

 昨年の8月、大阪府内の市立中学で大麻や覚醒剤が見つかった事件で逮捕された中学3年の少年2人が、「売るために持っていた」などと転売目的で入手していたことが報じられ、世間を驚かせました。

 大阪府警によれば、少年2人は当時、大阪府和泉市内の別々の市立中に在籍しており、このうち1人は府内の男子高校生(17)から大麻を買い取り、SNSを通じて自分で客を見つけて転売していたとのこと。またもう1人は、同じ高校生から大麻を受け取り、高校生がSNSで見つけてきた客に売りさばいてマージンを得ていた由。大麻や違法薬物をめぐる犯罪の低年齢化は抜き差しならないところまで来ていることを実感させられるところとなりました。

 特に近年では、意識不明など体調不良となる人が続出した「大麻グミ」問題や、アメリカンフットボール界の名門「日大フェニックス」の廃部など、大麻(マリファナ)の保持や使用の意問題がメディアを賑わす機会が増えています。実際、2013年に1616人だった大麻所持による検挙者数は、わずか10年後の2023年には約4倍の6482人にまで膨れ上がっているということです。

 一方、海外に目を向ければ、カナダやウルグアイは大麻の嗜好が合法化されており、米国、オランダ、英国、スペイン、ドイツ、ベルギー、オーストリア、ポルトガル、フィンランド、イスラエル、韓国などでも、一部の区域で大麻吸引の非犯罪化が進んでいます。

 こうして大麻を巡る環境が大きく変化する中、専門家による様々な議論を踏まえ、この日本においても「麻薬取締法」「大麻草栽培規制法」などの改正が行われ(2024年12月12日施行)新たに「使用罪」が加わるなど、その取扱いに大きな変化が生まれています。

 このような法改正が、現在の大麻が抱える問題にどう機能するのか。昨年12月23日のビジネス情報サイト「現代ビジネス」に、筑波大学教授の原田隆之氏が『大麻「の使用罪」新設が、じつは「国際的な潮流」に逆行していると批判を受けているわけ』と題する論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 2022年の大麻による検挙者数は5546人に達し、覚醒剤の6289人に迫る。覚醒剤との違いは若年層の多さで、検挙における30歳以下の人数は3840人と約7割におよぶと原田氏はその冒頭で指摘しています。

 氏によれば、こうした状況を踏まえ(昨年)12月、従来の「大麻取締法」が「大麻草の栽培の規制に関する法律」に改正され、併せて関連法規である「麻薬及び向精神薬取締法」等の一部が改正されたとのこと。特にポイントとなる改正点としては、大麻使用罪(新法上では「施用罪」)の新設が挙げられるということです。

 これまでの大麻取締法では、覚醒剤やあへんなどの規制薬物と異なり、大麻使用については禁止規定も罰則もなかったと氏は言います。その理由の1つは、許可を受けて大麻を栽培している農家(←大麻は現在でも、神社の注連縄や相撲のまわしなどに使われているとのこと)などが意図せず大麻成分を吸引した際に、「大麻使用」として刑罰を受けることがないようにという配慮だそう。今回の改正で医療用の大麻使用が認められたこともあり、「大麻には害がない」「大麻解禁」などという誤った理解が広らないよう、その新設が行われたということです。

 この10年間で、若年層を中心に急激に増加している大麻使用。一方で、覚醒剤の使用は低下を続けており、昨年初めて大麻での検挙人数が覚醒罪を上回った。こうしたことへの危惧も使用罪新設の背景にあったと考えられると氏は説明しています。

 しかし、この「使用罪」については、国際的な潮流に逆行しているとの批判も根強いと氏は話しています。国連は、2016年の薬物問題特別総会において、薬物使用者の人権と尊厳を尊重することの重要性を強調し、「薬物治療プログラム、対策、政策の文脈において、すべての個人の人権と尊厳の保護と尊重を促進すること」と決議した。さらに、従来の「犯罪」としての見地から「公衆衛生」しての見地を重視し、処罰による対処からエビデンスに基づく治療、予防、ケア、回復、リハビリテーション、社会への再統合が必要であると強調しているということです。

 その大元にあるのは、「処罰」は末端の薬物使用者の社会的排除、スティグマにつながり、回復や社会復帰を阻害してしまうというという考え方。科学的なエビデンスであるこうした方針に基づき、国際社会は「処罰から治療へ」という方向に大きく舵を切っていると氏は話しています。

 そうした中、今回の「使用罪」新設は残念ながら、この潮流に真っ向から反対するものと考えられる。望ましい方向性は、処罰を強めて末端の薬物使用者を社会から排除するよりも、予防啓発、治療、福祉などの方策を拡充し、社会の認識の変革を推進していくことだというのが氏の指摘するところです。

 我々の社会が目指す方向は、違法薬物には断固たる態度を取りながらも、その一方で末端の薬物使用者の人権を守り、社会復帰を後押しするような態度であろうと氏は話しています。模索していくべきは、刑罰に加えて厳しいバッシングや社会的排除を行うのではなく、彼らが健康的な生活を取り戻し、再び社会に包摂すべく手を伸ばすことを忘れない社会だということです。

 覚醒剤のような常習性はないにせよ、大麻は「ゲートウェイ・ドラッグ(入門薬物)」と呼ばれ、大麻に手を出した若年層がやがて覚醒剤やコカインに手を延ばしていくケースなども多い由。海外では大麻が合法化されている国もあり、海外遠征の多い運動選手などにもその傾向がある中、日大のアメフト部の事件などは、ある意味使用罪創設のいい喚起になったと思うと話す原田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。