MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯11 「分かりやすい説明」の功罪

2013年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 「いじめ問題」に関する内田 樹氏の考察にインスパイアーされて、「線を引く」ということについてもう少し…。今回は、よくわからないような状況に直面し対応を迫られることになったとき、人はとりあえず「線を引く」ことを考える、というお話です。

 現状に不満を持った集団があり、そのストレスのはけ口が例えば薬物とか犯罪とか、テロなどの反社会的な方向を向いていたとします。そんな混乱した状況を解決するために、人がしばしば採用する方策の一つが「とりあえず線を引くこと」だということです。

 線を引くことによって、当面行うべきこと(問題の解決策)が提示できる。やることがあればとりあえず人々は安心する。カオスのような意味不明の状況に任意で線を引けば、それだけでひとつの秩序が立ち上がる。

 そして「悪の元凶はここにある。」と規定して、そこさえ排除すればすべての問題が解決するかのように状況を単純に説明する。そもそも人は、それが真実であるかどうかよりも、受け入れやすいかどうかを重視する…というのも(確かに)説得力ある話です。

 これは、たとえそれが荒唐無稽な線引きであっても、集団内のヒステリックな危機感の膨張の前に「悪者」をわかりやすく提示さえできれば、人々の圧倒的な支持と称賛を得ることも可能だということを意味します。あえて説明するまでもなく、ホロコーストや地域紛争、人権的な弾圧などのさまざまな「悲劇」も、こうした問題解決手法が採られた結果として歴史上に顕在化してきました。

 自然界の出来事は基本的に連続したものとして、本来アナログ的につながっているもの。その多くの出来事は、程度問題として正規分布で散らばっているケースがほとんどなので、そこにデジタルに線を引くというのは何とも乱暴な話です。しかし、そんな中、その線が任意に、デタラメに引かれていたとしても、「それでも引かないよりはマシ」として受け入れられるということです。

 確かに物語はこうして作られるのでしょう。ここまではいいけどここから先はダメ。こちらは正義でこちらは悪。こちらは味方で、あちらは敵。私たち自身、こうした物語をあたかも「真理」のように受け止め、世の中を分かったような気になっているのかもしれません。

 報告や説明をする部下が、「前置きはいいから、もっとわかりやすく説明してくれ」と忙しい上司に怒られている姿をよく目にします。「まず結論を話し、これこれこうした理由ですとなぜ説明できないのか」という例のアレです。

 判断の前提となる状況を「~という状況にある一方、~という状況にもなっており」「~と判断されるが~という意見もある」などなど、本人はなるべく丁寧に情報を提供し、上司が間違った判断をしないようにと一生懸命説明しているのですが、上司にその思いは伝わりません。

 その時、上司が求めているものは、細かなデータや客観的な状況の把握などではなく、結論を導く物語であることに部下は気がつきません。で、どのように線を引いて、この線よりあっち側をどうするつもりなのか、上司はそこが聞きたいのです。

 (ちなみに、世間ではこれを「落とし所」と呼んでいます。思えば日本という国の歴史は、この落とし所をどこに置くか、どのように形を整えるかということにいかに膨大な労力と犠牲を払ってきたことか…これはまた別の機会に触れたいと思います。)

 いずれにしても、線を引くことに躊躇したり、引いた線に迷いがあったりすることを上司は望みません。しかし、そんな苦し紛れに無理に引いた一線とは、一体どこまで信頼に足るものなのでしょうか。

 こういうふうに考えると、部下が胸を張って行うわかりやすくい説明を、上司は共犯者の一人として少しは後ろめたい意識を持って聞かなければならないのではないでしょうか。



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