MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2616 ハイリスク社会がやってくる(その2)

2024年07月29日 | 社会・経済

 国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2050年には単独(一人暮らし)世帯が全世帯の実に44.3%に達し、一人暮らしの高齢者だけでも1千万人を超える社会がやって来るとのこと。

 中央大学教授の山田昌弘氏は6月7日の日本経済新聞の経済コラム「経済教室」において、「日本の社会保障・社会福祉制度はこのライフコース上のリスクの高まりに対応しきれていない」と懸念を示しています。(『変わる家族像 社会保障制度を個人単位に』2024.6.7)

 現行の社会保障制度は、未だに人々が(昭和の)標準的なライフコースをたどることを前提につくられている。標準的ライフコースとは「若いうちに結婚し、主に夫が仕事で家計を支え、妻が家事やケアを担い、子どもを育て、離婚せずに老後を迎える」というもの。そして、隠された前提として、すべての人は結婚して離婚しないことが想定されているということです。

 それに加え、実はリスク化しているのは、結婚、離婚といった家族イベントだけではない。夫が十分な収入を得られるということもリスク化していると氏はしています。

 フリーランス、非正規雇用の男性など不安定収入の人が増え、妻子を養うのには十分な収入を得られない。これが未婚化や少子化、さらには離婚の増大の原因にもなっているというのが氏の指摘するところです。

 社会保障の第1の目的は、人々が貧困など生活困難に陥ることを防ぎ、生活困難に陥った人を救うこと。今の日本の社会保障制度は、標準的ライフコースをとる人、つまり結婚して離婚せず、(女性であれば)収入が安定した男性に扶養されていることを前提に構築されているというのが氏の認識です。

 例えば、高齢になって働けなくなった場合のリスクをヘッジするための年金制度。厚生年金であれば、男性正規雇用者が退職後、妻と2人でそれなりの生活を送れる収入を確保することを想定しており、夫が亡くなった後でも妻は現役時代無収入でも遺族年金で暮らすことができる(よう設計されている)と氏は説明しています。

 一方の国民年金は、そもそも農家などの自営業者を想定したもの。自営業では夫婦が働けるうちは働いて収入を得られ、引退後は息子夫婦に家業を譲ってその見返りとして扶養されることを前提としていたことから、それだけでは十分に生活できる額でない額(1人月7万円弱)でもさほど問題にならなかったということです。

 さてそうした中、50年ぐらい前まで(この日本では)95%の人が結婚し、男性は望めば正規雇用者になることができ、女性は望めば正規雇用者と結婚でき、自営業者は保護されて順調に息子夫婦に家業継承ができた。そして、そのような時代であったからこそ、この制度はうまく機能したと氏は話しています。

 一方、家族においても雇用においてもリスクが高まっている今、この制度からこぼれる人が増えているというのが現状に対する氏の認識です。

 結婚して夫の厚生年金で暮らしたいと若いときに思っていても、未婚や離婚でそれが期待できない女性が増え、結婚相手によっては厚生年金も遺族年金も存在しない。正規雇用に就けなかったり辞めたりするケースや、離婚して年金分割するケースなどもあり、老後に十分な厚生年金が受け取れない人も増えると氏は言います。

 自営業も跡継ぎがいなければ、家業を譲る見返りに子どもに扶養されることはできない。こうして、引退後の生活の見通しが立たない人が増えていくということです。

 単身高齢世帯増大の裏側には、従来の年金制度では十分に包摂されない(このような)人々の増大があると氏は指摘しています。そして、この事態は皮肉なことに、未婚化や少子化、離婚の増大に結び付く。たとえ結婚しても、配偶者の収入が不安定だったり離婚されたりすれば老後生活が厳しくなると思えば、そうしたリスクを避けるため結婚相手の選択に慎重になる。しかし十分な収入を得られそうな若者(優良物件)の数は減少していて、若者の不安を益々搔き立てるといった「負のサイクル」ができてしまっているということです。

 老後を迎えたときに、未婚でも離婚・再婚していても、非正規雇用やフリーランス、自営業でも、子どもがいてもいなくても、人並みの生活ができるようにすべきだと、山田氏はこの論考の最後に提案しています。そして、そのためにもまず、今の年金など社会保障制度を「個人単位」に抜本的に構築し直す必要があるというのが氏の見解です。

 さて、政府が国民向けに投資と資産形成の重要性、特にNISAだとかiDeCoだとかの投資優遇策のPRに力を入れているのにも、おそらくそうしたリスク軽減の意図があるのでしょう。

 政治的な影響力の強い高齢者の手前、年金制度などにはそう簡単に手を付けられない。ならば、現役世代一人一人の自助努力に期待するといったところでしょうか。

 それでも(山田氏も言うように)、社会保障の見直しは急務ではないかと私も思います。そうしなければ若者は不安の中で、ますます結婚や出産に慎重になり、少子化が深刻化するに違いないと話すこの論考における氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2615 ハイリスク社会がやってくる(その1)

2024年07月27日 | 社会・経済

 旧総理府が行っていた「家計調査」に、夫婦と子供2人の(いわゆる)『標準世帯』モデルが初めて登場したのは1969年のこと。人手不足に陥った都市部に地方から若者が流入したこの時代、世帯の核家族が進む中、大都市郊外には多摩ニュータウン(東京都)や千里ニュータウン(大阪府)などの大規模団地が次々と建設されていきました。

 そこで主流となったのは、サラリーマンの夫が家計を支え、妻が専業主婦として家庭を守るという家族像。折しも、経済の発展と都市問題の顕在化に伴い、様々な社会制度が形作られていったのがこの時期です。政府の社会保障施策、教育施策、税制や住宅政策など、現在にまで続く制度がこの標準世帯をモデルに次々と作られていくことになります。

 しかし、バブル経済の崩壊とともに始まった1990年代に入ると、家族の形も次第に変化を見るようになりました。共働きの一般化により(気が付けば)専業主婦世帯は少数派に。子供が結婚せず親に依存し続ける「パラサイト・シングル」が話題を呼んだのもこの時期でした。

 さて、そのような中、今年4月に発表された国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、全世帯に占める「1人暮らしの世帯」の割合は2020年の38%から増加を続け、2050年には44.3%と30年間で6.3ポイント増える見通しとのこと。昭和に始まった核家族化はさらに進み、令和の標準モデルは「単身・家族なし」ということになるのかもしれません。

 そうした折、6月7日の日本経済新聞の経済コラム「経済教室」に、中央大学教授の山田昌弘氏が『変わる家族像 社会保障制度を個人単位に』と題する論考を寄せていたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 国立社会保障・人口問題研究所の直近の推計によれば、2050年には単独(一人暮らし)世帯が44.3%に達し、特に一人暮らしをする65歳以上の人が男性は450万人、女性は633万人に達する由。つまり一人暮らしの高齢者が1千万人を超える社会がもうすぐ到来すると山田氏はこの論考に記しています。

 そして、氏によれば、問題となるのはその中身。2020年時点でも高齢一人暮らし男性の未婚率は33.7%にのぼるが、2050年にはそれが59.7%と6割近くに達することが予想されている。女性でも未婚率が11.9%から30.2%までに増え、人数でみれば未婚単身者は3倍以上。さらに既婚者でも、子どもがいる人の割合は低下傾向にあるということです。

 さらに、現在の一人暮らし高齢者は、別居でも子どもや兄弟など近親者がいるケースが大部分だが、今後は近親者が一人もいない高齢単身者が大きく増えるとのこと。どのように社会で対処すべきなのかが今後の社会保障の大きな課題となると氏は言います。

 分かり易く言えば、今の80歳ぐらいの人は95%が結婚して、離婚経験者は1割程度。再婚率も高かったが、今の若い人は4人に1人が生涯未婚で、結婚した3組に1組以上が離婚する。結果、結婚して離婚せずに老後を迎えられる幸せな人は、2人に1人もいない計算になるということです。

 これは、単に家族のあり方が多様化しただけでなく、若者のライフコースが「リスク化」していることを意味していると、氏はここで指摘しています。

 リスク化とは、それが誰に起きるか、いつ起きるかが予測できなくなる事態を指している。95%が結婚できた時代には、若者は結婚したければほとんどができると思えた。だが今は、それすら実現できない人が増えている。つまり生涯独身者の大多数は「かつて結婚したかったが結果的にできなかった人」になるということです。

 さらに、離婚が少なかった50年前なら、結婚したら老後まで一緒に生活できると思ってもよかった(実際そうだった)。しかし、現在、離婚数は結婚数の4割程度まで上昇しており(2023年速報値で結婚数約49万組、離婚数約19万組)、近年では結婚の4組に1組はどちらかが再婚という状況も生まれていると山田氏は話しています。

 こうして、生涯未婚・離婚は、若い世代にとってかなりの確率で起きるリスクとなっている。しかしその一方で、日本の社会保障・社会福祉制度はこのライフコース上のリスクの高まりに対応しきれていないというのが氏の指摘するところです。

 現行の社会保障制度は、未だ人々が(昭和の)標準的なライフコースをたどることを前提につくられていると氏は説明しています。

 標準的ライフコースとは「若いうちに結婚し、主に夫が仕事で家計を支え、妻が家事やケアを担い、子どもを育て、離婚せずに老後を迎える」というもの。そして、隠された前提として、すべての人は結婚して離婚しないことが想定されているということです。

 さて、確かに私の周囲を見渡しても、独身のまま還暦を迎えた者は数多く、離婚によって独身となった者に加え、バツ2や再再婚といったツワモノもチラチラと見かけます。そして彼らも、いずれ80代、90代を迎え一人暮らしの弱い老人になっていくのでしょう。

 高齢の単身独身者の増加は、個人の生活の不安定化ばかりでなく社会の不安定化につながるのもまた事実。懸念される社会全体のリスク化に対し、社会制度の早期の見直しを提案する山田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。

