MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2631 「地方創生」の欺瞞

2024年09月03日 | 社会・経済

 民間の有識者グループである「人口戦略会議」は4月24日、日本全体の4割にあたる744自治体で2050年までに20代から30代の女性が半減、人口減少によって「最終的には消滅する可能性がある」とする分析を発表しました。また、同会議は東京都内の17を含めた25自治体を、あらゆるものを吸い込むブラックホールになぞらえて「ブラックホール型自治体」と名指ししています。

 今回、不名誉な指名を受けたのは、大都市を中心に出生率が低く、人口維持をほかの地域からの流入(社会増)に依存している自治体です。東京都内では、豊島区のほか、世田谷区や目黒区など主要な16区が名を連ねており、名前を連ねた各自治体の首長たちは、それぞれ「謂れのない悪名」とかなりご立腹との話も聞きます。

 こうした都会の「ブラックホール」に吸い込まれていく(お年頃の)女性が、子供を産まないために日本の少子化は進んでいく…というのが人口戦略会議の主張するところ。なので、①地方経済の活性化、②都会の環境の向上、などの「地方創生」にもっと予算を投入し、出生率を上げなければ日本の国自体が消滅しかねないということのようです。

 さて、同会議のこうしたシンプルな論理に「なるほどな」と頷く声も上がっているようですが、一方で、人口減少の責任を自治体(の努力不足)に押し付けるのも少々乱暴な話。ましてや、データだけで自治体を判定し、「消滅可能性自治体」と決めつけ脅しをかけるようなやりかたに、「大人げなさ」のようなものを感じるのは私だけではないでしょう。

 日本で人口減少が進むのは、本当に合計特殊出生率の低い都会の自治体のやり方がまずいせいなのか。6月14日のビジネス情報サイト「現代ビジネス」に『日本の少子化は「根拠なき対策」のせいだった…!「東京ブラックホール論」の欺瞞を暴く』と題する記事が掲載されていたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。

 厚生労働省の発表によれば、昨年の合計特殊出生率は1.20となり8年連続で低下。都道府県ごとでは、全国1位だった沖縄県の1.60に対し全国最下位の東京都は0.99と、(昨今話題を呼んだ)「東京ブラックホール論」を裏付ける形となったと、記事はその冒頭に記しています。

 東京を「人口のブラックホール」と呼び少子化の戦犯扱いする世論を仕掛けたのは、民間有識者らで構成される有志団体の「人口戦略会議」という組織。彼らが名指しした「ブラックホール型自治体」とは、合計特殊出生率の低い自治体を皮肉交じりにリストアップしたもので、豊島区や世田谷区、目黒区など東京都の16区をはじめ25の自治が名を連ねたということです。

 しかし、合計特殊出生率に基づくこの指摘は、実は人々の間に大きな誤解を生んでいると、記事はここで指摘しています。たとえば、今回の人口戦略会議で「ブラックホール型自治体」とか2014年の「増田レポート」によって「消滅可能性都市」と名指しされた東京都の各区を(合計特殊出生率ではなく)有配偶者出生率で見た場合、2020年のデータではほとんどの区で全国平均を上回っていると記事はしています。

 「有配偶出生率」というのは、(出産可能な)15歳から49歳の女性が生んだ子どもの総数を15歳から49歳の夫のいる女性の総数で割るなどして算出されたもの。また、15歳から49歳の女性の総数を「分母」に、その年齢階層の女性が生んだ子どもの数を「分子」とした場合の出生率をみても、東京の千代田区・港区・中央区の出生率は、1位の沖縄県に次ぐ2位に位置しているということです。

 さらに、2010年と2020年を比較して各都道府県でどのくらい出生数が「減少」したかを追いかけると、47都道府県の中で東京都の減少率がもっとも低いことがわかる。2010年を100として2020年の出生数を都道府県で単純比較しても、東京都が最も多いということです。

 そうした状況にもかかわらず、(それでも)合計特殊出生率が東京都でもっとも低く出るのは、進学や就職などで出産を予定していない女性が(地方から流入することで)増え続けているからだと記事は説明しています。

 例えば、東京に出産を予定している女性が50人、同様に地方に50人いて、出生する子どもがそれぞれ50人いたとしても、東京に出産を予定しない女性25人が移り住んで75人になれば、合計特殊出生率は東京が0.4、地方で0.67と東京は低くなるということです。

 それではなぜ、こうしたエビデンスを軽視した「東京ブラックホール論」という言説が広く拡散されてしまったのか。

 人口戦略会議は民間有識者らで構成される有志団体だが、議長には日本製鉄名誉会長の三村明夫氏が就き、副議長は10年前の2014年に「消滅可能性自治体」という言葉を世に広めた日本郵政社長の増田寛也氏。さらに岸田内閣の官房参与で元厚労官僚の山崎史郎氏や日本銀行元総裁の白川方明氏が名を連ねているとすれば、マスコミが飛びつくのも理解できると記事はしています。

 一方、「地方創生」は別名「ローカル・アベノミクス」とも呼ばれ、2014年に安倍晋三内閣で始まった。東京一極集中の是正を目的に地方の活性化が目的だったが、いつの間にか少子化対策と一体として語られるようになったということです。

 今回の「東京ブラックホール論」は、これに再び火をつけた。そこで指摘したいのは、経済政策から始まった「地方創生」自体が悪いということではない。また、東京一極集中に問題がないということでもない。ただ、少子化対策と地方創生を一体として考えるにはもともと「根拠に乏しい」というのが、記事の問題視するところです。

 記事によれば、「人口戦略会議」の三村昭夫議長は5月15日に宮崎市で行われた講演で、「雇用が集中しているので人口が集中する構造。制度的に分散してもらい、出生率の低い所から高い所に人が移れば出生数が増える」と話したということです。

 しかし、(ここまで見てきたように)地方に就職口や大学を増やして活性化することが少子化の改善に直結するかと言えば、その根拠は見当たらない。少子化対策として政策に組み込むのであれば、もっとエビデンスを精査する必要があるのではないかと記事はこの論考の最後に記しています。

 6月7日、合計特殊出生率が1.20となったことについて問われた武見敬三厚労相は、「人口が急激に減少する30年代に入るまでの6年間がラストチャンスだ」と述べた由。果たして日本の少子化対策は(そこに)間に合うだろうかと結ばれた記事の指摘を、私も重く受け止めたところです。


#2630 「失われた30年」をおさらいする

2024年09月02日 | 社会・経済

 国税庁の『民間給与実態統計調査』によると、日本の民間企業で働く人の2021年の平均給与は443万3000円とのこと。実はこの金額は、OECDにおける平均給与5万1607ドル(約722万円)のおおよそ6割に過ぎません。折からの円安の影響もあるのでしょうが、それにしてもなぜこれほどまでに日本人の給料は世界と差がついてしまったのでしょうか。

 因みに、米国のカリフォルニア州では今年の4月、ファストフード店の従業員の最低賃金が州法によって時給16ドルから時給20ドル(日本円で3100円余り)に引き上げられた由。カリフォルニアのマックで週40時間勤務した場合の月収は、日本の有名大学の新卒者が一流メガバンクから受け取る初任給の1.5倍以上になる計算です。

 先進国の経済が3~5倍の成長を見たバブル経済崩壊以降の30年間。「失われた」と称されるこの期間に、どうして日本だけが取り残されてしまったのか。5月1日の経済情報サイト「現代ビジネス」に、ウズベキスタン駐箚特命全権大使などを歴任した元外交官の河東哲夫(かわとう・あきお)氏が「日本経済、本当は世界何位?―インフレで膨らんだ世界と、デフレで縮んだ日本」と題する一文を寄せていたので、参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。

 バブル経済の崩壊以降、海外先進諸国に比べ著しく成長力を欠いてきた日本経済に一体何があったのか…河東氏はこの論考で、日本経済の「失われた30年」の動きを振り返っています。

 1985年のプラザ合意後の円高で輸出が止まり、1991年のバブル崩壊で内需も大きく失った日本経済。以後、日本の経済はほぼ万年危機で、金利は低水準に貼り付いたまま。短期プライムレートは1990年に8%だったのが、1993年には2.4%、95年には2.0%、リーマン危機直前には1.8%にまで落ちていたと、氏は当時の状況を説明しています。

 そうした中、2008年9月リーマン危機で、米欧の中銀は協調して敏速な利下げを敢行。米連銀は政策金利を2%から1.5%に下げ、12月16日には実質ゼロの水準にまで引き下げた。一方、日本の短期プライムレートは2009年1月になっても1,475%のまま。これで円高になり、2008年には1ドル100円ほどだったのが2013年には80円を割って、日本企業は海外への流出度を大きく高めたと氏は言います。

 リーマン危機で日本企業への海外からの注文はぴたりと止まり、日本のGDPは円ベースで約8.3%(2007年から2009年にかけて)縮小。製造業の海外への流出で、GDPは更に縮んだということです。

 2013年、安倍新政権の下で始まった「アベノミクス」の下、日銀は1年分のGDPに近い国債を買い込んだ。この(世界的に見ても異例の)「異次元緩和」で金利はついにマイナス水準となり、(当時にしてみれば)円は「下がって」、1ドル110円と120円の間を推移するようになったと氏はしています。

 そして、このリーマンショック直後の数年で、欧米と日本は国内の価格体系は文字通り「異次元」なものに変化していく。欧米ではインフレが続き、賃金もそれに追いついていったが、日本ではモノの価格も賃金も変わらなかった。2008年から2022年にかけて、米国での消費者物価指数の上昇は合計で47%に達し名目GDPもほぼ倍増したが、その半分はインフレに支えられた水ぶくれだったということです。

 簡単に言ってしまえば、欧米はインフレを容認することで経済を維持し、日本はデフレによって生活の安定を維持したということ。一方、日本では企業は死んでも賃金を上げず、国民はモノの値上げを死んでも認めなかったので、結果、欧米と日本の価格水準はどんどん乖離していったというのが氏の見解です。

 そして2022年の2月、ウクライナ開戦で原油価格が急騰。インフレ上昇の引き金を引いたため、米連銀は利上げを開始する。日銀はこれに追随したくとも、利上げは(中小企業の倒産を増やすので)できる状況になかった。投機家はそこをついて、円売り、ドル買いで円安を助長したと氏は指摘しています。

