1月8日に経済協力開発機構(OECD)のよって公表されたデータによると、OECD加盟先進国への移民の流入は2017年に前年比3%減の530万人と、増加から大きくマイナスへと転じているということです。
その背景にあるのが、アメリカのトランプ政権による、米国一国主義への転換や米国内での移民への迫害の動き、さらにヨーロッパ諸国における極右勢力の台頭など、国際社会を分断する世論の動きにあるのは言うまでもないでしょう。
そうした中、昨年の暮れ(12月21日)に、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のナンバー3である高等弁務官補のジリアン・トリッグス氏が初来日。ウクライナからの避難民を2千人以上受け入れた政府の対応を「前向きな変化」と評価しつつも、欧米と比べて少ない難民の認定や定住について「もっと増やしてほしい」と注文をつけたという報道を読みました。
海外からの難民の受け入れに関し、日本政府が(先進国の中でも特に)後ろ向きな姿勢を見せていることについては、国際社会から広く指摘されています。20021年には2,413人が難民申請をしましたが、同年に難民として認定されたのはわずか74人。難民の保護に消極的なのはこの数字から明らかです。
もとより、そこには同質性の高い(島国である)日本の環境と、外国人の流入に対し(なかなか)保守的な姿勢を崩せない国内世論があることもまた事実でしょう。
環境の変化を望まないこうした日本国内の政治や世論の状況を踏まえ、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が昨年12月29日の自身のブログ(「内田樹の研究室」)に「駝鳥の政治」と題する興味深い一文を掲載していたので、この機会に紹介しておきたいと思います。
ひとつの会社に定年まで勤め上げ、満額の退職金を受け取って悠々自適な老後を送っている団塊の世代がいる一方で、もうそんなに甘い夢は見られないのが現役世代。コロナで消滅の危機に瀕している業界、AIの普及による雇用消失におびえる業界も多い中で、人口減による社会の変化についての予測も立っていないと、氏はこのコラムに綴っています。
それでも、日本の世論や政治家たちはそのような現実から目を逸らし、対処の手がないまま立ち尽くしてしまっているように見える。迫りくる危機に対して思考が停止し「フリーズ」してしまっているというのが、日本の現状に対する氏の感覚です。
こうした状況をフランス語では、「駝鳥の政治(Faire l'autruche)」(英ostrich policy=見て見ぬふり・事なかれ主義)と呼ぶと氏はしています。氏によればこの言葉は、危機に際したダチョウたちが頭を砂の中に突っ込んで現実逃避をすることに由来するということです。
リアルな危機として、私たちの前には地球温暖化やパンデミック、人口減少、AIによる雇用消失、地政学的危機...といくつものリスク・ファクターがひしめいている。中でも気候変動による被害は甚大で、米外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ・リポート』によれば、温暖化を止められないと海面上昇によって2050年までに世界で12億人が生活拠点の移動を余儀なくされると予測していると氏は言います。
国内に標高の高い土地がある国は国内移動で済むだろうが、例えばバングラディッシュのような低地国には逃げる高地がない。それでは、この国の1億6500万人はどこへ行けばいいというのか。
(1973年に発表された小松左京のSF小説「日本沈没」では、アメリカや中国、オーストラリアなどが日本人に手を差し伸べてくれたが)彼らが難民として世界に離散した場合はどうなるのか。もちろん、日本だって例外ではない。グローバルなスケールでの人口移動がいずれ起きることは避けられないと氏は話しています。
この人たちは基本的に「難民」である。本国では生きていけないこの人たちを受け入れることは、人道上の必須だというのがこの論考で氏の指摘するところです。
どうあがいてみても、いずれ私たちは多様な出自の人たち、言語も宗教も生活習慣も異にする人たちと、この日本列島で共生してゆかなければならない。にもかかわらず、今の日本には、「移民政策」と呼べるようなものは全く検討されていない氏は言います。
外国人技能実習生や入管制度を徴する限り、今の日本政府の政策に「共生」をめざす人道的な意志を認めることもできない。理解も共感も絶した他者を受け入れ、共生するためには、われわれの側にそれなりの市民的成熟が必要だというのが氏の認識です。
けれども、(残念ながら)現代の日本人はそのような成熟度に達していないし、成熟を果たさなければならないという社会的合意さえ存在しないと氏はしています。たぶんこれからも日本人は「駝鳥の政治」を続けるつもりなのだろう。しかし、砂に頭を突っ込んでいても、現実の切迫を止めることはできないというのが氏の指摘するところです。
さて、確かに内田氏も言うように、これから先の国際社会では、社会・経済環境の激変により、やむなく国を追われる人々が増えてくる可能性は否定できません。グローバル経済の伸展により国境の壁がさらに低くなり、互いに人的資源を共有し合う時代が来ることもまた、予想されているところです。
しかし、難民や一般的な移民による外国人受け入れがもたらすのが、(もちろん)負の側面ばかりでないことも、改めて指摘しておく必要があるかもしれません。
国を開き、併せて国民の意識や制度のフェアネス(公正さ)を高めるのは決して他人のためでない。新しい知恵や文化を取り入れる開かれたやマインドや柔軟な体制が、変革・発展の基礎となるのは広く知られるところであり、移民を受け入れる制度を整えた国ほど、国民1人当たり国内総生産(GDP)が高くなるというデータもあるようです。
カナダのトルドー首相は昨年の11月、自身のSNSにおいて「経済を成長させるのに移民は必要不可欠だ」と宣言し、国としても移民の受け入れを25年に50万人にし、21年から2割増やす目標を掲げました。
翻ってこの日本の難民認定率はおおよそ1%。英国やカナダの認定率6割超に対して60分の1、100人に1人という狭き門のままとなっています。紛争地から逃れた人を「準難民」として受け入れる出入国管理法改正案すら、21年に廃案になったまま。放っておいても人口が増える高度成長期の発想が抜けきらず、国を開く気構えは(今のところ)全くうかがえないのが現状です。
「情けは人の為ならず」とはよく言ったもの。少子高齢化、人口減少が進む中、「和の国」を目指す外国人にすら国を閉ざす(ケチ臭い)日本に、夢や未来を感じる人々が全世界にどのくらいいるでしょうか。
コロナ禍に覆われた世界も次第に平静を取り戻しつつある現在、私たち日本人もそろそろ砂の中から首を出して、周囲をよく見渡してみる必要があるのではないかと、氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。
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