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MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2055 コロナで変わりゆく倫理と規範 ②

2022年01月02日 | 社会・経済


 12月21日の総合情報サイト「PRESIDENT ONLINE」に掲載されていた、ラジオパーソナリティで文筆家の御田寺圭(みたてら・けい)氏による「「ニュージーランドの若者は一生タバコを買えない」コロナ後、"個人の自由"は確実に消えていく」と題する論考を、引き続き追っていきたいと思います。

 氏はこの論考において、個々人の健康状態が新型コロナウイルス感染症の重症化のリスクファクターとして確定された社会では、「健康であること」が「個人的なもの」から「社会のインフラの安定化や秩序の維持のために、個人が必ず達成しなければならない倫理的規範」に格上げされたと話しています。

 そこでは、不健康者は「社会のインフラや医療リソースを食いつぶし、社会の安定性にダメージを与える悪人」のそしりを免れない。この世界は着実に、個人の健康増進を「規範化」あるいは「社会化」しようとしているというのが氏の認識です。こうした世界で人びとに倫理的な生き方を求めるのは、規範化していく「健康」だけではない。近年、先進各国で勢いを増している「SDGs」のスローガンもそうだし、温室効果ガスの削減や肉食の禁止などもそれにあたるだろうと氏は話しています。

 牛肉や豚肉や鶏肉を食べるという行為は、これまでの「動物愛護」の観点からの非難に加えて「地球温暖化を促進し、地球環境の持続可能性を犠牲にしている」という文脈によっても厳しい非難の論調を向けられることになる。「肉を食べて幸せになる」という個人的な楽しみにすぎない営みが、問答無用で「人間社会」のマクロな倫理的問題に接続され、その是非を審問されることになるということです。

 新型コロナによるパンデミックは「個人的なことはすなわち社会的なこと」という観点を人間社会にくっきりと浮かび上がらせたと、氏はこの論考で指摘しています。これまではあくまで個人的な楽しみや幸福の追求にすぎなかった事象や営為が、否応なしに「社会」と接続され、それが社会全体に与える影響や利害を厳しく査定されるような道筋を拓いてしまった。喫煙も、飲酒も、肉食も、単に個人的な行為のままで完結することは許されなくなり、「社会にとって有益か否か、社会にとって必要か否か」という視点を(いままで以上に)はっきりと向けられるようになったということです。

 そして今、喫煙はその軸によって明確にノーを突きつけられている。社会的評価の審判の待機列には飲酒や肉食が、さらにその先には炭水化物や脂質やカフェインが控えているだろう氏はしています。パンデミックによって、「市民社会が遵守するべき生活様式」を守らない個人に対する制裁や権利制限を強く求めた人びとは、これまでの時代にはないほど個人が「社会化」されることへの抵抗が低くなった。市民社会の中に大切に温存されてきた「自由」を驚くほどあっさりと「公権力」へと明け渡し、従属的な支配を甘んじるようになってしまったというのが氏の指摘するところです。

 実際、人びとは不愉快な他人の姿やその営みをみたとき、それを「その人の自由だから」と寛容に考えるのではなく、すぐさま「お上」の審判を仰ぎ、その存在の理非を権力によって決定してもらうという導線を選ぶことをためらわなくなっていると氏は語っています。現代社会の人々は、これまでとは比較にならないほど「公的権威」への信頼を寄せている。平時においては「反権力」や「反政権」を標榜しているはずの進歩的な人びとでさえ、政治や行政当局によって出された要請やガイドラインを持ち出して、その権威的正当性を援用しながら「望ましくない」自由がいますぐ制限されるべき道理を激しく申し立てているということです。

 パンデミックによって、人びとは「他人の自由」に対する寛容性が急激に低くなり、それと対照的に「公権力」への信頼感を大幅に強めている。もっと言えば、いつのまにか「公権力」によって「勧善懲悪」を期待するようにさえなっていると、氏は改めて強調しています。

 市民社会を抑圧する国家権力の増大に対して明確に否定的・批判的な立場をとっていた人ですら、未曽有のパンデミックを経験して以降「社会のリソースの安定化、倫理的規範の向上には、人権制限もやむなし」と宗旨替えしていった事例も少なくない。ましてや、コロナ前の時代から他者の自由に対して不寛容だった人びとは言わずもがなで、「道徳警察」然として「さまざまな意味で社会的には望ましくないかもしれないが、しかし人びとの幸福にとって大事なもの」へ糾弾の声を上げているということです。

 たばこ、アルコール、萌え絵、ポルノ、肉食、糖質、カフェイン――いま社会から厳しい目を向けられつつあるこれらは、個人的なものが個人的なままではいられない時代の到来を告げる、最初の犠牲者として歴史にその名を刻まれることになるだろうと、氏はこの論考の最後に綴っています。

 パンデミックの経験によって「健全・健康な社会の維持」という正当性を得て、他者の自由な行動への寛容性を失い、同時に自らをも縛っていく社会。こうした過渡期に生きる者の責任として人知れず変わりゆく倫理と規範の行方をしっかり見つめ、必要があれば声を上げていく必要があるのではないかと、私も改めて感じたところです。



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