MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2729 七つの大罪

2025年01月31日 | 社会・経済

 「七つの大罪」(英: seven deadly sins)は、キリスト教の主にカトリック教会における用語で、(簡単言ってしまえば)人間を罪に導く可能性があると見なされる7つの欲望や感情を指す言葉とのこと。現在広く知られているそれは、①傲慢、②強欲、③嫉妬 、④憤怒、⑤色欲、⑥暴食、⑦怠惰…の七つで、時代の変遷とともに少しずつ修正が加えられてきたとされています。

 そうした中、2008年3月、ローマ教皇庁は、今までの7つの大罪はやや個人主義的な側面があったとして、今後憂慮すべき新しい七つの大罪を発表しています。それは、①遺伝子改造、②人体実験、③環境汚染、④社会的不公正、⑤人を貧乏にさせる事、⑥鼻持ちならない程金持ちになる事、⑦麻薬中毒の七つで、科学や資本主義の傲慢さ、そしてそれに伴う人心の荒廃に対する宗教上の危機感が浮かぶものとなっています。

 「七つの大罪」と言えば、インドを独立に導いた指導者マハトマ・ガンジーもまた、1925年10月22日に雑誌『ヤング・インディア(英語版)』において「七つの社会的罪」(Seven Social Sins)として次の問題を挙げています。

 それは、①理念なき政治(Politics without Principle)、②労働なき富(Wealth without Work)、③良心なき快楽(Pleasure without Conscience)、④人格なき学識(Knowledge without Character)、⑤道徳なき商業(Commerce without Morality)、⑥人間性なき科学(Science without Humanity)、⑦献身なき信仰(Worship without Sacrifice)の七つで、いずれも人の理性や良心の大切さを問うもの。「理に適わずに利を得る者は大罪人」というガンディー指摘は、きわめて功利的な価値観の下で暮らす我々にとって(今も)耳の痛い言葉として響いてきます。

 極端な新自由主義の跋扈と民主主義の崩壊が懸念される現代社会において、私たちはこのガンジーの言う「大罪」にどのように向き合えばよいのか。2月6日の日本経済新聞(夕刊)に、丸紅会長の國分文也氏が「ガンジーの示すもの」と題するエッセイを残しているので、参考までに小欄でも取り上げておきたいと思います。

 「理念なき政治」に始まり、「献身なき信仰」で結ばれるインドの哲人、マハトマ・ガンジーが唱えた「7つの社会的罪」。1925年に発表され100年の歳月を経た今も、人類への戒めとしてまったく古びることがない。むしろより強い警告として21世紀に生きる我々に突きつけられているように感じると國分氏はこの一文に綴っています。

 世界で貧富の格差は毎年、確実に拡大している。特に、手段を選ばず個人の資産を膨張させる一部の人たちには強い違和感を覚えると氏は言います。

 リスクをとって起業した創業者や、苦労して会社を成長させた経営者は報われるべきだが、「強欲資本主義」は趣を異にする。新自由主義の流れが加速する中での行き過ぎた株主資本主義が、ステークホルダー資本主義へと流れを変えたのは当然のなりゆきだというのが氏の見解です。

 「7つの社会的罪」の「労働なき富」「道徳なき商業」は、まさにこうした強欲さへの戒めとなる言葉。一方で、今年は主要国で国の方向を決める選挙が実施され、政権与党側の敗北が相次いだと氏は続けます。

 国民の審判による政権交代は民主主義の根幹だが、ポピュリズムによって「理念なき政治」に陥ることの危険性も改めて考えさせられる時代がやってきた。他方、人工知能(AI)の週単位といっていいほどの劇的な進化は人々の想像力をも超えており、「人間性なき科学」のリスクをますます実感する毎日だということです。

 さて、この日本では、新一万円札の発行により「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一が新札の顔としてクローズアップされる機会が増えましたが、彼が著書「論語と算盤」で訴えた「道徳経済合一説」などはまさに、(こうした)個人利益を絶対視する風潮に釘を刺したものと考えられます。

 経済発展に伴う利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に富は社会に還元すべきもの。「金銭資産は、仕事の滓である。滓をできるだけ多く貯えようとするものはいたずらに現世に糞土の牆を築いているだけである」と綴られた、波乱の時代を生きた資本家としての彼の言葉に嘘偽りはなかったことでしょう。

 1840年生まれの渋沢栄一は1916年8月、アジア人として初めてノーベル賞を受賞した(20歳以上年下の)インドの詩人ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore, 1861-1941)を(わざわざ)飛鳥山の私邸に招き、彼のための午餐会を開いたことで知られています。

 一方、タゴールはマハトマ・ガンジーとの親交が深く、精神的な支柱として彼らのインド独立運動を支え、ガンジーに「マハトマ=偉大なる魂」の尊称を贈ったのもタゴールだとされています。

 いずれにしても、人が本来備えているべき理性や知性を失いつつある時代への危機感が、同じ時代を生きる識者の間に共有されていたと考えることに無理はありません。そして、利益を紡ぎだしているのは仕事に汗する人々であり、(資本主義の利益は)最終的には社会全体で受益すべきものだというのがその考えの本質と言ってよいでしょう。

 ガンジーは、「働かない者にどうしてパンを食べる権利があるか」と、綿花から糸を紡ぐ糸車を生涯手放さなかったと、國分氏はこの論考の最後に記しています。ガンジーは、「良心なき快楽」や「人格なき学識」にも触れている。「7つの社会的罪」は今こそかみしめるべきより重い言葉になっているとこの一文を結ぶ國分氏の指摘を、私も時代を超えて重く受け止めたところです。


#2728 奪われた声を取り戻す

2025年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 1月23日、アメリカ映画界で最高の栄誉とされるアカデミー賞の各賞の候補が発表され、ジャーナリストの伊藤詩織氏が監督を務めた「Black Box Diaries」が長編ドキュメンタリー賞の候補になったとの報道がありました。

 同作品は、伊藤氏がテレビ局の元記者に性的暴行を受けたとして訴えた民事裁判について(伊藤氏みずからが)関係者に取材を重ね、真相に迫る中で日本の司法制度のあり方を問う長編ドキュメンタリー。ノミネートの報に接した伊藤監督は、「性暴力のサバイバーとして、また、権力によって沈黙を強いられているすべての人に希望をもたらすものとして受け止める」とし、「声を奪われてきた人々、そして今もなお声を上げ続けている世界中のすべての方々に、この瞬間を捧げます」とコメントしています。

 「声を奪われてきた人々の声を取り戻す」…(確かに)そもそもメディアとは、そういう大きな使命を担う存在であるはずです。今回の映像化に関しても様々な困難があったようですが、たった一人で「世の中」に立ち向かった伊藤氏の勇気が、世界中の人々の心を動かしたということでしょう。

 そうした中、やはり意識せざるを得ないのは、(先日の)長時間にわたったフジテレビの記者会見の様子です。テレビの画面に延々と流れる会見の映像。質問する側、される側も含め、そこに(ある意味「情けない」)姿をさらしたメディアに携わる人たちは、(胸を張るために)これから一体何をすべきなのか。

 1月28日の情報サイト「Newsweek日本版」に、フリーライターの西谷 格(にしたに・ただす)氏が『中居正広は何をしたのか?真相を知るためにできる唯一の方法』と題する論考を寄せているので、(参考までに)指摘の概要を残しておきたいと思います。

 「やり直し」で注目されたフジテレビの記者会見で、幹部たちは「中居正広は何をしたのか」という核心部分への明言を、女性の保護、被害者のプライバシー、守秘義務を理由に意図的に避けた。そんな会見を見ていて分かったのは、「加害者は被害者を利用する」ということだと西谷氏はこの論考の冒頭に記しています。

 それは「プライバシーの悪用」と言ってもいい。被害者のプライバシーを盾として使い、自己保身に走る。中居正広もフジテレビ幹部も、その点は完全に同じだったというのが氏の認識です。

 中居正広は被害者に何をしたのか。幹部たちは最後まで明言を避けたが、全体的な文脈から考えて、被害者視点では性加害があったと考えるよりほかない。もちろん、性加害があったかどうかは現時点で断定はできないが、疑惑であることすら明言を避ければ、結局は中居正広の「罪」を覆い隠し、利することになってしまうということです。

 では、どうしたら良いのか。今、私たちがすべきなのは、(まずは)被害に遭った本人に声を取り戻してもらうこと。言い換えれば、自由に発言できる状態になってもらうことだと氏は話しています。

 被害女性はこれまでも週刊誌の取材に応じているが、中居正広が何をしたかという核心部分には一切触れていない。双方の交わした示談書のなかに口外禁止条項が盛り込まれているからだろうが、中居正広もまた、これを盾に一切の説明責任を放棄し、公の前から逃げてしまっているというのが氏の見解です。

 もしも、ここで中居正広が何をしたかについて被害女性が声を上げれば、示談書に規定された守秘義務違反に当たるだろう。そうなれば、中居正広は被害女性に対し損害賠償を求めるかもしれないし、訴訟になれば、裁判所も一定金額の損害賠償を認めざるを得ないだろうということです。

 しかし、それが何だというのか。中居正広が被害女性に賠償金を要求するのであれば、フジテレビこそ(それができなければメディアにかかわる人全体で)肩代わりすべきではないかと、西谷氏はここで厳しく指摘しています。

 性被害に遭った人が「匿名」を求めるのは当たり前のこと。残念ながら、現在の日本社会は被害者に対する差別が横行している。ネット世界は言うまでもないが、(特に性被害などでは)現実社会でも被害者は色眼鏡で見られ、生活にさまざまな不都合が生じてしまうというと氏は言います。

 理想を言えば、世の中は性被害にあった人間が実名で被害を公表しても、何一つ不利益を受けることのないものであるべきだし、勇気のある人間しか被害を言い出せない今の世の中自体がおかしいのは当然のこと。

