MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2303 もしも銃撃事件がなかったら

2022年11月28日 | 国際・政治

 今年7月8日に奈良市で演説をしていた安倍晋三元総理大臣が私製の銃で撃たれて死亡した事件から、早くも半年が経とうとしています。専門家による精神鑑定を受けている山上徹也容疑者については、今月11月29日までとされていた鑑定期間が来年2月まで延長されたと報じられています。

 同容疑者は事件後、犯行の動機について、母親が多額の献金をしていた「世界平和統一家庭連合」旧統一教会に恨みを募らせ、同教会の支援者とみなされる安倍元首相を襲撃したと供述。宗教2世としての容疑者の生い立ちに世論の同情が集まる一方で、権力と宗教との関係について国民の関心は大きく高まりました。

 また、(その後)旧統一教会にかかわる多くの政治家の存在が明らかになったことで、(野党の追及の下)国会において「信教の自由」と宗教団体の在り方についての議論も進んでいるようです。

 旧統一教会の被害者救済に向け悪質な献金を規制する新たな法案をめぐっては、政府が先週、与野党に法案の概要を示しました。しかし、野党側はこれを不十分だとして、修正を求めています。

 野党の主張は、(いわゆる)「マインドコントロール」の禁止を法案に盛り込むべきだということ。これに対し自民党は当初の政府案を修正し、献金の勧誘を行う法人側に対し、個人が適切な判断を行うことを困難な状況にしないよう配慮を求める規定を盛り込み今の国会への提出を目指すとしています。

 さて、今回の事件によって露わになった旧統一教会と政治との(過去何十年にも及ぶ)濃密な関係に加え、安倍元氏総理の国葬問題などもあって、こうしてこの半年間、政治は様々に揺れ続けています。

 大きな国政選挙がない「黄金の3年間」を迎えるはずだった岸田政権ですが、最近の世論調査を見る限りその支持率は40%を大きく割り込み、旧統一教会の対応に至っては「評価しない」が7割に達する状況です。

 色々な意味で政治の局面を一変させた(半年前の)安倍元総理銃撃事件に関し、作家の島田雅彦氏が11月25日の総合情報サイト「現代ビジネス」に『「安倍銃撃」を通して明るみに出た「日本を売るエリートたち」という大問題』と題する一文を寄せているので、参考までにここで紹介しておきたいと思います。

 この事件が(その後の社会の動きによって)証明したのは、虐げられた者の怒りを解き放てばそこから「世直し」の連鎖が起き、支配層の人間を怯えさせることくらいはできるということ。暗殺が「奇跡的に」成功したことにより、今まで隠蔽されていた不都合な真実が露呈し、バタフライエフェクトのように自民党自体の屋台骨が揺らいだと氏はこの論考に記しています。

 孤独な犯行は、おそらくは山上徹也容疑者さえ意図しなかった形での「政治テロ」となったと氏は言います。戦争やテロは、さまざまな偶然が連鎖した結果、因果律を超えた想定外の現実を切り開いてしまうものだというのが島田氏の指摘するところです。

 山上容疑者の取調べが異様に長引いているのは、これ以上、政権に不都合な真実が露呈するのを避けたいからだろうし、自民党による内部調査も大甘になると予想されると氏はしています。

 北朝鮮のミサイルなど、ほかの事件で統一教会問題を覆い隠し世論がこの件に飽きるのを待って、いつものように説明責任放棄で一件落着を図りたいところだろうということです。

 振り返れば、故人の業績を最大限に称え、弔意によって不都合な真実をうやむやにしようと断行した国葬儀だったが、逆に世論の返り討ちに遭ったと氏は話しています。

 なまじ国葬という大袈裟なサーカスを演出しようとしたがため、その法的根拠を問題視されることになった。生前知られることのなかった故人の過去の悪行に関心が向いてしまい、その結果、岸田政権の支持率の急激な低下を招いたというのが氏の認識です。

 自民党議員たちが自分達の党内事情しか見ず、組織防衛に徹するという常套手段を取ったがために、(自民党との癒着により)中抜きし放題だった電通、パソナの黄昏も近づいた。逆説的な意味で、安倍氏の死は政治の暗部を明るみに出し、容疑者の行動は結果として(図らずも)国政に貢献することとなったということです。

 もし安倍氏が死ななかったら、(安倍氏の)神格化はさらに進んでいたに違いないと島田氏はこの論考に綴っています。

 生きていれば、オリンピックや統一教会をめぐる疑惑には蓋がされたまま、誰も問題にはしなかっただろう。一方、テロからの生還を英雄視された安倍氏は世論に支持されて清和会の独裁体制はさらに強化。一気に改憲と軍備増強に突き進んでいただろうというのが氏の想像するところです。

 さて、日本の社会を、そして海外の人々までも驚きの渦に巻き込んだ安倍元総理への銃撃事件ですが、確かにその後のこのような展開を(その時)誰が予想したことでしょうか。

 人の運命とは数奇なものであるとともに、一つの出来事が社会全体に与える波紋というのは、本人の予想とはかけ離れた形で拡散していくことがあるようです。一方、たった半年前の話なのに、(気が付けば)事件そのものはずいぶん昔の出来事のように日本人の記憶の奥の方に追いやられている気もします。

 そんな時に「たら」「れば」の話をしても仕方がありませんが、(安倍氏への評価は別にしても)確かに歴史というのはそうした運命のいたずらと言ったものの中で刻まれていくものなのかもしれないなと、島田氏の指摘を読んで私も改めて感じだ次第です。

 



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