 結果、円は下がり、日本のGDP順位もドル建てでどんどんと落ちていった。一方、これに反比例するかのように外国人観光客の数は増えていく。日本の都市は清潔で便利で店での対応はきちんとしている。人々は(一応)幸せで自由に見え、異民族の出稼ぎと高物価と格差の増大に悩まされる米国、欧州の旅行者の眼には、今の日本は低物価のエルドラドに映っているということです。

 しかし、だからと言って「このままでいいわけではない」というのが現状に対する氏の認識です。やっと始まった賃上げ⇒内需拡大⇒投資増大⇒売上増加⇒賃上げの好循環をどうやって維持していくか。さらに、輸入を賄えるだけの輸出を維持するため、競争力を磨かなければならないと氏は話しています。

 IT、AI関係の輸入が増えるのは仕方ないが、それを使って日本国内で大きな付加価値を生み出し、できれば輸出にも回す力もつけたいところ。加えて、現状に甘んずることなく、「何くそ」という気持ちで世界に討って出る人材を増やすことも大切だということです。

 経済活動、いわゆる資本主義がもたらす環境問題や格差拡大(への対応)は、本来、成長を止めることによってではなく成長と並行して取り組んでいくべきもの。失われた30年に疲れ、「成長なんてもういらない」という人たちは(もう)そのままでいいので、(少なくとも)前に出ようとする人たちを止めないで欲しいと話す河東氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2629 離婚大国ニッポン

2024年08月31日 | 社会・経済

 7月10日、経団連が自民党本部を訪れ、選択的夫婦別姓制度の早期導入を求める政策提言書を渡海紀三朗政調会長に手渡したと、各種メディアがそれぞれ報じています。

 日本を代表する経営者団体である経団連が、こうした問題で政策提言を発表するのは初めとのこと。十倉雅和会長が、「オープンにスピーディーに議論を」と念押ししたことを踏まえ、自民党幹部は同日、この問題について議論する党のワーキングチーム(WT)を近く開催する意向を示したとされています。

 「国会で論ぜられ判断されるべき事柄にほかならない」とした、2015年の最高裁判決からもうすぐ10年。制度改正に向けた国会の議論も、紆余曲折を経てようやく動き出した観があります。

 肝心の民意についていえば、7月5日から3日間にわたって行われたNHKの世論調査によれば、「選択的夫婦別姓」の導入について「賛成」とする意見が59%と約6割を占め、一方「反対」が24%、「わからない・無回答」が17%と、日本人の結婚観が大きく変わりつつある状況が見て取れます。

 時代が変わったと言えばそれまでのことですが、近年では結婚した3組のうち1組が離婚するという統計もあるそうなので、「そんなことでいちいち苗字なんか変えていられない」というのもわからないではありません。

 そんなことを考えていた折、(少し前の記事になりますが)2021年12月17日のYahoo newsに結婚問題に詳しいコラムニストの荒川和久氏が「『3組に1組どころじゃない』離婚大国・日本が、世界一離婚しない国に変わった理由」と題する一文を寄せているので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。

 近年の日本では「3組に1組は離婚する」と言われている。その根拠は、その年の離婚数を婚姻数で割った「特殊離婚率」が、1998年以来20年以上一度も30%を下回っていないことに基づいていると、荒川氏はこの論考で説明しています。

 しかし、識者の間には、この「3組に1組は離婚する」説を真っ向から否定する人もいるとのこと。確かに、この数字はその1年間に結婚した夫婦が離婚に至った割合を示すものではないので、正確に言えば誤解を招きやすいデータと言えるかもしれません。

 さて、結論から言えば、「3組に1組離婚」はやはり(概ね)正しいと考えのが正しい。離婚の可能性を数値化するのならば、この特殊離婚率を見る方がよいと氏はこの論考に綴っています。

 特殊離婚率は、毎年30%が離婚するという意味でとらえるよりも、(ある程度長期的なスパンで)結婚に対する離婚の比率を見るため数字と捉えるものだというのが、この論考における荒川氏の認識です。

 例えば、1990年から2019年までの30年間の婚姻数累計は、2150万組。一方の離婚数累計は693万組なので、30年間の累計特殊離婚率は約32%になると氏はしています。

 無論、この離婚数には1990年以前に結婚した夫婦も含まれているが、30年間の累計としてみればこれは誤差の範囲。つまり、この30年間で結婚した夫婦のうちの32%(まさに「3組に1組」)が離婚をしていることになるということです。

 実はこのニッポン、歴史的に見てももともと「離婚大国」だったと氏はここで指摘しています。日本の離婚が増えたのは、近年になってからだと思われがち。昔の夫婦は、「添い遂げるもの」と考えているかもしれない。しかし、それは大きな勘違いだというのが氏の感覚です。

 明治以降の長期の離婚率の推移を調べると、江戸時代から明治の初期にかけての日本の特殊離婚率は、4割近くで現代よりも多い。ちなみに、人口1000人対離婚率でみても、1883年時点で3.38(2019年実績1.69のほぼ倍)もあったと氏は説明しています。

 人口1000人対離婚率は、江戸時代では4.80を記録した村もあり、2019年での世界一高い離婚率がチリの3.22なので、当時の日本の離婚率は世界一レベルに達していたはず。余談だが、土佐藩には「7回離婚することは許さない」という禁止令などもあり、「6回以上はダメ」というお触れを出さなければならないということは、実際にはそれ以上の離婚が(普通に)あったという証拠だということです。

 氏によれば、そんな世界トップレベルの離婚を減少させたのが、1899年の明治民法であるとのこと。これにより結婚が「家制度」「家父長制度」に取り込まれることとなったが、もっとも大きな変更は、妻の財産権の剥奪だったと氏は話しています。

 明治民法以前の庶民の夫婦は、ほとんどの夫婦が共稼ぎ(「銘々稼ぎ」と言う)で、夫婦別財でもあり、夫といえども妻の財産である着物などを勝手に売ることはできなかったと氏はしています。

 落語などにあるように、博打にハマった亭主が妻の着物を勝手に売るなど許されなかった。離婚が多かったのも、そうした中で夫婦それぞれが経済的自立をしていたためだというのが氏の認識です。

 しかし、明治民法の交付によって、妻の財産権は家長である夫の所有に属するものとされた。経済的自立と自由を奪われた妻にとって、離婚は生きる術を失うような位置づけとなったということです。

 実際、日本の離婚率は、明治民法以降に10%台に激減。それが1998年に30%オーバーとなるまで、低離婚率の期間が続いたと氏は指摘しています。

 つまり、離婚が少なったのは、明治民法以降せいぜい100年にすぎないということ。明治政府がそのような政策をとった背景には、富国強兵をにらんだ結婚保護政策の見直しがあり、まさにここから日本の皆婚時代と多産化が始まったということです。

 さて、明治維新以降「家」や「姓」というものに縛られてきた日本の「家族」ですが、もともとの日本人の庶民における夫婦のあり方や結婚の原風景は、現在とはずいぶん違う(もっと大らかな)ものだったということでしょうか。

 翻って、もしも夫婦が別々の姓を名乗ることができる時代が訪れた時、人々はもっと気軽に結婚し、緩やかなつながりの中でお互いを慈しむことができるようになるのか。(少なくとも)江戸時代の結婚のカタチの中には、現代の未婚化、晩婚化、離婚増などの現象に通じるものが数多く発見できると話すこの論考における荒川氏の指摘を、(夫婦別姓の話と合わせて)私も興味深く読んだところです。


#2628 ボール遊びができない公園が増えている…という話

2024年08月29日 | 社会・経済

 酷暑が続いた今年の夏も、そろそろ終盤戦。「行く夏」の風物詩といえば花火という人も多いと思いますが、例えば近所の空き地や公園で子供と一緒に手持ち花火を楽しもうと思っても、(自宅の敷地以外での)花火自体を禁止している地域も多いようです。

 その背景には、各地で(地域住民との)騒音やゴミなどのトラブルがある由。現在では都市部を中心に、多くの自治体が公園での花火を禁止したり夜間の花火自体を禁止する条例を設けるなど、対策をとっていると聞きます。

 例えば、関東有数の海水浴場を抱える鎌倉市では、2004年から「鎌倉市深夜花火の防止に関する条例」を施行し、公園や海岸、広場、道路などで午後10時から翌日の午前6時まで花火を禁止しているとのこと。東京都千代田区や港区でも、(住民の要請により)道路はもとより公園や児童遊園での花火は原則として禁止されているということです。

 禁止事項は花火ばかりではありません。我が家(都内)の近くの児童公園にも、「ボール遊び禁止」の立て札が入口の一番目立つところに掲げられています。最初は「ゴルフのスイング禁止」だったものが、そのうち「キャッチボール禁止」になり、さらに最近ではボールを使った遊び全般が禁止されたところです。

 マンション暮らしをしていては、近所で家族との花火も楽しめない。夏休み中の子供と(やわらかいボールを使った)サッカーの真似事すらできないのでは「児童公園」の名が泣くのでは…とも思いますが、やはり地域のお年寄りやご近所に暮らす人にとってはイライラや心配事の種になるのでしょう。

 しかし、遊びたい盛りの子供にとっては、そんな公園も貴重な場所。誰もが利用できる公共空間として上手に住み分けることができないものかと思っていたところ、8月28日のビジネス情報サイト「PRESIDENT ONLINE」にライターの御田寺 圭氏が『昔の人が寛容だったから許されていたのではない…"ボール遊び禁止の公園"が増えてしまった本当の理由』と題する一文を寄せていたので、その指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 いま全国各地で「ボール遊び禁止の公園」「集まってゲーム禁止の公園」が次々と誕生している。その背景には、地域社会そのものの高齢化があると御田寺氏はその冒頭に記しています。

 おそらく(我々が懐かしむ)昭和の昔にも、子どもたちの遊びや集まりに対して「やかましい!」と目くじらを立てる暇な老人は一定数いたはずだと氏は言います。しかし、それが(大きなうねりとして)公園や公共スペースの「老人優位」に繋がらなかったのは、昔の人が「寛大だったから」でもなんでもない。かつては全国どこを見ても、子どもの数が多かったからだというのが氏の見解です。