 しかし、現実社会では、被害者は匿名でなくてはさまざまな差別や誹謗中傷を受けることになり、不利益が生まれる。悲しいことではあるが、被害者の匿名性を守ることは絶対に必要だというのが氏の感覚です。

 そうした中、現実的には中居正広が損害賠償まで請求するとは考えにくいが、(それでも)「身銭を切ってでもあなたを守る」という世論や具体的な動きが背景にあるだけで、彼女の精神的負担はかなり軽くなるだろうと氏は話しています。

 (少なくとも)「匿名であれば自分の受けた被害を語ってもいい」と考える人は、少なからず存在する。実際、新聞テレビなどでも匿名であれば報道されるケースが多いということのが氏の見解です。

 そこで今回の事案について。被害女性が「私は匿名であっても、何をされたか言いたくない。世の中の人に何も知って欲しくない」と望むのであれば、私たちは真相を知ることをあきらめなくてはいけない。だが、「匿名性が担保されるなら、中居正広が私に何をしたのか知って欲しい」と少しでも思うのであれば、その声を聞かなくてはいけない。(少なくとも)被害者の発言権を取り返さなくてはいけないと氏は指摘しています。

 中居正広は「国民的アイドル」という権力者にほかならない。そしてその中居正広が、金の力に物を言わせて被害女性の口を塞いだというのは、既に事実として公表されている事実だと氏はしています。そもそも示談に応じなければ良かったと言う人もいるかもしれない。しかし、心身に傷を負いながら権力者にたった1人で立ち向かうことは、とてつもない困難だったに違いないということです。

 そこで私(←西谷氏)が言いたいのは、「被害者が声を上げる自由を奪うな」ということ。中居正広が被害女性に対してかけた呪い、すなわち口外禁止条項が枷になってはいけないと氏は話しています。このままでは、中居正広が何をしたのかは当事者にしかわからない。「示談書で約束したので言えません。本当は言いたいけど、言えません」ということは、あってはならないということです。

 当初、権力や組織の理不尽な仕打ちに声を上げようとした人が、(最後は)力によって黙らされた…ここまで社会に広がった(ある意味「ポリティカル」な)問題を、こんな形で終わらせて本当に良いものか。

 状況は異なるにせよ、力の前で、同じような困難に追い込まれている弱者はほかにもたくさんいることでしょう。今回の問題に関しては、今後、第三者委員会によって色々なことが明らかになるよう願うばかりだが、(そのためには)まず、中居正広がかけた呪いを解かなくてはいけないとこの論考を結ぶ西谷氏の指摘を、私も重く受け止めたところです。


#2727 管理職になりたくない貴方へ

2025年01月29日 | 社会・経済

 「末は博士か大臣か」という言葉が示す通り、少なくとも昭和の高度成長期くらいまで、「出世」という言葉には人から羨ましがられる明るいイメージがありました(←本当です)。しかし、サラリーマンが臆面もなく「出世」を目指せたのも、(たぶん)団塊の世代まで。いつしかこの言葉は「気恥ずかしい」イメージを纏うようになり、「出世頭」などというのも、人を皮肉る時くらいしか使わないネガティブな言葉に変化しています。

 組織の中で出世するのは能力があるから。逆に言えば出世しないのは無能だからと単純に受け止められていた時代には、出世は皆が求める名誉なことであり、出世しないのは「落ちこぼれ」のレッテルを貼られるのと同じ。「うちの亭主はボンクラでうだつが上がらない」「隣の旦那は30代でもう課長」などと奥さんに言われ、(プライドが傷つき)つらい思いをしたサラリーマンも多かったことでしょう。

 しかし、そうした感覚も既に過去のもの。少しでも残業が続くと、共働きの奥さんに「偉くなんてならなくていいから」とくぎを刺されるサラリーマンも、それなりに増えていると聞きます。

 確かに給料や待遇に大きなメリットがなければ、例え出世をしても単純に責任が増えるだけのこと。価値観の多様化やライフスタイルの変化によって出世を積極的に望まないどころか、否定的に考える人の気持ちもわからないではありません。

 サラリーマンとして生きる以上避けては通れないこの「出世」というものの捉え方について、7月6日のキャリアマネジメントプラットフォーム「識学総研」が『3分で分かる管理職のメリットとデメリット』と題する記事を掲載しているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 内閣府男女共同参画局によると、課長以上への昇進を希望している人は男性一般従業員で5~6割、女性一般従業員では約1割にとどまる由。現代人はなぜこれほどまでに、出世や管理職への昇進が敬遠するようになったのか。

 (記事によれば)アンケート調査の結果、男性一般従業員(労働者300人以上企業)が「管理職になりたくない理由」として最も多く挙げているのが、「メリットがない(41.2%)」というもの。さらに、2位「責任が重くなる(30.2%)」、3位「自分には能力がない(27.6%)」と続いているということです。一方、女性一般従業員の場合は、1位が「仕事と家庭の両立が困難(40.0%)」、2位が「責任が重くなる(30.4%)」、3位は「自分には能力がない(26.0%)」…だとされています。

 女性の「家庭との両立が困難」はわかるとしても、男性一般従業員の4割もが、まだ経験もしていない管理職に(責任に見合うだけの)メリットを感じていないのは、職場の管理職の働き方を観察して出した結論ということか。また、女性の2位も「責任が重くなる」で、女性は管理職になることに家庭を犠牲にするまでの価値はないと感じている(のだろう)と記事は分析しています。

 さて、実際、現在の企業で管理職になるデメリットについて考えれば考えるほど、(管理職になるのは)損ばかりのような気がしてくる感覚はわからないではありません。それでは、管理職になることは本当にデメリットばかりなのでしょうか。

 管理職になりたくない人が、「管理職=責任が重い」「管理職=高い能力が必要」と考えていることは、アンケートの結果からも判るところ。確かに管理職の仕事を遂行するには、重い責任と高い能力が必要ということだろうと記事はしています。一方、これは見方を変えれば、管理職の仕事の価値の高さを意味しているともいえる。さらに言えば、(つまり)管理職にならないことの最大のデメリットは、価値の高い仕事ができないことにあるというのが記事の指摘するところです。

 逆説的に言えば、管理職ではない人の仕事とは、「権限がない仕事」と言い換えられる。ビジネスにおける権限とは、予算を決める権限、人材を割り当てる権限、事業計画を決定する権限、実行するか撤退するか判断する権限などで、管理職になることを拒んでいる人は、ベテランになっても一生、権限のない仕事を(権限のある人に言われた通り)続けなければならないということです。

 さらに言えば、管理職にならないと、いずれは後輩が管理職に就くことになる。つまり管理職を拒否し続けると年下上司を持つことになり、自分は年上部下になると記事は続けます。年上部下が年下上司を苦手とする以上に、年下上司も年上部下を邪魔に感じるもの。双方のストレスが高まりあって、職場にいずらい雰囲気は募るだろうと記事は見ています。

 と、いうように、管理職にならないことのデメリットの多さは、管理職のメリットの大きさの裏返し。自分の上司を見て(「管理職は大変だ」と)感じている人こそ、理不尽なことや不合理なことを自分が管理職になって改善すれば、組織にとってプラスになって皆も喜ぶということです。

 ひとりの管理職として、そうした新しいことが達成できれば「(顧客や従業員のために)いい仕事ができた」と満足できる。そして、満足できる仕事を続けていけば、いずれ経営を任されるかもしれないし、(そうでなくても)独立開業した際の訓練になると記事は最後に指摘しています。

 まあ、小学生だって、1年生の次は2年生、卒業前には6年生になって低学年の子供たちの面倒を見たりするもの。「経験を重ねる」とはそういうことで、経験相応の責任を負うのは、組織の中にいる以上(「面倒だから」だけでは)避けて通れないプロセスなのかもしれません。

 組織の構成員として、通常期待される役割、そして責任とは何なのか。利益の増大とミッションの遂行に価値を置くビジネスパーソンにとって、「管理職にならない」という選択はあまり有望ではないと考えてみてはいかがかと結ばれた記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2726 The personal is political

2025年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

 なんだかんだ言っても「社会経済研究所」を標榜する以上、現代社会を象徴するようなこの会見に触れておかないわけにもいきません。

 1月27日、引退を表明した元SMAPの中居正広さんと女性のトラブルに局員が関与していたと報じられた問題で、フジテレビは東京・台場の本社において、港浩一社長らによる「やり直し会見」を行いました。

 敢えて制限時間を設けなかった会見は(実際)8時間を超える長時間に及び、日付が28日に突入しても終わらなかった由。X(ツイッター)上では「オールナイト・フジ」がトレンド入りしたほか、「実録27時間テレビ」「月曜日から夜ふかし」「フジテレビで朝まで生テレビ」「生でダラダラ記者会見」など、まるで「大喜利」のような状態になったということです。

 共同通信の報道から経過を追うと、会見の冒頭でフジ・メディア・ホールディングス会長の嘉納修治氏とフジテレビ社長の港浩一氏が引責辞任を表明。「対応に至らないところがあった」と述べるなど会見は謝罪や反省の弁に染まったが、同社で大きな影響力を持つフジサンケイグループ代表の日枝久氏の責任について言葉を濁したことで、参加者からは厳しい声が続出したとされています。

 今回の会見には、外国メディアやフリー記者を含め約430人が参加。前回会見の反省から時間制限が設けられなかったため、混乱や長期戦は免れない様相に。5時間を超えたところで、男性記者が中居さんと女性とのトラブルの事実関係について30分以上、仁王立ちして質問した際には、怒号が飛び交う展開もあったということです。

 中には、フジテレビの自局や系列局の記者からの質問もあり、情報の隠蔽や局員の関与についての厳しいやり取りがあった由。ネット上では、「すごい核心ついてる」「大した覚悟」「フジ記者、がんばれ!」などの盛り上がりを見せたとの報道もありました。

 私自身はこの問題自体にさほどの驚きや興味はありませんが、「テレビ局」や「芸能界」といった閉鎖された特別の空間(社会)の中に、権力の専横を許す、そして女性の人権を軽視するような空気が(濃厚に)あったのはおそらく事実なのでしょう。

