七月四日 火 晴
毎週の出勤日には八時十分から十五分までには車を文法学部の駐車場に入れることにしているが、ほとんどの日館長先生の33ナンバーは既に駐車している。聞くところによると始業一時間ば前には出勤し朝から必要の勉強をしているそうである。
開室は八時四〇分管財掛からの依頼は午後一時三十分から約二時間の予定で宮崎県小林高校のPTAの皆さんが熊本大学の見学に来るとか、ついでに五高記念館の見学もあるそうである。
本日の作業は先週キャビネから出しておいた会計関係の帳簿、歳入関係の帳簿を中心に整理する。先週のてつは踏まないように一冊毎に掃除機で埃を表表紙、裏表紙と吸わせて時代を追って並べていく。歳入内訳簿、徴収簿、小切手帳、奨学寄附金受払簿、支出推算簿等々とゆうに四十冊はあるだろうか、前述のように各冊に掃除機をかけるだけで三時間も係った。やはり会計屋として三十八年間も仕事していれば会計帳簿には興味があるというものである。
昼食後に展示室の鍵を開けておいた。小林高校PTAの館内見学は案内も必要ないと云うことであるので、ほおりだしていた冊子を整理したが五時間もかかったろうか、整理も中々であると云う事を痛感する。内容を眺める、
奨学寄附金受払簿の中に明治から昭和まで続いている森奨学金と言うのがある。寄付者の条件は「元金及び利子とも授業料及び旅費の補助に充てること」とあり、明治四〇年の越高が二百五十一円五十七銭五厘で昭和十年の残が百八十五円二十三銭、この間約三十年間において、数名の学生に授業料の補助が為されている。国からの育英資金もない時代であり学生には喜ばれたことであろう。
また杉山奨学金として、明治四十二年十一月二十三日に四百円の現金の寄附があり、条件としては「元金及び利子とも其の使途は学校長に一任せらる」とあり預金利子等で昭和三年に七百七十七円三十六銭になった時点で七百円で公債を購入してある。昭和十年十一月十一日の残百五円八十八銭であるが、その後の資料はないのでどうなっているかわからない。
井島奨学金では五千四百五十円で五分利公債を購入してある。其の利息を利用して運営してあるが会計の担当者はこの運用まで行うことはたまったものではなかったことだろう。
熊本城奉行丸長塀
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其の外の物で昭和六年の東大学友会就職相談部の就職希望者名簿から国文学科で石坂正蔵、森本健志,英吉利文学科、河原畑正行、独逸文学科高野巽、永松譲一、福山四郎の後の熊大教授になった諸氏の名前があった。そのた授業料徴収簿の昭和十八年には蟻田功、昭和十九年には荒木淑郎、荒尾龍喜、大久保圭一郎、宮崎好信,守住有信、等々の所謂短縮卒業組の名前があった。以上の人々は戦後は母校熊大に帰って教職をなされた方々である。
熊本大学の創立時期に関するものとしては昭和二十四年五月三十一日付けで鰐淵健志氏の学長、美作小一郎氏の事務局長の発令が文部省から行われている。それに伴い各学部の初代事務長の発令も行われている。
なお、小林高校の訪問は二時から三時過ぎまで、三三,五五で見学が行われていた。
毎週の出勤日には八時十分から十五分までには車を文法学部の駐車場に入れることにしているが、ほとんどの日館長先生の33ナンバーは既に駐車している。聞くところによると始業一時間ば前には出勤し朝から必要の勉強をしているそうである。
開室は八時四〇分管財掛からの依頼は午後一時三十分から約二時間の予定で宮崎県小林高校のPTAの皆さんが熊本大学の見学に来るとか、ついでに五高記念館の見学もあるそうである。
本日の作業は先週キャビネから出しておいた会計関係の帳簿、歳入関係の帳簿を中心に整理する。先週のてつは踏まないように一冊毎に掃除機で埃を表表紙、裏表紙と吸わせて時代を追って並べていく。歳入内訳簿、徴収簿、小切手帳、奨学寄附金受払簿、支出推算簿等々とゆうに四十冊はあるだろうか、前述のように各冊に掃除機をかけるだけで三時間も係った。やはり会計屋として三十八年間も仕事していれば会計帳簿には興味があるというものである。
昼食後に展示室の鍵を開けておいた。小林高校PTAの館内見学は案内も必要ないと云うことであるので、ほおりだしていた冊子を整理したが五時間もかかったろうか、整理も中々であると云う事を痛感する。内容を眺める、
奨学寄附金受払簿の中に明治から昭和まで続いている森奨学金と言うのがある。寄付者の条件は「元金及び利子とも授業料及び旅費の補助に充てること」とあり、明治四〇年の越高が二百五十一円五十七銭五厘で昭和十年の残が百八十五円二十三銭、この間約三十年間において、数名の学生に授業料の補助が為されている。国からの育英資金もない時代であり学生には喜ばれたことであろう。
また杉山奨学金として、明治四十二年十一月二十三日に四百円の現金の寄附があり、条件としては「元金及び利子とも其の使途は学校長に一任せらる」とあり預金利子等で昭和三年に七百七十七円三十六銭になった時点で七百円で公債を購入してある。昭和十年十一月十一日の残百五円八十八銭であるが、その後の資料はないのでどうなっているかわからない。
井島奨学金では五千四百五十円で五分利公債を購入してある。其の利息を利用して運営してあるが会計の担当者はこの運用まで行うことはたまったものではなかったことだろう。
熊本城奉行丸長塀
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其の外の物で昭和六年の東大学友会就職相談部の就職希望者名簿から国文学科で石坂正蔵、森本健志,英吉利文学科、河原畑正行、独逸文学科高野巽、永松譲一、福山四郎の後の熊大教授になった諸氏の名前があった。そのた授業料徴収簿の昭和十八年には蟻田功、昭和十九年には荒木淑郎、荒尾龍喜、大久保圭一郎、宮崎好信,守住有信、等々の所謂短縮卒業組の名前があった。以上の人々は戦後は母校熊大に帰って教職をなされた方々である。
熊本大学の創立時期に関するものとしては昭和二十四年五月三十一日付けで鰐淵健志氏の学長、美作小一郎氏の事務局長の発令が文部省から行われている。それに伴い各学部の初代事務長の発令も行われている。
なお、小林高校の訪問は二時から三時過ぎまで、三三,五五で見学が行われていた。