※「#2616 ハイリスク社会がやってくる(その2)」に続く


#2614 3号被保険者を巡る議論の行方

2024年07月25日 | 社会・経済

 最近しばしば話題に上る「第3号被保険者」とは、国民年金の加入者のうち、厚生年金に加入している(サラリーマンなどの)「第2号被保険者」に扶養されている配偶者(年収が130万円未満であり、かつ配偶者の年収の2分の1未満の人)を指す言葉。その多くは(いわゆる)「専業主婦」と呼ばれる人たちで、該当する人は全国におよそ700万人に及ぶとされています。

 第3号被保険者の保険料は、第2号被保険者全体で負担しているという建前のもと、彼女らが自らの保険料を個別に納める必要はありません。つまり、(自営業者の妻や年収130万円以上の女性、独身女性などとは違い)自分で保険料を支払わなくても基礎年金を受け取ることができるため、これを「不公平」として制度の見直しに関する議論が始まっています。

 また、実際には第3号被保険者のうち約半数の300万人以上が所得制限を超えない範囲で何らかの就労をしていると考えられていることから、第3号被保険者の収入基準(年130万円)を考慮して就労調整が行われている現実について、企業の労働力不足を助長するとともに女性の社会進出を阻害する要因になっているとして、廃止を求める声も強まっているようです。

 7月3日には、5年に1度の公的年金制度に関する政府の「財政検証」が行われた由。そのあたりの議論がどのように進んでいるのかについて、6月19日のNewsweek日本版」に経済評論家の加谷珪一が『なぜ保険料を払っていない「主婦」への年金はなくならないのか...廃止論者が陥る「机上の空論」』と題する論考を寄せているので、参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。

 公的年金の財政検証に合わせて、3号被保険者(いわゆる専業主婦)の見直しが議論となっている。統計上では専業主婦世帯が減っていることから、専業主婦を前提にしたモデル年金や、専業主婦が受け取れる年金について廃止を求める声が高まっていると加谷氏はこの論考の冒頭に綴っています。

 一方、氏によれば、この問題については以前から政府内部で何度も議論されてきたもののなぜだか一向に見直しは進まず、今回も議論だけで終了となる可能性が高い由。主婦年金の見直しに切り込めない最大の理由は、日本では事実上の専業主婦社会が今も継続しており、制度をなくしたくても経済的理由から実施できないという厳しい現実があるからだということです。

 現在、専業主婦世帯は夫婦のいる世帯の2割程度で、大半が共働き世帯となっている。しかし、統計的に共働き世帯であっても、現実は限りなく専業主婦に近い世帯が多いと氏は言います。

 その理由は、日本では女性の社会進出が進んでおらず、男女間の賃金格差が激しいことに加え、家庭内での女性の労働負荷が大きいから。見かけ上は「共働き」となっていても、当該世帯の約60%が、夫が正社員、妻が非正規社員という就業形態で、夫が主な稼ぎ手となっているからだというのが氏の認識です。

 女性の平均賃金は男性の75%程度しかなく、女性が男性と対等に稼げる環境は一部を除いて実現していない。さらに日本の社会環境では、いまだ子育てや家事、親の介護は女性の仕事という認識が強く、これが女性のフルタイム就労を阻害していると氏は言います。結果、女性の多くはパートタイム労働に従事せざるを得ず、年収が(扶養の対象となる)130万円以下になってしまうということです。

 一方、男性の賃金も国際的に見ると著しく低く、妻がパートタイム労働者だった場合、共働きであっても十分な世帯年収は確保できないと氏はしています。そして、こうした世帯の場合、妻が3号被保険者になって基礎年金を受給しなければ、老後の生活が成り立たない図式になっているということです。

 確かに専業主婦(3号被保険者)は保険料を払っておらず、保険料納付者との間で不公平が生じている(かもしれない)が、現実問題として低年収の層から保険料を徴収するのは難しい。かつ、3号被保険者の年金が減らされれば、高齢者夫婦の貧困が加速するのはほぼ確実といえるだろうと氏は話しています。

 さて、年金問題について発言する論者の多くはいわゆるエリート層に位置している。夫、妻ともに相応の年収を得ているケースが多く、共働き世帯が全体の8割を占めているというデータのみに着目して、「専業主婦世帯を想定した制度は時代に合わない」と早合点しているというのがこの論考で加谷氏の指摘するところです。

 確かに、主婦年金を廃止して、就労している人は全員、厚生年金に加入して保険料を納め、年金をもらったほうがよいのは自明の理。しかし、これを実現するには女性の賃金を上げ、女性だけが子育てや介護に従事するという社会慣習の是正を同時並行で進める必要があると氏は説明しています。

 実際、この日本には、いまだ東京都の女性の総人口に匹敵する700万人余の3号被保険者がいて、そのうちの約半数が(何らかの理由で)パートなどの非正規終了を余儀なくされていると思えば、物事がそう簡単に進まないのも仕方のない話なのかもしれません。

 そうした状況を踏まえ、「現実を見ない議論ばかりでは、いつまでたっても年金制度を改革することはできない」とこの論考を結ぶ加谷氏の指摘を、私もさもありなんと受け止めたところです。


#2613 「地方創生」政策の欺瞞

2024年07月23日 | 社会・経済

 民間の有識者グループである「人口戦略会議」は4月24日、日本全体の4割にあたる744自治体で2050年までに20代から30代の女性が半減、人口減少によって「最終的には消滅する可能性がある」とする分析を発表しました。また、同会議は東京都内の17を含めた25自治体を、あらゆるものを吸い込むブラックホールになぞらえて「ブラックホール型自治体」と名指ししています。

 今回、不名誉な指名を受けたのは、大都市を中心に出生率が低く、人口維持をほかの地域からの流入(社会増)に依存している自治体です。東京都内では、豊島区のほか、世田谷区や目黒区など主要な16区が名を連ねており、名指しされた各自治体の首長たちは、それぞれ「謂れのない悪名」とかなりご立腹との話も聞きます。

 こうした都会の「ブラックホール」に吸い込まれていく(お年頃の)女性が、子供を産まないために日本の少子化は進んでいく…というのが人口戦略会議の主張するところ。なので、①地方経済の活性化、②都会の環境の向上、などの「地方創生」にもっと予算を投入し、出生率を挙げなければ日本の国自体が消滅しかねないということのようです。

 さて、同会議のこうしたシンプルな論理に「なるほどな」と頷く声も上がっているようですが、一方で、人口減少の責任を自治体(の努力不足)に押し付けるのも少々乱暴な話。ましてや、データだけで自治体を判定し、「消滅可能性自治体」と決めつけ脅しをかけるようなやりかたに、「大人げなさ」のようなものを感じるのは私だけではないでしょう。

 日本で人口減少が進むのは、本当に合計特殊出生率の低い都会の自治体のやり方がまずいせいなのか。6月14日のビジネス情報サイト「現代ビジネス」に『日本の少子化は「根拠なき対策」のせいだった…!「東京ブラックホール論」の欺瞞を暴く』と題する記事が掲載されていたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。

 厚生労働省の発表によれば、昨年の合計特殊出生率は1.20となり8年連続で低下。都道府県ごとでは、全国1位だった沖縄県の1.60に対し全国最下位の東京都は0.99と、(昨今話題を呼んだ)「東京ブラックホール論」を裏付ける形となったと、記事はその冒頭に記しています。

 東京を「人口のブラックホール」と呼び少子化の戦犯扱いする世論を仕掛けたのは、民間有識者らで構成される有志団体の「人口戦略会議」という組織。彼らが名指しした「ブラックホール型自治体」とは、合計特殊出生率の低い自治体を皮肉交じりにリストアップしたもので、豊島区や世田谷区、目黒区など東京都の16区をはじめ25の自治が名を連ねたということです。

 しかし、合計特殊出生率に基づくこの指摘は、実は人々の間に大きな誤解を生んでいると、記事はここで指摘しています。たとえば、今回の人口戦略会議で「ブラックホール型自治体」とか2014年の「増田レポート」によって「消滅可能性都市」と名指しされた東京都の各区を(合計特殊出生率ではなく)有配偶者出生率で見た場合、2020年のデータではほとんどの区で全国平均を上回っていると記事はしています。

 「有配偶出生率」というのは、(出産可能な)15歳から49歳の女性が生んだ子どもの総数を15歳から49歳の夫のいる女性の総数で割るなどして算出されたもの。また、15歳から49歳の女性の総数を「分母」に、その年齢階層の女性が生んだ子どもの数を「分子」とした場合の出生率をみても、東京の千代田区・港区・中央区の出生率は、1位の沖縄県に次ぐ2位に位置しているということです。

 さらに、2010年と2020年を比較して各都道府県でどのくらい出生数が「減少」したかを追いかけると、47都道府県の中で東京都の減少率がもっとも低いことがわかる。2010年を100として2020年の出生数を都道府県で単純比較しても、東京都が最も多いということです。

 そうした状況にもかかわらず、(それでも)合計特殊出生率が東京都でもっとも低く出るのは、進学や就職などで出産を予定していない女性が(地方から流入することで)増え続けているからだと記事は説明しています。

 例えば、東京に出産を予定している女性が50人、同様に地方に50人いて、出生する子どもがそれぞれ50人いたとしても、東京に出産を予定しない女性25人が移り住んで75人になれば、合計特殊出生率は東京が0.4、地方で0.67と東京は低くなるということです。

 それではなぜ、こうしたエビデンスを軽視した「東京ブラックホール論」という言説が広く拡散されてしまったのか。

 人口戦略会議は民間有識者らで構成される有志団体だが、議長には日本製鉄名誉会長の三村明夫氏が就き、副議長は10年前の2014年に「消滅可能性自治体」という言葉を世に広めた日本郵政社長の増田寛也氏。さらに岸田内閣の官房参与で元厚労官僚の山崎史郎氏や日本銀行元総裁の白川方明氏が名を連ねているとすれば、マスコミが飛びつくのも理解できると記事はしています。