 権力の乱用を正し、弱い立場の人々の権利擁護を旨とする報道機関としての立ち位置を慮れば、今回のフジテレビの対応が批判されてもやむ無しとは思いますが、(個人的には)「女性のプライバシー」を盾に事件の経緯や問題の所在を明らかにする姿勢を見せない局側と、感情に任せるばかりで本質に迫ることのできない質問者のダラダラとしたやり取りに、「これ以上付き合いきれないな」とパソコンの電源を落としたのも事実です。

 後の報道(毎日新聞1/28)によれば、会見の模様をリアルタイムで見守る視聴者も多かった由。SNS上では局側の姿勢に疑問を抱く声がある一方で、「腹は立つけど、記者がキレるのは違うでしょ」「(回答の内容より)記者の質が気になる」「一部民意がややフジに同情した感ある」と報道陣の姿勢を批判する声も多く見られたとされ、不用意な発言や訂正の連発に加え、紛糾した場を収拾させることもできない時間無制限のサバイバルレースに、「残ったのはただ疲労感だけ」と感じた人も多かったようです。

 28日の「日刊スポーツ」紙によれば、国際政治学者の三浦瑠麗氏は27日にX(旧ツイッター)を更新。「当事者女性から聞いた話をアウティングする許可を得ていない経営陣に対して、吐け、吐けと責めるショーに見えてしまうけれど、その結果フジテレビに同情が集まってもいい、というのが質問者の判断なのだろうか」と言及したとされています。

 確かに、記者たちの「やった感」の醸成や「疲労待ち」が(会見を設定した)局側の目論見であれば、時間制限を設けず参加メディアも限定しないまま、不明瞭な質問や無駄に長い質問も受け、怒号すら放置するという手法自体は間違っていなかったのかもしれません。

 正に、(今流行りの)パーソナル・イズ・ポリティカル。質問者もメディアの一員であるのなら、自らも属する集団の倫理観が(決して)健全とは言えないことをわかっていないはずはないというもの。誰もが片棒を担いでいる…そうした現実にほっかむりをしたまま、正義漢の仮面をかぶり安全な場所からただフジの経営陣だけを問い詰めても、問題の本質に迫ることができようはずがありません。

 それにしても、どちらがキツネでどちらがタヌキやら。(少なくとも)やたら「正義」を振りかざし、感情に任せて警察官の取り調べのように振舞う質問者と、もぞもぞごそごそと(彼らから)時間と元気を奪うことに成功した局側のやり取りに、辟易としたのは私だけだった訳ではなかったようです。


#2725 蔓延する「いい子症候群」(その2)

2025年01月27日 | 社会・経済

 生まれた頃から低成長の中で育った(注目の)Z世代が、いよいよ社会で働き始める時期がやってきました。

 少子高齢化が進む中、上の世代のような厳しい競争を経験していない彼らは、ガツガツとした闘争心のようなものとは無縁です。一方で、多くの情報やデジタルデバイスに囲まれ、また「コスパ」(コストパフォーマンス)や「タイパ」(タイムパフォーマンス)を重視するリアリストであることもまた彼らの特徴の一つ。第二次ベビーブーマーとして、あるいは就職氷河期のサバイバーとして時代を生き抜いてきた管理職やリーダーたちは、常にクールで効率性を見極める(デリケートで異質な)彼らとどのように向き合ったら良いのか。

 戸惑う管理職の皆さんに向け、金沢大学教授の金間大介氏が3月17日のビジネス情報サイト「東洋経済ONLINE」に、『リスクを負わず自分を差別化したい若者の生存戦略』と題する論考を寄せているので、指摘の一部を(引き続き)小欄に残しておきたいと思います。(『#2724 蔓延する「いい子症候群」(その1)』から続く)

 氏が知るアンケート調査によれば、首都圏在住の18歳から26歳の社会人の男女のうちおよそ6割が、「大勢の前では褒められたくない」と回答している由。首都圏限定というところにサンプルバイアスはあるものの、直感的にいい子症候群気質が低そうな首都圏の若者でさえ、人前でほめられたいと思う若者は4割弱しかいないことに驚かされると氏はこの論考で指摘しています。

 このような現在の若者たちの特徴を前に、「これは非常に大きな問題」「どのように解決すべきか」という視点で問いを立てる識者も多いが、一方で私(←金間氏)自身は、若者たちの「いい子症候群化」を問題だとは考えていないと氏は言います。

 「いい子症候群化」は社会現象であって、決して「日本社会の課題」ということではない。あえて言うなら、これは現在の若者たちの「自己防衛反応」ではないかというのが氏の指摘するところです。

 強いて言えばこういうこと。かつての若者の気質はもっとわかりやすいものだった。陰キャ/陽キャの区別はもちろんのこと、趣味やその他プライベートなライフスタイルまで、何らかの形で表面に現れていたと氏は言います。

 そして、反応がある程度予想ができる分、(大人たちにとって)「彼女はこっちの部署が合いそう」「彼はこの仕事が合うかも」といった風に、若手社員のマネジメントは楽だった。それに、大人たちの間にも、予想が外れたときに「えー!そうだったの?」と言える空気も(当時は)残っていたということです。

 それが、今は違う。みんな爽やかで、みんなコミュ力高め。表面的に観測できる水準(レベル)は昔よりも明らかに上がっている。良く言えば、人材としての質的向上で、企業、特に人事部の人たちがこぞって「最近の若者はみんな優秀」という根拠がこれだと氏は説明しています。

 しかし、それは悪く言えば、「量産化」が進行しているということ。量産化といっても、いわゆる雑魚キャラではない。「あなたは他の誰でもない、唯一無二の存在ですよ」「あなたの経験や体験は、あなただけではなく、この国にとっても貴重なものなのです」と、成長の過程でちゃんと教えられてきた量産型だということです。

 さて、ここが重要なポイントなのでしっかり主張しておきたいのだが、僕(←金間氏)のこれまでの見立てでは、現在の若者の多くは「量産型」であり「唯一無二の存在」だと氏はここで強調しています。

 矛盾する2つの概念を組み合わせて生きるのは、今の若者のお家芸というもの。周りと同じではいけない、個としての貴重な体験こそが君を唯一無二の存在にすると教わり続け、事実、就職活動でも「隣の人と君との違いは何か」「隣の人ではなく君を採用する理由は何か」…を問われ続けてきたのが彼らの世代だということです。

 しかしそんな彼らでも、他人と違う自分に(そう易々と)自信が持てるはずもない。平均値付近にいることの安心感、安定感は手放せないと氏は記しています。

 子供のころからの「失敗しない」ためのトレーニングを積むことで、(すでに入社の段階で)一定のパフォーマンスを自分のものにしている若者たち。しかしその一方で、それ故「規格外」にこぼれ落ちることを(必要以上に)恐れ、率先してモブキャラでいることを選択する彼ら自身も、(大人たちの前で)結構難しい綱渡りをしているということでしょうか。

 金間氏によれば、そうした矛盾を内包するように得たスタイルが、この「量産型」兼「唯一無二の存在」というものとのこと。唯一無二の存在というラベルを貼った量産型と言うべきか。今の若者はとても難しい役割を演じているのだと話す氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2724 蔓延する「いい子症候群」(その1)

2025年01月26日 | 社会・経済

 1990年代後半から2000年代生まれの(いわゆる)「Z世代」が、社会に出て働き始める時代となりました。彼らの特徴は、生まれたときからインターネットが普及しているデジタルネイティブであること。インターネットやSNSを通じてリアルタイムで世界の情報を知る機会が多いことから社会問題への関心が高く、また多様な価値観に理解を示す世代として認知されています。

 一方、生まれた頃から低成長の時代で、さらに少子高齢化の下、上の世代のような厳しい競争を経験していない彼らのイメージは、ガツガツとした闘争心のようなものとは無縁です。常にクールで現実主義的な面があり、また「コスパ」(コストパフォーマンス)、「タイパ」(タイムパフォーマンス)を重視するリアリストの側面があることも、多くの識者に指摘されるところです。

 そうした中、第二次ベビーブーマーとして、あるいは就職氷河期のサバイバーとして時代を生き抜いてきた管理職やリーダーたちが頭を悩ませているのが、かれらZ世代にどのようにアプローチしていったら良いのかということ。世の中のコンプライアンスも厳しくなる中、ハラスメントと受け取られることなくコミュニケーションとるのに「何が正解かわからない」という声もしばしば耳にします。

 「暖簾に腕押し」というか「掴みどころがない」というか、一生懸命のようでどこか醒めているように見える彼らはどんな人たちで、どのように付き合って行ったら良いのか?

 昨年3月17日のビジネス情報サイト「東洋経済ONLINE」ではそうしたお悩みを持つおじ様たちに向け、金沢大学教授の金間大介氏が『リスクを負わず自分を差別化したい若者の生存戦略』と題する論考を寄せているので、参考までに指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 「素直でまじめ」「協調性がある」「人の話をよく聞く」「言われた仕事はきっちりこなす」…こういった行動特性から、世間ではよく、最近の若者のことを「素直でいい子」「まじめでいい子」と評する。そのような姿勢から「今年の新入社員は優秀だ」と春から夏にかけて噂されることも多いが、ただし、彼らは同時に次のような行動特性も併せ持っていると金間氏はこの論考に綴っています。

 それは、「自分の意見は言わない、質問もしない」「絶対に先頭には立たず、必ず誰かの後に続こうとする」「授業や会議では後方で気配を消し、集団と化す」「場を乱さないために演技する」「悪い報告はギリギリまでしない」といったもの。こうした極めて消極的な姿勢から、「素直でまじめ」にもかかわらず、彼らは「何を考えているのかわからない」「自らの意志を感じない」といった不可解な印象を与えるというのが氏の指摘するところです。

 とはいえ、消極的で主体性のない若者というのは昔から存在した。それでは、彼らと「いい子症候群」とは何が違うのか?