 そんなことをいちいち言ってもしょうがない。年寄りがいくら文句を言おうが、子どもたち(やその親たち)の数の圧力によって「うるせえ!」で跳ね返されていたのが現実だと氏は話しています。しかし、その街で暮らしている人が全体的にお年寄りに寄っていくと、日中も仕事に出たり外出したりせず、家で過ごしている時間が長い住民が多くなる。そうなると、これまでは気にすることもなかった子どもたちの声が彼らの生活にも届くようになり、(時間を持て余す)彼らは学校や行政に対してクレームを入れたりするようになるということです。

 現在では、世の中のどこを見わたしても子どもの絶対数が少なすぎて、公共空間のイニシアティブは高齢者側に握られつつある。子どもたちや子育て世代がどんどん息苦しくなってしまう状況は、これからも各地で増えていくことになるだろうと氏は話しています。

 こうした中、高齢者優位に塗り替えられてく地域社会のうねりに待ったをかけるには「数の暴力」を示して巻き返すほかないのだが、少子化により高齢者優位となった地域社会ではそうもいかない。コミュニティ自体が(子どもではなく)高齢者に都合良く運営されることで子作り意欲を益々低下させてしまい、さらに高齢者優位の意思決定がなされていく――という悪循環を止められなくなるということです。

 そして…地域社会をじわじわと閉塞させるこの悪循環の構造は、(実は)そっくりそのまま現代日本の政治システムそのものに当てはまるというのが、御田寺氏がこの論考で指摘するところです。

 いわゆる「シルバー民主主義」をひっくり返すには、若者を一カ所に集中させて「数の論理」で押し返す(≒若者代表の政治家を国会に送り込む)必要がある。しかし、もはや若者は一カ所に集まったところでそこまで数がおらず、特に小選挙区制になってしまったことでその傾向がさらに顕著になったということです。

 若者は現行の政治制度・選挙制度では、高齢者有利の意思決定に対してオフィシャルに風穴を開けることができなくなってしまっている。地域の公園の使い方と同様、とにかく数を集めて局所的に「ルール無視」ができるような戦略的互助関係のあるグループをつくって生き延びていくしかないだろうと氏は言います。

 実際のところ、起業家など若くて優秀なグループの若者たちと話をすると、「もうこの国が高齢者のために政治や税制をつくっているのはわかっているしそれをひっくり返すのは正攻法では無理な話。いかに国や行政から絞られず、その搾取の網目を潜り抜けられるかを、毎日仲間と知恵を出し合っている」というニュアンスの話ばかりを聞かされる。これは、見れば見るほど「日本の未来図」であって、これほどまでに、私たちの社会が直面する景色を示しているものは少ないということです。

 襲い来る「未来」の波から逃れられる場所はどこにあるのか?自分や大切な人を「未来」から守るためにはどう行動すればよいのか?…何も考えずに生きていくと早晩呑まれてしまう、そういうシビアな現実を私たちは日々生きているとこの論考を結ぶ御田寺氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2627 就活生は会社に何を期待しているのか?

2024年08月27日 | 社会・経済

 夏休みも終わりかけた8月下旬。例年のように、私が部屋を構えているオフィスでも、インターンとして職場を訪れる大学生たちの姿をちらほらと見かけるようになりました。

 せっかくの機会ということで、人事担当者にお願いして、彼らの何人かから直接話を聞く時間を作ってもらうことに成功。雑談形式で、就活活動を始めてみての感想など、あれこれと伺うことができました。

 (具体的な内容はともかくとして)そこで強く感じたのは、彼らが「就職したら、会社や組織が自分に何を与えてくれるのか」という部分に大きな関心を持っているということ。少子化に伴う企業の人手不足感を背景に、売り手市場となった昨今の就職環境の下、企業は若者に「選ばれている」んだなあ…と改めて感じた次第です。

 就活生とはいえ、そこはそれ20歳そこそこの大学生のこと。一番の「条件」は残業の量や休暇の取りやすさなど…などといった話を実際に聞かされたりすると、(これは愚痴でもなんでもなく)就職で苦労した昭和育ちの我が身としては、正直「仕事への向き合い方」が変わったのだなと感じるところです。

 さらに聞けば、近年では特に、スキルアップのための研修制度や資格取得制度の有無などに、結構な重きを置く就活生が増えているという話。「会社は学校じゃないんだがなあ…」と思うと同時に、誰かに「与えられること」に慣れきっている彼らの姿に、一抹の不安のようなものを感じたことも告白しなければなりません。

 ある意味物わかりが良く、スマートで合理的な彼らの感性に関し、総合ビジネス情報サイトの「現代ビジネス」が作家で精神科医の片田珠美氏の指摘を紹介していたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。(『意外と知らない、若者が「頑張るだけ無駄」と思い込んでいるワケ』2024.8.21)

 現在20代の若者、いわゆるZ世代には指示待ちタイプが多いとされるが、これは教育によるところが大きいのだろうと、片田氏はその冒頭で語っています。

 少子化の影響もあって親や教師から大切にされ、全てお膳立てしてくれる環境で育ってきた。傷つくことも転ぶことも防ぐべく、周囲の大人は危険物を極力取り除き、危いことは一切させないように配慮されてきた(はずだ)と氏は言います。

 なので、子どもが自発的に何かをやる機会はどうしても限られる。せっかく子どもが自分から「~したい」という意思表示をしても、大人に「危ないからダメ」と却下されることもあったろう。そして、こうした環境では必然的に受け身になりやすく、自主性も育ちにくいというのが氏の認識です。

 また、試験では、あらかじめ正解が決まっていて、それに沿った答えを答案用紙に書くほど点数が高くなる。教師からの評価も、指示されたことをきちんと実行するほうが上がると氏はしています。

 指示されていないのに、自分の頭で考えて余計なことをすると(逆に)教師からの評価が下がることさえある。当然、周囲の仕事の進捗状況を見ながら気を利かせて、必要であれば同僚を手伝うような柔軟性はなかなか身につかないということです。

 それに拍車をかけているように見えるのが、彼らが持つ高い「コスパ意識」だと氏は続けます。

 最近の若者は、コストパフォーマンスに敏感で、「コスパが悪いから」という理由で恋愛にも結婚にも消極的になっていると聞く。さらに最近では時間対効果を意味する「タイパ」なる言葉も登場し、自分がかけた時間に対してどれだけの見返りがあるかを重視する姿勢も際立っていると氏はしています。

 こうして「効率のよさ」を何よりも重視し、時間の浪費をできるだけなくそうとする若者たち。なので、彼らが同僚の仕事を手伝わないと聞いても、私(←片田氏)はあまり驚かない。むしろ、当然のように思われるというのが氏の見解です。

 さらに言えば、頑張っても報われないとか、頑張るだけ無駄とか思い込んでいる若者も少なくない。こうした思い込みの背景には日本経済の低迷もあるように見えると氏は言います。

 Z世代が生まれた1990年代後半以降、日本経済は停滞を続けた。(会社という組織の理不尽に耐えた「見返り」としての)終身雇用や年功序列などが次々と失われていく状況を目の当たりにして育った彼らが、「辛抱して頑張っても、理不尽に耐えても報われない」と思い込むようになったとしても何ら不思議ではないということです。

 このような経緯に加え、さらに勤務先への帰属意識が希薄になったことも大きく影響していると氏は続けます。

 昭和の時代は定年まで同じ会社で働くのが当たり前だったが、昨今は必ずしもそうではない。離職や転職に対して抵抗感をあまり覚えない人も増えたため、「どうせ定年までいるわけではないので、我慢して嫌な仕事を引き受ける必要はない」という認識が生まれやすい環境が整ったということです。

 (そこにはまた、)例え自分がここで無理して頑張ってたとしても、会社の倒産やリストラに直面する可能性がある。そうなれば「働き損」になりかねないが、そんなのは嫌だという心理が潜んでいるのではないかと氏は言います。

 名だたる大企業でさえ、早期退職を募集しているこの御時世。そういう現状を自らに重ねれば、誰だって不安になる。特に、先の長い若者たちが、自分が仕事で費やす時間にどれだけの見返りがあるのかをよりシビアに計算しようとするのは当然の反応だということです。

 そうした中、現在の職場に将来性がそれほどないと判断すれば、おそらく若者たちは早々に見切りをつけるだろうと、氏はこの記事の最後に断じています。

 在職中にスキルアップし、できれば資格も取得して、より有利な条件で転職したいというのが彼らの本音に違いない。そのためには時間を有効に使わなければならないので、他人の仕事を手伝うなんて論外なのだと話す片田氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2626 賃上げを知らない子供たち

2024年08月25日 | 社会・経済

 青山通り沿いに並んだカフェのテーブルに陣取り、街を行きかう若者の姿を(何気に)見ていて思うのは、彼ら彼女らのファッションが「ずいぶん地味になったなぁ」ということ。ユニクロやZARAなどの量販店に並んでいるような黒やグレーの上下、もしくはデニムにスニーカーといったカジュアルな装いからは、(大変失礼な言い方ですが)「お金がかかっていない」ことが十分にうかがえます。

 確かにいつの時代も、10代、20代の若い世代が(そんなに)お金を持っていないのは当然のこと。しかし、それでも以前ならば、(少なくとも彼氏彼女と青山通りを歩く時くらいは)背伸びをして精一杯のおしゃれをしようと張り切っていたような気がします。

 ファッションばかりの話ではありません。生活にお金をかけないことはもはや「当たり前」。化粧品や車、外食や旅行、遊び方に至るまで、コスパに合わないことを嫌う若い世代は、「無駄」な出費に極めて敏感です。

 住宅情報サイト「SUUMO」の調査では、20代の一人暮らしの家賃の平均は65,723円、家賃を除いた生活費平均額は合計で130,318円である由。食費の平均は月に45,345円で、うち外食費は23,650円。被服及び履物は11,651円で、交際費に至っては平均9,674円と1万円に満たない金額です。

 ここ1~2年、初任給はようやく上がり始めたものの、手取りは今でも20万円そこそこ。光熱水費、通信料など物価がどんどん上がる中で、身を守るすべは「節約」と「貯金」しかないことを、彼らはこの(失われた)四半世紀で身をもって体得してきたと言っても過言ではないでしょう。