 一方、「地方創生」は別名「ローカル・アベノミクス」とも呼ばれ、2014年に安倍晋三内閣で始まった。東京一極集中の是正を目的に地方の活性化が目的だったが、いつの間にか少子化対策と一体として語られるようになったということです。

 今回の「東京ブラックホール論」は、これに再び火をつけた。そこで指摘したいのは、経済政策から始まった「地方創生」自体が悪いということではない。また、東京一極集中に問題がないということでもない。ただ、少子化対策と地方創生を一体として考えるにはもともと「根拠に乏しい」というのが、記事の問題視するところです。

 記事によれば、「人口戦略会議」の三村昭夫議長は5月15日に宮崎市で行われた講演で、「雇用が集中しているので人口が集中する構造。制度的に分散してもらい、出生率の低い所から高い所に人が移れば出生数が増える」と話したということです。

 しかし、(ここまで見てきたように)地方に就職口や大学を増やして活性化することが少子化の改善に直結するかと言えば、その根拠は見当たらない。少子化対策として政策に組み込むのであれば、もっとエビデンスを精査する必要があるのではないかと記事はこの論考の最後に記しています。

 6月7日、合計特殊出生率が1.20となったことについて問われた武見敬三厚労相は、「人口が急激に減少する30年代に入るまでの6年間がラストチャンスだ」と述べた由。果たして日本の少子化対策は(そこに)間に合うだろうかと結ばれた記事の指摘を、私も重く受け止めたところです。


#2612 管理職はなぜ割に合わないのか?

2024年07月21日 | 社会・経済

 人事コンサルティングのパーソル総合研究所が2019年に行った「APAC就業実態・成長意識調査」によると、アジア太平洋地域(APAC)の14カ国・地域の中で、「管理職になりたいと感じる」と答えた割合は日本がダントツで最下位だったとのこと。1位のインドは86.2%、7位のマレーシアでは69.0%、13位のニュージーランドでも41.2%という中、日本は僅かに21.4%と聞けば、いくら奥ゆかしい日本の控えめなZ世代とはいえ余りの欲のなさにおどろかされるばかりです。

 一般雇用者の「働き方改革」が進み、「管理職は罰ゲーム」という話もしばしば耳にする昨今、一人のプレーヤーから見れば、組織のマネージメントほど面倒くさそうに見える仕事はないのでしょう。

 職場で(下手に)目立って中間管理職に抜擢されても、給料はそんなに上がるわけではありません。「管理職」としての責任が増すばかりで、さらには「プレイングマネージャー」などとおだてられ組織としての成果も期待されるとあっては、昇進を避けたくなる気持ちもわからないではありません。

 それにしても、なぜ若い世代は管理職への昇進を拒むのか?…最近しばしば指摘されるこうした疑問に応える形で、6月11日の経済情報サイト「東洋経済ONLINE」が、作家で経営コンサルタントの横山信弘氏近著『若者に辞められると困るので、強く言えません:マネジャーの心の負担を減らす11のルール』の一部を紹介していたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。(「部長、どうか私を管理職にしないでください。 出世したくない会社員が激増する3つの理由」2024.6.11)

 2022年10月に実施された調査(ビズヒッツ)で、管理職になりたくない理由として最も多く挙げられたのが「責任が重い」というもの。「仕事・残業が増える」「割に合わないと感じる」「残業代が出ない」「人間関係で悩みそう」といった理由が、(男女ともに)上位に並んだと横山氏はこの著書に綴っています。

 つまり、簡単に言うと管理職は「割に合わない」ということ。出世すると負担が増える。負担が増える割には給料も増えないし、やりがいも減る。それなら今のままのほうがいい、という考え方だということです。

 同調査によれば、昇進を打診されたら「断る」と答えた人は60%以上に達し、「条件次第では引き受ける」の18.8%を大きく上回っている由。衝撃的としか言いようがないと横山氏は話しています。

 さて、前述したとおり、「割に合わない」ことが出世を断る大きな理由であるとすれば、若者たちはなぜそのように「割に合わない」と受け止めるようになったのでしょうか?

 ここで我が身を振り返れば、私などが若手としてこき使われていた時代。課長や部長といったオジサンたちは、朝はゆっくり出勤して新聞などを広げ、総務の女性社員とゴルフの話などに興じている(ある意味毒にも薬にもならない)存在でした。年を取って管理職になれば(ああやって)日がなゆったりできるのかと思えば、今頑張るのも悪くないと思ったりしたものです。

 翻って今の管理職を見れば、残業代も出ないのにやたら働かされるうえ、目標の管理をうるさく言われる一方で(出来の悪い)部下の面倒も見なければならない。これでは、「割に合わない(→なりたくない)」と思うのも当然かもしれません。

 一方、この著書において横山氏は、そもそも管理者(以下「マネジャー」で統一)の役割についての理解が不足していることが(若者に「割に合わない」と思わせる)一番の原因ではないかと指摘しています。

 多くの企業においてマネジャーの定義は曖昧のまま。具体的な職務内容が明確にされていないことが多い。このため、上司や部下、本人に至るまで様々な誤解が生じているということです。

 具体的に、企業におけるマネジメントとは一体何をすることなのか? それは、目標を達成させるためにリソースを効果効率的に配分することであり、それこそがマネジメントの基本だと氏は話しています。

 単なるマネジメントに「組織」や「部下育成」は含まれない。セルフマネジメント(自己管理)、タイムマネジメント(時間管理)、リソースマネジメント(資源管理)、プロダクションマネジメント(生産管理)、ヘルスマネジメント(体調管理)…ほとんどのマネジメントは個人でできるし、新入社員にも求められるもの。ここはとても重要なので繰り返すが、マネジメントは「リソースを効果効率的に配分すること」で、課長や部長だけの仕事ではないというのが氏の強調するところです。

 マネジメントは組織メンバー全員がやるべきこと。つまり、こうだ。なぜ出世すると負担が増えると思い込むのかと言えば、本人だけでなく、メンバーも全員がマネジャーの仕事を拡大解釈しているからだというのが氏の見解です。やらなくてもいい仕事まで背負い込み、自分の本来やるべきことができなくなる→結果、多くの人が「割に合わない」」と思い込んでしまうということです。

 では、(組織として)どう対応したらよいのか? 氏は、問題解決のために意識すべきこととして、以下①から③までの3つを挙げています。

  • マネジャーの定義をハッキリさせること
  • 部下育成の責任範囲を明確にすること
  • 若者へしっかり啓蒙すること

 特に①のマネジャーの定義をハッキリさせることに関し、メンバーシップ型雇用が馴染んだ日本企業は、(これまで)下位マネジャーにいろいろな仕事を押し付ける傾向が強かったと厳しく指摘しています。

 たとえば部下というリソースに不足分があるのは、果たしてマネジャーの責任と言えるのか。本人の責任かもしれないし、採用部門の責任かもしれない。こうした部分についてマネジャー職の役割を定義して周知徹底させたことにより、マネジャー以外のメンバーの意識が劇的に変化した企業の例などもあるということです。

 何でもかんでもマネジャーの仕事ではないし、職人仕事ならともかく、そうでなければ自分自身で勉強して成長するのは基本中の基本。責任範囲をしっかりと明確にすることで、マネジャーの心の負担は確実に軽減されると氏は言います。

 そのためには、まずは若者たちに、しっかりと当事者意識を持たせること。このような啓蒙は個々のマネジャーに任せるのではなく、必要に応じ外部の専門講師などに頼んで定期的に啓蒙するべきだということです。

 「子離れ」が必要な親と同じように、マネジャーも「部下離れ」が必要だと横山氏はこの論考の最後に記しています。決して、「私がいないと、部下は何もできない」などと思い込まないこと。背負い込めば背負い込むほど、次世代のマネジャーのなり手がいなくなると話す氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2610 子どもはケーキの上のサクランボ

2024年07月17日 | 社会・経済

 去る7月7日に投開票された東京都知事選挙。三選出馬を決めた現職の小池百合子知事に対し、「小池都政をリセットする」として立候補し選挙戦を盛り上げたのが、立憲民主党の論客として知られる参議院議員の蓮舫氏でした。

 いわゆる「55年体制」が崩れ政権交代による旧民主党政権が誕生した2009年、これまでの自民党政権の予算事業の無駄を洗い出す「事業仕分け」で急先鋒に立った蓮舫氏。農林水産省、文部科学省、防衛省を担当する「仕分け人」として、スーパーコンピュータの開発支援に関連して放った「一番でなきゃダメですか?」「2位じゃダメなんでしょうか?」との発言は、民主党政権を代表するフレーズとして広く知られるようになりました。

 それにしても、なぜこの言葉が(時代に対して)これほどまでのインパクトを与えたのか。その理由は、昭和の時代を生きてきたそれまでの日本人が、子供のころから「一番でなければダメ、二番以降はすべて同じ」「金メダルだけがメダルで銀メダル以下はすべて同じ」と親や上司から教えられてきたからと言えるかもしれません。

 先の敗戦から復興を遂げる中で、いつも完璧でなければならない、すべてにおいて完璧でなければならないという価値観に囚われてきた日本人。そこで発せられた「別に2番でもいいんじゃないの…」という緩い言葉が、(思ったよりも強いインパクトをもって) 世論の批判の的となったのを思い出します。

 「ちゃんとしなくては」「いい加減で良いはずがない」…私たちの発想から消えることのないこうした(真面目な)思いは、日本の社会にどのような影響を与えているのか。

 そんなことを考えていた折、6月3日の日本経済新聞に(世界的に進む少子化に関連して)フィンランド人口研究所長アンナ・ロトキルヒ氏へのインタビュー記事(「背景に若者の完璧主義」2024.6.3)が掲載されていたので、参考までにその概要を残しておきたいと思います。