 「いい子症候群」の若者たちの心理特性は、「目立ちたくない」「浮きたくない」「横並びでいたい、差をつけないでほしい」「自分で決めたくない」「自分に対する人の気持ちや感情が怖い」「自分の能力に自信がない」といった、集団の中に紛れて「個」を消し去る、ある意味非常にネガティブな感情に基づいていると氏は見ています。

 例えば、大学の講義で「何か質問はありますか?」と問いかけても、今の大学生からまず返答はない。自分だけが反応すると目立ってしまうからだと氏は言います。もしも講義中に一人の学生をほめようものなら、後で「皆の前でほめないで下さい」と言われることすらある。彼らは基本的に自己肯定感が低く、自分に自信がないため、人前でほめられることには「圧」を感じるのだということです。

 集団の中でほめられると、自分に対する他者からの評価が上がり、期待されたり何かを任されたりするのではないかと思ってしまう。自己肯定感が低い若者にとって、これは恐怖でしかないと氏は話しています。集団の中で目立てば、面倒なことに巻き込まれてしまうかもしれない。期待に応えなければ、がっかりされて(逆に)評価が下がってしまうかもしれない。なにより集団の中から浮いてしまうことで皆から「ハブられ」でもしたら、この居心地の良い穏やかな日常を失うことにもなりかねません。

 結局のところ、人前で目立っていいことなんて一つもないということでしょうか。「無難に人並みに生きるのが一番」という気持ちも判らないではありませんが、時に自分を強く主張してみれば、それだけで世界が違って見えることもあるはずです。

 既存の社会のペースにおとなしい彼らを巻き込むべきなのか、それとも社会に出たばかりのデリケートな彼らに我々が合わせるべきなのか。上司や先輩としては「悩みどころ」なのだろうなと、(ある種の同情とともに)感じるところです。

※『#2725 蔓延する「いい子症候群」(その2)』に続く


#2723 「楽しい日本」と地方創生2.0

2025年01月25日 | 社会・経済

 石破茂首相は今年1月6日の年頭記者会見で、「楽しい日本」を目指すと表明しました。唐突な切り出し方に「楽しい…?」と戸惑った人も多かったようですが、(よくよく話を聞けば)「強い日本」「豊かな日本」を目指してきたこれまでの政権とは一線を画す姿勢を明らかにした、(ある種の)決意表明とも受け止められます。

 首相曰く、国民一人一人が自分の夢を目指し、希望や幸せを実感する社会が「楽しい日本」の姿とのこと。「令和の列島改造」「地方創生2.0」と、立て続けに政策の新機軸を打ち出している石破政権ですが、少子高齢化が進む中、その道のりは容易いものではないでしょう。

 中でも気になるのは、人口減少が顕在化し、東京圏への一極集中が進む今の日本で、生活圏の在り方を根底から見直すための中核政策とされる「地方創生2.0」。2014年に安倍政権の下で始められた「地方創生(1.0)」は東京一極集中を是正し、地方の人口減少に歯止めをかけることが狙いとされていました。しかし、国や地方が巨費を投じたにもかかわらず、東京一極集中にも地方の人口流出にも歯止めがかかっていないのが現実です。

 多くの地方で(特に若い世代や女性の)人口流出が続く中、全国のどこでも安心で豊かに(そして楽しく)暮らしていける社会の実現は果たして夢物語なのか。1月21日の日本経済新聞のコラム「経済教室」に、上智大学准教授の中里透(なかざと・とおる)氏が『地方創生、中枢・中核都市に集積進めよ』と題する論考を寄せているので、参考までにその主張の一部を残しておきたいと思います。

 地域間格差の是正は、しばしば道路や空港などのインフラ整備と結びつけて論じられてきたが、最近の地方創生の取り組みには従来にない特徴がある。それは出生率の地域差が強く意識され、少子化問題の克服が大きな目標とされていることだと、中里氏はこの論考で指摘しています。

 「希望出生率1.8」が政府目標となり「人口ビジョン」の策定が各自治体に求められる中、出生率のデータが公表されると、毎年決まって47都道府県で最下位となるのが東京都。にもかかわらず、毎年多くの若者が進学や就職で(出生率の低い)東京にやってくるから少子化がますます進み、人口減少が加速する…と多くの政治家や識者が主張していると氏は言います。(従って)この流れを反転させ地方消滅を回避するには「東京一極集中の是正」が急務である…氏によれば、こうした認識がこれまでの地方創生の取り組みを支える基本的な構図であったということです。

 しかし、この見立てについては改めて妥当性を点検する必要がある。進学や就職を契機とする人口移動の影響で、地域別の出生率の指標にゆがみが生じている可能性がある(高い)というのが氏の認識です。

 合計特殊出生率の分母となる女性人口には(もちろん)未婚女性が含まれる。このため進学や就職で若年女性の転居を伴う移動が生じると、流入の多い地域は出生率が低めに、流出の多い地域は出生率が高めに出ると氏は言います。

 15〜29歳と30〜49歳に分けて年齢層ごとに合計特殊出生率の内訳をみると、30〜49歳は全国・東京都・東京都区部でほとんど差がないのに対し、15〜29歳では大きな違いがみられる。未婚女性が数多く流入する(首都圏などの)地域では、おのずと出生率が低くなるということです。

 一般に学歴が高くなるほど初婚年齢が高くなるから、東京都で20代後半の女性の未婚率が高く、出生率が低いのは自然な話。また、結婚して子供ができたりすると、都内から(生活費が安く子育て環境の良い)郊外へ転出する世帯が多いということもあるのでしょう。

 地方創生をめぐる議論では、出生率の高低をその地域の「暮らしやすさ」の指標としてとらえる傾向がある。だが、それでは出生率が低い、したがって暮らしにくいはずの東京になぜ若者が集まるのかという疑問が生じると氏は話しています。

 出生率の地域差は人口移動の結果として生じるものであれば、東京一極集中と少子化問題を安易に結びつけることには問題がある。両者を分けて考え、まずは「なぜ若年層の多くが地元を離れ東京に行ってしまうのか」という部分に目を向ける必要があるということです。

 メディアなどが煽る「東京への憧れ」が答えのひとつかもしれない。一方、地域によっては「男は仕事、女は家庭」といった性別役割分担意識がなお強く残っている可能性もあると氏はここで指摘しています。

 現実的な理由としては、雇用の問題も挙げられる。キャリア形成を目指し専門性の高い職種への就業を希望しても、地元にふさわしい仕事がなければその人は転出してしまう。多様な職種への就業機会の有無は都市規模によって規定される部分もあるため、都市規模に応じた十分な就業機会が確保できないと若年層の流出は止まらないということです。

 さらに、大学進学を機に多くの若者が地元を離れてしまうことを踏まえると、教育を受ける機会の地域間格差も解消しなくてはならないと氏は言います。地方国立大学に対してこれまで採られてきた緊縮的な対応を見直し、教育・研究環境の改善を進めていく必要もあるだろう。こうしたことは人的資源の地域間格差の縮小にも資するし、地域における産業の創造にもつながっていくということです。

 氏によれば、1972年に刊行された田中角栄元首相の「日本列島改造論」の序文には「すべての地域の人びとが自分たちの郷里に誇りをもって生活できる日本社会の実現」が謳われているということです。

 折しも、石破政権の掲げる「令和の列島改造」では、「政府機関の地方移転」や「2拠点活動」支援なども打ち出しているところ。故郷を持たない日本人が増える中、国民それぞれが自分なりの「新しい故郷」を作り出すことも、「地方創生」ひいては「楽しい日本」を作り出すきっかけになるのかもしれないなと、私も改めて感じたところです。


#2722 オールドメディアが衰退する理由

2025年01月24日 | 社会・経済

 タレントの中居正広氏の女性トラブルに社員が関与したと一部週刊誌で報じられた問題で、70社以上の企業がCM放送を差し止めに及んでいるフジテレビ。社員の関与が報じられる中、港浩一社長が記者会見で調査委員会の設置などを盾に詳しい説明を避けたことなどで、厳しい世論に晒されています。

 そもそもこの問題が世間の耳目を集めたのは、週刊誌の記事から始まったトラブルに関する報道が、(ネットメディアなどに大きく取り上げられているにもかかわらず)テレビの在京キー局や大手新聞各社がこの事件にほとんど触れようとしなかったからだと考えられます。

 ジャニーズ事務所による性加害の隠蔽やダウンタウンの松本人志氏の女性トラブルなどとも繋がるオールドメディアのこうした態度に、(「やっぱりな」と)不信感を募らせた人も多かったのでしょう。強力な発信力をもとに、戦後の高度成長後も大きな権威を保ってきた(テレビ局を中心とした)マスメディアも、(「権威」のコントロール下にない)ネットメディアやSNSの前では、既に戦う術を失っているようにも見えます。

 近年では、主要な選挙などでも大きな影響力を及ぼすようになっているネットメディアに対し、テレビ、新聞などのオールトメディアの信用は何故、これほどまでに凋落の一途をたどっているのでしょうか。

 メディアを巡るこのような状況に対し、年明け1月4日の経済情報サイト「東洋経済ONLINE」に桜美林大学准教授の西山 守氏が『「オールドメディアの衰退」は現実となるか』と題する一文を寄せているので、参考までに指摘の一部を残しておきたいと思います。

 今年は、トランプ政権誕生で政治的な議論が世界的に活発化することが予想されるし、日本では参院選もある。ネット上では政治の話題が大いに盛り上がるだろうと西山氏はこの論考の冒頭で予想しています。

 昨年11月の兵庫県知事選では、SNSで斎藤氏の応援が盛り上がった。斎藤知事のパワハラ・おねだり疑惑では「既得権益層に陥れられた」という論調がそこに形成され、マスメディアの報道は「偏向している」と叩かれと氏は言います。