 思えばバブル経済も華やかしき頃、DCブランドを身に纏って(やれクラブだやれディスコだと)夜な夜な繰り出し、週末には海外旅行やスキーに忙しかったのが(彼らの親世代に当たる)「アラ還」世代でした。トレンディドラマが一世を風靡した当時の暮らしを(身をもって)体験してきた彼らからすれば、現在の若者たちの生活感は「貧乏くさい」の一言で片づけられてしまうかもしれません。

 これからの日本を背負って立つ(堅実な生き方しか知らない)若者世代に、私たちが伝え残すべきことがあるのかないのか。あるとすればそれは一体何なのか。7月19日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」に『脱「失われた30年」』」と将来不安」と題する一文が掲載されていたので、参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。

 コラムによれば、筆者は、「日本経済がついに失われた30年から脱出する段階に入った」と見ている由。成長の原動力である設備投資はAIなどの次世代対応型を中心に増え始め、大企業中心に目立った賃上げもが行われるようになったというのがその理由です。

 このメガトレンドは現在も変わらない。しかし、にもかかわらず、日本人の感覚は次の成長段階へ一歩踏み出せずにいるように見えるというのが、この論考における筆者の見解です。

 1~3月期の実質GDP(国内総生産)は季節調整済み年率換算で前期比2.9%減となり、2023年度は1.0%の低成長にとどまった。GDPの過半を占める消費支出が一向に伸びず、民間最終消費支出は1~3月期がGDP全体と同様、年率2.9%の減少だったとのこと。筆者はここで、所得と消費との関係を示す消費関数の考え方として、「恒常所得仮説」なるものを紹介しています。

 それは、人々の消費は短期的な所得ではなく、長期的に期待できる所得(恒常所得)に反応するという考え方。そして、ここで注意すべきは、本格的な賃上げを経験したことのない世代が、いまの日本経済の最大の担い手となっているという現実だというのが筆者の指摘するところです。

 日本から「賃上げトレンド」がなくなった最初の世代が、現在の55歳前後の年齢層。それ以降、現在まで賃上げのない社会に巣立っていった年齢層を合計すると、(現在)働いて賃金を得ている世代のほぼ80%に達すると筆者は説明しています。

 ここには就職氷河期、非正規労働急増期を過ごした世代、さらには1990年代後半以降に生まれたいわゆるZ世代も含まれる。この世代は、単に所得が増えないだけではなく、(合計特殊出生率が1.20まで下がったことに象徴されるように)将来に強い不安感を抱いている(抱かざるを得ない)世代でもあるということです。

 さて、今年の春闘では、連合が集計する大企業中心の賃上げ率や厚生労働省の「毎月勤労統計調査」の所定内給与増加率のいずれもが、約30年ぶりの大きさとなった。(いよいよ)潮目は変わったと筆者は言います。だが、それでも人々の「心」には届いていない。そこには「将来不安」が重くのしかかっているというのが筆者の見解です。

 未来への漠然とした不安を抱えたままの現役世代。「給料は上がるもの」「将来はもっと良くなる」…そうした期待が持てなければ、例え若者であっても手元のお金を使う気にもなれないということでしょうか。

 まずは、年金、社会保障制度改革、その土台となる財政健全化、安定した少子高齢社会への道筋など、国民が安心できる長期ビジョンを提示することが政府の最重要課題のはず。目先の政争に時間を浪費するヒマはないとコラムを結ぶ筆者の指摘を、私もさもありなんと読んだところです。


#2625 少子化日本に最も必要な対策は?

2024年08月23日 | 社会・経済

 6月5日、厚生労働省は昨年(2023年)の合計特殊出生率が前年から0・06ポイント下がり、記録のある1947年以降の最低の1.20だったと発表しました。出生数についても前年比4万3482人減の72万7277人で過去最少を更新。都道府県別の出生率では東京都が0・99で過去最低となり、全都道府県で前年より低下したということです。

 政府が初の総合対策「エンゼルプラン」を策定したのは1994年のこと。政府が初めて少子化対策に乗り出してから30年目の節目を迎える今年に至るまで、投じられた関連予算は累計で66兆円を超えるとされています。

 しかし、その結果として、低下を続ける出生率の反転は(ほぼ全く)見通せていないのが現実です。改正子ども・子育て支援法などの成立により、岸田政権が掲げる「異次元の少子化対策」が実行段階に移る中、これまでと同じような「子育て支援」を続けていて、果たしてこれ以上の少子化を食い止めることができるのか。

 日本の少子化対策には何かが欠けているのではないか…そんなことを漠然と感じていた折、6月14日の経済情報サイト「PRESIDENT ONLINE」にノンフィクションライターの窪田順生(くぼた・まさき)氏が「今の日本に必要なのは「子育て支援」でなく「おひとりさま支援」だ…若者が子どもを欲しがらない本当の理由」と題する一文を寄せていたので、参考までにその主張の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 情報誌「BIGLOBE」が昨年2月に公表した「子育てに関するZ世代の意識調査」によれば、18歳から25歳までのZ世代の男女457人のうち45.7%が「将来、子どもがほしくない」と回答した由。そのうち「ほしくない理由」について「お金の問題」としたのは17.7%に過ぎず、その逆に「お金の問題以外」との回答が42.1%にも上ったと、窪田氏はこの論考に記しています。

 「お金の問題以外」として挙げられているのは、「育てる自信がないから」が52.3%と最多。以下、「子どもが好きではない、子どもが苦手だから」(45.9%)、「自由がなくなるから」(36%)、「これからの日本の将来に期待ができず、子どもがかわいそうだから」(25%)と続いているということです。

 一見するとバラバラの理由に見えるが、実はこれらの根っこには、日本の若い人たちが抱える「絶望」がすべて集約されていると氏はここで指摘しています。

 まず第一に、若い人たちは(1人で生きていくのもやっとの世の中で)日本や自分の未来に対してまったく希望が持てていない。なぜ子どもを育てる自信がないのかといえば、経済的にも精神的にも自分1人で生きていくのがやっとだから。生活に「余裕」がないので、とてもではないが他人の面倒など見切れないということです。

 仕事で疲弊する中で、さらに自分の時間と体力を奪うであろう子どもに苦手意識を抱くのは、生存本能のある人間の極めて自然な発想だ。「日本の将来に期待ができない」というのも根っこは同じで、そんな日本の未来に期待などできるわけがないと氏は言います。

 近年、ワーキングホリデーでアメリカやオーストラリアなど日本よりも賃金の高い国へ「出稼ぎ」へ行く若者が後をたたないのもその証左。そんな「希望なき国」の若者の中でも、さらに絶望が深いのが若い女性だというのがこの論考における氏の認識です。

 そこで、出産・子育てを(自分事として)主体的に考えざるを得ない女性の立場に立てば、パートやアルバイトという非正規の低賃金労働に甘んじる中で、劣悪な労働条件にへこたれず歯を食いしばって頑張って働いたところで、待ち構えているのはさらに過酷な未来だと氏は話しています。

 内閣府の調査によれば、老後に受け取るさまざまな公的年金・私的年金を合算した金額について、男性を100とした場合、女性の水準は52.6しかない。高齢女性の4人に1人は貧困状態にあることもわかっているということです。

 こんなにも女性がひとりで生きていくことが難しい国で、今後サバイバルしていかなければならない若い女性の気持ちになった時、「出産一時金」や「児童手当」がもらえると聞いて「子どもが欲しい」と思うだろうか。政府が子育て支援を充実したからといって、「子どもを育てたい」と思うだろうかと氏はここで問いかけています。

 自分1人でも満足に生きていけないこの日本で、さらに子どもを抱えて生きていくなど自殺行為のようなもの。まずは一人で生き抜いていく自信を持てないようでは、自分も子どもも不幸になるのが目に見えているということです。

 だから、本気で子どもを増やしたいと思うのなら、子育て世帯へのバラマキなどする前に、「女性1人でも生きていける社会」をつくらなくてはいけないと氏は話しています。

 人間は今に満足すると「今より幸せになりたい」と願う生き物だと氏は言います。女性が1人でも生きているようになれば、心にも余裕ができ、「誰かと一緒に生きていこう」と、結婚や出産を検討する女性も現れる。また、1人でも生きていける社会なら、離婚や死別でパートナーがいなくなっても、一人でもなんとか子どもを育てられるという「自信」も生まれるということです。

 「出産・育児が罰ゲーム」になってしまったのは、日本政府が「産めよ、殖やせよ」という明治の呪いに縛られて、「家族」だけを過剰に優遇してきたからだと、氏はこの論考の最後で厳しく批判しています。

 家族を作ることに自信が持てずにいる若者たちと、そのひとりひとりに目を向けることのない大人たち。こぼれ落ちそうになっている声なき声に耳を傾けないままでは、いつまでたっても次の時代を担う人々は育っていかないことでしょう。

 「個人」を大切にしない社会では「家族」が増えるわけがない。そうした現実に、そろそろ政府は気づくべきだとこの論考を結ぶ窪田氏の指摘を、私も重く受け止めたところです。


#2622 膨らむ行政コストを誰が負担するのか

2024年08月17日 | 社会・経済

 高齢化の進行により65歳以上の高齢者の割合が「人口の21%」を超えた社会を「超高齢社会」と呼ぶのだそうです。人口の21%と言えば、高齢化社会の基準となる高齢化率7%を3倍にまで膨らませた数字。実は、日本の高齢化率はおよそ15年前の2010年に既に23%を超えており、とっくの昔に超高齢社会の仲間入りを果たしています。

 2020年に実施された直近の国政調査によれば、日本の総人口は約1億2,571万人のうち65歳以上の高齢者は3,619万人で、高齢化率は実に28.8%。さらに、うち1849万人は75歳以上の後期高齢者で、その数は65~74歳人口(1,747万人)を100万人以上も上回っています。

 長寿社会を悪く言うつもりはありませんが、この先の10年で彼らの多くが85歳以上となることを考えると、一体この日本がどういった社会になるのか想像もつきません。

 人類が初めて経験する超々高齢社会を私たちはどのように乗り切ればよいのか。1.5人の現役世代で1人高齢者を支えなければならない時代への対応を、世界が注目しているといっても過言ではないでしょう。