 かつて、出生率と女性の労働参加率の高さで有名だったフィンランド。しかし、今や状況は一変し、2023年の合計特殊出生率は1.26まで下がったとロトキルヒ氏は話しています。要因の4分の3は、子どもを1人も産まないか、初産の遅い女性の増加にあるとのこと。こうした現象は、ほかの多くの先進国でも起きているということです。

 思えば、人類の歴史の中でも未曽有の奇妙な時代を迎えていると氏は言います。歴史の大半で女性は2~3人の子どもを産んできた。ところが教育や相続が重要になると、子どもの数を制限するようになる。そしてついに子どもを全く産まない人が増えてきたというのが氏の認識です。

 先進国の人々が子どもを持たなくなった理由はいくつかある。教育水準が高く、キャリアを優先する若者たちが、一定の実績を積み上げるには時間がかかると氏はしています。気づいたときにはもう35歳や40歳。パートナーの不在や生殖能力の低下などにより、子どもを持てない現実に直面するということです。

 氏によれば、こうした状況をあるフランス人ジャーナリストは、「子どもはケーキのうえのサクランボ」と評したとのこと。(それは)教育やキャリアを築いた上で、最後にくるのが子どもだということです。

 そこには、親になるためのハードルを若者が自分で高めている面もあると氏はこの論考で指摘しています。

 「親になる準備ができていない」という言葉をよく聞く。例えば、日本でもほとんどの人が住居に独立した子ども部屋があるべきと思うかもしれないが、世界の多くの地域で住宅事情が厳しいなか、(それは)完璧を求めすぎているというのが氏の見解です。

 こうした価値観や社会構造の変化に、伝統的な家族政策では十分に通用しないと氏は話しています。フィンランドは育児休業や託児所、住宅などの手厚い子育て支援で成功したと一時は言われた。しかしこうした政策は2人目、3人目の子どもを産む後押しになるものの、1人目を促す効果は弱いということです。

 では、どうしたらよいか。まずは、子づくりを含めた人生設計を若者たちに正しく伝えるべきだというのが氏の考えです。家族を持ちたい場合の計画の立て方を、教育やキャリアプランも含めて教える必要があるというのが氏の見解です。

 一方、親になることが素晴らしいと若者に思わせる必要もあると氏はしています。若者の多くは親になると人生はつまらなくなり、もうおしまいだと考えている。親になることが素晴らしいことで、社会的ステータスだという認識が広がれば、状況は変わるかもしれないというのが、氏の期待するところです。

 翻ってこの日本でも、気が付けば親の「責任」ばかりが強調され、子供を産んだり育てたりすることを、つらく厳しいものとしてとらえる考え方がさらに加速しているような気がします。

 確かに、経済の停滞や世代間格差の拡大が叫ばれる中、完璧主義で失敗を恐れるナイーブな若者たちが、メディアやシニアたちが垂れ流す「子育ては大変」といったメッセージに感化され、「自分には無理…」と考えるのも判らないではありません。

 そうした中、少子化は今どきの若者が利己主義で勝手だからだと批判するのは簡単ですが、それを口にしているのは(大概の場合)完璧主義を装いながら「子育て」を奥さんに任せっきりにしてきた世の中のオジサンたち。若い世代に「おま言う」(←「お前が言うな」の略)と言われても仕方がありません。

 さて、結果として件の蓮舫氏は都知事選に痛い敗北を喫しましたが、「別に2位でもいいんじゃない?」という彼女の言葉について言えば、令和の若者たちに向け我々昭和の世代が発すべき(今でも十分に)意味のあるメッセージなのかもしれません。

 ロトキルヒ氏によれば、特に若い女性は社会規範や期待に対してとても敏感である由。なので、先輩である女性政治家の皆さんには、(引き続き)是非こうしたメッセージを強く発信してもらえたらいいと結ぶ氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。


#2604 定額減税と特別徴収

2024年07月03日 | 社会・経済

  業種による税金の不公平を象徴する表現として、「クロヨン(9:6:4)」とか「トーゴーサンピン(10:5:3:1)」といった言葉を耳にしたことのある人も多いでしょう。

 ここで言う「クロヨン(9:6:4)」とは、課税庁による所得捕捉率の業種間格差指す言葉。実際の所得を10として、そのうち税務署などが把握しているのは①サラリーマンなどの給与所得は9割、②自営業者などの事業所得は6割、③農業や水産業などでは4割といった、「相場観」を示しています。

 一方の「トーゴーサンピン(10:5:3:1)」は、こちらも税務署が把握している所得の割合を指すもの。①すべてを把握されているサラリーマンは10割、②自営業者などの事業所得は5割、③農業や水産業を営む事業者は3割、そして昨今政治資金パーティなどで話題となった政治家の所得は1割しか把握されていないという実態を示す言葉として広く知られています。

 とはいえ、いずれの場合も1円単位でつまびらかにされ、逃げ隠れできないのがサラリーマンの給与所得であることに変わりはありません。そして、それを支えているのが、(給与支給の段階で事業主が税額を源泉徴収するという)日本独特の「特別徴収制度」にあることに異論はないでしょう。

 一方、昨年11月に政府が閣議決定した「総合経済対策」に鳴り物入りで盛り込まれたのが、(国民1人当たり4万円を減税する)という「定額減税」というもの。ネット上で「増税メガネ」などと揶揄され続けてきた岸田首相と自民党政権の、起死回生をねらった打開策です。

 とはいえ、その内容は一年限りの単発減税で、支持率回復の意図があまりに見え見えなだけに、政治的な「人気取り」として評判は芳しくありません。「バラマキ」との批判が高まる中、国民に減税を実感してもらうことを目的に、給与明細に減額を明記するよう事業主に求めたことで、政権はさらに評判を落としたようです。

 そうした中、6月5日の総合情報サイト「Newsweek日本版」に、経済評論家の加谷珪一(かや・けいいち)氏が『定額減税を、給与明細に「明記させたい」政府の「屈折した思い」』と題する一文を寄せていたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。

 政府が6月に実施する定額減税について、給与明細に明記するよう求めたことが波紋を呼んでいる。企業側は「手間がかかる」として反発しているが、この話は、企業に税務を代行させるという源泉徴収の仕組みに起因したものであり、戦後日本の税制や国民の税に対する無関心と密接に関係していると、加谷氏はこの論考に綴っています。

 氏によれば、終戦後、日本は占領したアメリカ軍(GHQ)から、直接税を中心とした税制に改めるべきとの指摘を受けた(シャウプ勧告)とのこと。この指摘は、国民が税について理解し、納税者としての意識を高め、民主主義を推進する必要があるとの観点で行われたものだと氏は説明しています。

 しかし、日本政府は一連の勧告を全て受け入れることはしなかった。戦費調達のために導入した源泉徴収制度をそのまま残す形で、現在の税制を作り上げたということです。

 (戦前から続くこの)源泉徴収制度は、国民がいくら必要経費を使ったのかにかかわらず、一方的に所得の源泉(給与など)から税金を差し引くというもの。(実態よりも)効率を重視した、税の徴収を最優先した仕組みだと氏はここで指摘しています。

 サラリーマンの場合、一定金額が経費であると見なされ給与所得控除が適用されるが、その金額について納税者自らが調整することはできない。加えて、税額の計算や納付といった業務は全て企業が代行する仕組みなので、政府は真水(税金)だけを手にできる算段だということです。

 この仕組みの問題点は、納税者は給与明細を通じて税額を知ることはできるものの、(自身で申告は行わないので)税に対する強い関心がなければ自身がいくら税金を払っているのか分からないという状況に陥りがちなことだと氏は言います

 政府がアメリカの意向を無視して源泉徴収制度を維持したのは、戦後の貧しい時代において税収確保を優先するためだったと思われる。しかし、現在も当該制度を残しているのは、あえて国民に納税者意識を植え付けないためだと指摘する声もあるということです。

 本当のところはわからないが、企業に税務を丸投げする制度が存在することで、国民の税に対する認識が薄くなっているのは間違いないというのが、この問題に対する加谷氏の見解です。政府としては、国民が税に対して無関心であることは好都合なはず。しかし今になって、(定額減税をやるから)税金について意識してほしいというのはもはや笑い話だということです。

 この際、シャウプ勧告における本来の趣旨にのっとり、全員が確定申告するようにすれば、定額減税の効果について国民は強く実感するはず。しかし、もしそのようなことをすれば納税者意識が一気に高まり、政府の予算には国民から厳しい目が向けられることになるだろうと氏は話しています。

 その意味では、今回の定額減税をきっかけに、日本の所得税の在り方についてゼロベースで議論してみるのもいいかもしれない。もっとも、アメリカのような確定申告制度に移行するには、国民の側にも(それなりの)覚悟が要るというのが氏の認識です。

 現制度において政府は、源泉徴収制度で強制的に税金を差し引く代わりに、「給与所得控除」や「基礎控除」「配偶者控除」など多数の減税措置を提供してきた。つまり源泉徴収を実施する代わりに、実質的な所得税額はかなり低く抑えられてきたと氏は話しています。

 そもそも、平安時代の昔から「泣くこと地頭にはかなわない」と口にしてはばからなかった日本人のこと。(嫌も応もなく)お上によって召し上げられるのが「税」であり、残った給料こそが「稼ぎ」だという感覚もあるのでしょう。

 一方、欧米各国尿のように、サラリーマンも含め全員が確定申告をするになれば、厳密に認められた経費しか控除できなくなるのもまだ事実。その際、国民は改めて税金の高さに驚くかもしれないと話す加谷氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2600 円安は日本経済の救世主?

