MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2054 コロナで変わりゆく倫理と規範 ①

2022年01月01日 | 社会・経済


 ニュージーランド政府が12月9日に打ち出した、14歳以下の少年少女が生涯にわたって紙巻きたばこを購入するのを禁止する法案が世界的な話題となっています。同国では、たばこの販売は現時点でも18歳以上に限られていますが、2027年からはその対象年齢を毎年1歳ずつ引き上げていくのだということです。

 そのままいけば現在14歳以下の子供たちはいつまでたっても購入可能な年齢に達せず、彼らが大人になっていくにつれ、気が付けばニュージーランド人全体が煙草を買えなくなっているという塩梅です。これが実現すれば、数十年先にはニュージーランドは(ブータンに次いで)たばこ販売が全面的に禁止される珍しい国となるわけですが、もしかしたらそのころには世界中の多くの先進国がたばこの吸引という行為自体を禁止しているかもしれません。

 喫煙習慣が健康を害がすることには多くの科学的な根拠が積み上げられており、すでに先進国では一般的に褒められた行為として受け止められていないのは事実でしょう。しかし、個人的に喫煙を楽しむ自由は、(時と場所さえ選べば)個人の権利として認められるべきだというのがこれまでの世論の趨勢でした。しかし、世界で最も「政治的に正しい国」のひとつとして知られるニュージーランドでは、新型コロナウイルスのパンデミックを機に、いよいよ(個人の自由と公共の福祉の間にある)新しい時代へのドアを開けることに決めたようです。

 12月21日の総合情報サイト「PRESIDENT ONLINE」では今回のニュージーランド政府の決定に関連し、ラジオパーソナリティや文筆家として活躍する御田寺圭(みたてら・けい)氏が「「ニュージーランドの若者は一生タバコを買えない」コロナ後、"個人の自由"は確実に消えていく」と題する興味深い論考を掲載しているので、参考までにこの機会に紹介しておきたいと思います。

 私はこれまで様々なメディアを通じて、「健康」が個人の権利よりも優越する「健康ディストピア」到来の可能性について記述してきたと御田寺氏はこの論考に記しています。そして、今回のパンデミックによって、喫煙習慣が個人の健康を損ね、もって間接的に感染症や疾患のリスクをもたらす因子となることが社会的に強調されてしまった以上、今後「喫煙」は、「不健康な趣味」から「社会全体にとって有害な行為」へとスライドしていくことになるだろうと氏はここで指摘しています。

 個々人の健康状態が新型コロナウイルス感染症の重症化のリスクファクターとして、同時に公衆衛生上のリスクファクターとして確定された後の世界では、「健康であること」は、「個人的なもの」から「社会のインフラの安定化や秩序の維持のために、個人が必ず達成しなければならない倫理的規範」に格上げされることになる。つまり、「不健康であること」は単なる自己責任の問題として社会的に放免されなくなり、「社会に損害を与える悪」としてときに厳しく糾弾されるようになることを意味するというのがこの論考における氏の認識です。

 健康が努力目標ではなく倫理的規範となった世界では、不健康者は「社会のインフラや医療リソースを食いつぶし、社会の安定性にダメージを与える悪人」のそしりを目免れない。この世界は着実に、個人の健康増進を「規範化」あるいは「社会化」しようとしているというのが氏の指摘するところです。

 今は特に「たばこ」が批判のやり玉に挙がっているので、まだまだ対岸の火事として見ていられる人も多いかもしれない。しかしこうした流れは不可逆的に加速するもの。愛煙家たちの自由が倒れれば、次のターゲットは確実に「酒(飲酒文化)」になるのは目に見えていると氏は話しています。

 酒は少量なら体によいという向きもあるが、実際には少量でもアルコールを摂取すれば健康にはリスクとなり、身体に侵襲的な作用を持っていることは既に科学的に証明されている。例え古代から人類社会に寄り添ってきた一つの文化であったとしても、(今の日本でも見られるように)不道徳で反社会的な営みとしてのコンセンサスがより鮮明になってくれば、飲酒という行為自体が人びとから次第に忌避されるようになっていくということです。

 マスクをせずに街を歩く者が一瞬にして重罪人になったように、飲酒することが看過しがたい社会的逸脱になる日は遠くない将来にやってくるだろうと氏は言います。それは、感染拡大防止策としての「飲食店での酒類提供禁止」が、酒が悪になる社会を一時的にではあるが疑似的に現実化してみせたことでも明らかだということです。

 マスクの着用にしろ、三密の回避にしろ、夜の街の徘徊にしろ、パンデミックは行動の自由の規制を日常の風景としてしまいました。大義名分があれば、一定程度の個人の行動の自由は抑制されても仕方がない。健康ばかりでなく、地球温暖化対策や環境保全、動物愛護などの「共通善」は、人間の意志や個人的な自由に優先するという考え方がこれほど大きく広がったことはないでしょう。

 (良くも悪くも)人知れず、社会総体としての価値基準は変化している…そういう認識に立って世の中を見直してみることも時には大切なのかもしれないと、私も改めて感じているところです。
(「#2055 変わりゆく倫理と規範 ②」に続く)



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