 そうした問題意識の下、「週刊プレイボーイ」誌(5月20日発売号)に作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が「超高齢社会で際限なく増える行政コストは誰が負担するのか?」と題する一文を掲載していたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 人類史上未曾有の超高齢社会を迎えた日本では、頼れる身寄りがいない一人暮らしの高齢者が急増している。政府はこうした状況を踏まえ、病院や施設に入る際の保証人や手続き、認知症患者の資産管理から葬儀や遺品整理に至るまで、高齢者個人を自治体が継続的に支援する制度を検討していると氏はこの論考に綴っています。(「身寄りなき老後 国が支援制度」「独居支援待ったなし」朝日新聞2024.5.7)

 厚労省の構想では、市町村や社会福祉協議会(社協)などの相談窓口に「コーディネーター」を配置し、法律相談や就活支援、財産管理、死後の残置物処分などを委託できる民間業者とつなぐ由。この場合、各種契約手続きは行政で支援するものの、業者との契約費用は相談者が負担することになるということです。

 氏によれば、もうひとつの事業は、市町村の委託・補助を受けた社協などが「介護保険などの手続き代行から金銭管理、緊急連絡先としての受託、死後対応などをパッケージで提供」するものとのこと。「国による補助で少額でも利用できるようにする」ということなので、そうなると当然、この「補助」は公費から支出されることになると氏は説明しています。

 もとより、現在でも自治体の負担は大きい。4月に公表された国の調査では、「銀行に同行して振込を支援(連携先との協働も含む)」は全体の20.3%、「救急車に同乗」は18.3%、「入院手続きを代行」は20.1%、「転居時のごみの処分」は28.4%が対応していると回答しているということです。

 厚労省のプランは、(これらに加え)さらに多くの高齢者支援業務を自治体に課そうというもの。実際、(調査報告書によれば)「役所や病院に提出する書類を自力で作ること自体が難しい高齢者」が、現在でも(施設入居者を除き)在宅だけで550万人いると推計されていると氏は話しています。

 また、厚労省によれば、2040年に認知症者が584万人に増え、前段階の軽度認知障害を加えると、65歳以上のおよそ3人に1人がなんらかの認知的な障害を抱えると推計されているということです。

 さて、岸田政権の「子育て支援金」が、現役世代が負担する社会保険料を財源にしていると批判されているが、奇妙なことに野党やメディアは代わりの財源については口をつぐんでいる。こうした中、原理的に考えれば超高齢社会の再分配は、①全員が負担する消費税の増税か、②マイナンバーで収入と資産を把握したうえで、高齢者世代のなかで富裕層から貧困層に分配する…の二つの方法しかないと氏は指摘しています。

 しかし、これまで消費税に頑強に反対し、マイナンバーを「監視社会の道具」として目の敵にしてきた人たちは、いまさら(こうした)「正論」を口にすることができないでいるというのがこの問題に対する氏の認識です。

 巷にあふれる高齢者に人間的な生活を送ってもらうためのお金や手間をどうするのか。「子育て支援金」と同じように、またもや現役世代に押し付けようというのか。こうして、自分たちの負担だけが増えていくと(合理的に)予想する若者の絶望は、ますます深まるばかりだと話す橘氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2621 「自己責任論」は都合のいい責任転嫁

2024年08月15日 | 社会・経済

 厚生労働省の発表によれば、今年4月の生活保護の申請件数は全国で2万796件。前年同月と比べ1163件、率にして5.9%増加したということです。そのうち、4月に新たに生活保護の受給を始めたのは1万8833世帯で、前年に比べて982世帯、率にして5.5%増えている由。結果、生活保護を受給している世帯は全国で164万7853世帯に及ぶとされています。

 報道によれば、生活保護の申請件数は直近10年の同じ月で見ると、コロナ禍の令和2年に続いて2番目に多くなっているとのこと。こうした状況に厚生労働省は、「生活に困っている人はためらわずに自治体の窓口に相談してほしい」と話しているということです。

 さて、この報道を耳にして、先日テレビで「若い世代の生活保護申請が増えている」旨のニュースを見ていた(昭和一桁生まれの)私の母親が、「最近の若い人たちは努力が足りない。仕事もせずに引きこもったりするのは、苦労を経験していないからだ」というような話をしていたのを思い出しました。

 自分たちの若い頃は、生きていくので精いっぱいだった。でも、頑張ったから今がある。五体満足な「いい若いもん」が、生活保護なんかをもらって恥ずかしくないのか…という趣旨のようでした。

 生活保護を受けている人は「頑張っていない人」…というのも随分極端な意見ですが、それ自体、戦前の軍国教育を受け、戦後の高度成長をがむしゃらに引っ張ってきた彼女たちの世代の感覚なのかもしれません。

 そもそも、物事が上手くいかないのは(その人が)頑張っていないからなのか。さらに言えば、人は生きていくうえで頑張らなければいけない生き物なのか。そんなことを漠然と感じていた折、3月20日の経済情報サイト「東洋経済ONLINE」に作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏が「自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ」と題する一文を寄せているのを見かけたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 「責任」という言葉は英語でresponsibilityと訳され、古代ローマにおいては法廷で訴えられた人物が、自分の行為について説明したり弁明したりすることを指す言葉だったと、佐藤氏はこの論考で説明しています。

 こうしたことから、近代の市民革命によって市民が自由を獲得した際、「自由」の行使には「責任」が伴うとされた。「自由なきところに責任なし。責任なきところに自由なし」と言われ、「自由」と「責任」は常に表裏の概念だったということです。

 つまり、責任とは、「自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」というのが、近代以降の「責任」の考え方。なので、欧米で責任(responsibility)と言えば、他者とのコミュニケーションが前提とされるというのが氏の認識です。

 説明義務が生じるのは本人であることは自明のこと。なので、改めて「自己」をつけたりしなければならない状況自体が、すでに不自然でおかしなものだと氏は話しています。

 しかし、日本では、ある時期からこの不自然でおかしな「自己責任」がやたらと使われるようになっている。例えば「ワーキングプア」の問題。非正規雇用者の増大などに対ししきりに論じられたのが、この「自己責任」という言葉だということです。

 彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされた。あるいは、正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だという論調もあったと氏は振り返っています。

 さらに、その「自己責任」とともに頻繁に使われるようになったのが、「努力」という言葉。先ほどのワーキングプアも、結局彼らの「努力」が足りないために招いた結果なので、それは「自己責任」だという論理だったということです。

 こうして「自己責任」は、いつしか「自助努力」とパラレルで語られるようになっていった。いかにも新自由主義的な発想だと考えるが、ここには大きな問題のすり替えがあるというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 そもそも「責任」という概念は、「自由」という概念とはつながっていても、「努力の有無」とはまったく関係のない概念のはず。もちろん、「努力しなかった結果はしっかりと受け入れなければならない」という道義的な理屈は成り立つにしても、そこに他者への「責任」が生じるという理屈は、あまりにも飛躍があるというのが氏の見解です。

 努力は本人が自主的、主体的にするものであって、第三者が努力しろと強制する権利は本来どこにもないはず。努力しなければいけないという義務など存在しないのだから、当然そこに責任など生じるものではないということです。

 一方、「責任」が「自由」と表裏だとしたら、雇用者と被雇用者ではどちらの自由度がより高いと言えるのか? マルクスは、資本家は生産手段を持っていて、だからこそ労働者よりもはるかに有利で自由な立場に立っているとしている。つまり、自由と責任が表裏一体だとするならば、自由度の高い雇用者のほうがより責任が大きくなるのは当然の論理的帰結だと氏は指摘しています。

 そう考えるならば、正規雇用と非正規雇用の二極化によって起きるさまざまな出来事に対して、本来責任を持つべきは雇用者であり、資本家の側だという結論になるはず。非正規雇用者に向けられた「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならず、「責任」を追及されるべきはむしろ雇用者側にあるというのがこの論考における氏の結論です。

 流動性が高く、いつでも辞めさせることができる安い労働力を必要としていたのは、雇用者のほう。自分たちの都合で仕組みを変えておきながら、その責任を被雇用者に押し付けるというのは二重の意味で厚かましいと、氏は改めて指摘しています。

 こうして、(強いものによる)厚かましい論理が、あたかも正論のようにマスメディアに乗って流布されていった。この転倒した世の中で、「人生が上手くいかないのは自らの責任」と押し付けられた(弱い立場の)人々が、自ら心を折り、心を病んでしまっているケースも多いということです。

 ですが、世の中の構造やカラクリを解きほぐし、その欺瞞や嘘を知ることで、少しは心が軽くなるのではないかと、佐藤氏はこの論考の最後に綴っています。まず、努力は(そうした)誰かもわからない第三者のためにするようなものではないということ。そして、少なくとも自己責任論のようなめちゃくちゃなロジックに振り回される必要などないということがわかってもらえればと話すその指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2620 少子化対策としてまずすべきこと

2024年08月12日 | 社会・経済

 昨年の12月11日に政府の「こども未来戦略会議」(議長・岸田文雄首相)がまとめた「こども未来戦略」。岸田政権が鳴り物入りで進める「異次元の少子化対策」の目玉の一つとして、「3人以上の子どもを育てる家庭に対して大学の費用を無償化する」という施策が打ち出されています。

 勿論、子供2人の場合は蚊帳の外。人口減少を食い止めるには、合計特殊出生率を人口の維持が可能な2.07を達成する必要がある。そのためには、世の女性たちに(どうしても)「第3子」産んでもらう必要があるということなのでしょう。

 しかし、今のご時世、(政府が推奨するように)若い夫婦が正規雇用で働きながら3人の子供を大学まで育て上げるのがどれだけ大変なことかは想像に難くありません。それなりのパワーカップルであるとか、親がすぐ近所に住んでいるとか、環境にも相当恵まれなければ踏み切れない決断かもしれません。

 もはや戦前の大家族ではないのですから、子供の面倒を見てくれる人はそう簡単には見つかりません。いくらお上から「産めよ、増やせよ」と言われても、現実的には二の足を踏むカップルも多いことでしょう。

 そもそも、日本の少子化の原因は、結婚した夫婦が子供を3人以上産まなくなったからなのか?6月27日の総合情報サイト「Newsweek日本版」に、教育社会学者の舞田敏彦氏が「日本の夫婦が生む子どもの数は70年代以降減っていない」と題する一文を寄せていたので、参考までにその概要の一部を小欄に残しておきたいと思います。