 そして、知事選の開票日。NHKによる出口調査では、「投票する際に何を最も参考にしたか」という質問に対し、最も高かったのがSNS・動画共有サイト(30%)で、新聞(24%)、テレビ(24%)を上回った由。また、10代、20代の若者層の多くは斎藤氏に投票したことも判明しているということです。

 選挙戦を通じ、「オールドメディアは信用できない」「SNSで得られる情報は真実」という論調が出てきた。しかしその一方で、蓋を開けると、SNSが真実を伝えているとも限らなければ、偏向していることも多いことが露呈したと氏は話しています。

 そして、今年は参院選挙や都議選など、さらに大きな政治的イベントがある。(今回の経緯を踏まえれば)オールドメディアとSNSが抱える問題は一層、顕在化していくだろうというのが氏の懸念するところです。

 さて、オールドメディアとSNSは対立関係にある、あるいは代替関係にあるという意見も目立つのだが、(もちろん)相乗効果をもたらしたり、相互に補完し合ったりする側面あると氏はこの論考を続けています。

 オールドメディアの報道が一方的な場合もあるかもしれないが、(他方で)裏を取れない情報や一般人のプライバシーに関することは報道しづらいという面もある。斎藤知事を告発した元幹部に関する詳しい報道がされないのは、圧力や忖度によるものではなく、死者や遺族に対する配慮からだというのが氏の見解です。

 また、三菱UFJ銀行の行員による10数億円の窃盗事件に関しては、「テレビであまり報道されないのはおかしい」という声があり、SNSでは、それを「大企業の圧力によるもの」として批判する声も目立っていたと氏は言います。

 しかし、テレビや新聞が実名を報道しないのは、刑事事件になっていないからで、企業の圧力やメディアの忖度があるからではない。メディア報道に対する誤解から、SNSでは過度なメディア批判が巻き起こり、事実と異なる情報が拡散してしまうこともあるということです。

 そもそも、世の中には事実関係が不明なこと、また、わかっていても報道できないことは沢山ある。その欠損部分をSNSが埋めているところはあるのだが、その中には臆測やフェイク情報も多いというのが氏の認識です。

 そうした場面において、ファクトチェック、すなわち真偽を確認・検証する役割は、今後もオールドメディアの重要な役割であり、存在意義でもある。問題なのは、そうしたメディアが収益を上げることが難しくなっている点にあるというのが西山氏の指摘するところです。

 自分で取材を行わず、SNSやインターネット、他のメディアの情報をそのまま取り上げて記事にする(いわゆる)「こたつ記事」の氾濫。昨年は、(大手新聞社である)毎日新聞までもが芸能人の偽アカウントの情報に基づいたこたつ記事を配信して、フェイクニュースを拡散したことで問題になったと氏はしています。

 こたつ記事の存在自体は必ずしも全否定すべきものではないが、時に規制をかけることも必要となる。もちろん、フェイクニュースを流したり、他人の権利を侵害したりしたメディアには、(場合によっては)重い罰則を課するといった措置も必要になるだろうということです。

 一方、ネットメディアが実質的に無法状態にあるにもかかわらず、オールドメディアがコンプライアンスなどに(雁字搦めに)縛られている現状もあると氏は話しています。メディア報道に関する規制は、法規制以外にも自主規制があるのだが、時代に合わない規制は変えていく必要があるということです。

 例えば、選挙に関する報道の制約は、自主規制に負うところが大きい。公共放送であるNHKはさておき、民放各局は「自主規制」や「中立性」といった大義名分にとらわれすぎることなく、独自の報道をすればよいというのが氏の見解です。

 コンプライアンスなどに(過度)縛られて、個性や独自性を失ってきた近年のマスメディア。おそらくは、7月に行われる参議院参院選でオールドメディアの時代への対応力が改めて問われることになるだろうと氏は話しています。

 いずれにしても、彼らが一括りにされて「オールドメディア」という言われ方をしてしまうのは残念なこと。恐らくそこには技術の面だけではなく、メディアとしての態度の面の問題も大きいように思うと話す西山氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2721 デフレ脱却と政治の流動化

2025年01月23日 | 社会・経済

 前回の衆議院議員選挙における自民党の敗北で流動化した日本の政治状況。折しも、米国や隣国韓国において政治の大きな混乱が生じる中、この日本でも従来の自民党中心の政治の不安定さが増せば、自衛隊と米軍の連携強化など安全保障政策の推進が遅滞するとの指摘もあるようです。

 前回総選挙の自民党の敗北により、国内においても政権運営に向けた政党間の交渉、せめぎあいがしばらくは続くと予想されています。その間、選挙の焦点となった裏金問題のみならず様々な政策論議が盛んになるでしょうが、特に(予算関連の審議における)経済対策については、一貫性を欠くものとならないよう財政的な裏付けについて注意していく必要がありそうです。

 それにしても、選挙で国民からキツイお灸を据えられたとはいえ、先の自民党総裁選であれだけ日本の未来を語っていた石破茂新政権の、現在の元気のなさは一体どうしたものなのでしょう。いわゆる「裏金問題」だって、直接自分がかかわっていたわけではないのだから、それをきっかけに既存の派閥をコテンパンに潰したり、夫婦別姓や教育問題などに思い切り切り込んでもよいような気がするのですが、なかなかそうした(開き直った)気持ちの良い動きが見えてきません。

 石破首相には、時に「自民党をぶっ壊す」と大見えを切った小泉純一郎首相のように、国民に向け朗らかで明るい笑顔を見せてもらいたいものだと思うのは私だけでしょうか。そんなこと感じていた折、作家の橘玲氏が「週刊プレイボーイ誌」に連載中の自身のコラム(11月11日発売号)に『2年前の夏の凶弾が日本を変えた?』と題する一文を寄せ、最近の政治環境の変化について指摘しているので、その一部を小欄に残しておきたいと思います。

 先の衆院選で過半数を割る大敗を喫した自民・公明の両党。歴史的な敗北の背景には、2年以上も続いた実質賃金の低下があるというのが氏の認識です。安倍政権は「日本復活」を賭けてリフレ政策を採用したが、日銀がどれほど金融緩和しても物価は反応せず、(代わりに)円高が修正され日本経済は「豊かにはならないが貧乏でもない」という、(ある意味)ぬるま湯につかってきたと氏は話しています。

 超低金利の下では、銀行に預けたお金が増えることはないが、物価が安定していれば、去年と同じ暮らしが今年、来年へと続いていく。これはとりわけ、年金で暮らしている高齢者に大きな安心を提供するとともに、業績がふるわない中小企業も(銀行からの借り入れにほとんど金利がかからないので)市場から退出を迫られる心配がなかったということです。

 加えて、人類史上、未曽有の超高齢社会に入った日本では、需要と供給の法則によって、稀少な若者の価値が上がっていったと氏は言います。労働市場は、大学を卒業すれば(あるいは高卒でも)ほぼ確実に就職できるし、就活がうまくいかなくても20代であれば簡単に転職できる「売手市場」となり、これが、安倍政権が若者のあいだで高い支持率を維持できた理由のひとつとなったということです。

 しかし、こうした経済条件は新型コロナの蔓延と、ロシアのウクライナへの侵攻によって劇的に変化。これまで日銀がなにをやっても動かなかった物価が上昇しはじめたと氏は話しています。

 これで日本はようやくデフレから脱却できたが、その後にやってきたのは、リフレ派が言っていたような「日本経済の大復活」ではなかったというのが氏の指摘するところ。給料が少し位増えても、生鮮食料品や電気代などの物価がそれを上回って上昇すれば家計はどんどん貧しくなっていく。一方、「超円安」で欧米やアジアなどから外国人観光客が「安いニッポン」に殺到し、「日本は欧米以外ではじめて近代化に成功した経済大国」というプライドすら失われていったということです。

 そして、こうして国民の不満が溜まっているところに起きたのが、件の「政治とカネ」問題だったと氏は説明しています。自民党の政治家にとってこれは、パーティで集めた資金を派閥に上納し、そのキックバックを記載しなかったという実務上の話に過ぎなかった。税金を詐取したというわけでもなく、(なので)単なる帳簿の不記載だとたかをくくっていたということです。

 しかし、国民の受け止めは違っていた。自分たちが苦しい家計を必死にやりくりしているのに、政治家は「裏金」でいい思いをしているという反発は予想以上。それに気づいて関係する議員を非公認にしたが、にもかかわらず(投開票日直前に)2000万円の活動費まで支給していたことが報じられ万事窮したと氏はしています。

 結果論でいうならば、石破首相は自民党議員の既得権に配慮するのではなく、これまでの正論を貫き通したほうがよい結果を得られたかもしれない。しかし、いずれにしても(自民党全体として)既に対応は手遅れだったのだろうというのが橘氏の見立てです。

 今回の選挙で、政治の流動化がよりはっきりしたと橘氏は言います。野党ではすでに議員の離合集散が当たり前になっており、派閥が選挙を仕切れなくなれば、自民党でも同じことが起きるのは当然のこと。それほどまでに、2年前の夏の凶弾が(その後の)日本の政治に与えたインパクトの大きさには驚かされるとこのコラムを結ぶ橘氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2720 「敵の敵は味方」という話

2025年01月22日 | 国際・政治

 米ワシントンで1月20日に開催されたドナルド・トランプ第47代大統領の就任イベントで、トランプ大統領を支持する米富豪イーロン・マスク氏が演説したとのこと。報道によれば、その際、マスク氏が壇上で行った右手を左胸にあててか、右斜め上にまっすぐ突き上げる動作が、まるでナチスドイツの敬礼のようだと物議をかもしているということです。

 同氏の所作の意味はともかくとして、米国で発足した新政権における、実業家イーロン・マスク氏の存在感が高まっているのはおそらく事実でしょう。トランプ次期大統領と蜜月関係を築き、トランプ氏肝煎りの新組織「政府効率化省(DOGE)」のトップへの就任が決まっているマスク氏。既に巷では、実質的な「共同大統領」との声もあると聞きます。