2024年06月25日 | 社会・経済

 6月20日のニューヨーク外国為替市場では、FRB(米国連邦準備制度理事会)による利下げが遅れるという見方から円安が進み、円相場は一時、1ドル=159円台に迫る2か月ぶりの円安ドル高水準に達したと各メディアが報じています。

 かつては輸出を後押しするとして歓迎されてきた円安ですが、近年は輸入品価格の上昇を通じて家計を圧迫するなどの(深刻な)悪影響が指摘されています。

 国内産業では、特に大企業に比べるとサプライチェーンの多重構造のなかで立場の弱い中小企業への影響が懸念されており、経営体力に乏しいことから円安によるコストアップが経営に大きなマイナスの影響を与えているケースも多いようです。

 また、例え大企業であっても輸入関連商品を扱う企業では、円安による仕入コスト上昇の影響を受けやすい一方で(特に販売先が消費者である場合は)価格転嫁が進みづらく、採算の悪化につながりやすい傾向があるということです。

 こうして、円安は日本経済の競争力を低下させ、実力低下がまた円安を促すといった負のサイクルを形成していくということでしょうか。しかし、その一方で専門家の間には、現在の円安を(長年のデフレで弱った)日本経済の「救い」とみる向きもあるようです。

 6月21日のビジネス情報サイト「東洋経済ONLINE」に、エコノミストの村上尚己氏が『円安によって多くの日本人は再び豊かになる』と題する一文を寄せていたので、参考までに小欄にその概要をここに残しておきたいと思います。

 1985年以来の円安水準となる1ドル=160円に近づく中、「通貨安=日本衰退の象徴」との思いなどから「円安が止まらなければ、経済状況が悪くなる」との考えを抱く人は多い。しかし、アメリカの金利上昇や金利の高止まり期待によって続いている現在の円安が「行きすぎたもの」との議論に、私(←村上氏)は強い違和感を覚えていると氏はこの論考の冒頭に綴っています。

 2022年から円安に拍車がかかり、それが長引いていることは、日本経済の成長率を高めて2%インフレの定着をもたらす。大幅な通貨安は、完全雇用には至っていない日本経済にとっては望ましく、将来にわたって日本人の生活を豊かにする可能性が高いというのがこの論考における氏の認識です。

 具体的に見ていこう。2024年の1ドル=150円台での推移は、IMF(国際通貨基金)が算出するドル円の購買力平価(1ドル=約90円)からみると、実に40%以上も割安になっている。これは、輸入企業などからみれば円の購買力が40%目減りしているということだが、同時に、日本企業が供給する製品やサービスが40%以上割安であり、価格競争力が高まっていることになると氏はしています。

 大幅な円安が、日本の企業利益を過去最高水準に押し上げるだけではなく、日本企業の対外的な価格競争力を強めている。また、製造業の「中国離れ」から国内回帰が進むとともに、サービス輸出である訪日外国人によるインバウンド需要も大きく増えているということです。

 企業の価格競争力の高まりは、製造業に加えて観光サービスなどの国内企業にも広がっており、こうした状況が数年続けば経済成長率を長期的に高めるだろう。場合によっては、かつてアメリカの背中を追って経済成長していた40年前のような輝きを、日本経済が取り戻しても不思議ではないと氏は言います。

 そこで、政府は一定の円安進行を許容しつつ、また日本銀行は2%の物価安定実現にむけて腰を据えて政策運営を続けることが、日本経済にとって最善の策になると考えているというのが氏の指摘するところです。

 日本銀行による適切な円安許容姿勢が続けば、日本経済は今後5年以上にわたり高成長を享受できるだろうと、村上氏はこの論考で予想しています。1990年代半ばからの日本経済の長期停滞期の経緯を、われわれは思い出すべき。当時は日本だけがデフレに苦しんでいたわけだが、現在はこの流れが逆回転しているというのが現状に対する氏の見解です。

 振り返れば、長期デフレが始まったきっかけは、1995年に1ドル=79円台まで急速に円高が進むなど「苛烈な通貨高」が起きたことにあった。1995年時には、購買力平価と比べると実に2倍に近い超円高であり、必然的に多くの日本企業が価格競争力を大きく失ったと氏は話しています。

 ドル安円高がデフレ期待を高め、その後のデフレと経済停滞を招く中で、マクロ安定化政策の失政が続いた。そしてその帰結として、通貨円の価値が恒常的に割高な状況、デフレと経済停滞の負の構造が長期化する状況が2012年まで続くことになったということです。

 デフレと通貨高がもたらした「失われた20年」から抜け出すため、第2次安倍政権誕生とともに、2013年からの日本銀行による金融緩和が講じられた。そしてそれをきっかけにデフレと行きすぎた通貨高が解消され、近年日本経済はようやく成長軌道に戻りつつあると村上氏はこの論考に綴っています。

 現在の円安進行は円の購買力低下を招くが、経済正常化の最後の後押しとなり、日本企業の価格競争力を復活させ、長期的に経済成長を高める。そして、1995年までの大幅な円高とデフレのダメージで日本人が貧しくなったことと反対に、(大幅な円安が続けば)今後多くの日本人の生活水準を高めることになるということです。

 金融引き締めを慎重に進め、円安を長引かせる政策運営を植田和男総裁率いる日銀は続けたほうがよいと、氏はここで改めて指摘しています。実際、日本銀行は引き締め政策を慎重に進めるのではないか。かつて「デフレの番人」と国内外から批判された日本銀行が、時期尚早な引き締め政策に転じる可能性は低いだろうと話す村上氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2598 「国民年金」納付期間延長の論点

2024年06月21日 | 社会・経済

 厚生労働省が公的年金の将来の給付水準を見通すために実施する、5年に1度の「財政検証」。この夏に行われる検証では、国民年金保険料の納付期間を5年間延長し20歳から65歳になるまでの45年間にした場合や、厚生年金の加入要件を緩和した場合の影響などを試算するとされています。

 公表される試算結果を踏まえ、政府は年末までに具体案を詰め、来年の通常国会に法案を提出するとのこと。「100年安心」を目指す年金制度を維持するためとはいえ、試算の結果が保険料に直結するだけに、メディアを中心に既に様々な指摘が行われています。

 そうしたものの中でも、今回最も注目されているのは、納付の5年延長であることは論を待ちません。少子高齢化が想定以上に進む中、高齢でも働ける人は働き、なるべく「支える側」に回ってもらおうという理念はわかります。しかし、自営業者など5年間で約100万円の負担増になると聞けば、「話が違う」「納得がいかない」とする人も多いようです。

 そうした折、5月15日の総合情報サイト「Newsweek日本版」、経済評論家の加谷珪一(かや・けいいち)氏が『総額100万円ほどの負担増...国民年金の納付「5年延長」案はなぜ避けて通れない議論なのか?』と題する一文を寄せていたので、参考までに小欄にもその概要を残しておきたいと思います。

 まずは、国民年金の納付期間を65歳まで延長する案について。多くの国民が勘違いしているのだが、(確認しておけばこれは)平均的なサラリーマンにとっては(ほぼ)関係のない制度改正だと、氏はこの論考の冒頭で説明しています。

 日本の公的年金は、全国民共通の国民年金とサラリーマンだけに適用される厚生年金の2階建てとなっており、今回、議論の対象となるのは国民年金の部分。現在の国民年金は20歳から60歳までの40年間保険料を納める仕組みとなっており、これを5年延長して65歳までにしようというのが主な変更点だということです。

 一方、企業で働くサラリーマンは、本人が希望すれば65歳まで継続雇用することが義務付けられている。このため、現在でも多くのサラリーマンが65歳まで働き、厚生年金と併せ国民年金の保険料を自動的に納めていると氏は言います。

 なので、国民年金の納付が65歳まで延長になったとしても、もともと65歳まで働いて保険料を納める予定だった人の負担増にはならない。そこで(純粋な意味での)負担増となるのは、①60歳で国民年金の納付が終了する自営業者と、②60歳で引退し、その後は働く予定のないサラリーマンだということです。

 さて、この人たちは、60歳以降は保険料を納めないはずだったので、延長になった分だけ納付額は確実に増える。現在、国民年金の1カ月当たりの保険料は1万6980円なので、5年間納付が延長されると総額100万円ほどの負担増となると氏は話しています。

 一方、この人たちが受けている国民年金の給付額は、現時点で月当たり約6万6000円とのこと。厚生年金に比べてかなり低く見えるのは、この金額は仕事を続けて収入を得ることを前提にしているためで、自営業者などには定年がなく、一定の収入は継続的に確保できていることを前提としているからだということです。

 しかし、国民年金のみの給付対象として急増が見込まれている非正規社員などの場合、高齢になってから継続雇用される保証はなく、しかも経済的事情から保険料を満額納めることができない。今後はインフレが加速する可能性が高まっており、このままでは生活が成り立たなくなる高齢者が続出するのはほぼ確実だというのが氏の見解です。

 年金の底上げを実施しなければ、結果的に生活保護の支出が増えるので、政府にとっては(保険料が入る)年金を増額するほうが望ましい。さらに保険料の納付期間を延長すれば、その分だけもらえる額も増え、現時点では年間10万円ほど受給額が増えると予想されているということです。

 さて、国民年金の加入者は約1400万人。このうち低所得などを理由にした一部・全額免除が380万人いて、さらに学生など納付猶予されているものが230万人、未納者が90万人いるので、(結局のところ現在でも)保険料を満額支払っている人は全体の約半数の700万人に過ぎません。厚生年金などと違って社会的弱者が多く、全額納付者が半数に過ぎないため、国が2分の1を国庫負担して給付を支えているのが現状です。

 結局のところ、年金生活者全体の底上げを図るには、足りない財源を誰かが負担しなければならないということ。納付期間を65歳まで延長することで、そのほとんどが65歳まで保険料を納めるサラリーマンとの不公平感が少しでも解消されるのであれば、それ自体はやむを得ないことなのかもしれません。