 第3子を出産した家庭に祝い金を支給したり、児童手当を手厚くしている自治体が多い。ここで国が多子世帯の学生について大学の授業料を無償にする方針を示したのも、子どもを3人、4人と育てる家庭の負担を軽減しようという配慮からだと舞田氏はこの論考に綴っています。

 勿論その背景には、「今の夫婦は、子どもを1人、多くても2人までしか産まない」「少なく産んで大事に育てる考えが広まっている」という認識がある。実際、「子を1人育てるのに何千万円」という試算を聞かされ、第2子・3子の出産を控えようとする夫婦もいるだろう。こうしたことから、「少子化が進むのは夫婦が産む子どもの数が減っているためだ」といった意見もしばしば耳にするということです。

 しかし、実際のデータを当たってみると、そうとばかりも言えないと氏はこの論考で話しています。出生数は、第2次ベビーブームを過ぎた1970年代半ばから減少の一途で、2022年では77万人にまで減っている。そして、このうち第3子以降は13万人で、割合にすると17.4%とのこと。

 実はこの数字、これまでの他の時期と比べると、低いとは言えない。むしろ高いほうの部類だというのが舞田氏の指摘するところ。あえて言えば、氏が生まれた1970年代半ばの頃よりも、今の夫婦のほうが第3子以降を多く産んでいるということです。

 既婚女性ベースの出生率でみても、過去最低というわけではないと氏は続けます。30年ほど前の1990年では、20~40代の有配偶女性は1861万人。出生数は上表にあるように122万人なので、出産年齢の既婚女性100人あたりの出生数は6.56人。2022年の同じ数値は6.84人で、これよりも若干多いということです。

 過去との比較において、夫婦が産む子どもの数が減っているとは一概には言えない。むしろ近年では微増の傾向すらあるというのが氏の見解です。

 何故こうした状況が生まれているのか。それは若い世代の未婚化が急速に進んでいるから。未婚率の高まりにより、結婚している(できている)夫婦の割合は小さくなっているが、それは「選ばれし層」しか結婚できないという状況がもたらしているのではないかと氏は説明しています。

 データで見ると、6歳未満の子がいる世帯の年収中央値は、2007年では528万円だったのが2022年では692万円にまで増えている(総務省『就業構造基本調査』)とのこと。東京に限れば650万円から946万円と、15年間にかけて300万円近くも増えており、国民全体が貧しくなっているのとは裏腹に、子育て世帯の年収は大きく上がっているということです。

 今では、少ない年収では(出産につながる)結婚すらおぼつかない。「結婚」に対する階層的閉鎖性が強まっていると氏はしています。少子化対策に当たって、子育て世帯の負担の緩和が重要であるのは確かだろう。しかし、高いハードルを越えた「選ばれし層」だけを支援の対象にしていては、その効果にも限界があるというのが氏の指摘するところです。

 全国民から徴収する(話題の)「少子化支援金」にしても、この部分だけに注がれるとしたら、持たざる者から持てる者へとお金を流してしまうことになりかねないと氏は言います。(結婚・出産・子育てができるような階層だけでなく)未婚者層をも含む、若者全体を支援の対象として見据える必要があるということです。

 増税もあり、今の若年層の可処分所得は減っている。社会保険料の負担増などで少なくなった手取りから重みを増した消費税で日々の買い物をし、学生時代に借りた奨学金の返済もあったりして、(多くが)結婚どころではないと氏は言います。

 そんな彼らに必要なのは、まず、減税をして彼らが自由に使えるお金を増やすこと。人生のイベントアワーにある若年層の可処分所得を増やすことは、昨年に策定された「こども未来戦略」の基本理念にも示されているということです。

 子育て負担を減らすだけでなく、若者の生活意識を総合的に底上げ・活性化しなければ、根本的な解決策にはつながらないということでしょうか。もしも本気で少子化を食い止めたければ、まずは若者層の可処分所得を増やすことに力を注ぐべきと(ストレートに)話す舞田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2619 ぼくらの年金は運用されている

2024年08月10日 | 社会・経済

 日経平均株価が、今年3月22日につけた4万888円を抜いて4万913円の史上最高値を付けた7月4日、日本の公的年金を運用するGPIFの2023年度の収益が45兆4153億円と過去最高を記録したとの報道がありました。

 資産別の収益を見ると、外国株式が19兆円のプラス、国内株式も同様に19兆円のプラス、外国債券が7兆円のプラスで、国内債券は1兆円のマイナスを記録した由。米国市場、日本市場の株高が収益を押し上げ、円安によって外貨建て資産の評価額も増える一方で、最近の国内金利の上昇(債券価格は下落)が足を引っ張る形となったようです。

 GPIF(Government(政府)Pension(年金)Investment(投資)Fund(ファンド・基金))とは、年金積立金管理運用独立行政法人のこと。約200兆円を運用する世界でも最大級の機関投資家として、株式市場では「クジラ」などと称されています。

 なぜ「クジラ」なのかと言えば、有り余る資金力を活かし株式市場で幅広い銘柄を一気に買う様子を例えたもの。普段は水面下に潜んでいるが、市場の動きに合わせたまにその背中が垣間見えるところなど、いかにもネーミングの妙と言えるでしょう。

 GPIFは、その名のとおり私たちが支払った年金の積立金(つまり「私たちのお金」)を運用している機関です。現在、高齢者に支払われている公的年金の財源は、現役世代の保険料と国庫負担で約9割が賄われており、残りの1割をGPIFが稼ぎ出す年金積立金から得られる収益によって補っている計算です。

 つまり、運用収益の積み上がりは年金財政基盤の安定につながるわけで、厚生労働省によると2019~2023年度の5年間に積立金の収益は106兆円となり2019年想定の約6倍。2024年3月末時点の積立金の残高は291兆円に達し、(折からの株高に乗って)想定より70兆円以上振れしているとされています。

 70兆円の儲け…と言えば、国民一人あたりに直しても50万円以上の利益を上げたということ。「日経平均」がどうのと言われても、(株をやっていない人にとっては)自分とは関係ない世界の話と思いがちですが、何を隠そう私たちの暮らしにも結構大きな影響があるということでしょうか。

 その辺りの事情について、名古屋商科大学ビジネススクール教授の原田 泰(はらだ・やすし)氏が7月10日のビジネス情報サイト「現代ビジネス」に、「日本の年金運用がここにきて絶好調な本当のワケと、アベノミクスとGPIFがもたらした株高の真実」と題する一文を寄せていたので、参考までに紹介しておきたいと思います。

 日本が年金の市場運用をはじめたのは2001年のこと。06年にはGPIFが発足し、これまでに約153兆8000億円の収益を上げている。しかし、GPIFが昔から好調な運用成績をあげていたわけではない。好調になったのは株高を指向するアベノミクスが始まって以降だと原田氏はこの論考に記しています。

 GPIFが発足した2006年からアベノミクスの始まる前の2012年度(安倍内閣は2012年12月発足なので多少のずれがある)までの運用益を見ていくと、アベノミクス以前は19.8兆円、アベノミクス以後は142.8兆円の利益でを上げていることがわかる。GPIFは国内債券、国内株式、外国債券、外国株式などで運用されているが、その内訳をみていくと、利益のかなりの部分が国内株式の上昇から来ているということです。

 GPIFが利益を上げられたのは株高のおかげだが、運用方針の変更もそこに大きく貢献したと氏は併せて指摘しています。GPIFが、国内外の債券、株式等にどのような比率で投資するかを示すポートフォリオについては、2006年度の運用開始から2013年6月までは、国内債券が67%と過半数を占めていた。しかし、2015年10月にポートフォリオの見直しが行われ、国内債券の割合を直前の60%から35%まで大きく減少させたということです。

 一方、国内株式を直前12%から25%、外国株式を直前12%から25%へとそれぞれ大幅に増加させた。この結果、国内株式、外国株式の上昇が利益に結び付くようになり、アベノミクス期以降のGPIFの運用益142.8兆円に繋がったと氏は説明しています。

 もちろん、この利益はほとんどの国民に年金として還元されるはず。GPIFの利益が年金の増額になる訳ではないが、年金保険料を少しでも上げなくてもすむという意味で、将来の国民の利益になるのは間違いないということです。

 さて、現在、政府が高齢者などに支払っている年金支出は、年間で56兆円ほどにもなる。そう考えれば、143兆円も3年分に満たないのかと思われるかもしれないと氏はここで話しています。しかし、不足分を「穴埋めする」ためとなれば、143兆円はかなり有効な資金となるはず。今後、高齢者が増え年金支出が増加していくとしても、貯えは少ないよりも多い方がいいに決まっているといのがこの論考で氏の指摘するところです。

 まあ、よく考えれば我々のお金を、「よく知らないところ」で「よく知らない誰か」が株に投じているというのも恐ろしい話。国民はこのGPIFの動きに、普段からもっと興味をもって接していてもいいのかもしれません。

 GPIFが行っているのは(あくまでも)株への「投資」なので、これから先も儲かるときもあれば大きく損をするときもあるでしょう。国民から搾り取った保険料を運用するのですから、くれぐれも「慎重に」と願うのは私だけではないでしょう。

 株価には浮き沈みが付き物で2023年度のような株高やGPIFの運用益の黒字が毎年のように続くわけではないだろう。しかし、少しずつでも投資によって利益を貯めて行けば、将来の年金財政は(少しずつでも)強化され国民の利益につながるだろうと話す原田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2618 年をとるほどお金の価値は減っていく

2024年08月08日 | 社会・経済

 日銀が3月17日に公表した2022年10~12月期の資金循環統計によると、2022年12月末時点の家計金融資産はおよそ2023兆円とのこと。その構成は、「現金・預金」が55.2%、「保険・年金・定型保証」が26.5%、「株式など」(9.9%)、「投資信託」(4.3%)と続き、半数以上が預貯金の形で保有されていることがわかります。

 そこで次は、そうした資産を一体誰が持っているのか…という話です。総務省の「家計調査」によれば、家計金融資産残高に占める60歳以上の構成比は68.5%と約7割。70歳以上に限っても40.0%を占めています。これには、土地不動産などの金融資産以外の資産は含みませんので、それまで入れれば(少なくともこの日本では)世の中の資産のほとんどを先の見えた高齢者が手にしている現状があるようです。