 マスク氏と言えば、世界有数の大富豪として知られ、総資産は実に3530億ドル(約53兆円)。大統領選でのトランプ氏の勝利、またテスラなど保有株の評価額が上がったことなどで、大統領選直前の11月上旬と比べ資産を910億ドル(約13・6兆円)と、約3割も増やしたとされています。

 それにしても、トランプ氏の岩盤支持層と言えば、高学歴、高所得のエリートを嫌う生活に苦しむ生産労働者(いわゆるブルーカラー)がメインのはず。にもかかわらず、彼らが(自身も)大富豪であるトランプ氏を熱狂的に支持し、また「世界一の大金持ち」の評が高い自由人イーロン・マスク氏を親しみとともに受け入れているのは一体なぜなのか。

 その辺りの関係性に関し、作家の橘玲氏が「週刊プレイボーイ誌」に連載中の自身のコラムに『2025年に(たぶん)起きること』(2025.1.6発売号)と題する一文を寄せているので、参考までにその指摘を残しておきたいと思います。

 2024年の米大統領選では、ドナルド・トランプと世界一の大富豪イーロン・マスクがタッグを組んだことに注目が集まった。このことは、私達が今、どのような世界に生きているかを象徴する出来事かもしれないと橘氏はコラムの冒頭に綴っています。

 産業革命によって近代が始まり、身分によって人生が決まる社会が解体された。この「リベラル化」はその後、人種や国籍、性別、最近では性的指向や性自認にも広がり、自らの意思で変えられない属性によって他者を差別することが(ものすごく)嫌われるようになったと氏はしています。

 それ自体はもちろん素晴らしいことだが、組織を維持・運営するためには、何らかの方法で個人を評価し、採用や昇進・昇給を決めなくてはならないのもまた現実。そのとき、唯一公正な評価とされたのが「学歴・資格・実績」によるメリトクラシー(meritocracy:能力主義)だと氏は説明しています。

 そして氏によれば、そのメリトクラシーを正当化する根拠とされているのが、「これらは“努力”によって(その気になれば)誰でも獲得できる」という信憑とのこと。遺伝的多様性がある以上「やればできる」は単なる「きれいごと」に過ぎないが、それを認めるとリベラルな社会が成り立たくなってしまうので、この事実は「言ってはいけない」としてずっと抑圧されてきたということです。

 しかし、知識社会が高度化するにつれ、徐々に矛盾を隠蔽することが難しくなってきたというのが、氏がこのコラムで指摘するところ。人種問題を抱えるアメリカは、日本よりもはるかにメリトクラシーを徹底した社会。大卒と高卒では生涯収入が倍も違う(大卒と高卒の日本の収入格差は男性で13%、女性で30%)ことなどから、低学歴で工場のブルーカラーの仕事についた人たちが、中流から脱落しつつあると氏はしています。

 そして、こうした白人のワーキングクラスがトランプの岩盤支持層となり、アファーマティブアクション(積極的差別是正措置)で優遇されている(ように見える)黒人など有色人種や、マイノリティの側に立って白人の「特権」を批判する(主に白人の)高学歴のリベラルなエリートを敵視するようになったということです。

 さて、ここから先が不思議なところ。ところが、彼らに嫌われた当のリベラルは、建前上は「貧しい労働者階級の味方」なので、この批判に正面から反論できない。そこで、「グローバル資本主義」や「構造的差別」が諸悪の根源だと主張しはじめ、その「悪」を体現するのが、天文学的な富をもつマスクのようなテクノ・リバタリアンだと決めつけたと氏は話しています。

 シリコンバレーのベンチャー起業家は、極端に高い論理的・数学的知能とアニマル・スピリットによって大きな成功を手にした人々。そんな彼ら(その大半は男性)は、リベラルなエリートから、大きすぎる富をもつこと自体が不正であり、富裕税によってその富を国家が没収するのは当然だと追及され、強く反発しているということです。

 いわゆる、「敵の敵は味方」ということでしょうか。こうして、「アンチ・リベラル」の旗の下、知識社会の最大の勝者と「敗者」であるホワイト・ワーキングクラスが共闘するという、奇妙奇天烈なことが起きたというのが氏の指摘するところです。

 マルクスが、社会の進歩を「資本家」と「労働者」の対立のストーリで描いてから既に150年余り。技術の進歩とともに、現実社会はさらに混迷の時代を迎えているということでしょうか。

 (いずれにしても)どんなに疎まれたとしても、リベラルの主張は「社会正義」なので、それを撤回することはもちろん、批判に対して妥協することもできないというのが氏の認識です。そうなると、この分断は「善と悪の戦い」として終わることなく、えんえんと続くことになる。今年も、私達はその混乱をあちこちで目にすることになるだろうとコラムを結ぶ橘氏の予言を、興味深く読んだところです。


#2719 タイパ世代は就活だって2倍速

2025年01月21日 | 社会・経済

 タイパ(タイムパフォーマンス)という若者言葉があるが、エンタメから大学の講義まで動画を「2倍速」で視聴する現代の若者にとっては「就活」もその対象だと、12月3日の日本経済新聞(夕刊)が伝えています。(連載「就活のリアル」:『「2倍速」で就活する時代に 学生・企業の双方に恩恵』)

 人材研究所代表の曽和利光氏によれば、就活生はスーツを着て出かけるような会社説明会にはもはや5社ほどしか参加していない(リクルート就職みらい研究所「就職白書2024」)とのこと。彼らにとっては「早送り」できない人の話を聞くのはもうつらいことで、オンラインによる参加を加えても12社ほどでしかないのが現実だということです。

 一方、そんな今でも、年間で100回を超えるほど「ライブ」の会社説明会を開いているような会社も多いと曽和氏はしています。会社側としては、「ライブの方が自社のことを強く印象づけられる」と思っているのだろう。しかし、(ま、中にはライブの手触り感に価値を感じる就活生もいるかもしれないけれど)大方の就活生は、アイドルでもアーティストでもないよく知らないおじさんのライブに価値を見いだしていないということです。

 氏によれば、この辺りがよくわかっている感性の高い会社は、既に事前に録画した動画の会社説明会を採用ホームページなどにアップして、学生が好きな時間に「2倍速」で視聴できるようにしているとのこと。実際、そういう動画の視聴者数が多いのは大概深夜で、おそらく学生はベッドやソファで寝転びながら、スマホで2倍速で見ているのだろうということです。

 そうした状況に、「私はまったくこれでよいと思う」と氏は話しています。以前は氏も採用担当者として年間100回くらいは説明会をしていたとのこと。しかし、今思えばそれもかなり無駄な話。その労力をもっと学生の動機付けや戦略の立案などに割けばよかったというのが氏の認識です。

 これは面接でも同じこと。これまで(そして今でも)大企業は何千人という応募者のために、数百人単位で社員を動員し初期面接をライブで行ってきた。これは極めて大変なオペレーションだが、近年では、事前に定めた質問に対する回答の動画を送ってもらうことで、初期面接とする会社が増えていると氏は指摘しています。そして、当然ながら面接担当者は、2倍速でそれを見て、評価していたりする。場合によっては人工知能(AI)に任せている企業などもあるということです。

 2倍速の就活や採用に眉をひそめる人もいるだろう。確かに無限に時間があれば2倍速などせずに、じっくりお互い吟味したいものだとは思う。しかし、2倍速だからこそ2倍の数の会社を受けることができ、2倍の候補者を面接できると氏は話しています。

 さらに捻出した時間によって、絞り込まれた候補者と会社が、今度はゆっくりと時間をかけて擦り合わせる余地が生まれる。実はお互いに良い時間の使い方をしていることになり、まさにタイムパフォーマンスの高いWin-Winの対応だということです。

 さて、転職率の高い売り手支配の(昨今の)就活市場のこと。会社説明会や面接も、以前のような「生きるか死ぬか」の殺気立った勝負の場などではなく、(言うなれば)マッチングアプリのように)双方が平等な立場で相性を確認する機会としてとらえられているのかもしれません。

 ベネッセi-キャリア(東京都新宿区)の調査(2024.10)によれば、就職活動が本格化する時期に相談したい人として最も回答が集まったのは「親」(22.3%)とのこと。実は「親」は前年調査に引き続き2回連続の1位で、2位の「友人」(14.4%)、3位の「大学のキャリアセンター」(12.3%)、そして4位の「就活支援サービス担当者」(12.1%)を引き離しているということです。

 そして、現在のキャリア観に大きな影響を与えた人でも1位は「親」(44.1%)。「友人」(24.9%)、「小・中・高の教員」(22.3%)が続いた由。学生たちは会社説明を(ベッドに寝転んで)2倍速で見ながらも、(時代に流されることなく)案外しっかり自分の将来や人生設計を考えているのかもしれません。

 「就職氷河期」などと呼ばれた買い手市場の時代とは違って、ごく普通の「マッチング」となった就職活動。募る側もそうしたことを前提に、ひとりひとりの学生と向き合っていく必要があるのだろうなと、私も記事を読んで感じたところです。


#2718 「ふてほど」から抜け落ちた平成

2025年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 年末に発表された恒例の「ユーキャン新語・流行語大賞」の年間大賞は、「ふてほど」であった由。「ふてほど」とは、(ご存じのとおり)昨年大ヒットしたTBS金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』の略称とのことですが、ネット上では「これって流行語なの?」と違和感を指摘する声もちらほら上がっているようです。

 世間で話題となった「ふてほど」は、昭和時代(1986年、安定成長期)からコンプライアンスが厳しい令和時代(2024年、低成長期)にタイムスリップした(阿部サダヲ演じる)主人公の体育教師が、人々の意識の変化の中で様々な問題を引き起こす物語。コンプライアンスという言葉すらなかった昭和の時代へのノスタルジーとともに、現代とのギャップをあっけらかんと描き話題をさらったところです。