 そして最も懸念されるのは、納付期間が(45年間に)延びることで、本当に65歳以降に受け取る受給額が増額されるかどうかという点でしょう。支払いが増えるからには受け取りも増えなければ、それこそ「騙された」ということにもなりかねません。

 「年間10万円と聞くと小さな額に感じる人もいるかもしれないが、わずかな年金しか受給できない高齢者にとって年間10万円は大きな違いだ」…そうこの論考を結ぶ加谷氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2597 消滅自治体と地方創生の欺瞞

2024年06月19日 | 社会・経済

 有識者グループの「人口戦略会議」は4月24日、全体の自治体の約4割にあたる744自治体で2050年までに20代から30代の女性が半減、「最終的には消滅する可能性がある」とした分析を公表しました。

 この分析は、国立社会保障・人口問題研究所の推計をもとに「若年女性人口」の減少率を市区町村ごとに整理したもの。これらの自治体はこのままでは人口の急減が想定され、最終的に消滅する可能性があるとしています。

 安倍晋三首相(当時)の唱えた「地方創生」の名のもとで大きな話題を呼んだ、10年前の分析結果よりも「消滅可能性自治体」は152少なくなっているものの、少子化や人口減少といった大きな動きに変わりはありません。人口戦略会議の報告書には、「実態として、少子化の基調は全く変わっておらず、楽観視できる状況にはない」と記されています。

 また、今回の分析では、出生率が低くほかの地域からの人口流入に依存している25の自治体を、(あらゆるものを吸い込むブラックホールになぞらえ)「ブラックホール型自治体」として位置付けているのも特徴です。

 25の自治体のうち、東京都心に位置する(新宿区、品川区、渋谷区などの)特別区が16を占めており、こちらも話題を呼んでいます。若い女性を吸い込むだけ吸い込んでおいて(出産という)結果を残さない。ま、この調査自体、ずいぶん「上から目線」のような気もしますが、それだけ日本の将来に危機感を感じている(有識者の)おじ様たちが多いと考えれば、納得もいこうというものです。

 「消滅」だとか「ブラックホール」だとか、厳しい言葉で名指しで指定された自治体から反発の声も上がっている同報告に関し、5月25日の日本経済新聞のコラム「大機小機」に、『再びの「消滅自治体」論に思う』と題する一文が掲載されていたので、参考までに小欄に概要を残しておきたいと思います。

 全国の自治体の約4割に消滅可能性があると結論付けた「人口戦略会議」の報告書。2014年の前回(896)よりは減ったものの、744の自治体に消滅の可能性があると聞けば、誰もが「これはまずい」と思うだろうと、筆者はこのコラムに綴っています。

 消滅自治体論が、人口減少についての危機感を高めるという役割を果たしていることは確かだが、「消滅」という表現は刺激が強すぎて誤解を招きやすい。そもそも消滅可能性自治体は、人口減少が続く可能性の高い自治体をグループ分けしたもので、数十年のうちに消えて無くなるわけではないというのが筆者の認識です。

 そもそも、今後数十年かけて日本全体の人口が減ることは避けられない。なので、国内の自治体全てに消滅可能性があるとも言えると筆者は言います。

 思えば2014年以降、消滅自治体論に後押しされ進められた「地方創生戦略」は、地方創生と人口減少という2つの課題を同時解決しようとするものだった。政府が人口抑制策として各自治体に地方創生交付金を配ったのも、地域が人口減少を食い止めれば、日本全体の人口減も抑制される。また、地方からの人口流出が抑制されれば、人口の大都市圏集中も抑制されるはずだと考えたからだったということです。

 しかし、結果、その後も少子化の流れは止まらず、人口の大都市圏集中も続いている。つまり、(政府の画策した)地方創生と人口減少対策の同時展開作戦は失敗だったというのが筆者の見解です。

 その敗因はどこにあるのか。それは、国が担うべき人口減少対応策を、地方に割り振ってしまったことにあると筆者は指摘しています。

 確かに、転入人口を増やして人口減に歯止めをかけるのに成功した自治体もある。しかし、その多くは手厚い子育て支援に引かれた子育て世代または将来の子育て世帯が転入してきたため。勤務先はそのままで、子育てのしやすい地域を選んだ結果だと筆者は話しています。

 この場合、勤務先は変わらないので、移動は同一経済圏内にとどまり、大都市圏集中に変化は起きない。また、同一経済圏内での子育て世帯の数が増えるわけではないので、自治体間で子育て世帯の獲得競争というゼロサムゲームが行われるだけだということです。

 地域が自らの地域の人口をコントロールできる力は弱い。(また、そもそも論として)人口減対策は国の課題であり、国が責任を持つべきだというのがこの論考における筆者の見解です。

 結局のところ、自治に対応を「丸投げ」し、競わせることでいくら「やってる」感を醸し出しても、所詮はパイの奪い合いをさせているだけ。10年たっても結果が出ていないのは、政府の本気度が足りなかったと言われれば返す言葉もないでしょう。

 地域は地域で今いる住民たちのため、政府にはもっとやらなければならないことがある筈。地域は無理な人口目標の達成を目指すようなことをせず、子育て世帯に限らず地域住民全体のウェルビーイング(心身の健康や幸福)の向上を目指すべきだと結論付けるコラムの指摘を、私も「さもありなん」と読んだところです。


#2596 日本社会の弱点は変わらない

2024年06月17日 | 社会・経済

 2025年大阪・関西万博が、4月13日で開幕1年前を迎えました。しかしその一方で、「万国博覧会」という国家的なイベントに世の中が浮き立っている観はなく、メディアなどでは延期や中止を求める声が飛び交っているといっても過言ではありません。

 能登半島地震からの復興を踏まえ、共同通信が今年2月に実施した世論調査では、大阪・関西万博を「計画通り実施するべきだ」としたのは約4分の1の27.1%に過ぎず、「延期するべきだ」が27.0%、「規模を縮小するべきだ」が26.7%、「中止するべきだ」が17.6%と、回答者の多くが計画変更を求めている状況です。

 一体この大阪・関西万博は、なぜこれほどまでに敬遠されているのか。当初の計画の約2倍となる2350億円を見込むこととなった会場整備には、国や府、市などから多額の税金の投入が予定されており、期待の海外パビリオンの建設スケジュールの大幅な遅れも伝えられています。実際、開催までの期間が1年を切った現在でも、着工はわずかに十数カ国(4月上旬時点)。関西経済界の逃げ腰とともに、負担増や課題ばかりがクローズアップされる現状に、期待感もなえてきたといったところでしょうか。

 さらに今年の元旦には能登半島地震が起こり、世論からは「万博どころじゃない」との声も聞こえてきます。とはいえ、あれだけ(事前には)不評だった東京五輪も、気が付けば大きな盛り上がりを見せたこの国のこと。始まってしまえばこっちのもの。何とかなるだろうと高を括っている関係者も多いのかもしれません。

 それにしても、これだけ「開催を見直せ」との厳しい声が上がっているにもかかわらず、政府・地元ともにそうした動きがみられないのはなぜなのか。5月9日の総合情報サイト「Newsweek日本版」に、経済評論家の加谷珪一(かや・けいいち)氏が『大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋戦争の敗北」を招いた日本社会の大きな弱点とは?』と題する論考を寄せていたので、小欄にその一部を残しておきたいと思います。

 大阪・関西万博の開催まで1年を切った。プロジェクト管理が杜撰さもあって開催までに建設が間に合わないケースが出てくるのは確実で、中途半端なイベントになる可能性が日増しに高まっていると氏はこの論考に記しています。

 万博の準備不足が露呈した昨年以降、国民の一部からは中止や延期を求める声が上がっていた。万博については(対外的な関係からむやみに中止することが得策とは限らないが)、それでも開催の是非についての国民的な議論は一切行われず時間だけが経過したというのが、現状に関する氏の感覚です。

 日本社会には、一度、物事を決めるとそれに固執し、状況が変わっても止められないという特徴があると、氏はここで厳しく指摘しています。復活の見込みがない国内半導体企業に血税を投じ、20年にわたって国策半導体企業への支援策を重ねたり、過去3度も失敗してきた国産旅客機の開発計画を執拗に進めたり。氏によれば、止められない事により傷口を広げた事例はそこかしこに見られるということです。

 これらは個別のプロジェクトなので、最悪、投じた資金を諦めるだけで済む。しかし、国家全体の趨勢がかかった決断において失敗が明らかになった際、撤退の決断ができないことは時に致命的な影響をもたらすと氏は改めて指摘しています。

 経済規模が10倍もあるアメリカと全面戦争を行い、国土の多くを焼失した太平洋戦争の敗北は、まさに止められない日本を象徴する歴史だった。リスクを承知でスタートし、効果が十分に発揮できないことがわかっても撤退の決断ができなかったアベノミクス。グローバル化とデジタル化が進んだ世界経済の変化を無視し、30年間もかたくなに従来型ビジネスモデルに固執した日本の産業界全体にも同じ傾向が見て取れるということです。

 特にアベノミクスについては、効果が十分に発揮されない可能性があることは何度も指摘されていた。加えて、大規模緩和策は副作用があまりにも大きく、過剰な国債購入がインフレ圧力となって返ってくることも当初から分かっていたはずだというのが氏の指摘するところです。

 結果、緩和策の実施によって一定のインフレ期待は生じたものの、実体経済の回復に寄与していないことは、実施3年目あたりから明確だった。もしもコロナ危機前に撤退を決断していれば、今のような際限のない円安は回避できたかもしれないと氏は言います。

 日本の産業界も、1990年代以降、国際競争の枠組みが大きく変化したにもかかわらず昭和型の手法に固執し、多くの企業が莫大な損失を抱えた。デジタル化の流れが誰の目にも明らかとなった2000年代に経営改革を実施していれば、ここまでの低賃金にはならなかった(はずだ)ということです。