 一方、戦後の高度成長をけん引した「団塊の世代」がそろって75歳を超えようとしているこの国では、年間の死亡者数は現在の144万人から、ピークとなる2040年には168万人まで増加するとされています。

 こうした状況のもと、推計によれば今後30年程度の間に相続される氏資産総額は、金融資産だけでもおよそ650兆円に達する由。団塊ジュニア世代への(いわゆる)「大相続時代」が、いよいよ幕開けを迎える気配です

 そうした折、精神科医で作家の和田秀樹氏が6月18日の金融情報サイト「THE GOLD ONLINE」に、『定年退職したら「お金に対する考え方」を変えるべきワケ』と題する一文を寄せているのを見かけたので、参考までに小欄にその指摘を残しておきたいと思います。

 年をとったら、いつまでも若い頃の価値観にとらわれない方がいい。できれば定年退職を機に、これまでの考え方をいったん白紙に戻しマインドリセットをすることをお勧めしたいと和田氏はこの論考で(専門家の立場から)アドバイスしています。

 氏によれば、中でも一番変えなければいけないのはお金に対する考え方とのこと。「老後2,000万円問題」が話題に上って後、お年寄りはせっせと貯金に励むようになった。しかし、実際に年をとって歩けなくなったり、寝たきりになったり認知症がひどくなったりすると、人間は意外にお金を使わなくなるというのが(これまで医師として多くの高齢者を診てきた)氏の感覚です。

 家のローンも払い終わったし、子供の教育費もかからない。歩けなくなれば旅行に行く気も起こらないし、高級店で食事したいとも思わなくなる。そうこうしている内に体が動かなくなって特別養護老人ホームに入っても、介護保険を使えば年金の範囲でだいたい収まるのが普通だということです。

 と、いうことで、結果、そこまでいけば貯金なんかする意味がなくなってしまう。老後の蓄えがないからと、頑張って貯金なんかすることなかったなと悔やむことになる。要は年をとればとるほど、お金を持っていることの価値は減ってくるというのがこの論考で氏の強調するところです。

 お金を残してどうなるのか。現在の法律でいくと、たとえば献身的に介護してくれた娘と、何もしないでほったらかしにしていたバカ息子がいたとしても、遺産相続は平等に行われる。「遺留分」として法定相続人には法律で定められた遺産の取得分が保障されているので、バカ息子も同じように遺産を相続できると氏は言います。

 そして、ここで何より大事なのは、実はお金を持っていても幸せな晩年を送れるわけではないということ。和田氏はこれを、「金持ちパラドックス」と呼んでいるということです。

 氏によれば、たとえ財産を持っていたところで、逆に子供たちのいいようにされてむしろ不幸になるケースも少なくないとのこと。仮に認知症になってしまえば、自分で買いたいものがあっても買えなくなるし、結局、財産なんか残したところで、晩年に子供たちが大事にしてくれるとは限らないということです。

 では、どうすればよいのか。お金というものは持っているだけではだめで、それより使うことに価値があると、和田氏はこの論考に記しています。

 資本主義の世の中は金を持っている人間ほど偉いと勘違いされているが、確かに「お客様は神様」というくらいで、金を使う人間の方がよほど快適に過ごすことができる。もちろん何かを買わなくても、子供や孫たちに金をバラまくだけで、一族みんなで「おじいちゃん、おばあちゃん」って寄ってきてくれるということです。

 要するに、手元の金を使うかどうか。死ぬまで金を貯め続けるなんて、これほどバカなことはない。しかも、それはあなた個人だけの問題にとどまらず、何よりもいいのは、そうすれば景気が良くなることだというのが氏の指摘するところです。

 いま、この日本では、個人金融資産の大半を60歳以上が持っている。もしも皆でその金を使うようになったら、いっぺんで景気が良くなると氏は話しています。

 でも、日本のお年寄りはみんなお金を使おうとしないし、企業のほうも、どうせ金を使わないだろうと思うから、年寄り向けの車やパソコンを開発しようとか考えていない。せいぜいバリアフリーの家を建てるくらいのことしかしていないというのが氏の認識です。

 なので、ある程度年をとったら、お金を使うことをぜひ考えてほしい。死ぬ間際に残るのは思い出しかない。あの時、ああすればよかったとか、こうすべきだったとか、後から悔やむ前に踏み出す勇気が必要だと氏は言います。

 今はまだ…と思っても、実際はある年齢以上になったらできなくなることも多い。夫婦で世界一周の船の旅に出るとか、退職金でヴィンテージ・ギターやポルシェを買うとか、若い時にあこがれたものを手に入れることから始めみたら…というのが氏のアドバイスするところです。

 お金は持っているだけでは価値がない。使ってこそなんぼで、幸せになれるものだと氏はこの論考の最後に綴っています。年老いてから貯めこんでいても何にもならない。逆に、お金を貯めるのは不幸のもと。そう自らに言い聞かせて、ぜひ幸せな老後を送ってほしいと話す和田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2617 夫婦二馬力…共稼ぎの現実

2024年07月31日 | 社会・経済

 仕事を持つ子育て中のお母さんたちが、(特に女性が多い職場などで)同僚女性から「子持ち様」などと揶揄されている状況が、SNSなどにおいてクローズアップされているようです。

 「子持ち様」とは、職場における子育て女性への配慮によって(「割を食っている」と)不公平感・負担感を感じている同僚の不満からくるネットスラング。「子持ち様が『お子様が高熱』とか言ってまた急に仕事休んでる」とか、「子持ち様は優遇されて日勤帯で帰れていいですね」とか、「大変な仕事は、『うちは子供がいるんで無理です』で終了」とか…。

 「なんで私があんたの子どもの犠牲にならなくちゃいけないの」といった同僚の皆さんの不満は判りますが、本来、従業員の育児も前提に仕事の配分をするのは会社の責任のはず。夫婦共稼ぎの子育て世代の増加が指摘される中、職場任せの小手先の支援では摩擦が生じて当然でしょう。

 共稼ぎの子育てとは、かくもストレスフルなものなのか。厚生労働省の「国民生活基礎調査」における「児童のいる世帯における母の仕事の状況の年次推移」によれば、子育て中の母親の75.7%が「仕事あり」と回答しているとのこと。これをいわゆる「共働き率」とすれば、2004年では56.7%、2013年で63.1%、2023年で75.7%と年々増加傾向にあることが見て取れます。

 そしてその内訳(2023)を見ると、「仕事あり」と回答したお母さんの仕事内容は、「正規の職員・従業員」が29.6%、「非正規の職員・従業員」が37.3%、「その他」が8.9%であり、正規雇用の従業員として働いている母親は全体の3割に満たないというのが現実です。

 さて、育児休業の充実にしろ保育園の増設にしろ、昨今の子育て支援策で対象となっているのが原則「正規雇用同士の共働き夫婦」であることは否めません。しかしその一方で、そうした(ある意味少しは恵まれた)「子持ち様」の割合が全体の30%にも満たない状況では、同年代の未婚者も含めれば、政策の対象となっているのは全体の僅かに4分の1といったところでしょう。

 こうして、子育て世代の過半を占めている「正規雇用の夫+非正規やフリーランスの妻」の組み合わせが(ここ30年ほどの間)ほとんど手つかのまま放置されてきた現状に関連し、昨年(2024年)4月のYahoo newsに、コラムニストでマーケティングディレクターの荒川和久氏が「専業主婦夫婦が減っている分だけ婚姻数が減っているという事実」と題する論考を掲載していたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 共稼ぎ世帯が増加しているというデータが一般化している。実際、専業主婦夫婦は(統計上)全体の28%程度であり、その2倍以上が共稼ぎ夫婦ということになる。しかし、多くの人が考える「共稼ぎ」のイメージからすれば、この見方は決して正確とは言えないと荒川氏はこの論考で指摘しています。

 なぜなら、この共稼ぎの中には、週1回1時間でもパートで働いた場合も含まれているから。もちろん、パートも立派な労働であるが、基本的には家計の収入の助けとして補助的にやっているもので、それはフルタイムで就業している妻とは別物だと考えるべきだというのが氏の見解です。

 さらに、(過去のデータを精査すると)実は、妻がフルタイムで就業している世帯は1985年から2021年にかけての35年以上の間ほぼ3割で、実数割合ともに変化がない。もちろん、完全専業主婦の割合は減っているのだが、その減っている専業主婦の3割とほぼ同等だと氏は言います。

 それが意味するのは、(詰まるところ)この間に増えたのは妻パート就業夫婦だけだという話。昨今、女性の就業率が増えているというデータが話題に上るが、それはほぼパート就業者の増加によるものだというのが氏の指摘するところです。

 政府が(前述のように)正規雇用同士の子育て世帯を支援する背景には、そうした(夫婦ともにバリバリと仕事をしながら子育てをする)パワーカップルを応援したいという思いがあるのかもしれません。

 しかしその一方で、2015年国勢調査ベースで、0歳児をもつ母親の実に61%が専業主婦になっている(育休なども含む)現実から目を背けるわけにはいかない。恋愛から結婚するまでは、個人年収300万円同士の「二馬力で世帯600万円」のカップルは成立するが、実際は結婚後の妊娠出産子育てへの移行にあたって、夫の一馬力にならざるを得ない場合が多いということです。

 さらに言えば、誰もがバリバリと仕事を続けたい人ばかりではない。仕事より育児を優先したい人も勿論多いと荒川氏はこの論考に綴っています。最近では、「会社の仕事なんて誰がやってもいい仕事。うちの子にとって親は自分たちだけなのだから、子どもと過ごすかけがえのない時間を削ってまでやりたい仕事なんてない。」と言い切る人も増えてきているということです。

 こうして、望むと望まないとにかかわらず、多くの子育て夫婦の年収構造は、結果として妻側の経済力上方婚(妻の年収より夫の年収が高い状態)になっている。これは是非の問題ではなく、現実の話だと荒川氏はこの論考を結論付けています。

 (全く世知辛い話ではあるけれど)結局のところ、「一馬力でも二馬力でも、ある程度の年収が確保されなければ結婚できない」「一馬力になってもしばらくは子育てできるようでなくては子供は作れない」ということなのでしょう。