 そういう私も毎週(結構楽しみに)見ていた口ですが、その時に思ったのは、確かに「時代の空気感」は(この平成の30年間で)ずいぶん変わったんだなということ。ほとんど忘れてしまっていたし、あまり比較してみたことがなかったこともあって、劇中に描かれる時代のディテールを(それなりに)新鮮に受け止めていた次第です。

 さてさて、このドラマで描かれなかった(自分でも経験してきたはずの)この「失われた」平成の30年の間に、日本の社会では一体何が起こっていたのか。12月5日の経済情報サイト「東洋経済ONLINE」に作家で評論家の真鍋 厚(まなべ・あつし)氏が、『流行ってないうえに、世相を全く反映していない…「ふてほど」の流行語大賞になんとも納得できない“本質的な理由”』と題する一文を寄せているので、参考までにその主張の一部を残しておきたいと思います。

 1980年代以降の日本では、「失われた30年」の間に格差社会化と、他者との接点を示すソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の空洞化が進んだ。雇用状況の悪化と非正規労働者の増加によって経済的格差が拡大し、人々の生活、意識、そして心身の健康などにおいても階級間の格差がきわだったと真鍋氏はこの論考に綴っています。

 つまり(端的に言えば)『ふてほど』が舞台となった1986年という昭和の末期を最後に、日本社会は下り坂に入っていったということ。そして、そのような社会経済的な動きと並行して、個人は複合的なカオスに直面することになったというのが氏の認識です。

 氏によれば、社会学者のジョック・ヤングは、「社会秩序」を構成する2つの基本的な部分として、①業績に応じて報酬が配分されるという原則、②能力主義的な考え方である「分配的正義」と、アイデンティティと社会的価値を保持している感覚が「他者に尊重される」という「承認の正義」…の二つを挙げているとのこと。

 しかし、(現代社会においては)この二つの領域にはいずれも「偶然だという感覚」、つまり報酬のカオスとアイデンティティのカオスが伴っており、①労働市場の破綻や各産業部門での働き方が運次第になっていること、加えて②不動産市場や金融のような業績とは無関係に得られる報酬等々が「業績の尺度ではなく気まぐれに配分されている」…という感覚をもたらしているということです。

 そのような感覚をベースに、(日本人の間には)黄金期の特徴だった標準的キャリアのようなわかりやすい比較参照点がなくなっていき、互いに嫉妬しあう個人主義が克進。結果、足の引っぱりあいが激化する相対的剥奪感が生まれていると氏は指摘しています。

 昭和期のような、年功序列による護送船団方式は既に消え失せてしまった。そうした中で、公正な分配が期待される能力主義を叩き込まれてきた人々は、「でたらめな報酬」が飛び交う状況に戸惑いながら、自分もあやかりたいと願っているということです。

 思えば「上級国民」というネットスラングは、一般国民の窮状を顧みず、特定の組織やエリート層が権力を私物化し、特権や利益などに与ることへの怒りがパワーワードとして結晶化したものだと氏は指摘しています。自分とは違う「クラス」が存在することへの信憑。その深層には、可燃性ガスのような不公平感が充満していたということです。

 そして、2つ目。「アイデンティティのカオス」は、「承認、つまり価値や居場所が与えられているという感覚の領域」の動揺だと氏は説明しています。

 常に多様なリスクに対応するための(一定の間合いを取った)付き合い方は、一方で「愛情」や「ケア」といった人間性を養うのに必要な長期的な人間関係を築きにくくする。職場でも家庭でも個人のライフスタイルに断絶が広がり、ある組織や場所に紐づいているという感覚が薄まって、承認を得ることが困難になっているというのが氏の見解です。

 これらは、いわば平成期に産声を上げた「平成的なカオス」といえる。「昭和的なコスモス」を食い破る形で登場し、実に多くの人々を地獄に引きずり込み、そのカオスは令和になってますます大きくなっているということです。

 そして、これら昭和と令和に挟まった平成が、「ふてほど」からショートカットされていることはもっと注目されて然るべきだと、氏はこの論考の最後に記しています。

 物価高、増税、国民負担率の上昇と暗い話題が続くこの令和の時代において、マスメディアが創造した一つのフィクションとして「昭和と令和のいいとこ取り」のファンタジーを拝借した「ふてほど」。翻って、流行語大賞に「ふてほど」を選ばざるを得ない時代とは、「失われた30年」とその悲惨な現実を「粉飾」したくなるほどに深刻な様相を呈している時代だというのが氏の指摘するところです。

 氏によれば、その根底にあるのは、SNSに代表される人々の関心の分断と国民国家の衰退があるとのこと。果たしてそのような粉飾は一周回って適切なのかどうか…(こんな時代であればこそ)今一度しっかりと問うてみる必要があると話す真鍋氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2717 103万円の壁の撤廃…そりゃ財務省は反対するわな

2025年01月19日 | 社会・経済

 政府が昨年11月22日に閣議決定した総合経済対策には、国民民主党が求める「103万円の壁」対策を行うことが明記されています。しかし、具体的にどのような措置を施すのかついては未だ決まっておらず、2025年度の税制改正の検討の中で本格的に議論されることとなるようです。

 一方、政府の試算によれば、国民民主党が求めるように所得税の基礎控除・給与所得控除額の水準を103万円から178万円まで引き上げ同様に住民税についても措置すれば、税収の減少額が7兆円から8兆円にまで達するとのこと。財務省はもとより、特に警戒感を強めているのが地方公共団体で、税収減による地域の行政サービスへの悪影響を強く主張しているところです。

 そうした中、この(103万円の壁の解消の)問題に関し日本経済新聞と日本経済研究センターが経済学者47人に聞いたところ、課税最低限(103万円)の引き上げを支持する経済学者は44%で、支持しない割合(13%)を上回ったとの記事が日経新聞に掲載されていました(11月29日)。

 生活費の上昇に合わせて課税最低限も上げなければ、実質的な増税になるのは明らかだというのがその理由。社会保険の加入要件となる106万円や130万円の壁と合わせて改革を行うべきとする意見も多かったということです。

 さて、昨年10月に投開票が行われた衆議院議員選挙以来、様々な議論が飛び交っているこの「年収の壁」問題について、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が『週刊プレイボーイ』誌に連載中の自身のコラムに、『「103万円の壁」撤廃は現役世代への大規模減税』と題する一文を掲載していたので、参考までに小欄にその指摘を残しておきたいと思います。

 衆院選で国民民主党が「手取りを増やす」を掲げて議席を4倍にしたことで、にわかに注目されるようになった「年収103万円の壁」。それに加えて「106万円の壁」と「130万円の壁」というのも登場し、訳わからなくなっている人も多いだろうと、橘氏はコラムに綴っています。

 これは、所得税と社会保障費の違いによるものなのだが、まずは税金について考えてみる。「103万円」というのは、「基礎控除」の48万円に「給与所得控除」の55万円を加えた額で、それ以下であれば税金を徴収しないという基準のこと。後者、55万円の「給与所得控除」はサラリーマンの仕事に必要な経費の最低限(年収162万5000円以下)で、自営業者で言うところの「経費」に相当すると氏は説明しています。

 この「経費(=給与所得控除)」を除いたあとの48万円の純利益(基礎控除)を「生活のための最低限の収入」と考えれば、(そもそも年収48万円(=月額4万円)で生きていける人などいないので)現在の基礎控除の水準はあまりに低すぎるというのが橘氏の認識です。

 そう考えれば、(国民民主党が言うように)基礎控除を75万円増やして123万円とし、(サラリーマンの場合は)給与所得控除と合わせて178万円を課税最低限とする政策には合理性があると氏は話しています。

 基礎控除が75万円増えると、低所得者だけでなく、収入のあるすべての国民に恩恵が生まれる。所得税率は5%(所得194万9000円未満)から45%(所得4000万円以上)の累進課税なので、この税率に75万円を掛けて、税率5%の人は約4万円、税率40%の人なら75万円の50%、37万5000円(の減税)になるということです。

 これが、「基礎控除を引き上げると所得が多い者ほど得をする」という批判の根拠になるが、所得別でもっとも人数が多いのは税率10%(所得329万9000円以下)か税率20%(所得694万9000円以下)なので、少なくともこの人たちは、無条件で年に7万5000円(税率10%)あるいは15万円(税率20%)手取りが増えると氏は言います。

 基礎控除の引き上げは、パートや学生など低所得者のためのものでも、年間所得2500万円以上(所得税率40%)のお金持ちのためのものでもなく、もっとも大きな利益を得る集団は中所得の現役世代。しかも、ここでは国税(所得税)のみを対象に計算したが、基礎控除の引き上げが地方税にも適用されると住民税率は10%なので、所得税・住民税の合計が20%なら手取りが15万円、30%なら22万5000円手取りが上乗せされるということです。

 さて、(それはそれとして)話がややこしくなるのは、保険料の支払いを免除されていた第3号被保険者(主にパートの主婦)の場合、一定の所得を超えると社会保険や国民年金・国民健康保険への加入義務が生じるので、基礎控除を引き上げたとしても、頑張って働くと手取りが逆に減ってしまうことだと、氏は最後に指摘しています。

 これが、「問題は103万円の壁ではなく、106万円、130万円の壁だ」説なのだが、ここでまず重要なのは、(少なくとも)既に社会保険に加入している大多数のサラリーマンにとって、(今回議論される)基礎控除の引き上げは手取りが増えるメリットしかないということ。国民民主党は今回の選挙で「サラリーマンの手取りを増やす」と言って議席を4倍に伸ばしましたが、確かにその言葉に「嘘」はなかったという事でしょう。

 政治家が訴える政策には、分かり易さが一番だと言われればそれまでのこと。このように整理すれば、わけのわからない補助金でお金をばら撒くよりも、減税でお金を返してもらった方が好ましいと思う人は多いのではないかと話す橘氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2716 日本経済が乗り越えるべき最大のハードル