 結局のところ、決断ができないということは、組織として責任の所在がはっきりせず、事なかれ主義が横行していることにほかならないと氏はしています。規模の大小や分野にかかわらず似たような現象が何度も観察されるのは、明らかに日本社会に共通する弱点といえる。国家の衰退が鮮明になっている今、もう見て見ぬフリはできないと話すこの論考における加谷氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


#2594 為替市場への介入がもたらすもの

2024年06月12日 | 社会・経済

 4月29日、ドル円相場が160円を一時突破したことを受けて、財務省は円安ドル高是正を目的とした為替介入に踏み切ったと伝えられています。同省は為替介入を行ったかどうかの明言は避けていますが、ドル円相場の値動きや日銀当座預金の動向からは、加えて5月2日にも為替介入が実施された可能性が高いとされています。

 その規模は、4月29日が5兆4,000億円程度で、5月2日は3兆7,000億円程度と推測される由。大きく値下がりした円を9兆円を超える公金で買い支えるとは、「何ともったいないことを…」と考える向きも多いかもしれませんが、実際はこの介入で日銀が大きく利益を上げていると聞けば、なになら狐に鼻をつままれた気分にもなろうというものです。

 一般人の誤解を招くその辺の仕組み(からくり?)に関連し、5月9日の日本経済新聞の経済コラム『大機小機』に「もうかる介入は良い介入でも…」と題する一文が掲載されていたので、参考までに小欄にその一部を残しておきたいと思います。

 大型連休のさなかの4月29日と5月2日に政府・日銀が踏み切ったとされる円買い・ドル売りの為替介入。介入の狙いは円の急落防止だが、実はそこには思わぬ副産物があると筆者はこのコラムに綴っています。今回の場合、円高の時代に安値で購入していたドルを、高値で売却することになる。結果、相当の利益(実現益)が生じているはずだということです。

 財務省からは、1991年分からの介入実績のデータが公表されており、(それを見ると)2024年3月末までに合わせて、A円売り・ドル買い介入が79兆8237億円、B円買い・ドル売り介入は14兆674億円行われたことがわかる。Aで購入したドルからBで売却した分を差し引いた金額のドルを、政府は(その間の)介入に伴い保有していると筆者は話しています。

 これを最近の1ドル=160円で円換算すると、その額は109兆円あまりとのこと。現在、政府は(円換算で)100兆円規模の資金をドルで保有していて、必要に応為替市場に向け介入の動きを見せることができるということです。

 そこで、(問題の)今回の介入でどれだけの利益を見たかという話です。Aドル買い介入の際のドル円相場は平均で101円70銭で、一方のBドル売り介入の時は平均で139円40銭とのこと。つまり、(均すと)101円70銭で買ったドルを139円40銭で売ったことになるので、1ドル当たり37円70銭の利益が出た勘定だというのが記事の計算するところです。

 そして4月29日、160円で、財務省は新たにドル売り介入に踏み切った。つまり、1ドル当たりで160円から101円70銭を差し引いた58円30銭が、介入で生じる利益であり、例えば5兆円の介入であれば1.82兆円の利益が生じているはずだということです。

 さらに財務省は、5月2日にもおよそ3兆円規模の介入を行ったとみられており、その時の相場水準で考えると(ここでも)1.05兆円の利益が生まれているはずだと筆者はしています。合わせて3兆円程度にのぼるこの利益は、帳簿上の利益ではなく手元に残る実現益、税外収入として国庫に納付されるということです。

 実は一昨年(2022年)9月と10月のドル売り介入でも数兆円規模の実現益が生じているはずで、こうしてみるとドル売り介入は財務省にとって「打ち出の小づち」ともいえると筆者はこのコラムに記しています。

 だが、売ることのできる手持ちのドルには限りがある。1991年以降のドル買い介入で(円高の際に安値で)積み上げたドルは円換算で前出の109兆円。だからと言ってむやみに介入を連発するわけにはいかないというのが筆者の指摘するところです。

 さて、2022年度の日本の税収は、総計で71兆円。うち、消費税だけでも23兆円という話ですので、為替介入で得られた利益が(この2年程度の間に)数兆円から10兆円と聞けば、その規模の大きさ、影響力がわかります。

 一方、政府の一般会計とは別の「外国為替資金特別会計」(外為特会)で管理されている資金の残高は1兆2789億ドル(約200兆円)で、中国に次ぐ世界2位の規模とされている由。こうした状況に与野党からは、 「こんな莫大な外貨準備を保有していく必要があるのか」「埋蔵金として国の財源にすべきだ」との声が上がっているとの話も聞きます。

 「お金がない、お金がない」と言いながら、ある所にはあるということでしょうか。海千山千が集う外国為替市場において、訳のわからないまま翻弄されているのは誰なのか?ともあれ財務省のお歴々には、(私たちのお金を抱いて)このマネーゲームの海をうまく泳ぎ渡ってほしいものだと感じるところです。


#2592 誤解を招かないやり方もあったろうに

2024年06月08日 | 社会・経済

 6月4日、国土交通省は必要な型式指定の申請で不正行為が明らかになったトヨタ自動車(愛知県豊田市)に対する行政処分を行うため、職員による立ち入り検査を実施しました。同省は、併せて不正があったことを報告したホンダ、マツダ、ヤマハ発動機、スズキの各社に対しても、今後、順次検査に入るとしています。

 対象は各社計38車種にのぼるということで、このうちトヨタとマツダ、ヤマハ発は現在生産する6車種の出荷を既に停止しているとされています。

 本件に関しては、検査の前日(6月3日)にトヨタの豊田章男会長が記者会見を行い、「認証制度の根底を揺るがす行為で、自動車メーカーとして絶対にやってはいけない」と述べて陳謝しました。しかしその一方で、豊田会長は「国の認証試験より厳しい条件で行った」「安全性に問題はない」と説明したと伝えられています。

 えっ、どういうこと?厳しく試験したならその方がいいじゃない…と多くの人は思うでしょう。会長の弁によれば「日本国内における認証制度は、主に安全と環境の分野においてルールに沿った測定方法で、定められた基準を達成しているかを確認する制度。認証試験で基準を達成してはじめて車を量産・販売することが可能になるが、今回の問題は、正しい認証プロセスを踏まずに量産・販売してしまった点にある」という話。

 要は、お上の言ったとおりにやってなかったんでお灸をすえられた…ということのようです。豊田会長自身、「そうは言っても不正は不正。みんなで安心安全な交通流を作っていくのに、我々は認証の部分でやっちゃいけないことをやってしまった。そこはしっかり正してまいります」との反省の弁を語ったとされています。

 なんか随分と日本的。いわゆる「お役所仕事」の典型だなと嫌な感じを抱いていたところ、6月5日の総合情報サイト「Newsweek日本版」に在米ジャーナリストの冷泉彰彦氏が「自動車の型式指定申請での不正、海外に誤解を広めるな」と題する一文を寄せていたので、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。

 国土交通省が、トヨタ自動車、ホンダ、マツダ、ヤマハ発動機、スズキの5社への行政処分を検討しているとされる、型式指定申請を巡るこの問題。いずれも安全面での性能に問題がないことは各社確認済みということで、販売済のクルマについても回収や再整備を行う計画はないとされており、(国交省もこの方針に異議を唱えていないことから)本当に安全面には影響はないのだろうと、冷泉氏はこの論考に記しています。

 (今回問題視された細かい検査方法の違いは省きますが)つまりは、内容に問題はないが、国土交通省の定めたやり方ではないので違反は違反であるということ。氏によれば、これは「より厳しい条件で試験しているので、安全性は確認できる」ことから、「クルマを回収したり、再整備したりする必要はない」という(ある意味「玉虫色の」)結論だということのようです。

 さて、この問題については、形式主義に傾いた日本の行政が悪いのだから、縮小する国内市場向けに(意味のない)追加コストはかけられない自動車メーカーには一分の理があるだろうと氏は話しています。

 一方、自動車は一歩間違えば人の命に関わる乗り物。乗員を守らなくてはならないだけではなく凶器にもなるため、どんなに形式主義であっても厳密に国内法令を遵守することが大事という考え方も成り立つ。いずれにしても、今回の事件、あるいは官民の対立というのは純粋に日本国内の問題。とにかく販売された車両の安全性には問題はないということであれば、国内、そして国外のユーザーに対し(その点について)不安を拡大する必要はないというのが氏の認識です。

 そこで問題となるのは、この事件が「世界でも日本車の信頼を損ねている」とか、「各国でも報道」という流れだというのが、この論考で氏の指摘するところです。確かに日本での法令違反があったのは事実だが、問題の本質を考えるのであれば、厳しい欧州での基準はクリアしている。実際、事前検査の代わりに厳しい消費者保護行政のあるアメリカでも、対象車種に関して大きな問題は起きていないということです。

 それにもかかわらず、例えば東京発のある外電では、「大規模な不正」とか「幅広いテストの不正」というかなり激しい言葉で報道される状況が生まれている。少なくとも、内容を精査して「50度でいいのにより厳しい65度で衝突させた」とか「ずっと重い台車で試験した」「確実にエアバッグを発火させて保護性能を検査した」「左右入れ替えても同じ条件の場合に入れ替えて衝突検査をした」というようなことを理解していたら、このような報道にはならなかったはずだと氏は言います。

 また、過去の日本の自動車業界の歴史を知っていたら、「官民共同で世界を制覇したはずの日本の自動車業界で、官民が深刻な対立に至った不思議」というような(かなり)切り込んだ内容の記事にすることもできたはず。そのように書けば、今回の事件は純粋に日本ローカルの問題ということは誤解なく伝わったのではないかというのが氏の見解です。