 政府を挙げて進められている少子化対策だげ、その根本にあるのは「金がないから結婚できない」問題なのだとこの論考を結ぶ荒川氏の指摘を、私も「さもありなん」と大変興味深く読んだところです。


#2616 ハイリスク社会がやってくる(その2)

2024年07月29日 | 社会・経済

 国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2050年には単独(一人暮らし)世帯が全世帯の実に44.3%に達し、一人暮らしの高齢者だけでも1千万人を超える社会がやって来るとのこと。

 中央大学教授の山田昌弘氏は6月7日の日本経済新聞の経済コラム「経済教室」において、「日本の社会保障・社会福祉制度はこのライフコース上のリスクの高まりに対応しきれていない」と懸念を示しています。(『変わる家族像 社会保障制度を個人単位に』2024.6.7)

 現行の社会保障制度は、未だに人々が(昭和の)標準的なライフコースをたどることを前提につくられている。標準的ライフコースとは「若いうちに結婚し、主に夫が仕事で家計を支え、妻が家事やケアを担い、子どもを育て、離婚せずに老後を迎える」というもの。そして、隠された前提として、すべての人は結婚して離婚しないことが想定されているということです。

 それに加え、実はリスク化しているのは、結婚、離婚といった家族イベントだけではない。夫が十分な収入を得られるということもリスク化していると氏はしています。

 フリーランス、非正規雇用の男性など不安定収入の人が増え、妻子を養うのには十分な収入を得られない。これが未婚化や少子化、さらには離婚の増大の原因にもなっているというのが氏の指摘するところです。

 社会保障の第1の目的は、人々が貧困など生活困難に陥ることを防ぎ、生活困難に陥った人を救うこと。今の日本の社会保障制度は、標準的ライフコースをとる人、つまり結婚して離婚せず、(女性であれば)収入が安定した男性に扶養されていることを前提に構築されているというのが氏の認識です。

 例えば、高齢になって働けなくなった場合のリスクをヘッジするための年金制度。厚生年金であれば、男性正規雇用者が退職後、妻と2人でそれなりの生活を送れる収入を確保することを想定しており、夫が亡くなった後でも妻は現役時代無収入でも遺族年金で暮らすことができる(よう設計されている)と氏は説明しています。

 一方の国民年金は、そもそも農家などの自営業者を想定したもの。自営業では夫婦が働けるうちは働いて収入を得られ、引退後は息子夫婦に家業を譲ってその見返りとして扶養されることを前提としていたことから、それだけでは十分に生活できる額でない額(1人月7万円弱)でもさほど問題にならなかったということです。

 さてそうした中、50年ぐらい前まで(この日本では)95%の人が結婚し、男性は望めば正規雇用者になることができ、女性は望めば正規雇用者と結婚でき、自営業者は保護されて順調に息子夫婦に家業継承ができた。そして、そのような時代であったからこそ、この制度はうまく機能したと氏は話しています。

 一方、家族においても雇用においてもリスクが高まっている今、この制度からこぼれる人が増えているというのが現状に対する氏の認識です。

 結婚して夫の厚生年金で暮らしたいと若いときに思っていても、未婚や離婚でそれが期待できない女性が増え、結婚相手によっては厚生年金も遺族年金も存在しない。正規雇用に就けなかったり辞めたりするケースや、離婚して年金分割するケースなどもあり、老後に十分な厚生年金が受け取れない人も増えると氏は言います。

 自営業も跡継ぎがいなければ、家業を譲る見返りに子どもに扶養されることはできない。こうして、引退後の生活の見通しが立たない人が増えていくということです。

 単身高齢世帯増大の裏側には、従来の年金制度では十分に包摂されない(このような)人々の増大があると氏は指摘しています。そして、この事態は皮肉なことに、未婚化や少子化、離婚の増大に結び付く。たとえ結婚しても、配偶者の収入が不安定だったり離婚されたりすれば老後生活が厳しくなると思えば、そうしたリスクを避けるため結婚相手の選択に慎重になる。しかし十分な収入を得られそうな若者(優良物件)の数は減少していて、若者の不安を益々搔き立てるといった「負のサイクル」ができてしまっているということです。

 老後を迎えたときに、未婚でも離婚・再婚していても、非正規雇用やフリーランス、自営業でも、子どもがいてもいなくても、人並みの生活ができるようにすべきだと、山田氏はこの論考の最後に提案しています。そして、そのためにもまず、今の年金など社会保障制度を「個人単位」に抜本的に構築し直す必要があるというのが氏の見解です。

 さて、政府が国民向けに投資と資産形成の重要性、特にNISAだとかiDeCoだとかの投資優遇策のPRに力を入れているのにも、おそらくそうしたリスク軽減の意図があるのでしょう。

 政治的な影響力の強い高齢者の手前、年金制度などにはそう簡単に手を付けられない。ならば、現役世代一人一人の自助努力に期待するといったところでしょうか。

 それでも(山田氏も言うように)、社会保障の見直しは急務ではないかと私も思います。そうしなければ若者は不安の中で、ますます結婚や出産に慎重になり、少子化が深刻化するに違いないと話すこの論考における氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2615 ハイリスク社会がやってくる(その1)

2024年07月27日 | 社会・経済

 旧総理府が行っていた「家計調査」に、夫婦と子供2人の(いわゆる)『標準世帯』モデルが初めて登場したのは1969年のこと。人手不足に陥った都市部に地方から若者が流入したこの時代、世帯の核家族が進む中、大都市郊外には多摩ニュータウン(東京都)や千里ニュータウン(大阪府)などの大規模団地が次々と建設されていきました。

 そこで主流となったのは、サラリーマンの夫が家計を支え、妻が専業主婦として家庭を守るという家族像。折しも、経済の発展と都市問題の顕在化に伴い、様々な社会制度が形作られていったのがこの時期です。政府の社会保障施策、教育施策、税制や住宅政策など、現在にまで続く制度がこの標準世帯をモデルに次々と作られていくことになります。

 しかし、バブル経済の崩壊とともに始まった1990年代に入ると、家族の形も次第に変化を見るようになりました。共働きの一般化により(気が付けば)専業主婦世帯は少数派に。子供が結婚せず親に依存し続ける「パラサイト・シングル」が話題を呼んだのもこの時期でした。

 さて、そのような中、今年4月に発表された国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、全世帯に占める「1人暮らしの世帯」の割合は2020年の38%から増加を続け、2050年には44.3%と30年間で6.3ポイント増える見通しとのこと。昭和に始まった核家族化はさらに進み、令和の標準モデルは「単身・家族なし」ということになるのかもしれません。

 そうした折、6月7日の日本経済新聞の経済コラム「経済教室」に、中央大学教授の山田昌弘氏が『変わる家族像 社会保障制度を個人単位に』と題する論考を寄せていたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 国立社会保障・人口問題研究所の直近の推計によれば、2050年には単独(一人暮らし)世帯が44.3%に達し、特に一人暮らしをする65歳以上の人が男性は450万人、女性は633万人に達する由。つまり一人暮らしの高齢者が1千万人を超える社会がもうすぐ到来すると山田氏はこの論考に記しています。

 そして、氏によれば、問題となるのはその中身。2020年時点でも高齢一人暮らし男性の未婚率は33.7%にのぼるが、2050年にはそれが59.7%と6割近くに達することが予想されている。女性でも未婚率が11.9%から30.2%までに増え、人数でみれば未婚単身者は3倍以上。さらに既婚者でも、子どもがいる人の割合は低下傾向にあるということです。

 さらに、現在の一人暮らし高齢者は、別居でも子どもや兄弟など近親者がいるケースが大部分だが、今後は近親者が一人もいない高齢単身者が大きく増えるとのこと。どのように社会で対処すべきなのかが今後の社会保障の大きな課題となると氏は言います。

 分かり易く言えば、今の80歳ぐらいの人は95%が結婚して、離婚経験者は1割程度。再婚率も高かったが、今の若い人は4人に1人が生涯未婚で、結婚した3組に1組以上が離婚する。結果、結婚して離婚せずに老後を迎えられる幸せな人は、2人に1人もいない計算になるということです。

 これは、単に家族のあり方が多様化しただけでなく、若者のライフコースが「リスク化」していることを意味していると、氏はここで指摘しています。

 リスク化とは、それが誰に起きるか、いつ起きるかが予測できなくなる事態を指している。95%が結婚できた時代には、若者は結婚したければほとんどができると思えた。だが今は、それすら実現できない人が増えている。つまり生涯独身者の大多数は「かつて結婚したかったが結果的にできなかった人」になるということです。

 さらに、離婚が少なかった50年前なら、結婚したら老後まで一緒に生活できると思ってもよかった(実際そうだった)。しかし、現在、離婚数は結婚数の4割程度まで上昇しており(2023年速報値で結婚数約49万組、離婚数約19万組)、近年では結婚の4組に1組はどちらかが再婚という状況も生まれていると山田氏は話しています。

 こうして、生涯未婚・離婚は、若い世代にとってかなりの確率で起きるリスクとなっている。しかしその一方で、日本の社会保障・社会福祉制度はこのライフコース上のリスクの高まりに対応しきれていないというのが氏の指摘するところです。

 現行の社会保障制度は、未だ人々が(昭和の)標準的なライフコースをたどることを前提につくられていると氏は説明しています。

 標準的ライフコースとは「若いうちに結婚し、主に夫が仕事で家計を支え、妻が家事やケアを担い、子どもを育て、離婚せずに老後を迎える」というもの。そして、隠された前提として、すべての人は結婚して離婚しないことが想定されているということです。

 さて、確かに私の周囲を見渡しても、独身のまま還暦を迎えた者は数多く、離婚によって独身となった者に加え、バツ2や再再婚といったツワモノもチラチラと見かけます。そして彼らも、いずれ80代、90代を迎え一人暮らしの弱い老人になっていくのでしょう。

 高齢の単身独身者の増加は、個人の生活の不安定化ばかりでなく社会の不安定化につながるのもまた事実。懸念される社会全体のリスク化に対し、社会制度の早期の見直しを提案する山田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。

※「#2616 ハイリスク社会がやってくる(その2)」に続く