2025年01月18日 | 社会・経済

 日本の生産年齢人口は、1995年に8726万人でピークを打った後、戦後のベビーブーマーの引退とともに減少に転じています。2020年には7509万人まで漸減してきており、さらに2032年には7000万人、2043年には6000万人、2062年には5000万人を割り込んで2070年には (ピーク時のほぼ半分の)4535万人まで減少すると予想されています。

 生産年齢人口とは、15歳から64歳までの労働や経済のる中核を担う年齢層のこと。この世代の人口が少なくなるというのは、つまるところ労働力が不足することを意味し、国内総生産(GDP)の減少や経済成長への悪影響をもたらすことに繋がるのは必至です。

 こうした生産年齢人口の縮小に対応し、日本の労働市場は女性や高齢者、そして外国人労働力の導入でそれを補ってきました。近年、パート就労を中心に女性の就業率は急速に上昇し、また定年退職後の高齢者も働くことは当たり前になっています。その一方で、日本人の労働観は大きく変化しつつあり、「働き方改革」の下で長時間労働は激減。多くの人々が、これまでよりも短い労働時間で働くようになっています。

 こうした中、帝国データバンクが10月4日に発表したレポートによれば、従業員の退職や採用難、人件費高騰などを原因とする「人手不足倒産」の件数が、2024年度上半期(4-9月)で163件に達した由。年度として過去最多を大幅に更新した2023年度をさらに上回る、記録的なペースで急増しているということです。

 もはや賃金を上げても人が集まらない。結果、「賃上げ原資」を確保できず、多くの企業が倒産の淵に立たされている現状をどう見るのか。10月11日のビジネス情報サイト「現代ビジネス」に、リクルートワークス研究所研究員の坂本貴志氏が『人が全然足りない…人口激減ニッポンの「人手不足」が引き起こす「深刻な影響」』と題する論考を寄せているので、参考までにその一部を残しておきたいと思います。

 日本経済の低いパフォーマンスをもって、失われた数十年と揶揄されるようになり久しく時が経つ。物価も長く下落を続けるなど、多くの苦境を経験してきた日本経済だが、ここにきて経済の風向きは変わってきていると坂本氏はこの論考に記しています。

 物価は上昇基調に転じ、日経平均株価も一時バブル期以来の高値を更新するなど日本経済は徐々にその自信を取り戻しつつあるように見える。しかし、より中長期的に経済データを確認していくと、労働者をとりまく環境や企業の経営行動の構造は、近年確かに変わってきているというのが氏の認識です。

 データを分析していくと、足元の労働市場では人手不足の深刻化や賃金上昇の動きが広がっていることがわかる。さらに、それは2010年代半ば頃から顕在化していると氏は話しています。氏によれば、これには日本銀行による大規模金融緩和や政府の財政出動が影響している可能性が高いとのこと。しかし、それだけではなく、その根本には人口減少や高齢化といった人口動態の変化があるはずだというのが氏の指摘するところです。

 これまでのデフレーションの時代において、企業が最も警戒してきたのは「需要不足」の深刻化だった。つまり、多くの企業が抱いていたのは、人口減少によって国内市場が縮小すれば、将来、企業間で顧客を奪い合うことになるのではないかという懸念だったと氏は言います。

 しかし、いざ蓋を開けてみると、多くの地域や業種で需要不足が深刻化する展開にはならなかった。近年判明してきたのは、それとは逆。人口減少と少子高齢化が引き起こす経済現象は、医療・介護などを中心にサービス需要が豊富にあるにもかかわらず、それを提供する人手が足りなくなるという供給面の制約として表れたということです。

 現在起きているこのような変化は、景気変動に伴う一過性の現象だけではなく、構造的なものである可能性が高いと氏はここで指摘しています。そして、そう考えれば(今後もその時々の景気循環による影響を受けながらも)しばらくの間、現在の経済のトレンドは続いていくことになる(だろう)ということです。

 今後、少子高齢化が進む中で人手不足がさらに深刻化すれば、企業による人材獲得競争はますます活発化する。そうなれば、将来の日本経済においては、多くの人が予想する以上に、賃金が力強くかつ自律的に上昇していく局面を経験するはずだと氏は言います。

 一方、その後は、労働市場における激しい競争にさらされる形で企業は利益を縮小させることになり、経営の厳しい企業は市場からの退出を余儀なくされる可能性が出て来る。将来の日本経済を展望すると、人口減少に伴う日本の経済規模の低迷や国際的なプレゼンスの低下は、ほぼ確実にやってくる未来だというのが氏の予想するところです。

 しかし、生産性が低い企業が市場から退出し、人件費高騰に危機感を持った企業が生き残りをかけて経営改革に取り組めば、また違った未来も想定される。先進技術を活用した機械化や自動化の進展も相まって、労働生産性はむしろ上昇していく展開になることもあり得ると、氏はこの論考の最後に綴っています。

 そうなれば実質賃金に関しても、名目賃金の上昇率が物価の上昇率を上回っていく形で、緩やかに上昇に向かう可能性が高いということ。日本企業の生き残りをかけた生産性向上に向けた取り組みが、日本経済の動向のカギを握っているということでしょう。

 これから世界の多くの先進国が経験することになる人口減少経済。先行する日本経済の未来は、その「嚆矢」として大きな意味を持つと話す坂本氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2715 プラトンが予言するこれからの米国

2025年01月17日 | 国際・政治

 欧州から米国に逃れたユダヤ系難民の両親のもとで育った米イェール大学哲学教授のジェイソン・スタンリー氏は、世界的なファシズムの傾向に対し、言語哲学や認識論の立場から警鐘を鳴らしてきた哲学者として世界的に知られています。

 そんなスタンリー氏は、米国大統領選挙後に行われたNHKのインタビューに応え、「トランプ氏は、『内部の敵を標的にし破壊しなければならない。さもなければ国家は滅びるだろう』と訴えることで、有権者の恐怖と不安をあおり、その解決者としてみずからを誇示している」と話しています。

 「内なる敵(enemies from within)」という言葉が指しているのは、アメリカ国内の民主党左派やリベラル系メディアのこと。前回の選挙戦までは、イラン、中国、ロシアなど外国を(こうした言葉で)「敵視」することが多かったトランプ氏が、今回はついに「敵は国内にいる」という論調を強めたことに、スタンリー氏がさらなる危機感を抱いていることが見て取れます。

 そんなスタンリー氏が、総合経済誌「週刊東洋経済」の11月30日号に「プラトンを読めばトランプ現象は完全に予測可能」と題する論考を寄せているので、参考までにその主張を小欄にも残しておきたいと思います。

 民主主義国では(もちろん)誰もが選挙に出馬できるが、そこには政府組織を率いるのに完全に不適格な人物も含まれる。そして、そうした不適格性をはっきりと示す兆候の一つは「息を吐くように嘘をつく」姿勢で、その代表例が「国民の敵」とされるものに対し自身を「守り手」と位置付けるものだと、スタンリー氏はこの論考に記しています。

 プラトンは、普通の人々を「感情によって容易く支配される存在」、すなわち嘘のメッセージに感化されやすい存在と見なした。この議論は、彼の大衆政治理論の真の礎となっていると氏は話しています。

 民主政治の成功が必ずしも約束されていないことも、哲学者にとっては昔からの「常識」に過ぎない。ルソーが論じたように、民主政の危うさは不平等が定着し、目に余るようになったときに頂点に達するということです。

 (少し冗長な言い回しになりますが)社会と経済の深い格差はデマゴーグ(←煽動的民衆指導者)が人々の怒りを食い物にする条件を生み出し、民主政がプラトンの述べた転落へと最終的に進む条件となるとのこと。民主政には「幅広い平等が必要」だという結論にルソーが至ったのもこのためだと氏は説明しています。

 そして、現在の米国にはまさしく、健全で安定した民主政を可能とする(そのような)物理的な条件が欠けている。それどころか米国は、富の圧倒的格差が国の際立った特徴になってしまっているというのが氏の指摘するところ。大衆政治理論の2300年の歴史が示しているのは、このような条件下では民主政は持続不能という事実であり、したがって今回の選挙結果に驚きはないということです。

 だとしたら、なぜもっと早くにこうならなかったのか。その大きな理由は、「甚だしく分断を煽る暴力的な政治手法」には手を出さないという暗黙の了解が、これまでの政治家の間に存在していたからだと氏は話しています。

 振り返れば、2008年の大統領選の折、民主党のオバマと戦った共和党候補のマケインが(自身の支持者の一人が「オバマは外国生まれのアラブ人だ」と発言した際)「それは違う」とたしなめたのは有名な話。その後マケインは選挙には敗れたが、高潔な政治家として人々に記憶されたということです。

 そう、確かにこれまでの米国の政治家達は、もっと微妙な形で人種差別や同性愛嫌悪に訴えることが多かった。そして結局のところ、それが選挙に勝つ有効な戦略ともなっていたと氏は言います。ただ、(先述の理由から)差別をあからさまに訴えることは(それはそれで)巧妙に避けられてきた。そうしたことは、わかる人だけにはわかる「犬笛」などを通じて行われてきたということです。

 ところが、深い格差の下では、暗号化された政治の効力は露骨な政治に劣化する。トランプが2016年以降に行ってきたのは、古い不文律を投げ捨てて移民に「害虫」のレッテルを貼り、対抗勢力を「内なる敵」と呼ぶことだと氏は指摘しています。

 「われわれ対やつら」の露骨な政治手法が極めて効果的なことは、哲学者には以前から知られてきた。要するに(2500近く前に著された)プラトンの大衆政治理論は、現代のトランプ現象を正しく分析できているという事で、悲しいかな、それは次に起こることにも、はっきりとした予言を与えているとスタンリー氏はこの論考の最後に綴っています。

 プラトンによれば、このような政治手法に訴える人物は、最終的には「暴君」となって国や人々を支配する由。選挙期間中と1期目のトランプの言動を踏まえれば、この点でもプラトンの正しさが証明されるだろうと話す氏の指摘を、私も強い懸念とともに読んだところです。