 「大規模な不正」「幅広いテストの不正」と英語で発信すると、場合によってはグローバルなブランドイメージに関する大きな誤解を生む可能性が高いと氏はしています。実際、私も日経新聞で検査の(技術的な)細かい内容を追うまでは、神妙に謝罪する豊田会長の映像に、「また自動車業界の闇が炙り出されたのか」とかなりがっかりした気分させられたのを白状しなければなりません。

 いずれにしても、指導官庁、メーカー、メディアそろって日本的な旧弊が明らかにされた今回の事件。冷静に、しかも分かり易く状況を説明できる人が(各セクターに)もっとたくさんいてもいいはずなのにと、思わず感じたところです。


#2591 体験格差のリアル(その2)

2024年06月04日 | 社会・経済

 前回に引き続き、5月15日の総合ビジネス情報サイト「現代ビジネス」に掲載されていた、『「世帯年収300万円台」家庭出身の東大生が痛感した「体験格差」の厳しい現状』と題する記事の内容を追っていきたいと思います。

 若者たちがしばしば口にするようになった「親ガチャ」なる言葉。その本質的な意味に関し、同記事は、公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事の今井悠介氏の近著「体験格差」(講談社現代新書)の一部を紹介しています。

 子供たちが成長の過程でその心身に刻む「体験」の量や質の違い。そうした体験の格差が、子供たちの将来にも大きな影響を与える時代が訪れていると今井氏はこの著書で指摘しています。

 ここでいう「体験」とは、ピアノや水泳、サッカーなどの習い事だけでなく、旅行に行ったり、自治体の活動に参加したりすることも含むもの。恐ろしいことに、資金力の差によって生じる「経験値の差」は、学力にも影響しかねないというのが氏の認識です。

 世帯年収別にスポーツ系と文化系のそれぞれについての参加率を見ると、どの年収でもスポーツ系のほうが文化系よりも高い参加率となっている由。また、スポーツ系でも文化系でも、世帯年収が高いほど参加率が高くなっていると氏は指摘しています。

 具体的には、まずスポーツ系では、年収300万円未満の家庭で36.5%の参加率であるのに対し、600万円以上の家庭では59.8%と1.6倍を超える格差となっているとのこと。同様に文化系でも、300万円未満の家庭では17.6%の参加率である一方で、600万円以上の家庭で31.4%と、1.8倍近くの格差となっているという話です。

 文化系の「体験」では、音楽の参加率が最も高く、それに習字・書道が続く形となっているとのこと。世帯年収間での参加率の格差についても、音楽の方が習字・書道よりも大きくなっているということであり、様々な費用が掛かる音楽にその差が現れやすいようです。

 確かに明治の昔から、「ピアノを弾ける」というのは「お嬢さん」だったことの証のようなもの。貧乏人の倅がそろばん塾や習字の先生に通う一方で、良家の子女や深窓の令嬢は、教養のひとつとしてピアノやバイオリンくらいは嗜んでいるのが「あたりまえ」なのでしょう。

 いずれにしても、現状、スポーツ系であれ文化系であれ、「放課後」の体験の機会を一つ以上得ている割合は、世帯年収600万円以上の家庭であれば7割を超えているのに対し、300万円未満の家庭では半数に満たないと氏はしています。

 さらに、体験の格差は「習い事」ばかりで生まれるものではない。旅行やスポーツ、ボランティアなどの経験も、その後の階層形成に大きな影響を与えると氏は話しています。

 五感を伴う記憶は長期にわたって残りやすい。氏によれば、例えば旅行は学びの入り口の宝庫だということです。そして、知的好奇心を刺激された子どもは学ぶこと自体に前向きになるケースが多い。旅行一つとっても、子どもたちの学力格差を助長しかねないというのが氏の懸念するところです。

 さらに同書によれば、こうした体験数の差が、経済力とも連動しているという指摘もあるようです。富裕層は豊富な資金で望む限りの体験をさせる余裕があり、子どもの能力が伸びやすい。彼らは推薦入試に強く、就職においてもよい結果を残すことが予想されるとのこと。

 そして、様々な体験をした(そうした)子供たちが新たな富裕層へとなり替わっていくことになる。つまりそれは、体験活動を通して社会階層が再生産されているということだと氏は説明しています。

 一方で、貧困層は資金に乏しく、習い事や旅行をする(させる)余裕がない。子どもの体験活動自体に興味がないから、調べようとも思わない。すると、子どもの知的好奇心の成長は個々人の才覚に依存してしまい、一部の才能ある子ども以外は負のループから抜け出せないということです。

 さて、お金のない家の子供には、興味の切っ掛けや能力開花のチャンスすら与えられないというのは、それはそれで(なんとも)希望のない残念な話。確かに私自身、子供のころからピアノやスキーをやったり、海外旅行に連れて行ってもらったりしていたら、この人生もどんなに豊かなものになっていただろうと思わないではありません。

 一方、我が身を振り返れば(例えば耐え忍ぶことのできる根性だったり、人に共感できる優しさであったり)貧乏な家庭や、田舎暮らしの体験の中で身に着けられる貴重な感覚というものがあるのもまた事実。

 子どもたちには是非、それぞれの未来が開けるような様々な体験を(偏ることなく)積んでほしいものだと、記事を読んで改めて感じた次第です。


#2590 体験格差のリアル(その1)

2024年06月01日 | 社会・経済

 私がまだ義務教育を受けていた1970年代の半ばころまで、日本は「一億総中流」と呼ばれるような(高度成長と終身雇用に支えられた)世界有数の安定社会を自認していました。もちろん当時も裕福な家は極めて裕福でしたし、(対して)とことん貧しい家もありましたが、そんな中でもほとんどの人々は貧しいながらも慎ましい生活をしていたものです。

 一方、その後のバブル経済やその崩壊、失われた30年と新自由主義経済の浸透を経て、日本の社会でも貧困層と富裕層の格差が拡大。個々の家庭の状況においても、所得による分断が顕著になりつつあると言われています。

 「親ガチャ」の言葉が象徴するように、親が貧乏なら子どもは満足な教育機会に恵まれず、子どもも貧困になるという「貧困の連鎖」が指摘されるところ。実際、東大生の親の6割以上が年収950万円以上(日本の平均世帯年収は564万円、中央値は440万円)と聞けば、学歴や年収は「発射台の高さ」で決まるものといった声も無視するわけにはいきません。

 「親ガチャ」を口にする若者をただの「僻み根性」とスルーするのは簡単ですが、実際に彼らが成長するうえで、親の所得や子供への投資、そしてそこから得られる経験の差というものが、大きな影響を与えているのもまた事実のようです。

 そんなことを感じていた折、5月15日の総合ビジネス情報サイト「現代ビジネス」が、『「世帯年収300万円台」家庭出身の東大生が痛感した「体験格差」の厳しい現状』と題する記事において、公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事今井悠介氏の近著「体験格差」(講談社現代新書)の一部を紹介していたので、参考までに小欄にもその概要を残しておきたいと思います。

 最近、しばしば耳にするようになった「体験格差」という言葉。実は今、これによって受験での逆転が難しくなっている実態があると今井氏はこの著書で触れています。

 現在、多くの大学受験において「勉強以外の体験」が重視される時代がやってきている。文部科学省の調査によれば、2021年度の入試では、50.3%の受験生が、学校推薦型選抜もしくは総合型選抜入試を利用しており、ペーパーテストはもはや少数派だというのが氏の指摘するところです。

 「推薦入試」では、小論文や面接、研究計画などにより選考が行われる。ここで重要視されるのが「どれだけリアルな体験をしてきたか」だと氏は説明しています。

 例えば貧困問題を研究したい2人の学生がいたとする。Aさんは図書館やインターネットを駆使して様々な資料を読み研究を進めている。一方のBさんはそれらを済ませた上で、実際に東南アジアやアフリカ、南米のスラム街を回って、貧困に苦しむ人々の暮らしに触れてきた。

 さて、この時、合格しやすいのがBさんであることはまず間違いないと氏は言います。研究の際に一番信用されるのは、フィールドワークを通じて集めてきた一次資料であり、自分が現地に行けたかどうかが合格を大きく左右する。生育環境がそれを許すか許さないかの違いが「体験格差」となり、こうして「推薦入試」は、貧困層には厳しい選考方法となるということです。

 記事によれば、東京大学でも9年前から推薦入試が行われており、推薦合格生の多くは幼少期から様々な体験を積んでいる人たちだと氏は記しています。例えば(その一人は)、アフリカ社会の現状を学ぶため、高校生で現地に飛んで実地調査をした人。さらには、海外から個人で珍しい動植物を輸入し、好奇心を磨き続けた人などなど。

 資金力に欠ける学生は、こうした人たちにとうてい太刀打ちすることはできないというのが氏の懸念するところです。一方で、大学受験における(こうした)「推薦入試」の割合はさらに増え続けている。法政大学では現在30%以上の学生を同方式でとっており、今後も拡大の予定。早稲田大学は2026年までに入学者全体の6割を推薦型入試で募集すると発表されていると氏はしています。

 国立大学でも動きは同様で、筑波大学などは既に入学者全体の25%以上を推薦入試で選抜している由。つまり、「幼少期にどんな体験をしたか」が入試の鍵を握る未来がすぐそこまで迫っているということです。

 第三者に評価されるような強い意志を持ったり、魅力や可能性を身に着けたりするためには、ベースとなる素養や技術を学んだり、その切掛けとなるような経験を積んだりする必要がある。そして、そうした体験を重ねるためには、それ相応の資力や家庭の理解が必要だということです。

 それ自体は今に始まったことではないでしょうが、子供に投資できる環境があるかないかが(あからさまに)カギを握るようになっている現在、人生の成功に対し「自己責任」という言葉が通用しない世の中がさらに拡大しているのかもしれなと、記事を読んで改めて感じたところです。

(『#2591 体験格差のリアル(その2)』に続く)